第二話 死んでから始まる異世界で
居眠り運転だったんだと思う。あの時、俺は確かに青信号を渡っていたはずだから。横断歩道を渡っていたのは、俺と女の子の二人だけだった。あの子は俺よりも少し先を歩いていて、俺はその後をのんびりと続き、どうでもいいことを考えていたと思う。
その時、音が聞こえたのだ。鈍いエンジン音に視線を向けると、トラックが一台近づいているのが見えた。だけど俺は別にそれに焦ることはなかったし、赤信号の前で止まってくれるだろうと当たり前のように思っていた。
そんな風に一瞬思って視線を外したが、まだ止まることがないエンジン音に、嫌な予感がして俺はもう一度顔をあげた。そしてふと運転席に目がいったのだ。焦点の合わない運転手の視線と、首が上下に揺れていることに、じっとりとした汗が流れた。
「嘘だろ」
俺の足は止まった。一瞬だったから、見間違いかもしれない。それでもどんどんと近づいてくるトラックに、俺の足は無意識に後ろへ下がろうとしていた。もしもあのトラックが止まらずにこのまま進んだら、確実に轢かれてしまう。そこまで考えて、俺の前を歩く黒髪の女の子に目を向けた。あの子はこのことに気づいているのか?
「ねぇ――」
俺が声をかけると同時に、トラックの速度がいきなりあがった。慌てる運転手の様子から、おそらく間違えてアクセルを踏んでしまったのだろう。俺の声に振りかえった彼女が、不思議そうに俺を見るが、その目は確実にトラックに気づいていない。
異変に気づき足を止めた俺は、このままいればトラックに轢かれることはないだろう。だけど、彼女がいる場所は違う。俺が全く知らない女の子だ。たまたま知っている高校の制服を着ているだけの、今日初めて見かけただけの女子高生。名前も性格も何も知らない相手。
それでも、俺は確かに足を踏み出した。彼女を助けたかったのか、と思ったが、何も考えていなかったのかもしれない。ただ足を前に進めていた。俺の必死の声と形相で、ようやく彼女も目の前に来たトラックに気づいたらしい。だけど、もう手遅れなほどその距離は絶望的だった。
ギュッと目を瞑る女の子に、俺がもうすぐで触れそうになった時……突然地面が光り輝いたのだ。真っ白に光る柱が立ったかと思うと、そのまま――
「えっ?」
彼女の姿はどこにもなくなっていた。さっきまですぐ目の前にいたはずなのに、忽然と消え失せてしまった。視線を下に向けると淡い光を放つ白い魔法陣のような何か。そして、残されたのは飛び出した俺と、迫りくるトラック。
……なんだこれ。
走馬灯なんて流れなかった。そんな時間もなかった。ただそんな思いを残したまま、強い衝撃を受け……気づいたら俺は異世界にいた。おそらくだけど、まだ召喚陣に力が残っていたのだろう。そのあたりはよくわからないが、呼ばれてもいない俺がここにいる時点で何か誤作動はあったのだと思う。
俺は自分が死んだような感覚は覚えている。思い出そうとすると、もう幽霊なのに身体が震えてくる。だから死んで幽霊になってしまったあたりは、自分でもストンと納得できたのだ。何故こんなにも意識がはっきりしているのかは俺にもさっぱりだが、そのあたりは本当に召喚の影響で何か変化が起きた可能性はある。
そんなことを、この世界について聖女ちゃんに教えている神官長の言葉を聞きながら、俺は考えていた。
「この世界に召喚されたことで、ユイカ様は女神様の加護をいただいています。召喚される方は、必ず加護を受け入れられる器を持った者とされているからです」
「……でも、どうして私なんですか?」
「私も詳しいことはわかりませんが、加護を受け入れられる器と、もう一つは元の世界への執着が薄く、その存在が世界から切り離されようとした瞬間と重なると選ばれるとされています」
「執着…、切り離される……」
神官長の言葉に、聖女ちゃん――ユイカちゃんは寂しそうに目を伏せた。世界から切り離されるというのは、たぶんあの事故のことだろう。つまり死にそうになった時っていうのが条件の一つ。
もう一つの世界への執着云々は、つまり地球に帰りたいと思わない子ってことだろうか。俺と年が変わらなさそうな女の子なのにな。親とか友達とかはどうしたんだろう。俺みたいに異世界にテンションが上がったぜ! というタイプでもなさそうだ。そうじゃなきゃ、こんなにも辛そうな顔はしない。
「なるほどなー、この召喚を考えたやつは悪知恵が働きそうだ」
