四話 ヒキョウモノ達の 仲直り
まず結論から話そう。肉体に戻ったあと、羽佐間が葉純さんによって連れてこられた土地は、地獄だった。
――冠降誕。
そう呼ばれているこの場所は、人の手がほとんど加えられておらず、大自然の恩恵を原液のまま飲めるのではないかと思うような爽やかさがあった。こんもりと生い茂った森と近くを流れる錦織川が目に入る。じゃらじゃらと荒々しい川音からして流れはかなり速い。
その近くにはごく一般的な白い吊り橋。途中でくの字に折れ曲がっており、横幅は大人の人間が二人並んで歩いても余裕があるほどに広い。すごく大きいわけでもなければ小さいわけでもなく、なんてことはない普通の橋。
ほかに特徴なんてありはしない……はずなのに、なにか、何かがおかしい。
そしてその漠然とした違和感は、葉純さんのあるひと言で簡単に説明された。
|地元でも有数の心霊スポット《・・・・・・・・・・・・・》。
なんと違和感を覚えた吊り橋は飛び降り自殺スポットとして有名で、景勝地内にあるトンネルは、開通しているときに何人もの作業員が事故で犠牲になったらしい。そして霊能者であるバギー愛子も訪れたことがあるのだとか。なぜそれほどまでにイカれた場所に連行されたのかというと、
「これより決行するのは……『ドキドキ肝試しDE仲直り大作戦』!!」
葉純さんは腕を組みながら、目からキラン! と効果音が流れてきそうな眼力で羽佐間を見つめてきた。いやいや、ちょっと待て。ということは……
「…………だからオレをここまで連れてきたってことですか?」
仲直りということは自明、すぐ隣には燐音がいた。しかし今は気絶してしまっている。理由は何の下準備もなくしゃべる太郎とた太郎をみてしまい、とどめのショッキング映像としてあた太郎の見た目を眼前に焼き付けてしまったからだった。
上下薄ピンク色のスウェットを着ていることから、おそらく外出用の服ではない。自分の部屋でまったりするための正装だろう。同じく状況を把握せずして連れてこられたクチなのだろうと想像した。
「そゆこと。わかってくれた?」
「わかんないですよ! いきなりオレの身体かっさらったかと思ったら窓から飛び出すし、途中で引き返すかと思ったらこんな森のど真ん中まで来ることになるし!
それにその……なんか変、なんですよ、ここ。今まで霊体の恩恵って、無重力空間にいるように体重を感じなくなったり、お腹が空かなくなったり、寒さや暑さを感じなくなったりしてたんですけど、今は全然……」
羽佐間は自身の腕を見ると、びっしりと肌にぶつぶつが盛り上がっていた。寒いのだ。とにかく寒いのだ。まるで血液から冷水にすげ替わってしまったかのような感覚。鳥肌が立つことはこれまでの人生に何度もあったが、これほど顕著に現れることはなかった。
おずおずと森に目を通してみる。見慣れたはずの緑なのに、まるで異界に迷い込んだような不気味さと、言いしれぬ厳しさを感じた。
凝視していると、さっきのブラックホールと同じく、どうしようもない力で引き込まれてしまうような……と意識がぼんやりとまどろみかけたが、寸前で首を横に振ったことで立て直す。
まただ。制服の女性を見かけたときの感覚と似ている。
「あ、あの、五十嵐さん」
「ダメー」
「まだ何も言ってないよね!?」
軽く笑いながら斜めにクロスした両腕を見せてくる。さすがに今回はかわいさで乗り切れると思うなよ。
「どーせ羽佐間のことだから、怖いから家に帰りましょうとか言うんでしょ?」
「オレの気持ち分かってるじゃないですか! こんな危ない場所より家に帰って、なにかおいしい食事をみんなで食べるほうがいいですって!」
なんなら昼休みの時みたいに身体を貸してあげても別にいいと思った。それほどまでに羽佐間はこの場所にとどまることを猛烈に拒絶、拒絶、拒絶。
当たり前じゃないか。こんなところで、しかもよりによって燐音の近くでお漏らししようものなら、いよいよ仲直りの件はションベン水に流されてしまうだろう。
「とは言っても、もう仕掛けの準備は終わっちゃったし、あとには引けないよ。それに、」
「それに?」
「私はこの瞬間から家に帰って、羽佐間と柏木くんの二人きりにしてもいいんだよ? それでもいいのかな? かなァ?」
で、出たァ! 葉純さんの悪魔の悪魔状態!! 羽佐間が怖がる反応をみて、目の中の宝石を鈍く輝かせていた。一番本人が生き生きしているときかもしれない。
だが反応を見せたのはほんのいっときで、それ以上はひるまなかった。その理由は次の言葉にある。
「い、いいんですか葉純さん。もしオレが家にいなかったとしたら、親が黙ってるはずない! 行方不明だなんだと慌てふためくのは確実でしょう! それでもいいんですか? ですかァ!?」
葉純さんの口調を真似ながらビシッと指を差し、決まった……! と思ったが、当の本人は不敵な笑みを崩さなかった。どうしてだ? どうしてだ? どうしてと考えて……眼球が凍りついた。
シンプルな話だ。葉純さんが羽佐間の肉体に憑依すればいいだけのこと。今まで何度か身体を明け渡された経験からして、百発百中、回避不可能、冷酷無比な必殺技。
霊体だけポツリと取り残された自分を想像して縮み上がる。今から逃げるか? だとしたらどこへ? 知らない土地で一体、どう逃げればいいんだ? こんな身の毛もよだつ場所で? わからない、わからない、わからない……
「わかり……ました……肝試し、やります……」
羽佐間はがっくりと頭を垂れることで降伏の意思表示をした。さながら歴史の教科書に載っているポツダム宣言を聞いた日本国民の如し。
「素直でよろしい。そういうところ、彼氏ポイント高いね」
なんだよ彼氏ポイントと思いつつ、よしよしと頭を撫でられるとどうでもよくなってくる。前から思っていたが、誰かに頭を触られるのはこんなにも快感で気持ちいいのかと自分が堕落していくのを感じた。なのでそれを悟られないように語気を強くしてごまかす。
「からかわないでくださいよぉ……」
月の光が当たっていない箇所は、純度百パーセントの闇だった。まるで魔王と戦う一つ前に立ち塞がるダンジョンのように、夜の森というのはおどろおどろしさに溢れている。ざわざわと音が鳴るたびに、得体のしれない自然の生命力ってやつをひしひしと感じた。
胃がキリキリと痛み始めている羽佐間なんてアウトオブ眼中なのか、意気揚々と葉純さんは肝試しのルールを説明し始める。
「ルールは簡単! カンムリコウタンの各所に配置されたリンゴを、この鉛筆で刺すだけ。それが場所を巡ったという証明になるよ。けど道中では、私と太郎たちが仕掛けたワナがあるからそのつもりで。アンダースタンド?」
と四本の鉛筆と懐中電灯を渡される。なんでりんごをペンで……というツッコミはあえてしなかった。ツッコんだら葉純さんの思うツボだ。
「つまり、私たちに肝試しみたいなことをしてほしいってこと?」
目を覚ました燐音だが、またしてもあた太郎を見て気絶しかけた。今度は耐性がついたのかギリギリ精神を現実世界に押し留めることに成功する。
肝試しみたいなことという口ぶりからして、連れてくる際、葉純さんは理由をなにも言ってないことがわかった。まるで拉致じゃないか。さぞ燐音は心中穏やかじゃなかっただろう。
葉純さんの言葉を聞いた燐音の顔は、疲れが沈殿しているかのような苦しげな面持ちを見せた。
「まぁ私としては? 暗い大自然の中、年頃の男女を二人きりにしたら最後、ナニをおっぱじめるか分かったもんじゃないけどね」
肩をすくめながら葉純さんが言うと、両手を頬に当てて露骨に照れる燐音。羽佐間も例に漏れず、顔赤くしながら「な、なにもしないわ!」と発したものの、意識していないのにビブラートをきかせてしまった。
「なにもしないがナニならするってか?」
エロ同人で見かけるハゲたおじさんのような目つきの太郎が言った。
「揚げ足とるのが好きな中高生かっ!」
「糞兄! 羽佐間さんはそんな人じゃないよ」
太郎にいさめるような目つきを向けているた太郎だ。
「た太郎……」
さすができた弟だ。少しはションベンも見習ったほうがいいのではないだろうか。
「羽佐間さんの好みは年上かつ巨乳でちょっとクール系な人だから、同年代だし胸はそこそこだしクールじゃない燐音さんはそれに含まれませんよ」
――期待したオレがバカだったァァァ!! 犬の脳みそはそろってドッグフードサイズに統一されていると思い知らされた。
「なんで持ってるエロ本の内容知ってんだァ!」
燐音の裁縫針みたいな視線が羽佐間の全身に突き刺さった。それを無視して葉純さんが話を続ける。けど身体の向きからして、燐音にのみ話しているみたいだった。
「本当のことを言うとね、私はこの企画自体あまり乗り気じゃないんだけど……他ならぬ羽佐間の頼みだからね。全力で準備させてもらったよ」
「? 羽佐間くんの頼みって……」
聞くよりも早く葉純さんが「三、二、一……」とカウントしてから、前と同じように無音の口笛を吹き鳴らす。それと同時に、太郎たち一斉にどこかへ飛んで消えてしまった。それぞれの仕事場にスタンバイ、といったところだろうか。
ぽつんと心霊スポットに二人きり。
「羽佐間くん、頼みって何? それと……ごめん。まだ彼女のこと、名前すら知らないんだよね」
手を合わせながら申し訳なさそうに燐音が言った。
