三話 リンネの 本音 ハハの 本音
心臓が裏返った、としか言いようがなかった。
差し出されたその手は震えており、燐音は自分の心とダブって見えた。
それほどまでに――胸の内側にあるたった一つの特別な感情を自覚するというのは、何にも代えがたい奇跡であり、まさに驚天動地。
「これ、あげるよ。今日誕生日でしょ?」
さっきから恥ずかしいのか、彼は目線を合わせようとしなかった。頬の色も心なしか薄ピンク色。その姿がとてもいじらしかった。
「え……覚えてて、くれたの?」
中学二年の冬の日。燐音は誕生日プレゼントが欲しいと言ったわけではない。なんなら誕生日の日程さえはっきりと言った覚えがないのに、彼が知っててくれていたことが何よりも驚いた。
くれたのは白いライラックのデザインが装飾された髪留め。ちょうど時間帯が夕方だったため、燃え尽きる直前の激しいオレンジ色が反射し、直視できないほどに輝いていたのを覚えている。
実際に付けてみると、まるで日だまりそのものを身につけたみたいに心が温かくなった。
「羽佐間くん。わたし、きれいかな?」
「うん、すっごく似合ってるよ。柏木さん」
その不格好な微笑みを向けられた瞬間から――柏木燐音の人生のコンパスは、志村羽佐間を一途に指し示した。
*
ときは小学校低学年までさかのぼる。クラス替えでたまたま一緒になっただけの男子、それが志村くん。第一印象としては、物静かで詩が好きな凛とした男子。いつも図鑑のような分厚い本を手に持っていた。
クラスメイトの男子に「詩なんてつまらないものなんか見て変なの」とからかわれているのに、変わらず凛とした表情で頬杖をつきつつ、ページをめくっていた。そんな志村くんの姿を、燐音は皆と同様に変だと思う一方、どこか一線を画した存在に見ていた。
ところが小学三年生の頃から人が変わったかのように生気の抜けた顔つきになり、一切の口を閉ざした。そしていつも、何かを望んでいるような視線を空に向けていた。詩は一切読まなくなり、身体だけを現世に置いて、心は別の空間で浮遊しているような……そんな不安定さがあった。
変化が訪れたのは中学二年生になってから。それまでは燐音の中で、志村くんは日常の風景に映り込んできた通行人Aという認識。
給食の時間が終わり、昼休みに燐音は図書室に来ていた。その日にかかわらず、不定期でなんとなく足を運んでしまう日が何度かあった。読みたい本があるわけでもなければ、ボッチだったわけでもなく、自分の周りには常に男女関係なく友達がいた。でもそれはうわべだけの付き合いでしかなくて、相手の目つきや話す際の距離、足の向きをみればだいたいわかった。
学校では会話を交わすものの、休日や放課後まで一緒に遊ぼうと誘われたことは一度もなかった。
別にいてもいなくてもいい中間的な存在。好かれてもいなければ嫌われてもいないポジション。それが燐音だった。
居心地が悪いわけではなく、かといって良いわけでもなく、どっちつかずだから、特にこれといった取り組みをしなかったのだ。別に友達と五時間目の時間まで意味とオチに欠ける話をしていてもよかったのだが、その日は違った。
――窓際の席で、志村くんが座っていた。
本を読んでいた。記憶の中の景色と完全に一致する、分厚さと頬杖をつく姿。唯一違う点は、過去に読んでいた際の凛とした顔つきとは逆に、深く眉間にしわを寄せつつ、まるで嘔吐するのをこらえているように見えた。
昔とは背の高さが違う、肩幅の広さが違う、手の大きさが違うなんて思いながら……なんとなく、燐音は見入ってしまっていた。
この時点ではまだ、間違い探しでもやっているかのような感覚で、なんとなくその事実に引っ張られたのか、気づいたら話しかけていた。
「久しぶりに読んでるね」
「ウワァ!」
と話しかけただけなのに、大げさにも椅子から転げ落ちた志村くん。「大丈夫!?」と手を差し出したが、彼は自分で床に手をついて立ち上がった。
「てらやましゅうじ、詩集……」
ページ数の近くに書いてあるタイトルを読み上げた。すると、顔を線香花火みたく微弱ながら顔赤らめた志村くんは、
「ッ!!」
本の中身を隠すように、両腕で詩集のページ塞いでしまった。勝手に見てんじゃねぇよと目で主張してきた。普通ならごめんなさいと一言謝る場面のところを、当時の燐音は今までの志村くんの印象から可愛いと思ってしまった。
「別に隠すことないじゃん。好きなんでしょ? 小学生のときから」
「だ……れ……?」
身体だけでなく、目玉でさえ困惑に揺らいでいた。顔つきだけ見れば、まるで帰宅する直前に背後から手でたたかれたような表情。
「同級生の顔も知らないの? 柏木燐音って名前に聞き覚えは? 休み時間の時も昼休みの時も、椅子に接着剤でもつけられたようにずっと見てたじゃん」
