【第十話】はぴねすっっっっっっッ!
分量的には、残り5分の1ほどです。
クライマックス前の日常! やっぱり、自由なシーンは楽しいのです。
もちろん、観念したソラから石を受け取った。
これで彼女に、勝利したんだ。
選挙を終えることでようやく足を通せた裾の感覚は、妙な落ち着きと、妙な自信の素。
ズボンを履いたのだ。
本当にこれで、ソラを倒すことができたんだ。
そうして未来に向けて湧く気持ちは……光るものか、黒いものか、よく分からないけれど。
その後休み時間は青腕章から逃げ惑う形で何とかやり過ごす。学校で過ごすべく時は全て過去となる。
幾多の人間が僕と同じ方向に歩んでいるのか。帰路を進むために、誰もが僕を追い越したり、追い越されたり。走りざまに背中を叩いてくる男子も居た、楽しそうだから、僕も笑って手を振った。
僕は、校門で足を止める。
一人の女子が面白くなさそうに、門柱に背中を寄り掛けているのが見えた。
「……約束通り、待ったけど」
やはり面白くなさそうに、目を伏せて。彼女は僕に、言葉を吐き付けてきた。
薄い唇を尖らせて、やたら白い肌に表情をいっぱい浮かべて。そんなソラをここに待たせたのは、僕だ。
「積もる話もあるだろ。今日のお前についてとか、今までの高校生活全部についてとか」
僕は、足を止めた。今ならソラと話せる。昔みたいに、男女の隔たりなど感じずに。
選挙というイベントは、我が校に通う男女同士の距離を縮めている気がした。
「だからたまには、一緒に帰らないか? 僕の家、来いよ」
僕って結構格好いい、男子になれてるんじゃないか?
「へ、部屋に!? ……部屋……って」
「何驚いてるんだよ、昔はよく実家にも遊びに来ただろ」
「私が矢琴と……二人きりで同じ部屋に……」
何を意識しているんだか。とにかくもって、二人きりではないことだけは確かなのだが。
僕がソラに勝利したことで、嬉しさに打ち震えた理由。
それは、ソラの公約、『僕を女子棟に組み込む』という件が、打ち消しになったこと。
「……私、負けちゃったぁ」
夕刻の陽ざしありのままの色に、彼女の肌は染まっていた。そんな横顔。
「あんなに卑怯な手を使っても、結局駄目だった。こんなはずじゃなかったのに」
「努力は買ってやるよ、頑張ったさお前は」
「……なんか、気に喰わない言い方」
見なれた帰り道、彼女にとっても、昔、僕や有村と一緒によく遊んだ道だと思う。
さすがに負けという気持ちに押されてか、彼女の声音にいつものキツイ成分は含まれちゃいない。
しばらく見つめていると、彼女もこっちを見やってきて。ちょっと笑った。
「まぁいいけど、どうせ矢琴は先輩たちにボッコボコの簀巻きにされて東京湾にでも沈められるんだし」
「……あんまり嘗めるなよ、僕たちだってやれるさ」
「はいはい」
恐らく勝負は一気に動き出すだろう。三つ巴が突然の一対一だ。
数の少ない僕たちに対して、明日、先輩が総力戦をしかけてくることは必至である。
……そういえば。
何故ソラは、あれほど必死に僕達を攻撃してきたのだろう。
思えば僕を女子棟に組み込む、だなんて公約も不自然だ。疑問は膨れ上がって解消されることが無い。
ちょっと、尋ねてみ――
「そういえば矢琴?」
彼女の方が、口を開くのは早かった。
「な、何だよ」
「初葉ちゃん、だよね。私に選挙中話しかけてきた子」
「え?」
「最近学校に出没してるのは聞いてたけど、もしかして矢琴の味方なの?」
初葉……。
初葉は選挙後、すぐに帰ったと聞いている、奈乃沙先輩と顔を合わせるのが嫌なのだろう。
そういえばそんなこともあったか、気にならないと言えばウソになる。
「知り合いだったのか? お前ら」
