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五話 アオイハルを 謳う者よ

 首を締め付ける力が強まっていく。解こうにも続いて手や足も同じように絞められ身動きが取れない。完全に詰みってやつだ。ざわざわと桜の花が風に揺れる音が、身の毛もよだつ笑い声に聞こえた。

「ネェ、覚エてル? オボエえてェる?」

 声質はダミ声をさらに濁らせたような感じで、聞くに堪えないものだった。身をよじらせながら羽佐間は、

「知ら……ない」


 事態がまだ飲み込めていないため、まともに回答ができない。大体、桜の木に襲われるというシチュエーションがあまりにも荒唐無稽すぎる。

 そんな思惑なんていざ知らず、桜の木の姿を借りた化け物は、あろうことか号泣した。枝木や葉っぱが地震のごとく卒然と揺さぶられ、ザーザーと音がなる。


「ヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイヒドイ!!!!!!!!!!」

 執拗(しつよう)に言葉を繰り返す。その様子から悲壮感だけは染み込むようにして伝わってくる。だが正体が分かったわけではない。言葉がしゃべれるなら教えてほしいくらいだ。

「キレイに、なッタのに……キレイに、なッタたただだだだのにぃぃぃぃぃぃぃぃぃ……」

 桜の木全体が、大地を揺るがすようにけたたましく振動している。その姿まるで、どうして分かってくれないのと泣きわめいて両肩を揺らしている様に思えた。

「だから……なに、も……」

「ああ゛っ、そソソソう、だ……ぁ」

 

 かすれた声が喉から漏れる。言葉にならない。恐怖が声帯を締め付けて、まともに呼吸することさえ困難だった。いまの羽佐間は木の幹の部分を見下ろすような体勢で拘束されている状態。高い位置に持ち上げられて、視界は霞んでいた。

 ズルゥリと、なにかが粘液をまといながら脱皮したような耳障りな音が響く。

 すると同時に身体が下げられた。地面に近づくにつれて、ぼやけていた視界が徐々に焦点を結んでいく。そして、否応なしに目の前の光景と向き合わされる。

 樹皮の表面が、うねうねと(うごめ)いていた。さながら無数のミミズが皮膚の下を這い回るように、有機的な波紋が広がっていく。ぞわりと背筋を悪寒が駆け上がっていく。本能が激しく見てはいけないと警鐘を鳴らした。

 けれど、目を逸らすことができず、視線は幹に釘を打たれ、その異様な変容を最初から最後まで目撃することを強いられてしまう。

 幹の表面がゆがみ、膨らみ、凹み、うねり、捻じれる。

 生き物のように脈動しながら、何かの形を成そうとしているのだ。木質の繊維が音を立てて(きし)み、樹皮が裂け、内側から何かが押し出されてくる。

 それは、人間の顔だった(・・・・・・・)

 それは、できることなら二度と見たくない忌まわしき記憶の中にある――


「……!! そ、そんな、君、は……!」


 声が震える。いや、震えているのは声だけではない。全身が小刻みに震え、心臓が激しく脈打つ。

 時の輪公園で見かけた、あの傷だらけの少女。

 首を吊って自殺していたあの少女の顔と瓜二つ。というより本人。

 もしかしたら、イジメっ子と喧嘩をし終えたときにチラッと映った人物、にんじんを食べ終えたときに部屋で見た制服姿の少女って……!!

 記憶が堰を切ったように蘇ってくる。近づいたときに見えた、無数の傷痕に覆われた顔。青白い唇。首をかきむしったような爪痕。

 そして——あの時、思わず抱きしめた少女の身体から伝わってきた、零度の体温。

 

「どうし……て……」


 絶望的な局面は何も変わっていないが、羽佐間は怒っていた。理不尽にも吊り上げられている境遇にではない。目の前の、かつて一人の人間であったはずの少女に対して、だ。

 現世では何があったかは分からないが、せめて来世では温かい家族に囲まれて、誰にも傷つけられることなく、笑顔で、安心して、幸せに生きてほしいと。

 なのに……

 なのに、これは——


「報われ……な、い……!」

 自分の意思とは関係なく歯を食いしばり、目の端がうっすらと涙でにじむ。そんなことをしても、すでに人間の姿を捨てた少女には何の慰めにもならないのに。

「思い゛出シタ? ねェ、思イ、出し、ダタ?」

 木の幹から、鉄同士が擦れあうような音が響く。言葉の抑揚が不自然に崩れ、濁音が異様に強調されていた。

「…………」

 

 羽佐間は声を出さなかった。正確に言えば、引っ込めたという表現が正しい。ここで「思い出した」と認めてしまえば、なにかが起こる。取り返しのつかないなにかが。想像するのも恐ろしくなり、ますます口を真一文字に引き結ぶ。

 沈黙。

 それが、桜の木の少女にできる唯一の抵抗だった。

 だが、その沈黙は、どうやら反感を買っただけに過ぎなかったらしい。


「ァァ……」


 低い(うめ)き声とともに、首を締める力が一層強くなった。容赦のない圧迫。気道が完全に塞がれる感覚。肺の中の空気が押し出され、新しい空気が入ってこない酸欠状態。

 羽佐間の視界の端が暗くなっていく。頭の中に(モヤ)がかかったように思考が鈍り、身体が(しび)れ、力が抜ける。意識、が、薄れて——


「羽佐間くんを……離せーっ!!」


 忘れかけていた頃に聞き覚えのある声を聞いて、意識は首根っこをつかまれて現世に引き戻された。ドタドタと騒がしい足音が近づいてくる。燐音だ。燐音が無謀にもこちらに向かってくる。

 パイナップルを切るときに使ったナイフでグサグサと、グサグサと、半狂乱にわめきながら、手を休めることなく刃を突き立て続けた。


「せっかく! せっかく! せっかく! せっかく! せっかく! 仲直りしたのに!! 約束したのに!!」

「燐音……」

 悲しみと、怒りと、憎しみが複雑に入り組んだような、筆舌に尽くし難い声で必死に訴えていた。

「こんなクズなわたしでも、こんな、ゴミみたいなわたしでも! こんな、こんな、こんなわたしに、言ってくれた! 言ってくれたのに――」


 叫びとともに、燐音は血走った眼でナイフを振りかぶった。腕が震える。涙と汗が混じって頬を濡らす。

 次の瞬間、勢いそのままに刃を突き立てようとしたその身体が、突如として強く引き止められてしまった。

 胴に巻きついた縄が、敵意むき出しのヘビのように締め上げてきたのだ。ギチ、ギチ、と嫌な音を立てながら、燐音の身体を樹冠の高さまで引き上げた。

  

「ガガッ……アァ…………」


 人の声とは思えない、鳥の断末魔のような音が喉からもれていた。縄は容赦なく、胴だけでなく足や首にも絡みつき、締めつけの輪をさらに狭めていく。

 どれほどの時間だったろう――恐らく十五秒。だが、その短い刻が永遠に感じられた。やがて、燐音の声は色を失い、空気に溶けるように消えてしまう。力の抜けた身体がぐったりと項垂れる。


「燐音? 燐音!!」


 羽佐間が何度も呼びかけてみるが、まるで蝋人形みたいに反応がない。 

 桜の木は無情にも縄が緩めると、燐音の身体をボロ雑巾のようにポイッと放り投げやがった。空中で二、三度回転し、やがてドスンと地面に鈍い音を立てる。そのままうつぶせの体勢でこゆるぎもしなくなった。


「ねぇ、ケ、ゴンじよ? ネェ、ケケ、ホンじよ゛? うよ、ネェネェネェネェネェ!!!!」


 拙い言葉ながら、少女が発している言葉の意味が理解できていた。「結婚しよ?」と言っているのではないだろうか。死の淵に立っているからこそ、脳が抗うようにしてフル回転しているのかもしれない。

 もちろん人間と木が結婚なんてむちゃくちゃな話、成立するはずがないだろう。だがそんな至極真っ当な意見を聞いてくれると思うほど、自分はバカではない。

 羽佐間の意識は、まるで深い水の底へ沈んでいくように、ゆっくりと、しかし確実に消えていった。光が遠ざかり、音が遠ざかり、感覚が遠ざかっていく。

 ああ、本当に死ぬのだ。

 こういう時に走馬灯を見るものだと思ったが――今手元にあるのはただ、苦しみだけだった。

 強く締め付けられる首。

 酸素を求めて悲鳴を上げる肺。

 暴れ狂う心臓。

 今にも取れてしまいそうな全身の筋肉。

 自覚しているのは痛みばっかで、ひょっとして脳は生存のために必死だから過去の記憶を辿る暇なんてないかもしれない。ただひたすらに、今この瞬間の苦痛に囚われている。

 視界が真っ白? 真っ黒?