「あ、ああそうだったな。その……頼みの内容は言えないんだけど、彼女の名前は、五十嵐葉純。一応オレの……彼女」
羽佐間が密かに憧れていた、他人に彼女を紹介するという望みが叶った瞬間でもあった。照れくさくて後頭部をかく。浮かれて上機嫌になったところを、燐音に両手で腕をゆすられたことで目が覚めた。
「それよりさ! 行っちゃったね。葉純さんと……あの犬たちって名前あるの?」
最初の一声はびっくりするくらい元気が良かった。どうしてだろう。
「あるよ。ずっと舌を出してバカっぽいのが太郎、出していないのがた太郎、そして首がないのはあた太郎。怖かったよね? なんかごめん」
「は、羽佐間が謝ることじゃないでしょ」
純然たる正論を言われ、羽佐間は返答に窮してしまう。
「……だね」
次の言葉を紡ごうとしたものの、石の壁に阻まれたように何も言葉を発することができない。気まずい。気まずすぎる。どんなふうに会話していたのか。どんなふう喉と舌を動かしていたのか。
せめて間に葉純さんがいればと考えて、すぐに訂正した。これは燐音と自分との問題で、他人の手を煩わせてはいけないと。そんなことを考えていたとき、「ねぇ」と隣から声が聞こえてきた。
「ここって有名な心霊スポットだよね? 確か橋から身投げした人がいたとか、トンネルを開通してるときに何人も作業員の人が命を落としたとか……羽佐間はホラーとか大丈……」
燐音の言葉は頭に入っていなかった。羽佐間は試合後のボクサーみたいに汗をダラダラと流してしまう。太郎たちが変なことを言ったせいですっかり忘れてしまっていた。この場所の恐ろしさを。「え、まさ、か……」とすべてを察したような声を出す。
もう隠せないと悟り、羽佐間は正直に話した。怖いのがダメということ、本当は今すぐにでも逃げ出したいということを。さすがにお漏らしの件は自身の名誉のため伏せさせてもらった。てっきり幻滅されるかと思っていたが、
「そう、だったんだ」
燐音はちょっと目を丸めるだけで、それ以上は何も言わなかった。
「……幻滅しないのか?」
「しないよ。誰にだって怖いものの一つや二つ、あるものでしょ? わたしだって……あるし」
目線を下に落とし、地面の小石を軽く蹴った燐音。それがコトンと一回地上ではねてから、橋の下へと吸い込まれていった。
「あのさ、柏木さん、その……」
羽佐間はみっともなく指をもじもじさせている。これから言うセリフは、男としての価値を著しく下げる言葉だ。それでも、女子がいる前でションベンを漏らしてしまうリスクを考えたらゴミカスのようなもの。
「?」
「だからその……あの……」
身体全体を震わせながら、「手、握ってくれない?」と手を突き出した。五歳児かよと自身にツッコミつつ目を閉じたのは、燐音がどんな顔をしているのか、確かめるのが怖かったからだ。黒い雨が降っていた頃に戻るみたいで不快感を持った。
「ごめんなさい!」
意外千万な回答が返ってきて、燐音は先に行ってしまった。羽佐間はその場でへたり込みそうになるのをこらえて、何とか後ろについていく。ギシリ……ギシリと二人分の足音が橋に寒々しく響き渡る。なにか仲直りのきっかけとして会話をしたいが、内容がちっとも頭に思い浮かばない。
一歩一歩と森が近づくたび、現実とはかけ離れた世界へと誘われているような感覚が全身をつつみ込んだ。空気もスタート地点とは違って冷たい気がする。風に揺れる木を凝視すると、目の錯覚と分かっていても人間の顔に見えるときがあり、それが怖いので、橋の木目か流れる川をみながら歩いた。
身体全体が冷たい。それは、この場所の気温の他に原因があることは明々白々だった。
「さっきはごめん」
振り返ることなく背中で言われる。ごめん? 手を握らなかったことを謝っているのだろうか。
「あ、いや、そういう日もあるだろうし」
「そういう日?」
疑問形の声を出し、燐音は足を止めて上半身だけを振り返った。語尾がつり上がったから、手の件ではないのだろうか。
「え……」
どういうこととは聞けなかった。そのせいでまたも会話のテンポが崩れてしまい、何度やっても慣れない無言の時間が訪れる。しかしそれを引き裂いてくれたのは、無理に大きな声を出した燐音だった。
「なんか、久しぶりだね!」
「久しぶり?」
「こうやって二人で歩くの。遊んでた頃は……夜に帰ったりしたじゃん」
「ああ」
「親に怒られたりしなかった? うちでは門限が厳しくて、よくママに心配かけてたな〜」
「オレの親は……放任主義だから」
燐音に父や母のことは話している。だから羽佐間の切なげな顔を見て、自分が浅はかな会話をしてしまったと気づいたのか、「ご、ごめんなさい!」と腰を垂直に曲げて謝ってきた。
「いいよ謝んなくて。もう昔のことだし」
燐音は納得できていないのか「でも……」と小さく言葉こぼした。思考がまとまっていないのか目線をきょろきょろと左右に動かす。
そして、いきなり止まった。なにかを思いついたかのように目をしばたたかせる。
「わ、わたしは、怖いのとか全然へっちゃらだから! ホラーゲームも驚かずに視聴できるし、夜中でもトイレに行くこともできるし、布団をかぶって寝るときに足を出しても平気なんだよ!」
最後のはよくわかんないが……とにかく背伸びをしながら健気にアピールしているのが頼もしかった。
「とにかく! 羽佐間くんが怖くて仕方ないとき、わたしが――」
さっきの燐音は、まるで快晴の午後に見上げたビルの窓ガラスのようにキラキラした目をしていたが、急にうつむいて沈黙してしまい、「なんでもない」と覇気のない声を残して先に行ってしまった。
さっきから意味がわからない。燐音の態度がずっと要領を得な……
「ん?」
ゴゴゴゴゴゴ……とジ〇ジョのような重低音の地響きがどこか遠くから聞こえてきた。「柏木さん、何か聞こえない?」と幻聴ではないか確認してみると、
「ホントだ……」
と燐音は言った。それによって言葉では言い表せない何かがこちらに近づいていることが不動の事実になり、鳥肌が一気に出来上がる。声がしたのは橋の入り口の方向。ゴクリとツバをのみ込み、眦を決して振り返ると……
「ヒャッハー! 亞威死てるぜジョォォォジィィィィィィ――――――――――ッッッッッッッッッ!!!!!!!」
とピエロのように子供っぽく、色んな彩色がごちゃ混ぜになった服装を着ているペ◯ーワイズがこちらへと走ってきた。
「くーるーいまきてるー」
と髪の毛を太ももあたりまで伸ばした貞◯が走ってきた。さながら陸上選手みたく、無駄に整えられた美しいフォームで。
「チャイルドよりベビーのプレイが好きだぜェェェェ――――ッッッ!!」
唐突な下ネタ!? 包丁の代わりに赤ちゃんが持つガラガラを手にしてるチ〇ッキーが走ってきた。その他にもたくさんの怖くて有名なキャラクターたちが押し寄せてきて、羽佐間はコンクリートで足を固められたように動けなくなってしまう。
「どうー? 傑作揃いでしょー」
上空から話しかけてきた葉純さんは、太郎たちと一緒に意地の悪い笑みを浮かべていた。
「ど、どどどどうしてアイツらがががががが」
羽佐間の歯が助けを求めるようにガタガタとなっていた。
「心霊スポットに幽霊がいるのって常識でしょー」
「一部関係ない奴が紛れ込んでるんですけどォォォ!?」
幽霊とカテゴリしていいのか分からないキャラクターが数体。特にペ◯ーワイズや、なぜかジ◯ーズで出てきそうなサメが身体をばたつかせながら、その反動でこちらにちょっとずつ向かってきている。世界観の満員電車だ。
「まぁまぁ細かいことは気にせず。それよりいいのかなー? 私と話してても」
こうして話しているうちにも、ぞろぞろと百鬼夜行のごとくキャラクターたちが押し寄せてきている。立ち止まっている暇なんてない。頭では分かっている。しかし身体まで考えが伝達していない始末だ。涙が出るほどに情けないったらありゃしない。
「頑張って逃げてね。ばいちゃー」
「墓参りは欠かさず行ってやるぜぇ〜」
と葉純さんと太郎は同じ方向に飛んでいった。一足早くカンムリコウタンの夜の森に紛れる。
――え? オレって死ぬ前提なの?
「ば、ばいちゃじゃね……」
絹豆腐のようによわよわしい羽佐間の声は空気中に霧散した。よっぽど哀れに聞こえたのか、のこった二匹が励ましの言葉を送って……
「あの……ほ、骨は拾ってあげますからぁ!」
「…………」
えええええええ!?!?!? 今のって励ましのつもり? むしろ不安と孤独しか増してないんだけど!? だからなんで死ぬ前提で話が進んでいるの? まだ死なねぇから! たぶん。
あとあた太郎はこの期に及んでも無言かよ! ちくしょう! たまにはキャラづくり、休んでもいいと思うんだけどなぁ……って、もういないか。
二匹は葉純さんとは少し異なる方向に飛び去った。羽佐間は足の固定から解除されると、燐音に「逃げよう」と声かけしたが、
「ごめん、腰、抜けたかも……」
尻もちついた体勢のまま、その場から動けなくなってしまった燐音。さっきの威勢はどうしたと言いたいところだが、それよりまずはこの状況をどう切り抜けるかだ。
心霊キャラの軍勢と燐音を交互に見る。羽佐間はそうすることにより、一人で今にも逃げ出してしまいそうな自分を抑え込んだ。ええいままよ! 悩んでいる時間なんてない!