異世界から連れてくるって確かに誘拐なんだけど、もし召喚されなかったら死んでいたかもしれない訳だろう? しかも元の世界に執着もないから、新しい世界を受け入れやすい。聖女として仕事はあるだろうけど、神官長の態度や他の人間の彼女への扱いを見るに、彼女は敬われる立場だ。
ここまで揃うと、被害者側も事を荒立てようとはしないだろう。もしかしたら、召喚されたことに感謝だってするかもしれない。お互いにWin―Winの関係ってやつかね。召喚する側もされる側も、精神的に楽にはなるだろう。
「聖女の力は訓練をすることで、徐々にわかってくると思います。この世界には精霊様もいますから、力が増していけば関わりもできるかもしれません」
「精霊もいるんですね…」
「はい、精霊様は神の使いとされています。私でも何となく気配を感じることはできますが、聖女の力が覚醒すれば、きっとお力になってくれます。他にご質問はありますか?」
「えっと、その…。結局私は何故呼ばれたのでしょうか」
「ユイカ様をお呼びしたのは、聖女様が持つ浄化のお力がどうしても必要だったからです」
つまり要約すると、魔王みたいな諸悪の根源を聖女パワーでなんとかしてほしいという内容だった。この世界のことはこの世界の人間でやれよ、と思うがそうはいかない事情として、なんとその倒してほしい根源も、元はこの世界とは関係がない異世界のものだったらしい。
この異世界『アレンセル』は、異界との繋がりが強いのだそうだ。その所為で何百年かに一度、異界のよくないものが入り込んでくることがある。その時は神殿で働いているものや各国と協力して対処するのだが、この世界の人間ではどうしても処理できない場合が時々あった。
そのままにすれば、この世界に災いが降り注いでしまう。そのためこの世界の女神は、自分の力を貸し与えることができ、この世界と一緒に歩いてくれる存在を招き入れるらしい。女神が力を直接渡せるのは、界を渡る途中のタイミングしかないため、異世界人にしかできないそうだ。この世界に関係がない者に無理やりやらせるのではなく、この世界の人間になってもいいと思える異世界人にやらせる。なんかせこいけど、理にかなっている。
要は今後この世界にあなたは定住するんだから、その時に世界が平和になっていた方があなたもいいよね? ってことだろう。関係ない異世界人ではなくなり、むしろ当事者にさせる。異界との繋がりが強いと言うだけあって、異界の人間を招き入れるやり方に手が込んでいる。
「あの、神官長様。今までのお話を伺う限り、この世界では意図して召喚を行うことができるのでしょうか」
「えぇ。ただし無暗に異世界と関わることは禁じられていますし、異世界の者を召喚する場合は、必ず女神様から許可をいただかなければなりません」
「それは、その……、つまり元の世界に戻ることも女神様の許可があれば、できるということですよね」
「そう、ですね。もちろん、元の世界への送還もできます。ただ一度召喚した者を、もう一度呼ぶことはできなくなりますが、……ユイカ様は、お帰りになりたいのですか?」
「それは……」
怪訝そうな神官長の態度は、もっともだろう。彼女の質問には、俺も驚いた。今の言い方では、まるで元の世界に帰りたいように聞こえた。今までにも何人か聖女を召喚したらしいが、全員がこの世界への定住をお願いしたらしい。彼女の話をちょっと聞いたけど、向こうで自分を待ってくれるような人はいないって話していた。
聖女の仕事は大変かもしれないけど、それだけの地位と裕福な暮らしをこの世界は約束してくれる。女神の制約というものがあるらしく、異界の者への報酬として、この世界の神から認められるのだ。よっぽどの理由がない限り、この世界の人間がそれを破棄すれば天罰が下るという安心契約。もし俺がユイカちゃんのように向こうに未練がない立場だったら、即決してしまうかもしれない。
だけど帰りたいのか、と質問を返されたら、彼女は目を伏せ、静かに首を横に振った。その様子に不思議そうに首を傾げながらも、神官長はユイカちゃんの意思を感じたのか、一つうなずいた。
「……いきなり多くのことを知るのも、ご負担でしょう。まずはゆっくり疲れを癒してください。何か知りたいことがありましたら、お声をかけてください」
「ありがとうございます。その確認なんですが、召喚されたのは私だけなんですよね?」
「えぇ、そうですが」