「……知り合いだったかって……あれ。矢琴覚えてないの? 私達が幼稚園くらいの頃かなぁ――」
で。
「おかえりお兄ちゃん」
相も変わらず、彼女は一日一日を欠かさず玄関で僕を出迎えてくれる。
「……ただ、いま」
ソラの話を聞く限りには、だ。
僕、ソラ、有村の三馬鹿が幼き頃、よく一緒になって遊んだ年下の女の子が……この、ちびっ子らしい。
にわかには信じがたい。同時期の記憶は結構色濃く覚えているつもりだったがな、幼児のころから僕は女の子だったし、ソラは真面目だったし、有村は変態だった。
……自分の記憶力を疑うしかない。ソラが嘘をつく理由などないからだ。
僕はローファーを小さな動作で脱ぎすて、玄関を振りかえる。続くソラを迎えた。
「……本当だ、矢琴の家に初葉ちゃんがいる」
ひょこりと、開けたドアの影からソラが顔を見せた。
酸っぱそうに口を曲げて、何とも恥ずかしそうに。
「ソラお姉ちゃん?」
「うん、あの、学校でちょっと話して以来だね。初葉ちゃん」
ソラの口調が気持ち悪い。優しげなお姉ちゃんの口調だ、なんて似合わない。
彼女はせかせかと敷居をまたぐ。靴を丁寧に脱ぎ落とし、更に手で揃えてみせた。
「矢琴、これどういう事情なの? なんで初葉ちゃんが……あ、鞄ここに置くけど」
「初葉に聞けよ。初葉が急におしかけて来ただけなんだから」
二人揃って初葉の顔を見つめてみるも、このちびっ子ときたら、もどかしい表情のまま硬直するばかり。
挙句の果てに、いーっをしてきた。うわぁ。
とてもじゃないが、答えてくれるようには思えない。
僕は制服を脱ぐこともなく、初葉と共に部屋中央の円卓を囲んで座った。
ソラ一人だけが、立ち尽くしている。
人の家だからと遠慮しているのか、落ち着きなく部屋の角に立ち、手を組んでいた。
「座れよ」
円卓近くの床を叩いたら、そわそわと、何と正座で座り込んで見せやがった。
呆れた話だ。
「ソラお姉ちゃん、本当に、こうやって話すの、久しぶりだね」
「うん、そうね。初葉ちゃんが引っ越したのは、私たちが幼稚園卒園するよりも前だったから、相当昔」
女子達二人の会話は、満開で咲き誇っているらしい。ソラが僕を気遣っているのか、ちらりちらりと僕を見るのだけれど、初葉の勢いが止まらないから……僕が入り込む隙は無い。
いろいろな話を、横から聞いた。そういえばと、初葉の事も色々思い出せた。
彼女と共に遊んだのは、ほんのひと時だ。
仲良くなって間もなく、彼女は一度引っ越した。そして奈乃沙先輩と共に帰ってきたのが……ここ一年だか、二年前の話なのだろう。そして僕の家におしかけてきた。
「それにしても……」
ソラが僕に向けて正座のまま、若干前のめりに話しかけてくる。
「矢琴も、よく泊めたわね。こう言っちゃアレだけど……その、突然押し掛けてきた女の子を」
僕が答える間もなく、初葉が代理の答えを差し挟んでくれた。
「え? あ、うん、お兄ちゃんならね」
初葉の奴、笑顔で。
「初葉のこと覚えてくれてると思ったんだ。だから、きっと泊めてくれるかなって」
会話の花が一瞬枯れる。
沈黙。
初葉は、僕が自分の事を覚えているのだと、ずっと思い込んでいたらしい。
時が止まる。
ソラだけが不思議そうに、ちょびりと首を傾げていた。
「……? でも矢琴、昔に初葉ちゃんと遊んだ事、何も覚えてなかったんでしょ?」
「……へ?」
また止まった。
今度は僕だけが止まった空間の中、動きだした。
さて、そろそろ上着だけでも制服を脱がなければな。立ち上がって窓際に逃げた。
「お兄ちゃん……? え? 私の事、全然覚えて無かったの? 有村もだよね」
初葉が、すくっ、立ちあがり、追いかけてくる!