「柏木さん、ごめん」
考えた最良の手段として、まずはひと言、燐音に謝った。
「え?」
初めてだから上手くできるかはわからない。だがやるしかなかった。羽佐間はアワアワとした手つきで燐音のひざ裏を通し、もう片腕で背中を抱き上げる。葉純さんに一度されたことがヒントとなり、お姫様抱っこをやってのけた。正当な持ち方が分からず、ズシンと腰にダメージがはいる。
燐音の恥じらいの声をかき消すように「ぬおおおおおお!」と雄々しい声をあげながら、橋の出口まで一散に走り出す。足腰の痛みなんて気にしている暇はなかった。
死に物狂いで渡りきったはいいが、安心となれないことの疲労のせいか、羽佐間は「あっ」と無様な声を出した直後、バランスを崩しうつぶせに転倒してしまう。おかげでその反動が手に伝わり、うっかり燐音を離してしまった。
しまった――とキャラクターに捕まることを覚悟したが、さっきまで騒がしかったはずの声が途端にシーンと静まり返る。再度二人きりの世界に迷い込んだみたいだった。
橋の方に目線を配ると、さっきまで波のごとく襲いかかってきたはずの心霊キャラたちは物言わぬ物体となって折り重なるようにして倒れていたのだ。
今までパニクっていたから気づかなかったが、すべて本物だと思い込んでいた貞◯やチ◯ッキーなどはすべて等身大サイズの人形やぬいぐるみだった。ちょっと冷静に考えれば分かるものを、葉純さんにお姫様抱っこされたときといいことごとく失敗している。
羽佐間は初めてあた太郎と顔合わせ? したときに葉純さんが話してくれた霊力の操作の話を思い出す。人形やぬいぐるみも、霊力の操作でロボットのように動かしたのだろうか。だとしたら応用の幅が広すぎる。これじゃ心臓がいくらあっても足りない。あと六つは必要だ。
地面の上で大の字になる。燐音も真似て両手足を大きく広げた。ひんやりとした感触が疲労困憊の今では気持ちがいい。土の臭いをかぎながら、互いに息が整うのを待った。
「ありがとう……」
手を離してしまったのに、燐音は怒る素振りすら見せずにお礼を言ってくれた。一、二発ぐらいはどつかれることを覚悟していたのに。
やむを得ないケースだったとはいえ、お姫様抱っこをしてしまった。言動からして怒っていないのだろうか。いやそんなはずはない。なぜなら持ち上げたときに背中ならまだしも、もう片方はうまくいかずに太ももやお尻を何度か触ってしまったからだ。
謝ったほうがいいだろうか。でもでも、今さらどうしようもないことをわざわざ蒸し返したら不愉快に思われそうだ。こういうときに一番適切な言葉は、言葉、は……
「どう、いたしまして……」
一番安全で、一番最低な選択肢。お詫びのタイミングを失ってしまった。こうなったらしんみりとした雰囲気でうやむやにするしかない。
羽佐間と燐音は特に示し合わせたわけでもなく、星を見上げた。都会のように高い建物もなければ、車や人々の喧騒から離れているだけあって、非常に澄み渡って見える。
こうして二人で眺めていると、なんだか河川敷で喧嘩したあとの昭和のヤンキー同士みたいだと心の中でつぶやいた。
その後親友までとはいかなくても、二人の間には言葉にできないような絆が芽生えて……なんてのは、漫画やアニメの観すぎだろう。
でもちょっとは、昔のような距離感に戻れたかもしれない。少なくとも自分のなかでは。燐音はどう思っているのだろうか?
*
一刻も早くその場を去りたい気持ちと、少しでも長く志村くんといたいという気持ちが五分五分で存在している。我ながら強欲で浅薄だなと思う。今までやってきたことを考えれば、たとえ遠くても家に帰るべきなのに、単に身がすくんでいるからという理由以外に、自分を強くこの場に縛りつけている。
――彼女の名前は、五十嵐葉純。一応オレの……彼女。
あの時の面映ゆそうな顔をした志村くんが、ずっと記憶の一番中心にある。燐音は最初、葉純さんからその手の話題を聞いたときはホラを吹いているものだと思っていた。
しかし今日、志村くんの態度ですべてわかった。わかってしまった。幽霊と人間が恋愛するなんておかしいという一般論をぶつけようともしたが、できなかった。それは真誠な良心か、それとも――依存しているだけの下心なのか。
一緒にいることでさえ、目を見ることでさえ、罪に思えるときがあった。燐音は志村くんと行動を共にした瞬間からずっと、そんな考えが遠心力を生み出すくらいに回転していた。内心嫌だと思われてないだろうか。離れたいと思われていないだろうか。心情が分からなくてもどかしかった。一つだけいいことがあったとすれば、心霊スポットによる霊的な恐怖は感じていないことだけだ。
少しでも心理を悟られないように、燐音から率先して肝試しのルートを巡っていった。志村くんは身体をマナーモードのように震わせながら後ろからついてきた。昔の距離感ってこんな感じ? と記憶をたぐりながら、演じながら歩き続けた。本当は手をつないであげたいけど、それはダメ、ダメなんだと何度も心の中で言い聞かせた。
――今夜をもって、志村羽佐間への関係を断つ。
本当なら家の中で布団をかぶりながら志村くんの思い出に浸って、少し泣いて、眠たくなったら眠って、そして朝起きたら新しい自分としてリスタートを切ろうと思っていたまさにその時――葉純さんがやってきてそのまま強制連行されてしまったというわけなのだから、ずいぶんと要らぬことをしてくれたなと思う。まぁでも、お姫様抱っこをされているときは不覚にもいささかときめいてしまったわけだから、おあいこ? かもしれない。
ただでさえ暗い森の中、他に人なんて誰もいやしないというシチュエーションで二人きりにドキドキしているのだから、これ以上なにかあったら心臓が起爆してしまう。絶対に。
そんなことを考えているうちに、一つ、また一つとリンゴにペンを刺して回り、気づけばあっという間に最後の場所。道中、柴犬の幽霊たちが身体の一部を欠損した状態で追いかけ回してきたり、骸骨や死装束を着たベタベタな幽霊などが驚かしてきたりしてきたが、まるで恐怖の感情を忘れてきてしまったかのようになにも感じることなく、スムーズに進行できた。橋の一件で学習できたからかもしれない。ちなみに志村くんは飽きもせず、新鮮なリアクションを毎回お披露目していた。かわいそうと思う半面、あまり見られない一面が見られてラッキーだった。
最後の場所というのは、かつてカンムリコウタン近くを走っていたであろうSLの石炭庫。夜の暗がりと同化してしまいそうなほどに黒一色で統一されたフォルムは、見ているだけでこんがらがりそうな筒状や円状の部品が外部からでも確認できた。煙突や自分の下半身ぐらいまで大きさがある車輪をみていると、こんな複雑なものが生まれるより前に誕生していたなんてと驚愕の念を抱いてしまう。乗り物好きってわけではないが、技術力の進歩を感じずにはいられなかった。
入ってこられないように周りには柵が設置されているのだが、リンゴは石炭庫の車輪の下にあった。燐音はグッと手を伸ばしてみるが、あと関節一つ分の差で届かない。悩んでいると横から、「オレがやるよ」と見かねた志村くんが腰を下ろしてかわりに取ってくれた。
その際に軽く肩がぶつかり、発作的のうちに距離をとってしまう。当たった箇所は、凍傷のような染みる痛みを発していた。そこから気持ちがあふれてしまう前に、とっとと終わらせてしまおう。
「い、いくよ……」
「ああ……」
特に意味はないが、一応志村くんの確認を取ってからリンゴにペンを突き立てていく。もしかしたらまた橋の時みたいに人形やぬいぐるみが意思を宿して襲いかかってくるかもしれないと周りを見渡すが、いくら待っても怒鳴り声やうなり声のかわりに聞こえるのは、ざわざわと森の合唱する静寂のメロディーだけだった。
ひとまず安心してよさそうだときびすを返したその時、目と鼻の先にゆらゆらと湯気を出したそれに遭遇。甘辛い匂いが鼻腔の奥を突き、嗅覚だけで胃袋をわしづかみにしてしまうほどに強烈だった。
「こんにゃくだ」
「こんにゃくだね」
心霊スポットという場にそぐわない素っ頓狂な声を出してしまう。ご丁寧に人数分の小皿と箸、味変用の一味唐辛子と豆板醤のチューブ。
二人は盛り付けられた皿を見つめる。ありえない状況すぎて逆に冷静だった。自分の部屋のドアを開けたらカオスデビルドラゴンがいたときのような感覚。
「いい匂いだな。これって……」
「調味料はしょうゆ、みりん、砂糖。香り付けにごま油とかつお節。あとはお好みで一味とかふりかけるとか、パンチを強めるために豆板醤もいいよ」
「や、やけに詳しいね」