 もう、区別が……つかな……


「悪いけど……」

 なにかが目の前でしなやかに伸びていたことは覚えている。そしてそれが木の幹に直撃した瞬間、縛り付けていた縄がかすかに緩み、それによって身体は後ろに投げ飛ばされた。誰かの手によって乱暴に。

「人の彼氏に、気安く触れないでくれる?」

 今度は声を聞いてはっきり分かった。視界の色が急激に取り戻されていく。そこには、ギラリと威嚇するようにしてとがった目つきを少女だった存在に向けている――葉純さんがいた。

「羽佐間を先に見つけたのは私だから。略奪婚なんて今さらはやらないよ」

 急に空気を吸えるコンディションになったことで肺が驚いてしまい、ゴホッゴホッと激しくせき込んだ。

「あ、ありがと……うございます。助かり、まし……」

「どういうこと? どうして……が出てくるの? ……が『掃除』したんじゃ……」


 お礼を言ったものの、葉純さんは、完全に思考の渦に飲み込まれていた。羽佐間の声が届いていないのか——いや、おそらく聞こえてはいるのだろうが、認識できていないのだ。右手のこめかみに指先を当て、眉間に深いシワを寄せながら、ぶつぶつと独り言のようにつぶやき続けている。

 その横顔は、普段のイジッてきたりしてくるときと別人のようだった。困惑。混乱。そして、何かを理解しようと必死に思考を巡らせている様子。


「あ、あの、葉純さん」

「……ごめん。少し、考え事をしていて」

 そう言って、葉純さんは小さく息を吐く。その表情からは、まだ完全に混乱が拭い去られていないことが見て取れた。

「とにかく、ここは私に任せて。羽佐間、柏木くんを抱えたまま逃げることはできる?」

 葉純さんの目つきは、たった一つの回答以外を受け付けないような凄みが含まれており、だからウソをつかざるを得なかった。

「も、もともとできる以外の選択肢なんてないでしょ」

 

 羽佐間は今にも泣きそうな声色になっていたが、仕方ないと思う。運びながら逃げるだけでもなかなかの難易度なのに、さらに後ろから桜の木が追いかけてくるかもしれないという鬼畜ぶり。これがゲームだとしたら即刻ゲ◯に行って売り飛ばしているレベルだ。

 だが悲しいかな、これは現実。ゲームオーバーということは、それすなわち『死』だ。二度とコンテニューなんてできやしない現実なんだ。桜の木の皮をかぶった少女は、猛獣のようなうなり声を張り上げる。それだけでションベンをちびってしまいそうだった。


「誰よゾノ゛女アアアアアアアアアア! イヤアアアアア――――――ッッッッッッ!!!!!!」


 絶叫とともに、空気が震えた。葉純さんの目の前で、樹冠から錬成されるように無数の縄が一斉に飛びかかった。しなる音、うねる影。例えて言うのなら、意思を持った毒蛇の群れ。

 それを葉純さんはひらりと身を翻した。足先を軸に、格闘の熟練者のような動きで縄をすり抜ける。

 右から迫った縄を肘打ちで弾き飛ばし、次に左から飛び出した一本を膝蹴りで払いのけた。反射的な動き、息をつく暇もないはずなのに、葉純さんの顔に焦りはこれっぽっちも見当たらない。

 しかし――一本の縄が虚を突くように右手首に絡みついてきた。葉純さんはほどこうと左手を使おうとしたその刹那、絡みつかれていない左の方角から、さらに三本の縄が束になって襲いかかってくる。一本でも意識が闇におぼれてしまうほどだったのだ。三本も絡みつかれてしまったら……!


「フンッ!」


 葉純さんは大きく鼻を鳴らすようにして右手を自分に寄せた瞬間、絡みついていた縄がブチンと音を立てて引きちぎれた。

 主人のもとを離れた縄は、役目を終えたのかただの枝木に戻る。自由になった両手で三本の縄を一気につかむと、


「ヂェストォォォッッッ!!!!」


 と束になって重なった箇所に上段蹴りを放った。その衝撃の余波が、羽佐間にも少しばかり届く。普段の葉純さんらしからぬ、鬼将軍のような厳しく荒々しい声に畏怖の念を抱いた。

 縄はさっきと同じようにブチンと音を立てて引きちぎれる。いや、元は木だからはへし折れたと言うべきだろうか。

 燐音を抱えて逃げるという言葉を忘れて、闘いに目を奪われていた。だいいち葉純さん一人をこの場に置いて帰ってしまうほど、性根を腐らせた覚えはない。なにか、なにかできることはないのかと脳内エンジンをフル稼働させる。

 イジメっ子とやりあった時もそうだった。あの時も葉純さんは自分の肉体に入っているというハンデありきにしても、圧倒的な強さを見せていた。いったい、どうやってそんな力を……

 葉純さんに注意が向いていた羽佐間は、気づかなかった。

 背後から、音もなく迫る縄の影に。

 それはコブラのようにうねりながら、首めがけて伸びてきていた。あと数秒——いや、一秒もないかもしれない。縄は喉元まで迫っていて……


「危ない!」


 葉純さんの鋭い叫び声が聞こえてからすぐ、身体が横に突き飛ばされた。視界が回転し、地面に叩きつけられる。痛みが走るが、それよりも——

 バシュッ!

 縄が何かを捕らえる音。

 身体を起こして振り返ると、そこには——

 羽佐間の代わりに、縄に捕らえられた葉純さんの姿があった。

 首に食い込む縄。吊り上げられていく身体。たまらず叫んでいたが、声なんて届くはずがない。


「葉純さんッ!!」

「猫……醜い黒猫……泥棒、猫……ドブ猫ドブ猫ドブ猫ォ!!」

「泥棒……猫……」


 苦しみにかすんだ声で、葉純さんがなにかを吐き出した。泥……なんと言ったのだろうか。

 その言葉の意味を考える間もなく、シュルルルッ! と追加の縄が空中を舞った。首に巻きついた縄だけでは足りなかったとでもいうように、次々と葉純さんの両手、両足に絡みつく。

 四本の縄が、四肢をそれぞれ違う方向へ引っ張り始めた。


「あ゛ああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっ!!」


 この世のものとは思えない、痛々しい悲鳴。

 葉純さんの身体が、大の字に引き伸ばされていく。関節がそれぞれ悲鳴を上げる音が聞こえた気がした。骨が軋み、筋肉が引き裂かれそうなほどの力で、容赦なく、無慈悲に。


「や、やめろ……!」


 羽佐間は叫んだ。

 早く助けないといけない。

 早く立ち上がらないといけない。

 早く走り出さなければいけない。

 早く、早く、早く……!!


「……っ!?」


 身体が、動かない。

 足が、まるで地面と一体化したかのように、ピクリとも動かない。筋肉が役目を放棄したかのように、羽佐間の命令を完全に無視している。恐怖で硬直しているのか、それとも何か別の力が働いているのか……理由はわからないが、とにかく動けない。


「動け、動けよ……!」


 あの時と同じだ――苦しいのに苦しいとすら言えなかった頃、石像だった頃の弱い自分と、なにも変わっちゃいない。これまでの日々を通して、経験を通して、成長しているまでとは言わなくても、前進はしていると思っていた。たとえマイペースでも、歩みを止めていないことが重要なのだと。

 でも、そんな綺麗事を、あの少女は笑いながら踏みにじるだろう。許さないだろう。業腹(ごうはら)が煮えくり返ってどうにかなりそうだった。

 羽佐間は半泣きになりながら、一応動く左手で太ももをたたく。たたく。しかしながらテレビではないので、治る様子がない。だがやめることなんてできない。できるわけがない。無我夢中で、何度も、何度も。痛いほど強くたたきつける。

 動かない。

 動けない。

 動かない。

 動けない。

 そんな馬鹿げたことをしている間の出来事だった。

 ドガァンッ!

 爆発音がしたと思い、目線を太ももから葉純さんに戻すと――身体がトンネル近くの石壁に叩きつけられたあとだった。


「ガハッ……!」


 まるで生きている人間のように、吐血するような声。

 そのまま地面へ崩れ落ちる。横向きに倒れた葉純さんの背中が、小刻みに震えていた。

 どうして……幽霊の身体は、攻撃はもちろんのこと、ましてや痛みなんて一切受け付けないんじゃなかったのだろうか。同じ幽霊同士では適用されない? 疑問が頭をよぎる。でも、今はそんなこと考えている場合じゃない。

 シュルル……

 また、あの音。

 首吊りの縄が、倒れている葉純さんに向かって、ゆっくりと這い寄っていく。獲物を狙うように。標的(ターゲット)をロックオン、止めを刺しに。

 それなのに羽佐間は、ただ目の前で起こるであろう惨劇を、見ているしかできなかった。視界を涙があいまいに溶かしていく。

 無力。

 絶望。

 そんな言葉が脳内の八割ほどを支配した頃に――


「葉純の兄貴から……離れろォォォ!!」


 突然の咆哮(ほうこう)

 次の瞬間、信じられない光景が目の前で展開された。太郎が桜の木に向かって、勢いよく放尿をぶちかましたのだ。黄色い液体がいつも発射されているときより強く、激烈に、幹に炸裂(さくれつ)する。


「な、何をををを゛をゔををゥ!?!?」


 幹に浮き出た少女の口から、あからさまな困惑に満ちた声が飛び出した。明らかに想定外の攻撃に動揺している様子だ。

 続けて混乱へと乗じるようにして、ガブリと鋭い牙で幹に食らいついていく。容赦なく、全力で。

 あた太郎は脇に回り込むと、目にも止まらぬ速さで幹を引っかき始めた。羽佐間の位置からじゃ見えないが、木屑が飛び散り方からしてかなり削っていることが分かる。


「ごめんなさい! 僕たちの到着が遅れたばっかりに、こんな、ことに……」

 悲痛な面持ちなた太郎の頭を、葉純さんがそんなことないと言葉のかわりに優しく撫でた。

「……気に、しないで。かすり傷、だから」

 そんなことを言いつつも葉純さんの身体は裏切るようにふらふらと立ち上がるのがやっとだった。「動かないでください!」とた太郎に叱咤(しった)されてしまい、再び床に膝をつける。

「大丈夫ですから! 今こそ『師匠』にしごかれた成果、見せつけてやりますよ!」

 もはや後光が差しているかのようにまぶしい笑顔を向けるた太郎。葉純さんはちょっと待ってと言いたげに口を開け、腕を小さく伸ばすが、その姿をみる前に太郎へと視線が移動していた。

