優しすぎる君だから
心がどんどん軋んでいく。仕舞にはガラスのように一枚一枚剥がれていくのかもしれない。
そんなことを考えて自嘲気味に雛子は笑った。
今日も彼は来ない。今日は付き合って2年目なのに。
雛子は食事もしないで、ただワインを飲むだけ。グラスを傾けながら携帯を見るも何の連絡も入っていない。
「お客様、ラストオーダーの時間となってしまいましたが、お料理の方はどういたしましょうか?」
従業員が気の毒そうな表情でラストオーダーの時間を告げる。半年前からここを予約していたので従業
員も雛子を可哀想な目で見ている。
「じゃあ、出してもらえる?」
せっかく出てきた豪華なフルコースも、ただ見ているだけだった。
これで最後にしよう。
食べられる筈もなく、もう諦めかけていたときに、あと5分の所で彼が慌てて入ってきた。余程、慌てていたのだろう。セットしていた髪もスーツも乱れていた。けれど、そんなことで彼の美貌は衰えを知らずに店の中にいた女性従業員が一様に頬を染める。凛々しい眉をすまなそうに下げて、ダークブラウンの瞳で雛子を見る。
姿を見て、もう心が動くことも無くなった。前は彼の姿を遠目から見ただけで胸が高鳴っていたのに。
「ごめん、仕事が長引いちゃって」
「気にしないで、長政さん。今日も疲れてるんでしょ?もう帰りましょう」
疲れている彼を労わるように微笑んで、お金をテーブルに置いて席を立つ。
「でも食べてないんだよね?」
テーブルの上にある手をつけられていない食事を見る。
「いいの、私も何だか今日は疲れてるみたいだから帰るわ」
「泊まってく?」
「ううん、あなたも疲れてるみたいだから」
そのまま店を出る。彼は熱っぽい視線を向けていたけれど、わざと気付かない振りをして、彼の左腕に寄りかかりながら家まで送ってもらった。玄関で彼に抱きついて最後のキスを長めにしてもらって、そこで別れる。
去っていく後ろ姿を見ながら、静かに涙を流す。
さよなら、大好きだった人。本当に好きだったのよ、優しかったから。
その次の日から雛子は動いた。まず、携帯の電話番号も変えてマンションの契約も切る。
部屋を片付けていると、部屋にあった彼の荷物は少なくて段ボールの半分にも満たなかった。それを配達やに送り届けて会社に向かった。
朝早く行ったので上司しかいない。この上司は私たちの誰よりも早くに出勤して会社の掃除をしているのだ。今日は窓ふきをやっているようで、上司の後ろ姿へとヒールを鳴らして歩みよった。
「四国への転勤受けます」
上司が振り向いたと同時に口を開いた。朝の挨拶もなしに失礼な態度であったが上司は何も言わずにただ、真剣な表情で雛子に確認をとる。
「いいのか?」
「はい!やらせて下さい」
仕事に没頭すれば忘れられるから。彼がいないところで新たに始めよう。
四国へと飛行機に乗る前にメールには忘れもしない彼のメールアドレスに、今までありがとう、とだけ打って送りつけて、その場でアドレスを変えた。
飛行機に乗り、浮かぶ機体の中から雲の景色を楽しむ。
しかし、早く仕事に打ち込みたいと思った。そうしないと苦い思い出が頭をよぎるからだ。
彼は誰にでも優しいからサークルで飲み過ぎた女の人を、いつも介抱する。
私は酔っ払わないのでほかの男子の世話をしていると彼は、その子の肩を抱いて運んだり、お姫様抱っこしてタクシーで帰ろうとするので、私も乗ろうとすると彼は言う。
「大丈夫、すぐ戻ってくるから」
心配だけれど、彼に電話するのは嫌でその子に電話した。すぐにその子は出て、「やだ、何もないよー。彼って優しいよねー羨ましいよ」と言って電話を切った。
私はあなたが羨ましいよ、そんな言葉が出かかった。
社会人になって初めて行った彼との初デートのネズミーランドでは、長蛇の列を並んでると迷子の子供が号泣していた。
迷わずに助けに行く長政さん。私も行くよ、と列を抜けようとすると彼から制止がかかって、その場で踏鞴を踏む。
「すぐ戻ってくるから並んで待ってて」
乗る直前まで待つが彼は結局来なかった。
何度電話してもかからないので途中で出て1人でカフェで休憩していると、彼は汗だくで来たので溜飲を飲み干した。文句も言わずに許した。
きっかけは私が彼に同じゼミで優しくされて、それで惚れて何度もアタックして無理矢理に付き合った。彼は仕方なく私と付き合っているのだ。彼はとてもモテるのにだ。
会社のトイレでも彼の話題は尽きない。
「彼優しいよねー」
「でも、あの子のでしょ?」
「知らないの?あの子、凄いアタックしたから彼も半ば諦めて付き合ったって噂」
「じゃあ、私狙いますー」
綺麗な子が彼を狙う。もう嫉妬に狂いそうで、そんな自分が嫌だった。だから彼から逃げ出してしまったのだ。これ以上、彼を好きになりたくないから。
「ら、笠原!」
「はい!」
「ぼーっとしてんなよ。新しい立案、お前が主なんだからな」
しまった、今は会議中だった。老人ホームの建設で地元の人の理解を得るためにプレゼンをする準備だったのだ。
これに失敗すると四国での拠点が一つなくなる、それほどに重要なものだった。今は仕事に集中しなくてはいけない。
毎日、残業で今日も深夜までかかってしまった。
今は仕事場に近くて安いアパートに住んでいる。だから防犯も酷く杜撰なもので長政がこのアパートを見たら、絶対に引っ越せと言うだろうと思って笑ってしまった。
また長政のことを考えている、卒業しないと。頭を振って顔を前に戻すと黒い影が見えた。誰かがアパートの前にいる。
「長政さん」
呆然と呟いた。
そこには憔悴しきった長政がいた。いつも整えられている髪もスーツもぐちゃぐちゃ、無精髭も生えている。
「どうして?」
私の声が聞こえた途端に長政は振り返って私の方に歩いてくると肩を力強く掴んだ。
「どうして僕の前から消えたんだ!」
衣服は乱れているのに何故か瞳だけは爛々と輝いていて、後ずさりをしたくなる。しかし、そんなこともできずに、ただ長政に肩を掴まれながら棒立ちになる。
あまりの険相にぽつりと零した。
「・・だって、だってあなたが優しすぎるから」
「何だって?」
「だって、あなたが他の子にとっても優しいから、私は嫉妬してしまうの!」
涙を流しながら告白すると彼は一瞬、呆けた顔を見せたが、すぐに大きな溜息をついて私と視線を合わせた。その瞳は優しげになっていて安心する。
「君が優しい男性が好きだと言ったからじゃないか」
「え?」
彼が言うところによると、私がゼミの飲み会で珍しく酔っ払っていた時に好きな男性像は優しい人と言っていたから、彼は私に好かれる努力をするために頑張っていたらしい。
ってことは私たちって相思相愛だったということ?彼は成り行きで私と付き合ったんじゃなくて、私が好きだったから付き合っていると言ってくれた。
嬉しい。
・・でも、一つだけ言いたいことがある。
「優しすぎだよ!!」
「加減がわからなくて。でも他人に優しくするのは嫌いじゃないんだ」
「もう、これからは私のことを優先してよね」
「努力します」
そう言って長政はニヤリと笑うと、私に優しいキスをしてくれた。
なんだ、私たちに必要だったのは、しっかりと話すことだったみたい。これからは何でも言い合えるようにしていこう。