「椅子に接着剤って……」
フフッと恥ずかしそうに、志村くんは口元を手で隠して笑った。なんか女の子みたいで、そんなふうに笑うんだと燐音はぼんやりと見ていた。
最初は、ただの好奇心だったと思う。ほんの軽い暇つぶし。数ある時間の中のほんの僅か。まばたきの如く刹那的に過ぎ去ってしまうであろう出来事。
でもここから、すべては始まったんだ。
その日から燐音は、たびたび図書室に顔を出した。思えばこの頃から、本能的に志村くんに惹かれていた。心臓の奥底で芽吹きつつある気持ちに気づくことなく自分は、何度も志村くんを引き止めてはそ色んな質問をした。なんとなく。なんとなく。
好きな食べ物は? 好きな教科は? 趣味は? 最近のマイブームは? なんて他愛もないことを聞いては、まるですごい豆知識を聞いたかのように誇張してリアクションをとっていた。
もちろん志村くんにだけ喋らすのはフェアじゃないので、燐音自身のことも話した。自分の家族はもともと三人ぐらしだったが、小学一年生に上がりたての頃にパパの不倫が発覚。しかもその相手はパパの子を身ごもっているという事実がわかった頃には、運悪く夜逃げされたあとだった。
当時はかなり悲しんだが、中学二年にでもなればさすがに心も成熟し、過去の事件として清算できた。でも母だけは、よほどにパパの愛が深かったのか、高校三年生になった現在でも狂気にとらわれた場面をたびたび目にした。
――大丈夫だから、あんたはあんたの心配だけしてなさい。
と自分の前では気丈に振る舞っていたが、燐音は知っていた。いつかの寒い日の深夜、トイレで起きると……台所から、「殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる」と病に伏しているときのようなしゃがれた声を出しながら包丁を研いでるママの姿をみたことがあるから。
かわいさ余って憎さ百倍とはよく言ったものだ。
――いい? 燐音の人生において愛する人を見つけたら、その人をしっかりとつかまえなさい。
これはママが口を酸っぱくして言っていたことだ。パパみたいに夜逃げなんてさせないほど愛して、愛して、愛し抜けば、きっと相手もその気持ちに応えてくれると、その言葉を燐音は、素直に、一点の曇りなく信じた。
一ヶ月が経過し、毎日のルーティンとして昼休みに図書室で志村くんと会話していた頃、ようやく自分に心を開いてくれたのか衝撃的なカミングアウトをしてきた。
「本音を言うと、あまり詩は好きじゃない」
「え?」
今更? と燐音は思った。たまに詩の話題とか話してくれたり、てらやましゅうじ? の魅力とか話してくれたりもしたこともあった。自分のために気を使ってくれたのかと考えて……そうではないと気づいた。
過去を振り返って考えてみると、その時の志村くんはクスリとも笑っていなかったのだ。赤の他人について話しているみたいに、言語化された記憶を読み上げるみたいに、感情がこもっていなかった。
「なんか眠たくなるし、難しい表現ばっかで考えるの疲れるし、そもそもそんな面白くないし……古傷が痛むし」
『古傷』――その意味をおくせず訊くことができるほど、燐音には勇気がなく、関係性もなかった。
志村くんは詩集を閉じてから、ガラス細工のように繊細な目で窓の外を見つめた。当時の時期は秋で、夏の時期に咲いたみずみずしい若葉は色素を失い、水分の抜けた薄茶色の枯葉が木の枝にまとわりついていた。
まとわりついていたと言っても、その数は微量で、ほとんどが風の影響で根本に落ちて不潔な絨毯を作っていた。「なんで好きだったんだろ……」と誰に聞かせるわけでもないような声量で言葉をもらした。その表情は、その目は、いまという世界のどこにもないように思えた。
――じゃあどこにあるの? あなたはどこにいるの? 知りたい。教えてほしい。
燐音は出し抜けにそんなことを思った。理由を訊かれても分からない。|ただ過程より先に結果がやってきただけ《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》のこと。
このときから志村くんは自身の過去についてちょっとずつ話してくれるようになり、自分に対してのガードが緩くなった。そしてまもなく燐音の誕生日を迎えて……というわけだ。
「やめなさいよ! 志村くんをイジメるのは」
「す、すいませんでしたぁ〜!」
気持ちを自覚してからは、今まで見て見ぬふりをしてきた志村くんへのイジメを抑制する役割を果たした。
「大丈夫? ケガとかしてない?」
「だ、大丈夫だから……」