「我が弟よ! 俺様一匹で、こいつを相手にゃァ、ちと贅沢(ぜいたく)、すぎるぜ!」

 喋りながらも、ずっと繰り出されている縄の攻撃を一本一本的確に避け続けている。とんでもない機動力だ。

「かっこつけないで、素直に助けてって言いなよ! 糞兄!」

 一直線に太郎のもと――否、太郎の背後に迫った縄に向かうと、得意の後ろ足を思いっきり伸ばして蹴り飛ばした。背後を守るポジションを確保する。


「こんな時ぐらいお兄ちゃんと……呼ばんかいボケがァァァ!!!!」

 怒りをそのままパワーに転換する形で縄に噛み付く。その瞬間にころんと、ただの枝木へと戻ってはあたりを転がった。

「ギャアアアッ!」

 悲鳴があたりに轟くと同時に、怒り狂ったのか桜の木の

少女がすべての枝を縄に変化させて鞭のように振るってくる。しなやかで、それでいて致命的な一撃。空気を乱雑に切り裂く音がした。

「おい羽佐間ァ! 彼女一人守れねぇで、なにが彼氏だぜ! 見損なったワ!」

 太郎が疾風のごとく羽佐間のもとに駆け寄ったかと思ったら、ドスの効いた声で怒鳴られた。

「た、太郎?」

 普段アホヅラでションベンを引っ掛けてくる太郎とは全然違う。勇み肌を何重にも重ねたような雰囲気。本当に、あの……

「愛の邪魔をするなァァァ!!」

 縄の数がさらに増えたため、いったん身を引いた太郎たち。人間より小柄なだけあって、フットワークは雲のように軽かった。呼吸を乱している様子もない。

「糞兄!」


 た太郎が声を出すと「おう!」と返事をした。まるでそれだけでなにかをする意図が伝わっているみたい。阿吽(あうん)の呼吸ならぬWAONの呼吸といったところか。

 次の瞬間、それぞれ別の方向へと走り出す。地面を蹴り、桜の木を迂回し、絡みつこうとする縄の群れをきり裂くかまいたちのようにすり抜けていく。

 すると予想どおり、縄がにわかに(うごめ)き、二匹を捕らえようと襲いかかってきた。

 だが太郎も、た太郎も逃げない。むしろ、避けるふりをして逆にその中心へと突っ込んでいった。「「今だ!」」と短く二匹が叫び、縄へと飛び乗る。

 体重をかけて縄を押さえつけ、そのまま勢いにまかせて一気に樹冠まで駆け上がった。枝木と向き合うと太郎は歯をむき出しにし、力いっぱい噛み砕く。乾いた音とともに枝が裂け、樹皮が飛び散った。

 一方のた太郎は、反対側で後ろ足を高く振り上げると、根元を正確に蹴り飛ばしていく。衝撃で枝がしなり、悲鳴のような音を立てて弾け飛ぶ。縄は一瞬にして力を失い、しゅるしゅると垂れ下がっていった。

 しかし、静寂は長く続かず、残された縄の群れが再びうねりを取り戻し、上へ上へと伸びていく。

 太郎とた太郎は一度距離をとると、すぐに再び駆けだした。そしてまた同じ作業を、何度でも繰り返していく。二匹の動きに迷いや乱れなどはなく、まるで手慣れたバイトのようだった。


「あんなに、みんな頑張ってんのに、オレは……オレはァ!!」

 拳が悲鳴を上げるほどに握りしめる。唇を血が出るほどにかみしめる。それでもまだ、足は動かなかった。怖い。恐ろしい。近寄りたくない。

「せッかぐ……なっタの二…………」

「……?」

 さっきまで感情任せで喋っていたが、今度は悲壮感を醸し表しながら語り始めた。シュルシュルと縄が筋肉を抜かれたように地面へと伏す。

「せっがク……なったノニ、キレイになっタ、のに……どうしてスキって言ってクレないノ? どうシテ、そんな、イジワルすルの?」

「うるせぇ! 葉純の兄貴をしばいた罪はおめぇぞ! てめぇなんか木炭の材料にでもなっちまえ!!」

「糞兄! 彼女も、『被害者』だよ」

「……っ」


 失言を言った直後のように、太郎は顔をぴくりとゆがませた。被害者……? 被害者ってなんだ? 

 わかるはずもない言葉の意味を探っていると、桜の木周辺から禍々しいオーラが噴出しているように空気が変わった。ただでさえ冷たい空気の中、そこに死の匂いまで加算されたような気がする。


「許セナイ……許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ許セナイ!!!! オ前らみンナ――餌にシテやる(・・・・・・)

 

 耳を(つんざ)くような叫び声が鼓膜を直撃したその瞬間、桜の花びらが——否、桜の木全体が、まるで病に侵されたかのように黒く変色し始めた。美しかったはずの薄紅色が、見る見るうちに漆黒へと染まっていく。不吉な、禍々しい黒。

 そこからバサッ、バサバサッと、無数の羽音が空気を震わせた。

 黒く染まった桜が――次々とカラスへ変化していく。花びらが、枝が、幹の一部が、生きた黒い鳥へと姿を変えていく。

 一斉にこちらへ向かって飛来してきた!

 ギャアアアッ! ギャアアッ!

 甲高い鳴き声。鋭い嘴。黒光りする爪。

 ありかよ、そんなの。

 数十……否、数百にも及ぶ黒い翼が、月の光を遮ってしまう。ギャアアアッ、ギャアアッ、という無数の鳴き声が重なり合い、耳を感電させる合唱となって響き渡る。

 太郎たちは、最初は(・・・)勇敢に戦った。

 噛みつき、引っかき、飛び退き——それぞれが持てる力の全てを振り絞って、カラスの群れに立ち向かった。特に太郎は、持ち前のフットワークの軽さを活かして、縦横無尽に動き回る。

 左から来る攻撃をかわして反撃。

 右から迫るカラスを蹴り落とし、即座に離脱。

 上空からの急降下を見切り、横っ飛びで回避。

 つい太郎の方ばかり見ていて気づかなかった。た太郎、あた太郎はすでに――数の暴力で屈していたことことを。

 いくら倒しても、いくら追い払っても、カラスは減らない。むしろ増えていく。疲労が蓄積し、動きが鈍くなる。傷が増えていく。

 そしてついに、太郎が敗北を喫した。

 小麦色の毛並みはボロボロになり、四ほんの足は生まれたての小鹿よりもふらふらとおぼつかない。それでも、まだ立ち上がろうとする。

 ところが現実は非情で、無数のカラスが一斉に覆いかぶさり、太郎は身じろぎ一つできなくなった。


「太郎!」


 呼びかけたが、太郎がいた場所はかわりに不気味に(うごめ)く黒い大きな塊になっていた。

 シュルルルッ!

 再び、あの縄が動き出した。葉純さんの身体に絡みつき、締め上げ、引きずっていく。終始されるがままだった。抵抗する力さえのこっていないのだろう。

 羽佐間は……やはりなにもできなかった。

 足をぶつことすら、もう忘れていた。

 ただ、目から入った映像を呆然(ぼうぜん)と眺めている。絶望にどっぷりと浸かった右目で。諦めに二度漬けされた左目で。もうなにも期待していない、希望のかけらもない、虚ろそのものになった感じ。

 終わりを受け入れようと心臓の鼓動が弱まったその時――

おもいがけず映像が頭に流れ込んできた。

 太郎だ。太郎がいた。

 いつもバカなことばかり言ったり、ションベンをひっかけたりしてばっかのくせに、こういうときは嫉妬するくらいにかっこよかったあの太郎が、脳内映像としてダイジェストで流れていた。

 まるで別人――いや、別犬になったような太郎が映し出された。自信に満ちた、勇敢で、強い意志を宿した瞳。

 そして、その太郎が、厳然と告げてくる。


 ――彼女一人守れねぇで、何が彼氏だぜ!!


 その言葉が、稲妻のように羽佐間の心の臓を貫く。さっきは太郎の変わりように驚いて、まともに受け取ることができなかった。

 でも今なら、心を貫かれた今なら……!

 そうだ。

 葉純さんの彼氏じゃないか。

 拳を、握りしめた。

 よりにもよってアイツに諭されるなんて、彼氏失格だなと思う。

 身動き一つしない葉純さんを捕まえる桜の木。ウケケケケと聞くだけで耳からゲロを吐きそうなほどに汚い笑い声を漏らしていた。

 今だ! 今こそ、力を発揮するときじゃないか。イジメっ子とやり合ったとき思い出せ! 怖がる道理なんて丸めて捨ててしまえ! だから頼む! 動け、動け、動け、動け、動け、動け…………


「動けェェェ!!」


 のどを粉砕するつもりで声帯を震わせる。それが功を奏したのか、身体がふと空気のように軽くなり、つかの間の自由を手に入れることができた。このチャンス、活かさない手はない。

 足が地面を蹴った。全身の筋肉が悲鳴を上げる。それでも構わず、まっすぐに、ただまっすぐに走った。

 不思議なことに、視界に映る世界がゆっくりと流れていく。まるで時間そのものが粘性を帯びたかのように、すべての動きがスローモーションに見える。舞い散る木の葉の一枚一枚、揺れる枝の軌跡、そして――

 葉純さんの姿。

 羽佐間に向かって右手を突き出していた。掌を大きく広げて、制止の意を示すように。その仕草が何を意味しているのか、すぐさまわかった。

 来てはいけない。

 言葉にはならないサイン。葉純さんの瞳が、表情が、身体全体がそう訴えかけている。

 それでも、

 足は止まらなかった。

 なにもせずに、ただ立ち尽くして、好きな人が傷つくのに対して野次馬になるなんて――そんなことできるわけがない。胸を貫く痛みが、全身を駆け巡る想いが、そうすることを許さなかった。

 せめて一撃でも、あの木の幹にたたき込むことができれば……!

 

「――あっ」


 まばたきの間の出来事。

 頬のあたりで、なにか鋭い衝撃が走った。焼けるような痛み。羽佐間の視界が横に流れる。それは自分の身体が吹き飛ばされているのだと、一拍遅れて理解した。

 ゴッ!