若干顔を引きつらせながら志村くんが相槌を打つ。つい自分の好きな食べ物であったせいで、頼んでもいないのにうんちくをひけらかしてしまい、燐音は恥ずかしい気持ちになった。
「は、母がこんにゃく好きで、よく作って……」
弁解のために唇を動かしたその時、くぅ〜と飲み物のようなお腹が鳴った。自分の方からだ。二人きりという空間ではごまかせるはずもなく、燐音はただ笑うしかなかった。志村くんは同情の意思を汲み取ってくれたのか、同じく笑いの表情を作ってくれる。そういう優しいところが、本当に……
「食べてもいい? 夕飯口にしないまま来ちゃったからおなか空いてて」
「いや、安全的に……」
志村くんが何か言っていたのを無視して燐音は、まるで磁石のようにして迷うことなく大皿のほうへ向かっていき、箸を装備し、ブロック状に切られたこんにゃくをつかんでから口に運んでいく。三回ほどかみしめてから舌の上で転がした後、「美味ひい!」と直接口に出してしまっていた。まだ食べ物が口の中にのこっているのに汚い。それを差し置いても料理のクオリティは揺るぎない高さだった。
匂いに釣られたのか、志村くんも大皿の近くまで歩いてから腰を下ろす。燐音はこの美味しさを共有したいと思ったので、『ある工夫』をしてから志村くんの分を盛り付けた。
「あ、わたしイチオシの一味と豆板醤の分量にしといたから」
「ありがとう。一体どんな味付け……」
中途半端なところで止まって、しばし間を置いてから「柏木、さん」と、これまた中途半端に声を寒気立ったかのように震わせていた。
「なに? これ」
なぜか疑問形な志村くんは、燐音からもらったそれにプルプルと指を差していた。変な質問だ。自分がさっきこんにゃくの甘辛煮と説明したはずだろう。そこにただ、豆板醤のチューブを|ほんの十センチほど出し《・・・・・・・・・・・》、こんにゃくの灰色が隠れるくらいに|一味の赤い雪を降らせただけなのに《・・・・・・・・・・・・・・・・》。
「なにって、こんにゃくの甘辛煮」
「いや甘いの部分完全に滅殺されちゃってるけど!? 辛味の要素ヒャクパーで支配されちゃってるけど!?」
なぜかちょっと生命の危機を感じさせるような声質を発しながら、志村くんは盛られた小皿に目を大げさなくらいぱちくりぱちくりと動かしている。おいしそうすぎて食べるのが惜しくなっているのだろうか。だが料理が冷めてしまってはおいしいものもおいしくなくなってしまう。
「母が辛いの好きで、おいしそうに食べてる姿を見て、わたしも好きになって……毎回プロゾンで一味唐辛子は箱買いする習わしなの」
「なんという激辛一族!」
燐音は目でそろそろ「食べないの?」と志村くんにシグナルを送る。それを受け取ったはいいが、なぜか箸の持つ手を微量に震わせながら口をつけた。好評だったのか、身体をジタバタ、口をモゴモゴ、息をハーハーさせながらおいしさを表現。わかってくれたようでうれしい。顔つきは歌がサビに入ったミ○チルの桜◯和寿みたいだった。
「おいしかった?」
「く、口の中……HANABI……」
と意味深なことを言った後、なぜか仰向けの体勢で地面に倒れてしまった。もう一回食べたいくらい美味しかったのだろうか。それともちょっと辛くしすぎた? 次に食べさせるときは豆板醤のチューブを半分の五センチにしようと思う。
なーんて、次なんてもうないのに。自分で決めたことなのになにを言っているのだろう。胃のあたりがチクチクとする。理由を考えてしまう前に、今日で何度使ったか分からないから元気を発揮した。
「よしっ! リンゴ刺しも、腹ごしらえも終わったことだし、そろそろ帰ろ……」
――ぴたんっ
ナニかがうなじのあたりで止まった。とても冷たくて、ヌルヌルしていて、プルプルしていて、ツルツルしていて、柔らかくてねっとりとしていて吸い付くような……これって……
「キャアアアアア!!!!!!!!」
行き先も分からないまま走り出した。釣り糸に垂らされたこんにゃくが見事にクリーンヒットしたのだ。女の人の笑い声に混じって、ウキャキャと文字通り人間とは思えない下品な笑い声が聞こえた。血相を変えて後ろから志村くんが追っかけてくれたが、気にする暇なんてなくて、燐音は背中へ潜り込んでいった感触を振り切るように、一心不乱に走りまくる。自分自身でさえどこを走っているのかどこを爆走しているのかよくわからなかった。
木、枝、葉、木、木と景色がハチャメチャにぶれて、全体が涙でチカチカと点滅しながらも、体力切れから一度手をついて座り込んだ。
「…………あ、あれ? ここ、って……」
見渡す限り、人間の自分とは比べ物にならないほどに高い木々に囲まれたこの場所は、まるで森のどまんなかにいるのかと誤認するほどだった。息を切らしながら遅れて到着した志村くんに現在地を訊いたものの、互いにスマホを持ってきておらず、カンムリコウタンということ以外わからなかった。
ザッと現在地を確認する。入り口から見たときとは怖さのレベルが違いすぎた。まるでホラーゲームの世界に入り込んだような緊張感があり、ここにきて燐音は初めてぞわりと背筋を冷や汗が伝う。
葉純さんやそのペットである……確か太郎などが助けてくれるかも……? と期待したが、いつまで経っても沈黙だけが唯一の答え合わせだった。
むずむずする。自分の手がどうしようもなく他人の皮膚の感触を求めた。目線は重力の影響を受けるように下に落ちる。衝動のままに触ってしまいそうになったが、過去の行いがそれを許さなかった。
「そうだ! 北斗七星だ!」
悶々としていると、藪から棒に志村くんが奇妙なことを口走った。
「ほくとしちせい?」
「そう! 中学生のとき理科の先生が教えてくれたんだけど、まず名前の通り北斗七星を探す。位置を特定したら柄杓の先端にある2つの星を結び、その線を約五倍伸ばした先に北極星があるはず。つまりは北だ。それさえ分かれば、方角から元の場所に帰ることが」
今の志村くんの顔つきからして、かっこいいところを見せることができて気分が良くなっているように見えた。そんな状態であるにもかかわらず、これから現実を見せてあげないといけないのが辛いところだ。
「でも今、雲が覆っててよく見えないよ」
志村くんは魔女の一撃を受けたかのようにずっこけた。その後首をうえに上げながら、暗雲が垂れ込めた空を恨めしそうに見つめている。燐音もそれにならって空を見あげた。月の見えない空はなんだか息苦しい。呼吸ができないってわけでもないのに、酸素が不足しているようだ。光がもたらす温度にフタをされたような心持ちになり、寒気を感じて自分の肩を抱いた。
「だ、大丈夫」
「え?」
「さっきまで、燐音に頼ってばっかだったから、今度は、オレ、がが、」
そんなことを言いつつ、志村くんの動きはまるで電池切れ寸前のASIMOみたいで心許ない。歩くたびにウィーンガシャン、ウィーンガシャンと効果音が脳内の独断で流れた。
パッと見の表情は平静に見えるのだが、それなりに長く志村くんの顔をみてきたからわかる。まばたきの数が、通常より二割から三割ほど多い。本当なら今すぐにでも一人で逃げ出したいところを、なんとか男の矜持や意地で踏ん張っているところなのだろうか。うれしいけれど、自分にそこまでしてもらう価値なんてないと卑屈になってしまう。
それでも前に進んでくれるなら、せめて手を握ってひと言、大丈夫と言いたい。でもそれって……自分が握りたいだけの建前としか思えなかった。隙あらば自我が暴走しそうなので、口をつぐんで志村くんの後ろをついて行った。男らしい肩幅の広さが目についた。
「…………」
「…………」
あてもなく歩き始めて、体感上は数分が経過した。ビュビュンと激しい風に揺られる雑木林、雑多に入り交じった虫たちの鳴き声、葉や枝を踏む際の嫌な音、音、音。それらがつみきを積むように不安や疑心を増やしていく。
ちゃんと家に帰れるだろうかと思う。もし帰れなかったら、もうご飯を食べることも、家に帰って、「ただいま」と言うこともできなくなるのではないか。母は燐音が家にいることは知っているが、それも夜明けと同時に真実がバレてしまうだろう。特に父親の件があるから、万が一にも自分が失踪なんてしたら、精神が壊れる程度じゃ済まなくなりそうだ。ああ、どうしようどうしよう……そんな不安が見えない荷物となって、身体の動きを鈍くさせていたときのことだった。
「か、しわもちさん」
「柏木さんね」
「ご、ごめん! か、しわ天さん」
「柏木さんね」
「ごめん! かさ増しさん」
「そこまでいくとわざとだよねぇ!?」
柏餅とかしわ天をかさ増しするなんて、うなじにこんにゃくをぶつけてくる以上の悪行だ?