トコトコトコトコ、小刻みの歩みで、僕の目の前に。
対する僕は、部屋の奥でブレザーを脱ごうと、ボタンにあくせく苦戦しているばかり。
「死んじゃえ」
フン、その程度の攻撃。初葉と共に暮らして居れば、適応するのも容易い事だ。
「死んじゃえー!」
語調を強く訴えてくるも、僕は動じずにブレザーを脱ぎ捨てる。
覚えて無かったのは確かに、悪く思うさ。本当に悪く思う。
だけどここまで一緒に暮らして来て覚えて無かったなんて、そんなオチに謝るのはどうも気恥かしくて。
「怒るよ! 覚えてくれてると思ってたのに……!」
初葉が怒ってる。本気で怒ったほうが怖くないってどういうことだ。
静かにソラへ、視線で助けを求めてみても……冷たいアイコンタクトを返されるだけだった。
助けてくれる様子はない。
困った。……やっぱり、謝るしかないってのか。謝るしか……。
「もういいよ! アレばらすから」
「?」
そう言って初葉が手を掛けたのは、我が部屋唯一の、小さな……クローゼット!?
背中に針がたくさん突き立ったような心地。焦り。駄目だ初葉、それを開けちゃ。
中には青春謳歌中の男子的な秘宝がざくりざくり。顔が熱くなる。このまま顔から火でも出て初葉を攻撃できないだろうか。
しかし何で? ほんと何で!? 初葉はアレに気付いていたのか? ちくしょう人が留守の間にクローゼット見やがったのか!
絶対、絶対だ。見られるのは恥ずかしい。見られるわけには……いかない。
「初葉ちゃん、それ何?」
ソラの奴興味深々だし! 帰れ!
「分かった! ごめん! ごめんなさい! 初葉、許して!」
「もう遅いからね」
「やめ――」
初葉の両手が、クローゼットに大口を開かせた。
低く鳴るスライド音がスッとスマートになる度、露わになるクローゼット内部。
中に整列、安置されていたのは……小さな本棚だ。
「……や、矢琴?」
ソラの奴、顔をひきつらせている。恐る恐るクローゼットに歩み寄り、手を伸ばしていた。
「ダメだ! ダメだソラ! 見るな! 見ちゃダメ!」
「お兄ちゃんは黙ってて!」
「初葉邪魔するな!! 離せ、離せぇえええ!!」
初葉に制されて、動けない。
「……どうしたの? 矢琴」
ソラの動きは、僕の言う事などに足を引かれることもなかった。
むしろ僕の不審さが彼女の好奇心をくすぐったようで……。
「やめろ、ソラやめろって! 見たら呪われるぞ! 呪われるぞバーカ!」
「の、呪われるの……?」
「ううん! それよりお姉ちゃん早く……! 暴れててこれ以上抑えてられないの!」
「……うん」
「やめろ、ソラ、ソラぁ!!」
僕は無力だ。
そっと、彼女は棚からひと際目立つ身長の、本を取り上げた。
表紙を見つめている。
血の気が引くという言葉が、どれだけ的を射た言葉なのか、僕はこの時知った。
彼女が見つめているのは、妙に洒落の効いた題名の、十八禁雑誌。
「……え」
ソラの顔も、青ざめていた。
本を落としていた。
次いで赤くなって、顔を押さえて、ふああと声をあげて、僕を見て。
「あ……あぁあ……!」
指さしている。プルプルと震えた指先は、確実に僕を向いていて……。
「や、やや矢琴……!? 矢琴ってこういうあれ、あの」
言葉に詰まって。
「ば、ばか!」
それしか言えなくなっているようだった。力が抜ける、抜けて仕方が無い。
初葉の奴、僕の……コレクションを見つけていたとは……。
「ばかー!!」
一度暴露された事実を消すなんて不可能な訳で、しかも慌てたソラは止まらない。
どうしたことやら、次々と露呈される僕の性癖。保管していた宝は、二、三冊。
クローゼットの中身はエロ本の保管所以前に、単なる本棚としても利用しているから、異常に疾しい物を見られた、というわけでもない。
そうでも思わなければ、この部屋に居座っていられない。