 側頭部に、破裂するような衝撃。石壁に激突したことが分かる。

 頭蓋骨が砕けるかと思った。実際はどうか分からない。視界が真っ白になり、次に白い光が爆発したかのように広がる。意識がシャットダウンしたのは、それからワンテンポ遅れたあとだった。

 それまでの刹那、輪郭が溶け、音が遠のき、感覚が薄れていくのを実感する。悔しいと思う暇すら、なかった。

 あっけない。

 本当に、あっけない終わりだった。


    *


 意識が薄闇の底からゆっくりと浮上してくる。まぶたの裏に赤みがかった光がにじみ、羽佐間はなにか硬く温かいものの上に揺られていることに気づいた。身体が規則的に上下に揺れており、リズミカルな蹄の音が遠くから聞こえてくる。ぱちりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは、馬の黒い(たてがみ)。風になびく粗い毛が頬をくすぐり、自分が馬の背に跨っていることを理解するのに、数秒を要した。両手は無意識に馬の首にしがみついている。馬の体温が太ももを通して伝わってきて、生々しい現実感があった。

 だが、どうしてこんなところに。記憶を手繰り寄せようとするが、なにも思い出せない。頭が重く、思考がぬかるみの中を泳ぐようだ。

 これは夢に違いない。そう結論づけて、再び目を閉じた。馬の揺れが子守唄のように心地よい。

 蹄の音が遠ざかっていく……………………………………………………


「…………」

 次に目を開けたとき、意外千万なことに羽佐間は、自分の部屋のベッドに横たわっていた。

「羽佐間、もう大丈夫だよ」

「……んん」

「だから、起きて」


 誰かの声が鼓膜をたたいたと同じ時期に、天井の見慣れた染みが視界に入る。シーツの柔らかな感触、枕の沈み込み、すべてがいつもと変わらない。身体を起こすと、筋肉に鈍い痛みが残っていた。時計を確認すると零時を過ぎている。窓辺に歩み寄り、カーテンを開けた。世界はすっかり就寝の真っ最中らしい。鉄黒色の空に、星が幾つも瞬いていて、街灯の黄色い光が、湿った路面に反射して揺れていた。どうやら雨が降っていたらしい。

 羽佐間は周りを見渡すがメンバーは自分と葉純さん、三太☆苦労’sしかおらず、燐音がいなかった。居場所を訊くとすでに自宅に送っておいたと穏やかに言われたので信じることにした。「そう」とベッドへと戻りうなずきかけたその瞬間――脳裏にせんれつな映像がよみがえった。

 巨大な桜の木。いや、あれは木ではない。うねる縄、裂けた樹皮の向こうから覗かせた顔、人の悲鳴のような(きし)み音、化け物だ。それでいて……一人の少女だった。

 記憶が洪水のように押し寄せてきて、全身が総毛立ち、思わず息を呑んだ。あの恐怖が、悲しみが、今もまだ身体に染み付いている。


「あ、アイツは!? あの……少女、は……?」

「しつこいぜ」

 ジャーと太郎は足にマーキングをしてきた。しかし今は病み上がりのようなもので、投げ飛ばす気力がわかずされるがまま。反撃されると思ったのか、太郎は何もしてこなかった羽佐間に面食らった様子だった。

「まずはその……ごめん! 私が肝試しを企画したばっかりに……こんな、事態に。本当にごめん」

 謝罪の言葉を述べている最中の顔は、いつかの廊下で周りに人がいるにもかかわらず、何度も話しかけてしまったことを悔やんだそれとよく似ていた。自分のことが嫌いと暗意に告げるような……見ているこっちでさえ、苦しい気持ちが乗り移ってしまいそうになる。葉純さんのことを疑うつもりはないが、本当に仲直りするためだけの肝試しではないような気がした。でもそれを聞いたところで、今は知らんぷりされるのがオチだろう。

「そんな、謝らないでください。確かに悪いこともありましたけど……かといって悪いことばかりじゃなかったですから」

 燐音と仲直りできたのは大収穫だった。一緒にコンビニスイーツ食べる約束もしたし、豪運なことに生きてるし、生死の境をさまよった今なら声高に言える。これを幸運と呼ばずしてなんと呼ぶのだ。

「…………」

 スッと力が抜けたように頭を下げた葉純さん。小さいくの形をしたつむじが見えた。

「……五十嵐さん?」

 それっきり動かなくなってしまったので名前を呼ぶと、ブンと風が発生するくらいに素早く葉純さんは頭を振り上げた。きれいな目が射抜くように真剣さを放っている。

「それはそうと羽佐間……どうやら君には、お仕置きが必要みたいだね」

「え……」

 その言葉の意味を理解する間もなく、葉純さんは表情ひとつ変えないまま、すっとベッドの上に膝をついた。そして四つん這いの体勢で、ゆっくりと、獲物を奥へ追い詰めるようにして羽佐間に迫ってくる。「ちょ、ちょっと待って」という言葉もガン無視。慌てて後ずさるが、狭いベッドの上ではすぐに逃げ場がなくなってしまい、背中が硬い壁にぶつかり、鈍い音を立てる。

「待ってって、五十嵐さ――」


 言い終わる前に、視界が塞がれた。

 いきなり顔を胸部に押しつけられる。柔らかな感触……などというものは一切なかった。あるのはただ、容赦ない圧力だけ。まるで身体ごと胸にめり込ませようとするかのような、強烈な力。「痛い! 痛いですって!」と必死に訴えるが、葉純さんの腕は微塵(みじん)も緩まない。

 息が詰まる。視界は完全に暗闇で、これは拷問かなにかと疑ってしまう。胸の柔らかさだのなんだのといった感触を味わう余裕など、ちっともありはしなかった。ただ痛い。ひたすらに痛い。

 そして、頭上から降ってくる、凍えるような声。


「来るなと言ったはずでしょ! なのに、どうして……」


 つかんでいた手が、ゆっくりと力を失ってほどける。 葉純さんの目元と頬には、涙の透明な線が出来上がっており、それが部屋の照明を反射して光っていた。羽佐間は、その顔をまともに見られなくて、胸の奥が焼けるようで、息が詰まる。あの行動は精一杯だった。怖くなかったわけじゃない。ただ、立ち上がらなければならないと思った。動かなければいけないと思った。それが自分の役目だと信じていた。

 けれど結果は、葉純さんをひどく心配させただけだった。

 

「心配してくれるのはうれしいです。でも、彼氏として、あのまま黙って……」

「死んだら何も守れないよ!」


 他ならぬ死人である葉純さんに言われてしまい、羽佐間はシーツをみながら押し黙るしかできなかった。視界の上の部分では、白い手がギュッと握られ震えている。

 単純に立ち向かったことだけに怒っているわけではなく、助けられなかった自身のふがいなさも一緒に感じているように見えた。


「私と羽佐間は、どうあがいたって違うんだよ。君は生者で、私は死者。太郎もた太郎もあた太郎も、死者なんだ。それだけは、どんな奇跡が振り注いだって覆ることのない事象。わかるよね?」

 なんて言葉を使いながら、葉純さんの顔はその事象に一番苦しんでいるように見えた。優しく両手を頬に当ててくる。その冷たさも相まって、反対意見なんて言えなかった。羽佐間のおでこが、優しく葉純さんのおでこに導かれる。

「だから……もう無茶なことは」

「……わかりました……」


 言葉を交わしたあとの沈黙は、どこかやさしく、そして、苦かった。二人の間に流れる空気は冷たく、それでいて確かな温もりを内に宿していて……葉純さんのおでこがゆっくりと離れていく。その余韻が肌の奥にまで残った。 葉純さんは小さく息をついて、ほっとしたように微笑んだ。張りつめていたものが少し解けたのだろう。その笑顔は不安定で、美しく、まるで戦火の荒野にひっそりと咲くデイジーのようだった。

 羽佐間の胸が、とくんと鳴る。こんな顔を、こんな瞳を、曇らせていたのか。罪悪感が喉の奥を締めつける。自分の行動は葉純さんを守るための勇気だったはずだ。けれど、それは本当に『勇気』と呼べるものだったのだろうか。正しさに縛られた自己満足を、押しつけていただけではないのだろうか。

 だいたい、葉純さんに言われたとおり、あの場で燐音を抱えて逃げていたとしたら、少なくとも迷惑をかけずには済んだだろう。役に立ちたいなんて出しゃばったばっかりに捕まって、あんなことに……


「……そうだね、羽佐間にはそろそろ話したほうがいいかもしれない」

「?」

 難しい表情をしながら葉純さんが言う。するとここまで傍観を貫いたた太郎が露骨に取り乱した。

「い、いいんですか? まだ時期尚早って」

「いや、いい。それにあんなのをみちゃったら、説明されないと羽佐間が不安がるだろうから」

 あんな奴とは桜の木の少女のことだろう。葉純さんたちのような幽霊とはまた違う、この世ならざる存在。

「……『キズ』は、もう癒えたのかよ」

 ボソッと太郎が小声で喋る。

「…………」


 葉純さんは何も答えなかった。言葉のかわりなのか表情に陰が落ちたように見えたので、そういうことだと思う。少なくとも今は聞けるような雰囲気じゃなかった。

 気分を正すためか葉純さんは、崩れかけていた足を丁寧に折る。正座の姿勢を整えてから、キリッと締まりのある目つきで見つめてきた。羽佐間も影響され、それにならう。


「羽佐間」

「はい」

「ウソかもしれないけど……これから話すことは全部ことだから、茶化さないで聞いてほしい」

「今までオレが茶化したことってありましたか?」

 むしろ茶化すことは葉純さんの特技のようなもの……という言葉をなんとかして飲み下す。

「聞いてくれる?」

「……聞く以外の選択肢なんてないじゃないですか」


 フフッとほのかに笑ったあと、静かに、それでいて一つ一つの言葉をかみしめるようにして話しはじめた。

 まず結論として、今日目撃したあの化け物は『アクリョウ』と言うのだそうだ。

 羽佐間のイメージとしては、一人の人間が強い負の感情を持ちながら死んでいった成れの果てかと思っていた。しかし実際は少し違うらしく、負の感情まではあっているのだが、そこにもう一つの要素が絡んでくると言った。