「ごめんなさい! 怖さで思考がまとまらなくて、つい」
まるで糸で無理やり釣り上げたような志村くんの顔がおかしくて、思わず笑ってしまう。絶賛迷子中だというのに、諧謔的な要素を感じずにはいられなかった。中学二年のときの志村くんが脳裏によみがえる。記憶の中で笑った顔はとても珍しくて、ときめいてしまって、それだけで心の中が少しだけ安寧を取り戻したのがわかった。
「どうしたの?」
「黙り続けながら歩くのもなんだし……しりとりとか、しない?」
無理して笑顔を作ってる感が丸出しで、いざ断られたらどうしようと思惑が見え見えだった。
「いいよ。そんな不安げな顔されたら断れないし」
「あ、ありがとう……」
魂から絞り出されたほどに力と重みのあるありがとうだった。
「わたしからでいい? リンゴ」
「ゴンドラの唄」
「なにそれ?」
「そういう歌があるの。五十嵐さんに教えてもらったんだ」
彼女の名前を言うときだけは、うっすらと口元がゆるんでいた。
「……そう」
ぐちゃぐちゃな毛糸みたいな心を悟られないように、燐音はそっけない返事をする。その後は特にこれといった面白さがあるわけでもなく、しりとりは一定のリズムで続いていった。マンネリ化を防ぐ工夫なのかは知らないが、志村くんは半ばで人名縛り、食べ物縛りを実施していて内心面白かった。「ゔーん……」と一生懸命考えている姿がとてもしおらしくて、脊髄反射で助けたくなってしまった。
そんなこんなでしりとりを続けて二十分。といっても体内時計からわりだした時間なので、正確なときの流れは分からない。
変化があった。先に行っておくが、良い変化ではなく悪いほうで、なんとたった一つの希望であり光である懐中電灯がパチパチと二、三回ほど明滅したあと、闇へと吸い込まれるようにして消えてしまったのだ。
「「で、電池が!!」」
まだ月は隠れている。さっきまで鮮明に見えていたはずの後ろ姿が急に黒暗の一部になり、燐音はまるで肝を氷水に沈められたような戦慄を感じた。それは志村くんも同じようで、いつとはなしにぶつかった背中から伝わる揺らぎで分かる。緊張が背骨から喉にまで伝わってきてしまい、ひと言も発することができなくて、風の流れや足元に転がる木の枝や葉っぱの一つを踏みつけるたび、背筋が氷漬けになってしまいそうになった。
文目もわからない世界を四、五歩ほど動いたその時、自分の顔に何やら糸状のわずかに粘り気のあるものが鼻先と口元に直撃。日の光など余裕があるうちは簡単にクモの巣に引っかかったと解釈できるが、今はイレギュラーゆえに、混乱の火種として爆発的な威力を発揮した。
自分でもわけのわからない声で泣き叫びながら身体をめちゃくちゃに動かす。その際に志村くんともめるようにして地面に転倒してしまった。同時に互いの足と足が絡まり、ふくらはぎに肉離れのような痛みが襲う。
「いったた……ひゃ!?」
最悪の拍子に月が顔を出す。視覚から受け取った情報の意味が分からずに狼狽した。なぜなら……数センチ先に、依存してきた人の……
「え?」
少し青ざめた唇があるから。
志村くんも今の有り様がわかっていないのか、目がフリーズしている。
燐音は志村くんの上半身に覆いかぶさる姿勢で倒れており、はたから見ればまるで押し倒した図に見えなくもなかった。言うまでもなく、そんなつもりなんて全くなかったのに。フッと意識が遠くなる。自分の唇がまるで元の一つの形に戻ろうとしているかのように、志村くんの唇へと誘われていく。
転んだときについたであろう土の臭いが鼻腔をつついたその時、燐音の意識はようやく正気を取り戻したのか、「ごめん!」と声を張り上げたのと同時に飛び退いた。心臓が外に飛び出てしまいそうなほどにバクバクと鼓動する。
今、自分は、なにを、しようとしていたのだろう。
考えたくなかった。考えられなかった。関係を絶つと言っておきながらこの体たらく。自分のバカさ加減に嫌気がさしてくる。
「壊れて……ない。よかったぁ……」
「え?」
あまりにも場違いな発言で思わず頭を上げてしまった。壊れて……なんて言ったのだろう。
「いや、なんでもない。なんでもないんだ……」
口ではそう言っているが、目線と右手は右ポケットに吸い寄せられていた。なにかを入れている? しかし煮え切らない態度からして教えてくれそうにない。それ以上志村くんはなにも言わなかった。まだ心臓の余韻がのこっている。自分の恋心は前に話してバレているので、優しさから黙ってくれているのだろうか。だとしたらこれほどつらいことはない。いっそけなしてほしかった。口汚くののしってほしかった。
その方が、スムーズに……
「どうしたの?」
前に進んでいた志村くんが振り返る。その要因は、いきなり燐音がその場にしゃがみ込んだからだ。
「あっ、いや、靴紐がほどけて……」
なかなかに機転が利いたウソだったと思う。本当はさっき転んだ衝撃で足をひねってしまったらしく、筋肉を引きちぎられるような痛みが、ジリジリとふくらはぎに焼き目をつける。志村くんは「そう」と一安心したような声を出してくれたことから、運よくバレなかったと確信した。
だがしかし、それは程なくして慢心と思い知らされることになる。
実際は数歩ほど歩いてからいきなり振り向かれ、かがんでからふくらはぎをガッツリ見られてしまった。足音が以前と比べてテンポが悪かったことから疑惑を持たれたのだろう。あらためて自分の足を注視してみると、薄ピンク色に腫れ上がっており、一目で怪我をしているとわかるほどに重傷だった。
「……どうしてウソなんか」
眉をひそめ、睨めつけるように志村くんが見てくる。
「迷惑、かけたくなくて」
苦い汁を絞り出すようにして言葉を紡いだ。苦さの根本となった場所では、葉純さんから言われた言葉が反響していた。
――羽佐間は、あんたの自己肯定感を満たすための道具じゃない。
今まで混じりっけなく、純粋に、愚直に信じていたものが実はまやかしで、すべて自分のためでしかなかったという事実を受け止めるには、あまりにも身体の大きさが不十分だった。化けの皮がはがれ、醜い自分と対峙しなければいけないことが耐えられない。できることなら目を背けたかった。なかったことにしたかった。
「今までさんざん、オレに頼っていいよって言ったくせに」
「……っ」
燐音はなにも言い返すことができなかった。うれしいという気持ちと積み重ねた言葉の罪悪感が殺し合っている。口の中が苦さと甘さでごっちゃになっていて、今までに感じたことのない味だ。
立ち尽くしていると、志村くんは背中を向けつつ膝を曲げ、手を後ろにやってきた。意図を汲み取った燐音は、「そ、そこまでは……」と言ったが、ひるまずに無言で応戦してくる。あの時の言葉がクラッカーのように脳裏の上を跨いだ。
――待ってって言ってるでしょ! どうして一人で抱え込むの? 私が、こんなに近くにいるのに!!
――すべて、委ねてイイんだよ……? だって私は、ずっと羽佐間の味方なんだから。
言葉の責任くらいは、取ったほうがいいかもしれない。
後ろに突き出された志村くんの手を握る。
久しぶりに握ったそれは大きくて、ゴツゴツしていて、中学二年生のときと同様に成長を感じた。光が当たらずダークな色合いをした枝木や葉っぱが、視界から遠のく。下から上へとエレベーターのように燐音の身体は持ち上げられ、太ももに先ほどの手が触れる。そういえばお姫様抱っこをされたときも同様に触られて恥ずかしかったという気持ちが、からい食べ物を食べたときのように遅れてやってきた。ちょっとばかしは意識している……? 考えながら、夜の森の徘徊は再開された。
少し目線が高くなった世界を、燐音はぼんやりと眺めている。そのせいだろうか。おんぶをされる前と比べて自分が少しだけたくましくなったかのような機嫌になる。いや、安心感というべきなのだろうか。
自分より大きい男子の背中に密着しているだけあって、ほのかに温かく、目を閉じたら眠ってしまいそうであった。異性という獣を相手にしているにもかかわらず不用心であるが、それは志村くんだからこそ許せること。髪の毛の匂い、うなじの匂い、汗を吸ったTシャツの匂いを嗅いでいると、どうしてか涙が出そうで……
前にも一度、こんなことがあったような……
「……ぁ」
志村くんには聞こえない音量で、燐音の声が漏れた。今から四年前の晩秋、つまりは中学一年生の頃。かつて通っていた中学校では毎年必ずマラソンをすることが恒例行事となっていた。
ルートはグラウンドを出発してから校舎全体を一周し、次に近くの車通りの少なく安全面に配慮された住宅街を抜けてから再び校舎全体を一周……ここまで約三キロの道のりを走るというものなのだが、問題は住宅街にさしかかってからしばらくして発生した。平坦かつ変わり映えのしない道で気が緩んでしまったのだろう。足元に転がっていた石に気づけず、前のめりに倒れてしまい、膝から多量に出血してしまったことがあった。起き上がろうとしても、片方の足だけでは力不足だった。
自慢じゃないが、燐音は頭を使う勉強はできても、身体を使うスポーツなどにはめっぽう弱い。小学生時代に行ったダンスの授業では、あまりのひどさから「B級ホラー映画みたい」や「宇宙人が初めて人間の身体を操った際の動作」と揶揄されてしまったことがあるほどだ。
順位は自明の理だが、最下位だった。ヒーロー的な存在なんているわけもなく、ただ温度のないジャリジャリとしたアスファルトに座っているしかなくて……わけもなくから笑いした。
本当は孤独で、悲しくて、助けてほしいのに、それを求めている自分を認めるのが嫌だった。だから燐音は、無理やりでも、口角を上げて……
「――乗って」
意識の外から声が聞こえた。男の人の声。この時点では発した人物が誰なのか頭の中で一致していなかった。目を動かしてギョッとした。その人は、小学三年生を最後に全く口を開かなくなった、いわゆる変人だから。
その一言だけを告げると、今回の同じ体勢で後ろに乗っかかることを求めてきた。もちろん申し訳ないので断ったが……強情にもポーズを変えようとしないことにより押しに負け、応じることにした。
志村くんは、いつもなら体育の時間は休んでいるはずなのだ。それがなぜかこの日だけはきちんと体操服を着用し、マラソンの順位は最下位ながらも参加していた。これがどういうことなのかはさっぱり分からないが、とにかくビリだと思っていた自分が、さらにその後ろの順位の人に救われたわけだ。
燐音が背中で抱えられた瞬間、火照った志村くんの臭いがふわっと鼻腔をなぞった。
それは、世間的に言えばただ汗臭いだけでしかなかったが――|この臭いをもっと嗅いでいたい《・・・・・・・・・・・・・・》と直感したのは、それから間もなくだった。
これは憶測の域を出ないが……図書室で親交を深める前からすでに、心の深い根の部分で、志村くんのことが好きになる種子が植え付けられたのかもしれない。
仮にそうだとしたら、なんとなく不定期で図書室に行ったり、なんとなく志村くんが気になったり、そしてなんとなく話しかけたりするという行為にも説明がつくだろう。
なるほど、腑に落ちた。
「わたし、ちゃんと好きだったんだ……」
聞こえないように燐音はそっと口にする。好き。好き。好き……たった二文字だけなのに、この世にあるどんな兵器や権力なんかよりも強大で、尊くて、誇らしかった。
あぁ……自分は人を好きになれる普通の人間なんだと、例えようのない安心感が身を包んだ。
「なんか言った?」
シャグシャグと草木を踏みつける音に混じって志村くんが尋ねる。
「いや、別に」
今なら、志村くんのことをちゃんと好きだと気づけた今なら、ずっと気になっていたあのことを聞けるかもしれない。燐音は腹を決めた。
「羽佐間くん」
「ん?」
「葉純さんのこと聞きたい」
「というと?」
「羽佐間くんは……葉純さんのどこを好きになったのか」
志村くんはのどに詰まったのか、突然大きくせき込んだ。予想はしていたがやはり恥ずかしいことなのだろう。でも頑張ってもらうしかない。これは、関係を絶つために避けては通れないと思った。
「……それって絶対に言わないと」
ダメなのかと問いかける早く、「絶対に言って」と燐音がつよい口調で念押しした。自分の好きな人が好きな人の話。
本当は聞きたくない、知りたくないけど、マラソンの件を思い出したおかげか、不思議と心はシーズンオフのビーチなみに落ち着いていた。
自信が持てたから……というのは驕りかもしれない。葉純さんに言われたとおり、確かに自分は自己肯定感を上げるために志村くんを利用した。
しかしそれは、そんな一面もあったに過ぎないのだ。コインに裏表があるように、勝者の影には敗者がいるように、百パーセント自己肯定感を上げるためだけで接していたわけではない。そんなことはあり得ない。あり得るわけがない。『好き』という一面もまた、実在したのだ。燐音はマイナスの一面を肥大化しすぎて、危うく大切な一面を自ら押しつぶしてしまうところだった。そのことに気づけたからなのか、志村くんのノロケ話を聞くのに大して抵抗はなかった。
初めての出会ったときのこと、屋上で再会したときのこと、今日までのときのこと、されたイタズラの内容、言ってくれた言葉など、なるべく具体的に話してくれるように質問した。図書館で過ごした、あの日々のように。
言葉がたどたどしかったのは、もしかしたら気持ちがバレている自分に気を使ったからかもしれない。燐音は志村くんのそういう気遣いができるところに魅せられた。
橋を渡ったときだって、自分の身体を触ったことに対して謝ろうとしているのが眉の動きから伝わった。でも結局話さなかったのは、下手に蒸し返すことで不愉快に思われるかもしれないと考慮してくれたのだろう。そうに違いない。
むねが、くるしくなった。
歩き続けて十分ほどが経過したが、依然として景色は単調で変わっていない。でも森に迷い始めた当初よりは心が軽くなっていた。何でだろうと考えるより早く、いつまでも志村くんにおんぶをさせてしまっている罪悪感から降りる決意をする。
「羽佐間くん、もう自分一人で歩けるよ」
わざわざ一人を強調するような言い回ししてから、志村くんの背中から離れた。飛ぶようにして燐音は笑いながら体操選手のようなポーズを決める。直後にちょっとだけ痛みでよろめいてしまったが、別に動けないという程ではなかった。
これで準備はOK。自分がいなくてもやっていけるはずだろう。葉純さんという素敵な人に巡り会えたから。
だから――いいよね?