「……矢琴、これは?」
ソラは新たな一冊を取り出して、パラパラとページをめくってみせる。
「ラノベも知らないのか? 今どき」
エロ本が露見した時の気分は抜けていないが、できるだけ不機嫌に見えるよう努めた。
「へぇー、なんか、絵が可愛い……」
興味深々と言った様子で、ソラは適当にページを流していた。
「!? す、すごく絵が可愛いこれ! ね、ねぇ矢琴!」
「なに興奮してるんだお前は。読むよりも先に挿絵を見るなよ」
「だってこれ……可愛い」
「はいはい、分かった分かった」
拗ねたように円卓で、目をチラつかせるしかなかった。
ソラはともかく、初葉は勝ち誇った笑みでそんな僕を見つめてくるし。
何なんだよこの部屋は、地獄かよ。爆発してしまえばいいのに。
「ネ、ネコミミ?」
彼女が口にした通り、それはヒロインがネコミミのシリーズ。
「や、矢琴……こういうその、その! ネコミミが好きなの!?」
「バカ違う! 僕は別にそんな趣向があるとかじゃなくて!」
とは一概に言い切れなくて、反論を述べる口が重くなった。
それは間接的にYESを返しているのと同じことで、事実を受け止めたソラは顔から体を硬直させているわけで。
きゅいと唇を縛る彼女の顔が、今日何度目だろう、真っ赤に染まる。
「や、やややっぱり、ネネネ、ネコミミが好きなの?」
「好きなのって……」
「好きなのですか!?」
「なんだよその敬語」
「その……うん、知らない! 何でもない! この本貸して!」
「ソラお姉ちゃんの言うことならお安いご用だよ! 全然持ってっ「お前が言うなよ」
ソラの奴、選挙が終わってから本当にソラらしくない。静かで、これじゃ、ただのお姉さんだ。
ライトノベルの表紙を見つめたまま、心ここに非ずと言った様子でぽかりと口を開けていた。
時折、ふわー、とか、うん、とか呟きながら。きっと疲れてるんだろう。
今日の彼女は、多分、我が校で一番の働き者だった。
「あ」
いきなりだ。僕が声をあげるほどに、脳裏を突く記憶があった。ふと思い出したのだ。
突然の事に、初葉の奴がびくりと身を震わせた。頭上にイクスクラメーションマークでも浮かべそうな勢いで。
「……宿題、学校に忘れてきた。どうすっかな」
「お兄ちゃんのドジ」
明日提出の課題だ、どうするもこうするもない。再び学校に戻るしか、それしか……。
面倒臭いなぁの中に、別にいいか、と思う自分が居た。
ちょっとこの気まずい雰囲気が収まるまで、逃げるために、一度学校に戻るんだ。
そうだよ、それがいい。
「……行って来るかなぁ」
それなりに日も沈んで、地平線の果てにまで走れば手が届くんじゃないかってくらいの高さに日も沈んでる。
まだ部活に勤しんでる生徒は相当数いるから、女子棟内は未だ結構な騒がしさ。
ただし、我が男子棟は話が別だ。環境が環境なだけあって、部活動に勤しむ真面目な男など殆ど居ないし、そもそも完成したてである男子棟内部の部屋は部活に使用されることが無い。
相変わらずガラガラな我が男子達の居城。僕はちらつく夕日に視線をくれながら、廊下を歩いていた。
無駄にサラサラと垂れる前髪が、目にかかる。視界にボンヤリと、映り込む。今まで短髪は似合わないからと伸ばしてきた髪だが、こんなだから女扱いされるんだよなぁ。
奈乃沙さんもまた、僕が髪を切れば、妙な感情を抑えてくれるかもしれない。
切るつもりもないのに心の中でうそぶき、教室の前にまで辿り着いた。
出入り口越しに覗ける、連絡用の黒板。
落書きがたくさんだ。日直の名前に、矢琴結婚してくれだの。誰だ書いたのふざけんな。
「……?」
耳を澄ませばどうも、中にまだ誰かが残っているらしい。パチリパチリ、何の音だ。
ホコリすら床に沈殿した、時が止まったようなこの空間で。誰が残っている?