 名は、『ジャキ』という。

 身体を構成しているのは主に人間の恐怖心や悲しみ、要するに負の感情で、現在七割から八割以上の心霊現象や超常現象は、すべてそのジャキによって引き起こされているらしい。つまりは、だ。現象にほぼすべて、|死者そのものは関与していない《・・・・・・・・・・・・・・》。やつらは『模倣』しているだけなのだ。生者の負のイメージを読み取って。

 例えば廃虚で殺された人の霊、理不尽な事故で死んだ人の霊などと、あたかも世間一般でいうところの死者の怨霊になりすましていると言った。もしくは、生者のイメージを映し出していると言うべきだろうか。そこはハッキリしていなかった。

 ヤツらの特徴として、単体では大して力はなく、むしろ無力。せいぜい人を驚かす程度にとどまっているのが現状。

 しかし――|幽霊を捕まえて取り込めば《・・・・・・・・・・・・》話は別と、葉純さんは言った。

 それまでジャキというのは、姿形が定まっておらず、文字通り空気のような存在だった。けれどもその空気が手を持ち、足を持ち、胴体と顔を持つ。もしくは取り込んだ幽霊がもっとも印象にのこっている存在になり変わると言った。桜の木は、自殺した少女にとって強力に印象づけられたものだったのだろう。それを利用されてしまい、あんな化け物が出来上がったというわけだ。

 た太郎の『被害者』という発言は、そういうことだったのか……

 

「つまり、今日目撃した桜の木って、ジャキが幽霊を取り込んでアクリョウになった姿ってわけですか」

 話をそのままなぞったらそういうことになる。でもだとしたら、カラスはなんだったのだろう。アクリョウになったから戦闘にでも特化したのだろうか。これは安倍晴明みたいな人でもいないと怖すぎていつしか表を歩けなくなってしまう。

「もうちょっと詳しく言えば、受け入れがたい事故、病気、もしくは自殺で死んだ魂、それらは高確率で恨みや怒り、悲しみなどの負の感情で埋め尽くされている。奴らはそんなかわいそうな魂が大好物なんだ」

「じゃ、じゃあ、あの、少女は……」


 首を絞められて脳に酸素が行かなくなっていくあの感覚……できればもう二度と味わいたくなんかない。でも、それよりも、きっと苦しい思いをしたのはあの少女で……

 そこで羽佐間は思い出す。自分が自殺しようとしたとき、葉純さんはアクリョウになってしまうことを止めてくれたということになるじゃないか。感謝の念がむくむくと湧き上がってくる。そのことについてお礼の言葉を述べたものの、葉純さんの受け答えは不確かなものだった。


「あ、ああ。それも(・・・)、あるね」

 一瞬だけ、眉間の間が狭まった。奥歯に物が挟まったような言い方。

「それも? ほかにもなにか」

「…………」


 やや口元をへの字に曲げ、目を伏せている。漏れ出るオーラから聞かないでくれと言っているようなものだった。太郎たちでさえ事情を分かってないのか葉純さんの顔を見ている。

 静寂が長くなると一層苦しげな表情をするので、羽佐間から話題を始めることにした。


「そ、そういえば、今まで葉純さんと太郎たち以外で幽霊の存在を見たことがなくて。ど、どうしてですかね? ははっ、オレは今の体質になったらもっと身近……」

 言葉の途中だが、羽佐間はきり上げた。そうするしかなかった。なぜなら喧嘩のときや、桜の木に襲われたときでさえ泣かなかった葉純さんが、初めて見えるように涙を流してきたからだ。すぐに「ご、ごめんなさい!」と謝ったのもつかの間、

「羽佐間テメェ! 人の心ドブに沈めたんかワレェ!」

 任侠映画でしか見かけないような血気盛んな顔つきで大喝された。

「いやバカ面下げてションベン撒き散らしてたお前はどこ行ったの!?」

 羽佐間は怒りより先に、太郎の態度のかわりように動揺を隠せなかった。葉純さんやアクリョウの件に敏感すぎる。過去に一体なにがあったのだろうか。喧嘩しているところがよほどに見苦しかったのか、葉純さんが「いいから!」と間に雷を落とした。

「いいから……いずれそのことも、羽佐間に伝えないといけないからね」

「で、でも、『お守り』があるから必要ないんじゃ」

 (おび)えるようでもあり、(すが)るようでもある表情でた太郎が葉純さんに問いかけた。

「……力は、永遠じゃないからね……」

 

 心臓がある位置に両手を重ねる葉純さん。羽佐間はまるで話についていくことができなかった。まず葉純さんにどのような過去があるのか? それは以前にも疑問に思ったことだ。話を終始一貫して動かずに聞いていたあた太郎も、このときばかりはその行動に妙な説得力があった。

 少なすぎる幽霊の理由は? 葉純さんの涙の理由とは? お守りとは何か? 分からない。分からない。分からないことだらけだ。


「あ、あの、五十嵐さん」

 ゴクリと合図のように喉を鳴らし、居住まいを正す。一応髪の毛の寝癖を治した。

「なに?」

 だから、これから、知っていかなければならない。

「オレって、まだ彼氏になったばっかで、でも、立派には程遠くて。おまけに五十嵐さんのことなんてほとんど知りません。知りたいという気持ちはあるけど……それ以上に、怖いんです。

 もし今の関係がこじれてしまったら……ちょっとした言い間違いやすれ違いで、壊してしまうことがあったらって。そんな、考えが、夜眠る直前に思い出されて……苦しいんです。

「…………」

 葉純さんは表情の時が止まったかのようにピクリとも動かさなかった。

「でも……このままじゃダメってことは、死ぬほどわかってるんです!! だから五十嵐さん!」

 自身の言葉の重要性をアピールするために、羽佐間は葉純さんの両肩をつかむ仕草をしてみる。効果はてきめんで、普段がしない動きにビビったのかパチリと大きく目が見開かれた。

「いつか、必ず教えてください。なんとか心を整理して、話せるようになってください。それまでにオレは、それを受け止める準備をします。あいにく不器用ですから、結構時間がかかると思います。それでも、準備します。

 オレは、五十嵐さんの彼氏ですから」

「……!」


 さらに大きく目を見開かれたかと思ったら、次の瞬間、葉純さんはふっと柔らかく笑った。咲きたての緑葉のような自然な笑みで、緊張していた空気が少しだけ和やかになる。

 そして――ほんの一瞬のことだった。

 それはまるで何気ない仕草の延長のようで、言葉も予兆もなかった。

 顔が近づいたという認識さえ遅れて、唇に触れた温もりが何であるかを理解したときには、もう離れていた。

  今のが『キス』だったのだと気づいたのは、ほんの数拍遅れてからだった。ファーストキスの時のように頭から湯気が立ちのぼる。


「い、いいいいいい五十嵐さ……」

 また気絶してしまいそうなったその刹那――別の気絶要素が挟み込まれた。

「死ねや糞ボケェェェェ――――ッッッ!!」

 いきなり太郎がふくらはぎに噛みついてきたのだ。羽佐間はションベンを毎度かけられているせいか油断していた。まさかちゃんとしたダメージとして身体に蓄積するとは思っておらず、リアルに二、三センチ飛び上がってしまう。それでもまだ噛みついてる太郎を、足でなんとか引きはがすことに成功した。

「何すんだいきなり!」

「うるせぇ! 俺様は最初からずっと認めてないんだよ。オメェみたいな腰抜けが兄貴の彼女を名乗ることをよォ」

「……っ!」

 いつも通りバズーカ砲をお見舞いしようと思った手が止まった。

「アクリョウに襲われたとき、オメェは何をしていた? ずっとビビってばっかで、いつションベンがちびらないのか心配してただけじゃねぇのか?」

「ち、ちが……」

 最後はちゃんと闘ったし……なんて不体裁なことは言えなかった。あれは、立ち向かったというよりやられにいったという表現が妥当だろう。

「とにかく! 俺様が言いたいことはなぁ……」

 太郎は互いの鼻がぶつかる距離まで近づいてから、

「その彼氏の称号、重くないか?」

 と心の一点を精密に、精確に針でつつくような言葉をぶつけてきた。

「…………」

 

 なにも言い返せなかった。

 太郎の言葉をかけられなかったら、ずっと自分は腰が抜けたままだったかもしれない。「だいたいお前は……」と太郎の説教が続きそうになったその時、見かねたのかた太郎が太郎の尻尾に噛み付いた。いたがる太郎を無理やり引っ張るようにして、無理やり部屋の外へ連れていく。完全に姿が見えなくなる直前、最後のセリフとして「リア充は、お前だけ爆発だー!」と羽佐間に呪いの言葉を吐いていった。ついでにあた太郎も、音もなく壁を貫通してドロンする。


「……気にしないでいいよ。イジメっ子を相手にするときとはわけが違うんだし」

 抱きしめられながら、じんわりと雪が肌に染み入るみたく言葉が響く。それが逆にあの現場で無能だった自分を想起させて悲しかった。

「すみません……」

「謝らないでよ。結果は別として、最後に立ち向かっていった羽佐間の姿、漢らしかった。腰抜けなんかじゃないよ」

 違う、そんなかっこいいものじゃないと否定したい気持ちが薄められていく。少ししかないリンゴジュースに、たっぷりと水を注がれていくみたいに。わずかしかない色彩が、透明になっていく。羽佐間はただ、「ありがとうございます、五十嵐さん……」としか言えなかった。言えなかった。言えなかった……