と目でサインを送ってみる。
志村くんは……なにもわかっていないような顔をしていた。まっ、当たり前だけどね。
「そういえばさ、一つ気になったんだけど」
「なに?」
「どうして学校の屋上なんか行ったの? そこで会えると確信したとか? 俗に言う、運命の赤い糸に導かれたってやつ?」
話を聞いていたとき、ずっとそれだけが引っかかっていたのだ。
ほんの軽い気持ちで、訊いたつもりだった。
「あ、ああそれは……」
口をムグムグさせ、見るからに言いにくそうだった。「それはその……」と志村くんはふらふらとした足取りで足元の木の枝を拾うと、なにを思ったのかそれを頭にくっ付けた。形状からして分かりやすく言えば、ド◯えもんに出てくるタ◯コプターみたい。まるでこれからおちゃらけるようで。
不器用に笑いながらこぼされたアンサーは……麻酔なしで胸を引き裂かれるくらいに残酷だった。
「ちょっと、|空を自由に飛ぼうとしてた《・・・・・・・・・・・・》だけだよ。なんて、ははっ」
その言葉を聞いた瞬間、全部、わかってしまった。志村くんがたった一つしかない限りある命を、投げ出そうとしていたことが。
「お互いいろいろあったけど、今、こうして昔のように一緒にいられたりしてすっごくうれしいし、これからも、その……そうできたら、もっとうれしいと思う! だから……」
ゴホンと一度、志村くんは喉の調子を整える。燐音はダメだと心の叫びが大きすぎて口で発言できなかった。そっから先のセリフは、自分には……
「オレは! 燐音と仲直りしたいってこと!」
いい切って心底ホッとしたような顔を向けてきた。『仲直り』という言葉が頭蓋骨を何度も打ち鳴らしてくる。
なんて素晴らしい響きなのだろう。なんて甘美な響きなのだろう。とても甘くて、理想的で、つい、手を伸ばしたくなるような……
「無理だよ」
燐音の答えは最初から決まっていた。決まっていたはずなのだ。しかし今の自分の顔は、過去一ブサイクで見るに堪えなかった。沈黙がある程度周りを泳いだあと、志村くんが「無理……って?」と答えに対して確認を取ってくる。言葉の調子からして、意味を一割も分かってなさそうだった。
「今日さ、羽佐間くんが葉純さんのこと彼女って言ったよね? それば別にいいの。わかりきってた答えを今になって突きつけられたというか、自分で勝手に落ち込んでただけというか……」
「燐音……」
うつむきながら自分は、なにを言っているのだろう。こんなこと話しても、志村くんを困らせるだけなのに。燐音の口はあとに引かなかった。
「……よかったよね」
「え?」
「わたしたち、他人同士のほうが、よかったよねって。深く関係を築こうとしなければ、イジメだって起こらなかったし、平穏に暮らせてた」
「それはちが……」
「違わないよ!」
声量のコントロールが利かなくなっていく。どうせ否定されると分かっていたが、さらに心の領域を狭める結果となった。
「羽佐間くんが仲直りしようって言ってくれて、うれしかった。でも同時に、わたしがしてきたことの罪の重さで、押しつぶされそうなんだよ……!」
言葉の濁流は止まらない。罪という名の油が舌を雄弁に滑らせている。
「わたしはわからない。人を殴ったときの感触、蹴ったときの感触。だってそういう汚いことは、全部イジメっ子にしてもらってたから。今、自分の手が汚れることなくキレイなのは、あんな奴らのおかげなんだって思うと……悔しくて、悔しくて」
ギュッと拳を跡がつくくらい強く握る。どれくらいの力加減で殴ったのだろうか。蹴ったのだろうか。今になってそんなことを考えても時間の無駄なのに。思考がメビウスの輪のように終わりを知らなかった。
うつむいた視界に、志村くんの足先が見える。燐音はTシャツの裾をつかむと、まるで肋の内側にたまった毒を吐き出すようにして強く発言した。
「葉純さんも言ってたけど……どうして羽佐間は怒ってくれないの!? どうして許してくれるの!? どうして罵ってくれないの!」
ぽかぽかと弱々しい力で、「どうして」と言いながらみぞおち辺りを殴る、殴る、殴る。優しい志村くんからしたらめちゃくちゃな意見かもしれないが、これは誤魔化しようのない本心だった。
「いっそ、卑怯者って笑ってよ……」
「…………」
羽佐間はなにも答えない。笑い声の代わりに聞こえるのは、どこまでも冷たく澄んだ風の音だけだった。
「でき、ない」
二十秒以上待っただろうか。得られた回答がそれしかなかったことに失望し、瞳孔を思いっきり開いて怒りの温度を羽佐間にぶつける。
「どうして!? わたしは酷いことをした。だから仲直りする価値なんか……」
「あるんだ!」
と一喝される。燐音がビクッと肩を震わせると、怖がらせたのを悪いと思ったのか志村くんは二、三歩距離をとった。背中を向けて、顔を合わさず話し始める。
「中学生のとき、オレがクラスメイトにからかわれてたところを助けてくれたじゃん?」
「……それだけ?」
「そ、それと、その……」
志村くんは目をつむりながらひり出すような表情で一生懸命に考えている。
「燐音は、卑怯者なんかじゃない。オレの、命の恩人だ」
「……え……?」
予測とは正反対の言葉が飛び出し、ほうけた声を出すが、かまわず志村くんが話を続ける。
「過去は変えられないし、どうしようもない。ただやったという結果だけが残る。なら今できることって、せめて同じ轍を踏まないように気をつけることじゃないのか? 自分を必要以上に追い詰めて……相手に蔑まれることで許された気になって……その方が、よっぽど卑怯者だよ」
志村くんは最後の方で、顔だけを振り向かせて言った。目には一ミリの迷いも、憂いも見受けられなかった。
「……!!」
まさしく、鱗が落ちたような気分。
その言葉は、燐音に放たれた言葉であると同時に、志村くん自身に言い聞かせているように聞こえた。
行動を振り返ってみると、後悔ばかりだったと思う。志村くんとの距離が離れていくのをみているだけしかできなかったこと。イジメっ子に頼み込んでイジメを促したこと。志村くんとイジメっ子の喧嘩を止められなかったこと。いったん理屈は後回しにしてでも、喧嘩の仲裁に入ればよかった。
詮ずるところ、後の祭りだけど。
自分自身を追い詰めることは美学のような風潮があるが、それも度を越せばただの暴力だ。
自分を真に思いやれるのは自分だけなのに……今までの発言や行いを統計した結果、まさしく暴力のそれだった。
自分が自分のイジメっ子になり、それが後ろ暗くなって相手に蔑ましという名の許しを乞う。
あまりにも自己中心的かつ、非人道的な行為。自分勝手も甚だしい。
過去に目を向けすぎて、今をおろそかにしていた。後悔の泥沼に、足を取られていた。
それを知らせるようにして、ようやく居留守を決め込んでいた月が姿を現す。月光はまるで、風に身を震わす葉っぱを、樹木の表面を、屍の枝木をすべてまろやかにつつみ込んでいったようで、ため息が出るほど美しかった。
「柏木さん、その……さっきはごめん!」
「え? どうしたの急に」
急に平謝りしてきたことに当惑すると、志村くんは目に見えて自分に対しての怒りをにじませながらしゃべってきた。
「オレが怖くて仕方なかったとき、手ぇつないでって言ったでしょ? でもその前に、五十嵐さんを彼女だって紹介してたから気まずかったと思って。本当にごめん!」
新社会人のような綺麗なお辞儀をしている。それに数歩ほど近づいてから、なんでもないように燐音は志村くんの背中に両腕をあてがった。目を閉じる。
「り、燐音!?」
志村くんは目をまんまるにして驚いている。ついさっき諦めたと思ったのに、つくづく自分は後腐れの悪い女だなと思う。
でも、あんな気遣いを見せつけられたら、また好きになっちゃうじゃん……
一生届くことのない愚痴を志村くんにぶつける。たびたび抱きしめる機会はあったが、今日は一段も二段も三段もぽかぽかしていた。まるで陽だまりそのものだ。
「今だけは、今だけは許して」
自分の身体なんかより大きくて、たくましくて、ずっと燐音の腕の中に包んでいたいとすら思える。いっそ一部分にしたい。一つになりたい。
でも――ダメだよね?