……。疑問のまま、出入り口の扉に手を掛け、迷いなく教室内に身を乗り出した。
「うーん……」
唸っているらしいその声は、女の子だった。
決して長すぎるわけじゃない、しんなりとした髪が見えた。
押せば壊れそうな背中。か弱い。椅子に座った、鈴音子さんの背中だった。
「あーれ? 矢琴君ですか?」
ゆらりと上半身を捻り、振り返ってくる。疲れ切った表情に無理やり浮かべたような笑みで。
「どうしたんだ? こんな時間ま……で」
彼女が座り構える机上に置かれているソレを見て、声がすごく、すごく弱くなった。
分からなかった。
決して驚いたりはしていないけれど、心の中で、錠前のある扉にぶつかった気がした。
不可解なんだ。この光景が。彼女が机の上に安置した、オセロ盤の存在が。
「何やってるんだよ、本当に」
「オセロです」
パチリ。パチリ。パチリ。白の一列を黒に染めながら、彼女は教えてくれた。
「私、相当強くなりましたよ? 今なら、キミにも勝てるかもしれません」
「……そ、そうか。頑張って」
「ちょうどいい機会です。一回だけ、オセロやっていきませんか?」
「へ?」
自分の机から、置き忘れた宿題を取り上げた。椅子を引く音が教室に雪崩れ、消える。
「勝負します? 勝負します?」
どうも勝負……してほしいらしい。
今にも飛びついて来そうな具合で彼女は僕を見つめ、可愛らしく、顔を華やかに飾っている。
「……一回だけな」
家には一応、ソラや初葉を待たせてるしな。早めに終わらせようか。
軽く勝ってやろう、僕は彼女の笑顔にうんを返した。
白2 ‐ 黒2
彼女の席より一つ前の椅子を取り出し、向かい合う形で座ってみた。
盤上は既に、開始の用意が整っている。
緑の盤面に、交差する形で並んだ白と黒。何で僕は、こんなことをしているんだ。
「矢琴君は、どっちの色にします?」
「じゃあ、黒」
「それなら私が白で、矢琴君が先攻です」
聞くが早くに、僕は石を取り出した。彼女の表情を見上げながら、打ちだす。
これで、白1 ‐ 黒3
「この前の件は……確かに負けを認めますけど、今回はそう簡単にいきませんよ?」
「なぁ、その前に聞きたいんだけど」
彼女の番。
白3 - 黒3
「何で鈴音子さんはこんな時間まで、こんなことを?」
「決まってますよ。オセロの練習をしていたんです」
僕の番。
白2 - 黒5
石の表裏を返す間、妙に思考が冴えるのだった。
「まさか見られちゃうとは思いませんでした」
「練習をしているところをか?」
「はい。できるだけ、見られたくはなかったんです」
彼女の番。
白4 - 黒4
「それまた、何で。そういえば鈴音子さん、隙あらばずっと練習してたよな」
「ば、バレてたんですか!?」
「……まぁ」
僕の番。少し考えた挙句……。
白2 - 黒7
「私は、負けず嫌いなんですよ」
「知ってる」
「できればですね、ずっとバレずに、隠れて練習しといて……」
「しといて?」
「いつか、わっと矢琴君を驚かせたかったんです」
「十分驚いてるよ」
「練習を全て隠すことで、『努力なんて一個もしてないのに、才能だけで矢琴君に勝ってみせたー』なんて、言ってみたいんです。それで凄いなぁ、とか、流石鈴音子さんだなぁとか、言われたいなって」
彼女の番。
白4 - 黒6
「この際だから白状します」
僕の番。
白3 - 黒8
「……私はすっごい、不得手の多い」
「……」
「言っちゃえば、落ちこぼれなんです」
そんなの、笑顔を浮かべながら、言うことじゃないだろう。
「いきなり何言い出すんだよ。鈴音子さんは……別に落ちこぼれなんかじゃないだろ? 勉強だってこのクラスじゃ、見る限り成績上位の方に喰い込むと思うし」
「いいえ、駄目駄目なんです」
間接的に彼女が何を言っているのかは、何となく分かってしまった。
鈴音子さんが物凄い努力家らしいということに、僕は気付いてしまったんだ。
彼女の笑顔が急に薄っぺらくなった気がした。空っぽの笑い。