「葉純」

 身も心も透き通りかけた頃、葉純さんがなぜか急に自分の名前を言ってきた。

「え?」

「え、じゃない。そろそろ何で五十嵐さん呼びなのかツッコもうと思ってたところなんだ。だから今後は葉純呼びにすること」

「いや、それはちょっと……」

「呼びなさい」

「いや、心の準備……」

「呼びなさい」

「じゅ、準備……」

「呼・び・な・さ・い」

 かわいすぎるジト目で見つめられ、鏡で見なくても耳と頬が赤く染まっていることがわかった。

「葉純…………さん」

 今度は気絶しないように肩を震わせながらこらえる。

「さん付け禁止」

「ハスミン」

「ジャスミンみたいに言うなし」

「ハスミッチ」

「た◯ごっちみたいに言うなし」

「ハ◯次郎」

「は◯かっぱのパクリじゃないか!」

「いきなり呼び捨ては厳しいですって! せめて葉純さんにさせてください! お願いします!!」


 渾身の土下座のポーズをエクスプロージョンさせると、やれやれとため息を吐かれてしまう。無様なのは重々承知だ。だが名前呼びというキリンのような高いハードルゆえに、譲るわけにはいかない。

 腕を組みながら逡巡(しゅんじゅん)した葉純さんは、「しょうがないなぁ」と言葉を渋々引き出した。羽佐間はよかったと心の平穏を手に入れたが、それは両手で頬をつかまれ、グッと持ち上げられたことで、ものの数秒でゲリラ豪雨に見舞われてしまう。


「禁止!」

 主語なくいきなり言われても困る。

「……なにをです?」

「それ! タメ口!」

 自分はただ人生の先輩に丁寧な言葉遣いを……なんて言い訳を並べ立てたところで不興を買うだけだと思い、素直に従うことにした。

「わかりました」

「わかってないじゃん!」


 頭で承知しても身体が追いつかなかった。気を取り直して葉純さんの指示の意味を理解し、「わ、わかったよ」と訂正する。ぷくっと膨らませた頬が、空気を抜かれたようにもとに戻った。別に空気入れたままでも良かったと思うけど。

 そのままくるりと背を向けて葉純さんは、部屋をあとにしようとする。羽佐間はてっきり胸中では機嫌を損ねたのかと手を伸ばそうとしたら、その前に聞こえた言葉が動きを停止させた。


「大丈夫だから」

 背中を向けられたまま言われた状態じゃ説得力に欠けると思っていたら、

「いつか必ず、話すから」

 必ず、という部分だけは特段語気が強く聞こえた。

「いが……葉純さん」

「だからそれまで――死なないでね?」

 葉純さんは夜の彼方へ飛び去っていった。カーテンが夜風に吹かれてふわり、空気と戯れた。

「……!!」


 この瞬間に、少しだけ涙が溢れたのは、今の葉純さんとの関係や仲直りしてきた燐音との関係が、死という絶対零度の運命によって崩れ去る未来を想像したからだ。

 怖い。涙が出るほど、怖い。

 初めて会った頃は永遠になるなんて名目で死のうとしていた人が、いつの間にか死を恐れるくらいまでには成長できた。いや、戻ってきたというべきか。

 ――よくやった、オレ。

 ――おかえり、オレ。

 ここから再出発(リスタート)だ。志村羽佐間の人生は。

 人生はリセットボタンを一度しか押せないし、押したら最後、二度と選択前に戻ることはできない。

 でも――スタートボタンなら何度押してもいいと、そう教えてくれたのは、ほかでもない……


「葉純さん、か」

 口にして、羽佐間はクスッと笑った。昔は針に糸を通すように難しかった笑顔も、今ならスレダーに糸を通すように簡単だ。ちょっと照れくさいけど、それ以上に相手の心を、自分の心を、癒やす魔法の武器みたいに思えた。

「葉純……」

 誰もいない部屋で口にすると、まるで背中に大量のうじがたかったかのようにむずかゆくなって、たまらず布団に潜り込んだ。かなりの興奮状態で幽体離脱の条件忘れており、スポンと脱皮するように肉体と霊体が分離してしまった。

「あ、ああ、あああ、ああああああああああ!!!!」

 

 恥ずかしさを紛らわすために叫んだ。声は現実世界で響くことはないから別に構わないが、もしかしたら遠くで葉純さんさんが聞いているかもしれない。しかしそんなことを気にしていられる精神じゃなかった。

 恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい。

 でも、それ以上に、

 嬉しくて、

 楽しくて、

 すっごくすっごくすっごく――大好きだ。


    *


 肝試しから二週間が経ち、時期は六月の上旬。気温は勾配を全速力で駆け上がるがごとく上昇していた。

 これから始まる、夏の季節が。

 窓の外にまだ淡い朝の光がにじんでいた。薄いカーテンを透かして差し込む光が、ローテーブルの木目をやわらかく照らしており、ベッドがやわらかくきしみ、その音で羽佐間は本格的に目が覚める。静電気を七十パーセントほど含んだような頭で部屋を出ると、トーストの焦げる香ばしい匂いが廊下に漂っており、一階に降りると匂いはさらに強くなった。湯気を立てるトマトスープ、みずみずしいレタス、白い皿を映えさせるオムレツが食卓に色彩を与えている。

 台所では母がフライパンを動かしていた。油の弾ける小さな音に混じって、テレビのアナウンサーが今日の天気を発表している。羽佐間は朝特有の半分ほど魂が消失したかのようなほうけた顔で椅子に座ったあと、言葉だけはハッキリとした語調で、一足遅れて母も同じ語調で、


「いただきます」

 と言った。バターが塗られたトーストは、食堂の明かりを反射してキラキラと光っている。思いっきりかじりつくと、ジュワリと脂のうまみと塩気のバランスがちょうどよく、最高に美味(マリアージュ)だった。

「トマトスープ、手作りなの」

「そうなの?」

「そうなの」

 何気なく、気兼ねなく言葉を交わし合ってから、トマトスープに手を伸ばしていく。酸味やさいの目切りされたトマトの食感を感じつつ、鶏ガラやブイヨンなどで調えられた味は店で出されるメニューとして紹介してもなんら恥ずかしくないクオリティだ。

「ん? これって……」

 オムレツを箸で割って気づいた。半熟の黄色が白を染め上げたことに並行して、またしても白で染め直している? いや違う。これって……

「気づいた? 実はなかにチーズを入れてみたの。どうかな?」

 母の言葉は三割ほどしか聞いてなかった。手を付けてすぐに卵が口内で行方知れずになってしまう。

「……まぁ、いいんじゃない」

 と言いつつも箸はご飯がス◯ムくんくらい進んでしまい、あっという間に食べ終えてしまった。クソッ、もうちょっとペース配分を考えるべきだったのに。「ごちそうさまでした」と食堂をあとにする際、スッと呼吸するようにして言葉が出てきた。

「夕飯も、期待してるから」

 背を向けて自分の部屋に戻ろうとした際、後ろから「お母さん頑張るね!」とエネルギッシュな言葉をかけられた。その後制服を着たり顔を洗ったりと準備してから玄関行くと、

「あっ、」

「あ……」

 

 声が重なった。

 いつもそうだ。二週間も経ったというのに、いまだに慣れるビジョンが見えない。向かい合ったまま、二人の間に宙ぶらりんな言葉が落ちる。どちらも譲る気配がなく、しかし続けるにも気まずい沈黙が流れた。

 微妙な空気をほどこうと、羽佐間が「どうぞ」と先を譲る。けれど、それも同じタイミングで燐音の口からこぼれ、またぶつかってしまった。


「……やっぱり、まだ慣れないね」

「……そうだな」

 お互い視線の終着点がわからなくなり、小さく笑うしかできなくなっていた。

「それ、いつも付けてるよね(・・・・・・・・・)……」

「あ、ああ、似合ってる、からな」

 羽佐間は腕をさすった。本当は綺麗だからとか大切な親友から貰ったものだからとか言いたかったのに。気恥ずかしさが邪魔をして、自分がナルシストみたいな発言をしてしまった。

「羽佐間くんは嫌じゃない? わたしと登校するの。なんだったら、前のように別で――」

「いきたい!」

 逃さないとでも言いたげに、やや強めの力で手を両手で握ってしまう。似つかわしくない行動をしてしまったせいか、燐音の顔面温度が急上昇した。

「へっ、へへェ!?」

 聞いたこともないような珍妙な声を出した。紅潮した燐音に気づかず、羽佐間は爆弾と比喩しても間違いではない言葉を投下していく。

「ほかでもない柏木燐音と、一緒にイきたい!」


 口にした瞬間、驚くほどの大声だった。

 その宣言が空気を震わせると同時に、燐音の顔は朱から朱朱に進化した。目を丸くしたまま、アワアワと何か言いかけては口を閉じ、羽佐間の背後を慌てたように指さした。

 つられるように振り向くと、そこには左頬に手を当て、口元に笑みを浮かべながら、いかにも見ちゃったわよという表情をしている……母が立っていた。


「あらあらまあまあ」


 とやけに軽やかな声を出し、洗面所へと小走りで消える。扉を閉める直前、ファイト! とエールを送ったつもりなのかガッツポーズを見せてきた。

 羽佐間は一瞬、その言葉の意味を考えた。どうしてあんなに嬉しそうな顔をしているんだと首をかしげた途端、自分の発言の浅はかさにようやく気づく。 全身の血が逆フリーフォールのように一気に頭へとのぼり詰め、なんとか弁解をと思い燐音の方へ視線を向ける。

 羞恥で頬を震わせ、眉をきゅっと寄せて怒りを表現していた。

 ヤバい! ()る! と思ったものの、ときすでに遅し。

  ――ゴツン。

 強烈な衝撃が額に走り、星が弾けたような感覚だけが残った。倒れる直前、燐音の耳がバカみたいに赤かったのが印象的だった。


    *


「いつつ……何もそこまでしなくても」

 

 額を押さえながら、廊下をとぼとぼと歩く。確かに発言はところどころ齟齬(そご)があったかもしれないが、だからといって今どき頭突きなんて流行っているのはイノシシくらいだろう。じゃあ、燐音は、実質イノシシ……? これ以上は名誉のために伏せておくことにした。