「すみません、少し気になったことがあっただけなんです。疲れたので、私も休みますね」
表情には疲れが見えるが、彼女は神官長に微笑んで返事を返した。無理をさせる気はないからか、彼も深くは聞かずにそのままユイカちゃんを彼女の自室へと案内していた。正直やることも特になく、様子のおかしい彼女が気になったので、俺もそのままついていってみる。
そして案内された自室に着くと、一人になった彼女はそのままベッドの上に倒れ込んだ。幽霊とはいえ、男の俺が女性の部屋にずっといるのはまずいだろう。そう思って、部屋から離れようとした俺の耳に届いたのは、本当に小さな呟きだった。俺に話しかけたわけでもなく、彼女自身の独り言だったのだろう。
それでも、その言葉は何よりも俺の中に響いた。
「あの人、無事だといいな…」
彼女の言葉の意味は、この世界の誰にもわからないだろう。だけど俺には、彼女の言葉の意味に気づいてしまった。驚きで振り返った先には、疲れからかすでに彼女は深い眠りに落ちている。枕に埋める少し短めの黒髪が、ベッドに広がっていた。
俺はただ、茫然と立ち尽くすしかなかった。女の子の寝顔を覗くなんて、変態だとかなんだと言われても仕方がないことなのかもしれないが、それでも俺はその場から動けなかったのだ。召喚される寸前、確かに俺と彼女は一瞬だけど関わりを持った。
本来元の世界への執着が薄いはずの聖女が、どうして送還に興味を持ったのか。その答えが、今の呟きでわかってしまった。
「へぇ……、新発見だな。幽霊でも涙を流せるのか」
小さく吹き出しながら、頬を伝うものを手でふき取る。相変わらず他のものには触れないのに、自分には触れるらしい。俺は死んでから、ようやく涙を流すことができたようだ。
……正直に言えば、俺はこの子に複雑な気持ちを持っていた。彼女が俺の前を歩いていたことも、トラックが突っ込んできたことも、異世界に召喚されることも、俺が飛び出したのも、全部偶然で色々な思惑が絡み合って起きたことだ。そこにユイカという少女の意思はない。
それでも、あの時彼女を助けようとしなければという気持ちもあった。結果論だが、彼女が死ぬことはなかった。俺が助けようなんてしなくても、この世界に召喚され、救われていたのだから。俺がやったことは、結局無駄なことだった。
……俺は、死にたくなんてなかった。ならなんで飛び出したんだって話だけど、身体が動いたものはもうどうしようもない。それは俺が勝手にしたことなんだから。ちゃんと彼女は無事だったんだから、喜ぶべきなのかもしれない。だけど、素直に喜べない自分もいた。
意味のある死だったのなら、俺もなんとか受け入れられたかもしれない。だけど俺は、ただの無駄死にだ。それを理解するのが、認めるのが嫌だった。彼女を助けようとしなければ、彼女がもっと早くトラックに気づいていれば、彼女があの場所にいなければ。そんな鬱々とした気持ちは、俺の中に間違いなくあったのだ。
そんな認めたくなかった怨嗟が、彼女のたった一言で――報われた気がした。きっと、俺は無駄死にだった。それはどうしようもないことだけど、それでも彼女を助けようと動いたことは、決して間違ってはいなかった。それだけは、ちゃんと認められたんだ。
召喚されたからとか、死んでしまったからとかは、関係ない。俺はこの子を助けようとしてよかった。無事でよかった。心から、そう思えた。
「うん、こんな可愛い子にはやっぱり幸せになってもらわないとな。辛そうな顔しか見ていないし、笑ったらきっと可愛いだろうなぁ。幽霊だけど、俺だって召喚とかされてきたんだし、何かできることがあるかもしれない」
死んでしまったし、幽霊になってしまったけど、まだまだやりたいことをやったっていいはずだ。自分でも早死に過ぎると思うし、まだまだ成仏は待っていただいてもいいよな。むしろ成仏の仕方もわからない。なら来るかわからないけど、お迎えがいらっしゃるまで俺がやりたいようにやらせてもらおう。
せっかく異世界に来たんだ。見てみたい生き物や場所だってたくさんある。応援してやりたい子だっている。文字通り命をかけたんだ。ならば中途半端で終わったら、男が廃る。ここまで来たら、ユイカちゃんの幸せを俺は全力で応援してやる。ついでに、エルフとか魔物とか魔法とかファンタジーもいっぱい堪能してやる。俺は抑えられない好奇心に、笑みが口元に浮かんだ。
そんなこんなで、俺こと一真の異世界での自由奔放な幽生が始まったのであった。