彼女の番。
白7 - 黒5
「本当は分かってるんですよ、自分が何も出来ないってこと」
一度事実を語った彼女の口は、急に尖ったような、寂しい言葉を作りだす。
「凄い人になりたかったんです。褒められたいんです」
感情のタガって奴も、外れるなら外れてしまえばいい。
僕は彼女を見つめた。
白5 - 黒8
「頑張ってるんです。すごく、すごく頑張ってるんです」
「あぁ」
「だから、不得手ばかりの私でも、凄い人になれるって、思っていたんです」
自分が頑張っているんだと、言ってくれた。
「でも、無理でした」
彼女の番。
白9 - 黒5
「あ、あの。急にこんな話、しちゃっていいんでしょうか」
「ううん、話したかったら話してもいいんだぞ?」
「でも」
「いいから」
僕の番。
白7 - 黒8
「……奈乃沙の事が羨ましくて。彼女、すごく人気者で」
「憧れてるのか?」
「ライバルです。だから私、すごく頑張りました。彼女に追いつきたくて、本当に本当に、頑張ったんですよ?」
彼女の手は、いつの間にか止まっていた。
「こんなに頑張ってるんだから……だから、私はすごいんだ、すごいんだって、皆にも私自身にも、ずっと言い聞かせてきました」
何度目だろう、ほんのりと笑顔をふりかけられた。
僕は教室の止まった時に巻き込まれたかのように、表情の一つも動かさなかった。
ずっと彼女を見つめた。彼女は、彼女を見つめる僕を見つめた。
「……頑張ってるのに」
言葉を紡げば涙声だ。ほんのりとした笑顔なんて、無かったんだ。
「こんなに頑張ってるのに……」
ひと粒、彼女は俯いて顔から光を落した。
「オセロの一つさえ勝てないなんて……嫌じゃないですか」
涙なんて、一回零れてしまえば、簡単に柔らかくなってしまうものらしい。
一粒落ちれば、次々に落ちていた。ほんの少し、震えていた。
「勝てるかもしれないだろ?」
声を掛けてみた。
ふわりと彼女が顔をあげた。髪も空気も、ふわり。
目に溜まってる涙は、見て見えないふりをした。だから少し、笑いかけてやった。
「……ぇ?」
「次、鈴音子さんの番だけど?」
「……え、は、は……はい」
手加減なんかしてみたら、僕は彼女に怒られる。
勝負は真剣に、ソラには悪いけど、帰るのは遅くなりそうだ。
すっかり陽は落ちた。
夜空は、全てが純度の高い水なんじゃないかって思えるくらい、綺麗だった。
まぁそんなに星は出ちゃいないけど、僕の心象が今、澄んでいる。だから空が美しく見えるのかも。
僕はアパートの寂れた階段を上りつつ、先ほどの勝負を想起する。
笑ってしまうような。……なんて良い話なんだ。
まさか、本当に負けるとは思わなかった。負けて良かった。
手加減なんて一つもした覚えはないし、彼女も自分の実力だけで勝負していた。そして圧倒された。
『やった……やりました! 矢琴君!』
感極まった彼女の顔が、忘れられない。
『私……勝ちました!』
気取った様子など一つもなく、顔をぐにゃりと歪めて、でもそれは彼女のプライドが許さないのか、こらえながら泣いていた。
泣き顔の中にハッキリと見てとれる笑顔を浮かべて、僕の手を取って、席を立って。
伝える言葉なんかないくせに、ただ必死に、精いっぱい感情を表現していた。正直可愛かった。
負けたのに、勝ちなんかより百倍嬉しい。
彼女が泣きやむまで、傍に居てやろうと思って……。
黙って隣にいるのも気が引けるから、なんか気の利いた言葉でもないかなと考えを巡らせて……。
『……頑張った……な』
少しぎこちなかったかもしれないけど。
その一言と共に、彼女の頭をポンと叩いてやった。手を流す程度に撫でた。
それだけで、たったそれだけだ。僕はそれだけしかしていないのに。
彼女は再び泣きだしていた。
僕はその時、ただ、何にでも優しくなれる気がしていた。
「お兄ちゃん遅い! 宿題取りに行くのにどれだけかかってるの? そんなんじゃダメダメだよ!」