 教室の前に立ち、引き戸に手をかける。静かな音を立てて開けると、室内のざわめきが一瞬で止まった。 数十の視線が一斉にこちらへ向く。誰も言葉を発さない。ただ、羽佐間の顔を見て、小さく息を飲むような空気だけが流れた。

 息苦しい。

 できるだけ無関心を装いながら、席へと歩いた。アウェイ感はいまだに払拭できていない。椅子を引く音がやけに大きく響く。座って深呼吸をひとつ。外の風に救いを求めるように、窓の外へと視線をやった。雲がゆっくり動いていた。それと同期するようにして梢が見えないほど高い木がふかふかと揺れている。ネットで見たのだが、ことわざで『一樹の蔭一河の流れも他生の縁』という言葉があるらしい。この世で起こるすべての出来事や人との出会いは、前世からの深い因縁によるものであり、大切にすべきであるという仏教の教えを表すことわざらしい。見知らぬ者同士が偶然同じ木陰で雨宿りしたり、同じ川の水を飲んだりするようなささいな出会いも、すべて前世からの縁によるものだとかなんだとか。

 ――もしかして、オレと葉純さんは……なーんて、そんなファンタジーはお断りだ。そうでなくても幽霊やアクリョウがいるこの世界、もう十分満たされている。これ以上はおなかいっぱいだ。


「は、羽佐間くん、おはよう」

 話しかけてきたのはクラスの委員長。クラスでは唯一先生と並んで朝のあいさつを言ってくれる存在だ。

「お、おは、よう」

 今回が初めてしゃべったわけじゃないのに、クラスメイトは毎回丁寧に驚くリアクションをするので、羽佐間もだんだんイライラしていた。名前も知らない男子生徒が「お前口あったのかよ」とバカにするかのような口調で言ってきたが、構わずスルーする。

「そ、その腕に付けてるの、自分で買ったの?」

「い、いや、これは……」

 わけも分からず立ち上がってから羽佐間は、大事なそれを見せつけるように、

「友達から、もらったんだ」


 と言った。腕には――誕生日プレゼントとして渡されたミモザのブレスレットが装備されている。

 サンフラワー色のつぶつぶがまるで宝石のようにまぶしい。そこに時折挟まれる透けるような薄緑色の装飾もグッドだ。結構高かったんじゃないだろうか。

 委員長とクラスメイトは唐突に立ち上がったことで恐れ慄いたのか、それ以上会話を広げることはなかった。視線を乱反射させている。やがてさっきの羽佐間の言葉がなかったかのように、各々は雑談を再開していった。


「…………」


 まぁ、仕方ないよな。

 二年以上クチナシを貫いてきたのだから、むしろ存在を認知してくれるだけでも儲けもんだ。

 今はもう、一人じゃないから。

 まだ葉純さんや燐音と話しているときのようにうまくはいかない。けれど……

 これから、変えていけばいいだけのこと。

 ここから、ここから、

 自分には、その時間がある。

 どこからやってきたのか、鳥が朝日に向かって飛び去っていくのが見えた。鷲のように大きく、鷹のように凛々しいその姿をみていると、まるで|誰かの後ろ姿に似ている《・・・・・・・・・・・》ような気がして……


 ――どうして目の前に現れたんだ! どうして邪魔をするんだ! オレの人生だぞ!! 好きに、させてくれよ……

 葉純さんに初めて会ったとき、生きる意味がわからなかった。イジメっ子に殴られ、蹴られ、燐音からは裏切られたと一方的に思い込み、終いには永遠になるなんて幻想に取り()かれて……屋上に行った。

 ――当然だけど、初めて会ったときとは成長したね。ちょっと男らしくなった? 身長もグンと伸びたし、肩幅も広くなった気がするよ。


 そこで……五十嵐葉純に逢えた。

 そしてその日のうちに、中学二年の頃から密かに温めていた初恋が叶ったんだ。翌日にイジメっ子と乱闘したり、森で迷子になったり、振り返ってみれば、ホントに波乱万丈な日々だった。二週間前の夜に至っては死にかけたのだから、もうあんな体験はごめん被る。

 でも、悪くはなかったな。

 そういえばだが、彼氏彼女の関係になってくれたのは恋愛感情の他に、自分の幽体離脱してしまう体質を治すためでもあるんだ。ゴタゴタしていて今日まで忘れていた。

 でも、その先は? 

 万が一治ったとして、その後は? 

 もしそれが原因で、葉純さんが視えなくなってしまったら……


「嫌だな……」


 葉純さんとの思い出が、目にも止まらない速さで巡っては(まぶた)の裏ではじける。今になって走馬灯でも見ているような気分になった。

 羽佐間、羽佐間、羽佐間……と、今まで名前を呼ばれた回数は数え切れない。その姿は笑顔だったり、イジるかのように唇をゆがませていたり……思い出すと口元が心外にも緩んでしまう。だが、対照的に頭の中は冷え切っていた。

 どんどん、『好き』が増えていく。

 思い出が積み木のように一つ、また一つと重なっていく。もちろんそれは悪いことじゃなくて、他にも母と仲直りできた。燐音とも仲直りできた。ちょっと前の自分のありさまからえらく様変わりしたものだと思う。面と向かって直接言えないが、太郎たちと知り合えて……悪くないと思っている。

 けれどもふとした瞬間、怖くなるのだ。

 それは葉純さんのことを知りたい気持ちと、現状が変わる恐れから知りたくない気持ちが五分五分で存在しているように、ふとした拍子で積み木が崩れてしまう恐怖が、常に隣り合わせにあるのだ。好きをたくさん抱えるということは、それだけ憎しみや失望の可能性も抱えるということ。もしも、万が一にも、不測の事態としてそのようなことがあったとしたら、正気を保っていられるのだろうか。そしてそんなとりとめのないことを考えていると、身体の中にいるもう一人の自分がいつも問いかけてくる。

 これから先も、うまくやっていけるのか? と。

 また桜の木のような化け物に出会ってしまうかもしれない。前回はなんとかなったが、次は……


 ――私と羽佐間は、どうあがいたって違うんだよ。君は生者で、私は死者で。太郎もた太郎もあた太郎も、死者なんだ。それだけは、どんな奇跡が振り注いだって覆ることのない事象。わかるよね?


 そんなことはわかっている。だからこそ、いずれ、サヨナラしないといけないことも……わかっている。わかっているんだ。

 仕方ないこと、仕方ないことなんだ。

 ――永遠なんてものはなくて、よくできたお人形遊びをするようなもので、それに身をやつしているオレは……なんと愚かなんだろう。そうだ、そうじゃないか!


「サヨナラ……だけ、が……」


 パァン! 

 直後、教室内に大きな風船を破裂させたような音が響いた。クラスメイトの目線が再度集中する。その先には……志村羽佐間。

 近くにいる人なら分かるが、うっすらと片側の頬が薄ピンク色に腫れている。なぜなら、自らの手で自分のをはたいたからだ。

 うっすらと涙の膜が張ったのを手で強引にこする。そして怖がらせた謝罪の意味を込めるように、自然な笑顔を浮かべてから、


「ごめん、気合入れ直しただけだから」


 と言った。挨拶のときとは違い、一切の迷いのない澄んだ口ぶり。クラスメイトは一様に(いぶか)しんできたが、「そっか……」や「お、おう……」などと、とりあえず言葉は返してくれた。これって成長かも?

 羽佐間は深呼吸をしてから、今度は心のなかで先ほどの言葉つきをまねるようにして放った。


 ――オレは、葉純さんのことが好きだ。

 

 葉純さんの低い声が好きだ。

 アメジストのような妖しく光る目が好きだ。

 透き通るような首元が好きだ。

 白く反射する足が好きだ。

 小悪魔のようにイジってくれるところ好きだ。

 空気が読めないときがあるが、それ以上に自分のことを第一に考えてくれているところ好きだ。

 葉純さんを構成する、そのすべてが好きだ。

 この世界にいてくれるだけで尊く、またこの世界で笑ってくれるだけで、真夜中でさえ真昼に変えてしまうくらいに燦然(さんぜん)たる存在。それが、五十嵐葉純だと思う。我ながらちょっとキモいな。とはいえ、そうなってしまうほどに魅力的だと言いたかった。

 今はそれだけ考えていればいい。問題は二の次。

 どうにもならない未来のことを考えて落ち込むより、どうにかなる今のことを悩むべきだ。今日までなんとか生きてこられたんだから、きっと、うまくいくはず。

 たぶんね。

 引き戸が開かれ、先生が入ってきた。姿を確認した日直の生徒が、「起立!」と言うと、一定数のクラスメイトがゆらぁりとだらしなく立ち上がる。しかし羽佐間は、まるで天井から釣り上げられているかのようにして、真っ直ぐに床を二本足で踏みしめた。

 今日も今日とて、退屈な時間が始まる。でも、それでいいと思う。

 これは持論なのだが――人生とはほとんど自殺と一緒ではないだろうか。自分を責め立てて、傷つけて、他人を傷つけて、仕返しとして傷つけられて、卑屈になって、いい加減になって、身体にガタがきて、最後は病院のベッドで肉の塊になる。

 でもそれって、あまり珍しいことじゃないと思う。人間って完璧じゃないし、成功より失敗の方が多いと思うし、後悔だって同じことが言える。

 だから――|一通り後ろを向いたその後で《・・・・・・・・・・・・・》、もう一回前を向くんだ。

 もう一回だけ。

 もう一回だけでいいから。

 ずっと前を向いたままでは、身体が休まることはない。 たまには立ち止まって……後ろを振り返って……自分の道程を褒めなくてはいけないと思う。

 そうでなければ失礼だ。その道の……その不格好で、どうしようもないほどに曲がりくねった道のおかげで、今の自分がいるのだから。

 過去をなかったことにはできないし、したくない。どんなに曲がってても、間違えてても、結局は自分で、自分は自分にしかならない。なれない。今の自分は、そんな過去からの贈り物……と言ったところか。