自身の恋心に問いかける。絶たないといけない。そうだよね?
もっともつらい選択肢こそ、もっとも選ぶべき選択肢なのは、分かっているから。
これで、本当に終わり。
一分間はそのままの体勢で過ごしたあと、背中の腕をゆっくりと引っ込める。志村くんのかけらが薄く張り付いていた。ゆっくりと目を見開く。
世界が、変わって見えた。
「あ! 羽佐間くん、あれ!」
と志村くんに指を差した方向に視線を誘導する。その先には舗装された道が敷かれており、車が通る道ではないが、それでも久方ぶりに人工物をみたおかげでホッとした。
「よ、よかった……」
と崩れかけた志村くんを燐音はやにわに支える。さっきまで張り詰めた糸のように緊張していただけあって、わけもなく二人で笑いあった。
「それじゃあ、行こっ」
さっきまで志村くんに前を歩かせていたので、今度は燐音から前に進もうとしたその時、「待って」と言われて立ち止まる。
振り返ると志村くんは、まるで覚悟を決めたような芯の通った目をしていた。無言で拳が目の前に突き出され、おもむろに中に入っているものを露わにしていく。
そして――心臓が裏返るかと思った。
誤って押し倒してしまったとき、志村くんが右ポケットを確認した行動の謎が解けた。
「この前とおんなじやつは探したんだけど……どうしても見つからなくて。ごめん」
「どう、して」
よく見ると手が、腕が、身体が、震えていた。初めてもらった中学二年のときと、同じように。変わらないままで。
「ずっと渡すタイミング、考えてて……今しかないと思ったんだ。どうか、受け取ってほしい」
そう言って差し出されたのは――ユーカリの髪留めだった。月光に照らされて花びらは白い光を放っており、緑葉の飾りがいいアクセントになっている。
目線が一点に集中し、急速に脳の可動範囲が狭まっていく。
ダメだ。受け取っては。諦めたのに、諦められなくなる。
そう思いつつも、まるで頭と身体が分離したかのように、ユーカリの髪留めを受け取る燐音の手は、志村くん以上に震えていた。
髪の根元に向かってすくうように挿し込んでいく。懐かしかった。なんとなしに昔の自分に戻ったような感覚。すさまじい勢いで熱いものがこみ上げていった。
「…………くん」
うまく喋れない。自分で自分の死刑執行のボタンを押すみたいに感情がぐちゃぐちゃだ。今までの思い出が脳に、心臓に、身体全体に注ぎ込まれていく。
一緒にいろんなところへ行った。
一緒にいろんなコンビニスイーツを食べた。
一緒に……同じ刻を過ごした。
そんな映画で言うところのエンドロールみたいな演出をされるなんて……そんなの聞いてないよ。
「どうした?」
「は、羽佐間、くん。わた、し、きれいかな? かわいい、か、な?」
さっきから月の光がいやにまぶしい気がする。一人の女性の恋の終わりを、せめて美しい思い出に変えてくれているのだろうか。涙は表面張力でギリギリあふれていない。志村くんの眼球の中がわずかに揺れた。
「うん、すっごく――」
あ、その笑顔、反則だよ。
「……!」
訊くんじゃなかった。
感情のストッパーが崩壊し、生暖かい粒がとめどなく頬を伝う。志村くんの胸の中で泣きじゃくった。赤子みたいに、大声を上げて。
――泣いて、泣いて、身体中の水分を全部出し切る勢いでそれでも泣きながら……ああ、どんなに罪を重ねても、汚くなっても、わたしは、わたしは…………
志村くんのことが好きだと、強く思った。
この気持ちだけは、サヨナラできなかった。
*
つい数十分前の燐音の顔が忘れられない。
あの涙はどの感情から生まれたのだろうか。うれしさ? 失恋? それとも……いくら考えたところで分かるわけもなく、理由を訊いてものらりくらりとかわされてしまうため、羽佐間の中にモヤモヤが残る結果となった。
そのモヤモヤの中に……これは燐音にも、葉純さんにも口が裂けても言えないことなのだが、一つ芽生えた想いがあった。
――恋を、してしまいそうだった。
もし葉純さんがいなかったら自分は……なんてタラレバは、語るだけ野暮というものだろう。羽佐間は今、この世界を生きている。それだけが明確で、それだけがすべてだ。
話は変わるが、泣いている燐音の背中を優しく撫でるなどして自分なりに慰めていたところを、ようやく臭いを追跡していた太郎たちに発見され事なきを得た。
出会うや否や太郎はションベンをひっかけてきたが、その直後にどでかい花火が打ち上がったのは語るまでもないだろう。
その話は肥溜めに捨てておくとして、葉純さんが半ば遭難中であったにもかかわらず、なに一つとして変わらない態度で自分たちを迎えてくれたのは少し気になるが、家に帰れるなら些細なことと思えた。それくらい肉体に疲労がたまっていたのだ。
だが不可思議なことに、精神的にはあまり疲弊していなかった。まるで放課後、家路につくみたいな感覚で夜の森を歩き続けることができたのだ。
その理由なのだが――まるで――
「おいあた太郎! テメーまたひとりで勝手にいなくなりやがったな! せめて葉純の兄貴にひとこと言ってから消えやがれ!」
「…………」
「黙ってちゃなんもわかんねぇだろうが!!」
いや、そんなわけないか。
羽佐間はありえない可能性――まるで●●に見守られているかのような安らぎがあったことを記憶からひっそりと削除した。太郎のいつもの調子をみたせいで気が緩み、ありもしない答えがはじき出されただけ。きっとそうなのだろう。
これでようやく家に帰れるかと思ったのもつかの間、なんと葉純さんから「ボーナスステージがあるから」と悪魔の告白。なんのボーナスだよ。しかもその場所はよりにもよって、燐音が行くことを避けたトンネルだった。
肝試しはスムーズかつスピーディーに行われたものの、その場所だけを燐音は立ち入らなかった。ここはやめておこうなんて言葉もなく、あたかも存在していなかったかのように立ち振る舞った。それに対しなにも言わなかった。なにも言えなかった。
実際面その時は、世にも恐ろしい祟りに遭う可能性とションベンをちびってしまう可能性だけを考えていた。
「か、柏木さん……」
「うん、言いたいことはわかる。なんか……」
トンネルの入り口に立って早々、羽佐間は回れ右して引き返したい気持ちになる。幻覚かもしれないが、トンネルの縁はかすかに青白く光り、月並みな表現かもしれないが、大きな魔物が口を開いて獲物を待っているようであった。
今から食われるのか……と憂鬱な気持ちが顔をのぞかせるが、行かないと帰れなさそうだ。
「行こっ! 早く済ませて、暖かい布団で眠りたいよ」
先に歩を進めたので、羽佐間は急いで横に並んでいく。永遠の眠りにならないことを祈りながら。横幅は橋と同等ぐらいしかないが、長さはそれなりにある。そのせいでコツンコツンと足音が反響して、耳にしばらく残り続けるほどだ。
中は誰かのいたずらなのか、スプレーで読めない英語やら見るのも嫌になる下ネタなどが自由帳のように書き込まれていた。おかげで微々たる程度だが怖さが落ち着ける。
しかし根本的な恐怖が払拭されたわけではない。歩いている最中でもあたりに視線を漂わせてしまう。もし『なにか』が出たときに先手を取るために。想像するだけでも気を抜けば鳥類に変身してしまいそうだ。葉純さんからもらった替えの懐中電灯だけが、唯一の命綱だった。
「柏木さん」
「なに?」
燐音がこちらに振り向くと、先ほどあげたユーカリの髪留めがセミロングの髪と一緒にふわっと舞い踊った。
羽佐間はずっと疑問だったことを質問してみることにした。直接的に問いかけるのは怖かったので、もし燐音がとぼけたらそのまま流すと心に決める。
「五十嵐さんに言われたこと、まだ気にしてたりする?」
「…………」
橋を渡っていた際に発したあのセリフ。
――羽佐間くんが怖くて仕方ないとき、わたしが――
自己肯定感の件で悩んでいるからこそ、出てきたセリフなんだと思う。あの時、本当は『護ってあげる』と言いたかったのではないだろうか。憶測の域を出ないのでなんとも言えないが。
そんなに思い詰めなくてもいいのにと羽佐間は考えたが、余計な口を挟むべきではないと気づく。それが優しさでもあり、自分ができる厳しさでもあった。なかなか慣れない。
気分が数段落ち込み、懐中電灯でギリギリ照らされている薄暗い地面をみていると、燐音に前かがみの体勢で、顔をのぞかれるようにして名前を呼ばれる。つい気を抜いていたために、身体をちょっとだけのけぞらせてしまった。
「大丈夫だよ」
微笑を浮かべつつ、はっきりとした口ぶりだった。繕っているとはとても思えない自然な口角の上げ方、声の出し方からして、どうやら杞憂らしい。
「それだけじゃないって、思い出せたから」
「思い出せた? なにを」
「さぁ、なにをでしょう?」
声質は嬉しそうで、それは身体にも伝染したのか、軽くステップを踏み始めた。羽佐間は追いつくために駆け足で進むが、あっさりと止まってぶつかりそうになってしまう。
「羽佐間くんって変だね」
トンネルの中間を越えた地点で唐突に、足を止めて燐音はつぶやいた。話しを聞くために羽佐間も止まる。
「な、なんだよいきなり」
「だってそうじゃん。わたしなんかと、仲直りしたいなんて」
カツカツとまた歩きだしたところで精神的な距離も離されているような気がして、羽佐間は時を移さずとなりに並んだ。
「わたしに使ってる時間を、葉純さんに使えばいいのに」
消え入りそうな声だった。トンネルという特別な場所でなければ聞き取れないほどに微弱で、自嘲気味で、うら悲しい。
「もう、後悔したくないんだ」
発作的に肩をつかんで動きを止める。燐音は振り返らなかった。
「…………」