「あぁ、悪かったよ」
手にはまだ、鈴音子さんの頭を撫でた感触。この感触を引きずって、俺は帰ってきた。
ドアを開けば飛び込んできた眩しさに、目の前が明滅する。そのまま部屋に上がり込んだ。
「ただいま、初葉」
「……え、え、あ、うん、おかえりなさい。何その笑顔、気持ち悪いよお兄ちゃん。女の子モードにでも入ったの?」
女の子モードって何。
とにかく、たまらなく嬉しくて。初葉の頭もぐわーと、撫でてやった。
うーわーわー死ーねーなんて抵抗しながら、何だかんだ嬉しそうにする妹。可愛らしい。
「う、うにゃ。んとねお兄ちゃん。……ソラお姉ちゃんが……」
言われずとも分かる。この家は狭いから。
ドアを開いた瞬間、彼女の様子くらいは見渡せていた。
彼女、円卓に身を傾れ込ませる形で……寝ていやがる。
それも人の貸したライトノベルを大事そうに腕で抱えたまま。
初葉に毛布をかぶせられたのだろう。背中に布をかぶっている。
「一連の選挙が終わって、疲れてたんだろうな。しばらく寝かしてやれよ」
「お、お兄ちゃんが天使みたいになってる……! いつものお兄ちゃんなら孫の手なんかを拾ってソラお姉ちゃんを叩き起こすはずなのに……! 何があったの!?」
「別に何も無いって。……静かにしろお前」
失礼な妹を叱りつつ、僕は部屋の中に座りこんだ。
ソラの奴、本当に気持ちよさそうに、寝てやがる。
「……」
這い這い、彼女の寝顔に近づいてみた。初葉の奴も一緒になって近づいてきた。
……久しぶりに見る寝顔だ。
耳を澄ませば、くすー、くすー、静かな寝息が心をくすぐってきた。
あぁソラの奴、女の子だったんだな。しかもかなり美人の。彼氏はいなさそうだけど。
初めて意識したかもしれない。
「……ふ~にゃ~……」
「!?」
寝言だ! ソラの寝言だ! コイツ面白い!
口を何やら、むにゃりむにゃりと動かして、何とも幸せそうに笑って。
「……にゃあ~、やこと~」
僕の名前だと!? 何だこいつ……。
僕の名前を呼ぶ+幸せそうな笑顔……。
なるほど……彼女の夢では、僕がリンチに近い処遇を受けているに違いない。
「……しゅき~……」
スキー……? ウィンタースポーツ……?
「にゃぁ~……ねこみみ~……♪」
何の夢だよ!
「はッ!」
唐突だった、目を覚ましやがった。僕と初葉はバク転でもかましそうな勢いで飛び退いた。
幸い寝ぼけていたソラは状況を認知できていないようで……目をこすりつつ、首を傾げている。
「あれ、矢琴……? おかえりー」
「た、タダイマ」
「なんか変な夢見てた。すごい、良い夢」
本当に良い夢なのかそれ……。
彼女はまだ寝ぼけている様子だが、ある程度の意識は確立できたようだ。
二段階目の起床と言ったところだろう、とたんにハッと声を上げて。
「や、矢琴……ごめん! 私、矢琴の家で勝手に寝ちゃった!」
何かと思えば、そんな事だ。
「別にいいよ、それぐらい。なぁ、初葉」
「う、うん!」
「……あ、ありがと。ねぇあと、私、変な寝言言ってなかった?」
「えっ?」
「言ってなかった!?」
四足でととと、僕を追い、問い詰めてくるソラ。
血の気が引く。言えない、絶対言ってたなんて、言えない。
きっと正直に話せば、僕の脳から記憶が消えるまで、殴り続けられる。
「い、言ってたよね!? 多分言ってた!」
「……」
「い、言ってたんだ……」
予想外の反応だ。青ざめた顔で、身を引くソラ。
あてどなく首を振り回して、焦ったように自分の学生鞄をとりあげた。
「か、帰るー!」
迷いなく、信じられない速さで。
「急にごめんなさい! お邪魔しましたー!」
ぴゅーなどと、擬音が付属しそうな逃げ足を見せて、彼女は部屋から立ち去って行った。
残された僕と初葉は呆然とお互いの顔を見合せてみる。お互いの空白が伝わってくるだけだった。
……なんだ、アイツ。
気を持ち直せ、僕。
ソラのことを考えている余裕は、ないんだ。
明日はきっと、最終決戦なんだから。