 要は考え方次第。あの時命を捨てようとしたことで、逆に生きてて良かったというエネルギーになったことを感じる。それがすごく嬉しい。誇らしい。


「そろそろ授業を始めます。〇〇さん、号令を」

「はい! 気をつけ!」


 威勢のいい日直の声と連動して、クラスメイトがだらけつつも姿勢を正す。羽佐間はもとより正しているので問題ない。だがあえて、もっと背筋を伸ばすことにした。これから続くであろう物語に、人生に、思いをはせるように。あるいは、届くように。

 ――いや、今のオレにはもっとふさわしい言葉があったじゃないか。いつの日か葉純さんが言ってくれた言葉。それは……


「『青春』、かな……」


 謳おう、アオイハルを。

 謳おう、今この瞬間を。

 セイシュン短し、満喫せよ若人。

 教室内に号令がどよめいた頃、羽佐間は心のなかで一人ごちた。窓から快い風が鼻先をかすめていった。


    *

 

 思い切って燐音に昼食を誘ったときは、我ながらとんでもなく大胆なことをしたなと自画自賛した。羽佐間の声が上ずっていたのは内緒だ。

 なにか一瞬だけ考えるように目を伏せた燐音は、複雑そうな表情をしながらもOKしてくれた。「先に行ってて」と言われ、一人待ち合わせ場所の屋上へと歩きだしていた。

 もはや通い慣れた屋上の重たい扉を開けると、ヒュウウと夏の始まりを思わせるような生暖かい風が制服の裾を揺らした。遠くに見えるビルが陽光を反射して真白色に輝いていた。

 真白色。

 フェンス際まで歩み寄って腰を下ろし、弁当箱を広げた。豚の生姜焼きの香ばしい匂いが広がる。ふわふわのスクランブルエッグに、彩りを添えるピーマンの緑。そしてチキチキボーンの茶色。箸を持ったまま、ふいと屋上の扉に目をやる。燐音は来るだろうか。胸がいささか高鳴る。

 そのとき、金属の音を立てて扉が勢いよく開いた。殺人鬼から逃げたきたのかと思うほどに息を切らしながら現れた燐音は、頬にかかった焦げ茶色の髪が汗で湿っている。

 

「ど、どうした? まさかお腹を空かせるために、わざと走ってきたのか?」

「ち……違う……これ……」

 今になって気づいたが、燐音の右手にはコンビニ袋が握られており、ゾンビのようにふらふらとした足取りで羽佐間の近くまで歩くと、袋を上下逆にして中身をぶちまけた。

「つぶあんどら焼きにエクレア、きなこもちにロールケーキ……DEATH辛麻婆豆腐!? まさか、近くのコンビニまで走って」

 先に行っててとはそういうことだったのかと驚嘆の表情を浮かべた。それを見てしたり顔の燐音は、少し間隔を空けた位置に座る。

「約束……したからさ」

 燐音が少し照れくさそうに笑いながら言った。その笑顔だけで、羽佐間の胸のあたりがほんの少し温かくなる。二人は昔のようにコンビニスイーツを分け合っては、さながら審査員のように時には厳しく、時には甘く評価した。

「これ、クリームが軽くていいな。甘さも丁度いい」

「でも生地がちょっとパサパサしてない?」


 そんな他愛もない言葉を交わしながら昼休みは、刻々と過ぎていった。あ、麻婆豆腐だけは全部食べてもらった。匂いだけでも鼻が蝶々結びにされたようだった。

 ひとつだけ失敗したことがあるとしたら、スイーツがあまりにもおいしくて、持ってきた弁当に全く手を付けなかったことだ。おかげで生姜焼きのしょっぱさと、エクレアのカスタードクリームの甘ったるさが絡み合って気持ち悪かった。

 品評会は問題なく進行し、小さじ一杯分の名残惜しさを残しつつ終了した。上機嫌な顔つきをしている燐音の顔を眺めていると、スイッチを切り替えたかのように引き締まった顔を向けてくる。おそらく一番気になっていることを訊くのだろうなと感づき、受け止める体勢を整えた。


「いいの? 葉純さんと一緒じゃなくて」

「そうしたいのは山々なんだけど、実は三日前からずっと行方不明なんだ。どこに行ったんだか」

 なんの危機感一つ帯びていない羽佐間の顔をみて、身を乗り上げるほどにびっくりする燐音。

「ええ!? 大丈夫なのかそれって!? まさか何かあったんじゃ……」

「それはないと思う。葉純さんとは会わないけれど、太郎たちはよく見かけるんだ。今朝も見かけた。ルーティンみたいに街で見かけた女の子にションベンひっかけてたし、た太郎は太郎のことを蹴り上げてたし、あた太郎は……」


 羽佐間は目線をうえに上げると、昼の光に照らされた塔屋の影に隠れるように、犬の指球が見えた。今日も今日とて、首から上がお留守だ。燐音は初対面ではないはずだが、またしても覇王色の覇気を食らったかのように気絶しかけた。

 床に倒れる直前、際どいところで身体を受け止めることに成功する。遅れて燐音がおぼろげに目を開け、「ありがとう」と息のように言葉を漏らした。

 いつかはあた太郎のこともわかる日がくるだろう。根拠はないが、確信に限りなく近いものを感じた。葉純さんのことが色々分かったように、きっと、そんな日が……


「平和なもんだよ」

「そうだね……」

 二人してボケたように空見上げていると、扉からコンコンとノックの音が聞こえ、四つの目が屋上の入口に集中する。やがて露わになった人物をみて、羽佐間は思わず声をもらした。

「え……」


 いつもの赤と灰色のパーカーではない。今日はアップルグリーンと黒色が混ざったパーカーで、春の若葉のような、少し明るすぎる色が妙に目に眩しかった。

 その姿に脳内がシェイクされる。いつもなら昼休みになると、チャイムの音と同化するようにどこかへ消えてしまうのに。

 そんな人である――柴山苹果が今、自分と同じ屋上にいる。しかも、下を向いたままこちらに近づいてきた。このままナイフでグサッと刺されてしまいそうな勢い。これは異常事態だ。羽佐間は、今日はヤリイカの雨でも降りそうだなと思った。 


「…………っ?」


 不出来なファイティングポーズを構え、いつでも戦闘にはいれるよう構えていたが、実際はある程度の距離まで歩いたら燐音へと身体を方向転換した。

 表情が見えないので何を考えているのか分からず、どのような動機で接触してきたのかと思考を巡らせていると、苹果は燐音に一枚のプリントを渡す。チラッと見えた内容からして今日の授業で勉強したところだ。でも見せたところは裏の白紙になっている面。

 そこに目を通した燐音は、「わたしは別にかまわないよ」と軽い調子で言った。

 

「なんて書いてあったんだ?」 

「あのね、ちょっと羽佐間くんを借りたいみたいだよ」

「借りたい?」


 ウンウンとうつむきながら上下に首がスライドしているのが見えたので、そうなのだろう。苹果なりに変わるための第一歩を踏み出したと言ったところだろうか。

 かつて同じくしゃべらなかった者に対して、惹かれるなにかがあったかもしれない。そんな頼みを無下にするほど、羽佐間は腐っちゃいなかった。


「いいよ」


 いざ一肌脱ごうとして立ち上がると、それと同じくして制服の袖を指でつまんできた。まるで子どもが親の服を引っ張るみたいに遠慮がちで、それなのにどこか意図的な力を感じる。やけに積極的だなと軽い冗談めかして心の中で呟きながら、羽佐間は階段を降りた。

 昼のざわめきが遠くから聞こえる。これから教室に戻るだけのはずだった。

 本当に、戻るはずだったんだ。

 ――ガシッ、

 突然、袖から腕につかむ箇所が変わっていた。思わず足を止めた瞬間、身体ごと壁の方へ引き寄せられてしまう。でも実際は、引きずり込まれたという表現が正しいくらいにパワフルかつ暴力的で、なすすべがなかった。

 階段の裏側の空間は死角で、意識的に見なければまず人目に触れることはない暗所。次の刹那、背中が冷たいコンクリートに押しつけられた。


「え、ちょ、ちょっと――!」


 口から出た声は、情けなく裏返った。 耳元でドンッ!  と乾いた音が鳴る。心臓がウサギのようにピョイと跳ねた。俗に言う壁ドンってやつを初体験しつつ、ついに始めて――苹果の顔が白日のもとにさらされる。

 整えられたかのように無駄がなく綺麗なウェーブを描いたまつ毛、四白眼の眼は超常的なパワーがみなぎっているように感じ、前方にたれた前髪はうっすらと赤く染まっていた。

 全体的に中性的な見た目をしている。男のかっこよさと女のかわいさ両方を持ち合わせており、網の目から手が出ていてもおかしくない顔立ちだ。真っ直ぐな瞳がこちらを射抜いてくる。胸キュンどころか、動悸と混乱で息が詰まりそうになっていた。

 苹果はなにも言わない。ただ少しだけ、唇を動かしながら、なにかに耐えるような表情をしていた。その沈黙がかえって怖くて、羽佐間は小さく「ひぃっ」と声を漏らした。


「な、なんです」

 やっぱりこれからナイフで刺されてしまうと覚悟したその時、パーカーのポケットから取り出したのはかわいらしい寝顔をしている……豚のお面? をサッと目の前でつけて見せる。そして、

「おめ、いったいどったごどだ!!」

 どったごどだ? どういうことだ?

「え……?」

「おめがわざわざわば脅すて、配信すてら様見でなんてしゃべっておぎながら、待でども待でどもなも来ねぇじゃねぇがァ!!」

「え、えっと……」

 

 授業中考えたことが頭をよぎる。要は考え方次第、か……

 こういうときに適した四字熟語があった気がするな……えっと、なんだっけ……ああ、あれだ。思い出した。

 誠に――前途多難である。

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