「オレは今日までたくさん後悔してきた。正直、感覚が麻痺するくらいには。例えば……柏木さんをお姫様抱っこするとき、お尻とか太ももとか触っちゃって、本当にごめん!」
偶然謝れるタイミングを喋っている最中に発見し、すかさず深謝した。蒸し返したらどうたらこうたらなんて考えていたが、だんだんと謝らないための言い訳に聞こえてきたので思い切って話題に出す。
「え、意識してたの?」
よっぽどびっくりしたのか首だけを振り返ってきた燐音。そりゃ事情が事情であれ、本来なら豚箱まっしぐらなところを触ってしまったからこれくらいはしないと気がすまない。
「い、いやその、意識してたというかしてないというか……って言いたいことはそうじゃなくて! いずれにせよ確証を得て言えるのは、これからもたくさん、失敗するだろうなって……だから、その……悪いんだけど……」
羽佐間は燐音から見て正面の位置まで移動し、向かい合う。昔なら目を合わすことでさえためらっていたが、もう怖くはなかった。
「柏木さんのこと、『利用』していい?」
「…………りよう……?」
首を傾げながら、頭にクエスチョンマークを何本を生やしている。それも致し方ないだろう。なぜならこれから言うことは、とても不誠実なのだから。
「もしまだ自己肯定感のことを気にしてるなら……オレも柏木さんのこと、利用するから! いっぱい頼りにするから!」
「…………」
「それで、おあいこに……」
根っこの問題はなにも解決していない。それでも、燐音の心の重荷が少しでも軽くなるなら言いたかった。言わずにはいられなかった。
たった十秒ほどの時間が、泥をまとったように遅く流れる。フッと鼻を鳴らしたような音が聞こえたと思ったら、次に「アッハハハハハハハハハハ!!」と頭上から燐音の豪快な笑い声が降ってきた。
「な、なんで……」
疑問はもちろん、どうして抱腹絶倒になっているのかについて。それもあるが、なにより事前準備なく唐突に、燐音の笑顔を久しぶりに見れた。見れた! ついに見れた!! 幸福の感情が先走ってしまい、脳の処理がてんで追いついていない。
あぁ、すっごくかわいい。
「ふふっ……だって……だってそうじゃん。自分から進んで、泥沼に飛び込む人なんているの? 大馬鹿じゃん。ふふっ、ふふふっ……あぁお腹痛い……」
心に化粧水のごとく浸透するような笑い声を聞き続けていると、漸次変化があった。口から発せられる音は鼻水をすするノイズが混ざり、続いてのどををしゃくり上げるような雑音も混ざり、言葉も途切れ途切れになっていく。
燐音は、笑いながら泣いていた。泣きながら笑っていた。
「本当に、大馬鹿だよぉ……」
その言葉は、自分にぶつけられた言葉であり、燐音自身にもぶつけているような気がして、羽佐間はなんて言えばいいか分からず固まってしまう。でも、このまま黙って見ているのは男がすたると思い、気づけば……肩を抱いていた。補足しておくが、邪な気持ちがあったわけではない。
結局、最後まで言葉は思い浮かばなかった。なにを言っても傷つけてしまうような気がして。
これが正しいことか分からない。お互いバカなだけかもしれない。それでも選んだ。
一番ダメなのは、歩みそのものを止めてしまうことだと思う。だったらたとえ正しくなくても、回り道でも、卑怯者になっても、先に進むべきだ。この命ある限りは。
ひとしきり涙を出し切ったのか、燐音が顔を上げる。気力を取り戻したようにスッキリとした顔つきをしていた。肝試しで最初のときに見た顔とはまるで別人だ。
いつの間にか、おっかなかったはずのトンネルは抜けてしまっていた。そしてゴールの景品? として置いてあったのは、どこから盗ってきたのかパイナップル。そんなことを言ってしまえば、リンゴも同じなのだが。まさかボーナスステージの伏線をここで回収するとは思わなかった。
「これ、食べていいのかな?」
「いいんじゃないか? 置いていって腐らせるのも忍びないし」
パイナップルの近くには刃渡り六センチほどの小さなナイフが置かれている。意図が分かった羽佐間はパイナップルの皮や葉を取り除きつつ、約三分ほどの戦闘の末、ざっくり二等分にきり分けることができた。見た目は不格好であったが、味はピカイチで満足だった。
食べ終えてお腹が幸福で満たされたあと、燐音に「中学三年の時に急に距離を取った理由を説明したほうがいい?」と発言してみたものの、どうせバカなことだろうと一蹴されてしまい、それで話は終わった。
実のところ本当にくだらない理由で離れたのでなにも反論できない。なのでこれは胸のうちにしまっておくことにした。
自分の言葉をもう一度言うなら、「過去は変えられないし、どうしようもない。ただやったという結果だけが残る。なら今できることって、せめて同じ轍を踏まないように気をつけることじゃないのか?」だ。
「過去よりも、今が大事じゃん? だからさ……」
勢いよく立ち上がってから、燐音がそっと手のひらを差し出した。
「これからよろしく――友達として」
その顔はまるで、この世に存在するありとあらゆる負の感情をたやすく吹き飛ばしてしまうほどに壮大で、美しい虹のように晴れやかだった。羽佐間は、まだ空に手が届かないことを知らない無知な子どものように自然と、吸い寄せられるように、手を伸ばす。
体温がともった。
「……こちらこそ……」
出会ってくれてありがとう――と言うつもりだったが、さすがに照れくさいのでやめておいた。今は心の中にとどめておくが、いつか言おう、必ず言おう。羽佐間は自分自身に固く、強く、誓った。
『友達』という言葉を、生まれて初めて聞いたような感覚。イジメっ子に追い詰められ、燐音に裏切られ、死のうとした日に決意した。もう大切な存在は作らないと。そんな日が遠い過去のように思える。まだ葉純さんと再会して、一週間も経っていないのに。
許す許さないではなく、いったん事実として受け止めてから、いかに次へ活かすのかが大事ではないだろうか。燐音がイジメを促していたことは悪い。絶対に悪い。
でもそれに対して感情を振り回して完結してしまうなら、それは子供の行いと変わらないだろう。自分は大人だと言うつもりはないが、かと言って子どもでもない年齢だ。勝手な主張を押し通すより先に、まず起こってしまったことに対して冷静に対処する……なんて、綺麗事かもしれない。
でも、やらないといけないというのは、これまでの実体験上痛いほど分かった。一念通天で、一歩ずつ、進んでいきたいと思う。
「羽佐間くん、久しぶりに食べない?」
トンネルの出口に立った燐音。帰りたそうに足をウズウズさせている。
「何をだよ」
「スイーツだよ! コンビニの。『祝! 仲直り記念!!』ということで、本当にゴチになります」
ペコリと一礼してみせる。羽佐間は木◯拓哉が憑依したように「ちょ待てよ」と言いたくなった。
「オレが払う前提!?」
「チョコの名店GORILLAが監修してる期間限定のガトーショコラケーキ、税込759円! 今日で販売終わっちゃうからどうしても食べたいの!」
燐音は熱心に祈るように両手を合わせてお願いしてくる。
「た、たかがコンビニスイーツごときでその値段って。素人なのに芸能人面してるユーチューバー並に恐ろしいな」
「お願い! せめて割り勘でいいから」
「ま、まぁそれなら」
「よぉし!!」
拳をギュッと握りしめながら発した声は、本人が思っていた以上の声量を発揮したのか、トンネル内に大きく残響していった。それが恥ずかしかったのか、燐音は首をすくめて視線を下ろす。
「……絶対に、約束だよ?」
「ああ。今まで食べれなかった分、しっかり元を取らないと」
「虫歯になりそうだね」
「ダイジョーブ! ちゃんと歯磨き……」
するから、と言うつもりだった。それをさせなかったのは、ついほんの一秒前までコンビニスイーツの話題でウキウキな顔つきをしていた燐音が、急に目をかっ開いたからだ。
目線は羽佐間の右肩あたりを固定されたようにして見つめている。でも何かが止まったわけではないという訳ではないから、右肩ではなく、その後ろにあるものをみているのだろうと推定した。
なんだろうと軽い気持ちで振り返ってみる。そして――疑問の嵐が吹き荒れた。
――桜の木が咲き誇っている。
地中から生えてきたわけでもなく、天空から落ちてきたわけでもなく、いきなりリスポーンしてきた感じ。今の時期は五月の終盤で、これからどんどん夏が色濃くなるはずなのに。そんなことを感じさせないくらい生命力と活力にあふれ、アニメや漫画と同じく過剰なほどに華やかだ。
お手本のような花弁の散り方をしていた。一つ、時には三つと風に遊ばれる様は、まるで一つ一つの所作をズレやミスなくこなすプロの演者みたい。
この場のいる誰一人して、桜の木が突如として出現したことについては触れなかった。触れられなかったと言ったほうが正しいだろう。その美しさに、言葉の通り心を奪われてしまった。
だからこそ、枝から変化した縄に気づくのが遅れてしまったのだ。
「うぅ……ぐぅぅ……!!」
シュルルと縄のしなるような音が聞こえたと思ったら、身体が持ち上げられていることに気づいた。地上に足がついていない。
ここでようやく、自分の首が絞められていることに気づいた。羽佐間はうめき声を上げながら必死で酸素を吸入しようとするが、うまくできない。むしろどんどん身体の酸素ボンベが減っていく一方だった。
「見つけた……ミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタヨォォォォォォ――――ッッッ!!!!!!!!!」
「は、羽佐間くんー!!」
燐音の無力な叫び声が、トンネルをたよたよとたたいた。