そんなことを言いながら志村くんは腕の部分を執拗に隠していたので無理やり手をどかすと、そこには爪の跡ような引っかき傷があったので保健室に強制連行した。
最初はイヤイヤだったが、燐音が心配してるという意思をはっきり伝えると、うれしそうな表情をして「ありがとう」と言ってくれた。
やっぱり母の言ったとおり、愛して愛して愛し抜けば、必ず相手もそれに応えてくれるのだと感謝した。
志村くんへの恋心を自覚してからの日々は、まるで太陽の光を目一杯反射する大海のように輝いていた。恋をすると世界が変わって見えるとはウソ偽りない真実で、ただの錯覚ではなく順調に距離が近づいていった。
その結果、積極的に自分を頼ってくれるようになった。それが言葉なんかじゃ語れないくらいにうれしかった。
自分がいないとダメなんだ。
|自分が護ってあげないとダメ《・・・・・・・・・・・・・》なんだ。
そんな心地よい驕りが燐音の体内を満たしていく。当の本人は、気づく素振りすら見せずに。
寄りかかられているはずが、気づけば自分も同じようになっていたのだ。
「今回の新作、なかなかにとがってると思わない?」
「違いない。ちゃんと食べられるかな……」
「万が一残しても、わたしが全部食べてあげるよ! 大丈夫だから」
燐音は志村くんと一緒に公園やショッピングモールで買い物をしたりする仲になっていた。デートのように二人だけでお出かけもしたりした。しかし思い返して最初に出てくるのは、コンビニで新発売されたスイーツを放課後に買って、それを二人で分け合いながら食べて品評する時間だ。
人気モンスターキャラのビジュアルをした蒸しパン。深夜テンションとノリで作ったとしか思えない変な味のアイス。その手の専門店で出されてもおかしくないほどに高く、そしてうまいガトーショコラ。甘く、時にはしょっぱく、豊潤で密度の濃い時間。
自分のこれからの人生は、気持ちは、ずっと志村くんに傾くだろうと確証を持って言えた。
でも、
「強くなるから。燐音の力なんか借りなくても、一人でも大丈夫だから」
忘れもしない中学三年の夏休み前。いつも通りの帰り道。いつも通りのコンビニ。そしていつも通りのスイーツ食べたあと。その言葉を最後に、志村くんは口を利いてくれなくなった。
なんの準備もしていなかった。なんの前兆もなかった。
燐音の口の中に、言いしれぬ苦味が広がった。
「羽佐間くん! 昨日美容院に行ったんだけど、どこが変わったと思う?」
「…………」
無視。
「羽佐間くん! 一緒に弁当食べようよ!」
「…………」
無視。
「羽佐間くん! 放課後久しぶりにショッピングモール……」
燐音が言葉を言い終えるより早く、志村くんは脇を通り過ぎていった。コツンコツンと遠ざかる足音が、脳内にべっとりとひっついて離れなかった。
いっぱい努力した。勉強も、おしゃれも、これまで無頓着だった自分磨きというやつに死に物狂いで没頭した。そのおかげか、異性からは頻繁に告白されるようになった。なんなら女子からも愛の情を向けられたこともあった。かわいい。かわいいと。
…………一番に言ってほしい人以外の言葉なんて、雑音だった。騒音だった。その壊れたスピーカーみたいな口を縫ってしまいたかった。
――その言葉を言っていいのは、志村くんだけだ。一言でいいから言われたい。かわいいと。
――誕生日でさえ言ってくれなかった言葉。『似合っている』という見た目だけのセリフから、レベルを上げてみたかった。
苦かった。
口の中が苦くてたまらなかった。抹茶やカラメルソースのおいしい苦さとはまったく異なる、舌の組織を破壊するような味。
この苦みをどうにか消し去る方法は一つしかなかった。また振り向いてほしくて、せめて会話だけでもしてほしくて、そんなささいな願いさえ、志村くんの冷たい背中は沈黙を押し通した。
「…………」
今までの甘い思い出たちが、無残にも踏みつぶされていった。ぐちゃり、ぐちゃりと耳障りな音を立てながら。自分はただ、指をくわえて見ていただけ。
燐音は母の言葉を思い出した。愛する人をつかまえることができず、せっかく近づいた距離が離されていくことが悔しくて悔しくて仕方なかった。でも一番悔しいのは、この場合どのような行動を取るのが正解なのか分からない自分の脳みそだった。
嫌、嫌、嫌だよと言葉だけを心の中でこぼして、一人先を行く志村くんに手を伸ばした。
自分を置いて……自分を、置いて……
「強くならないでよ……」
自分がいないと、自分が護らないとダメなのに……
その後も色々とアプローチを重ねたが、一向に燐音に振り向いてくれることはなく、ただ時間だけが無情に流れていった。一気に時間軸は、高校二年の入学式まで移動する。
「…………」
目の前で桜が散っていた。風にあおられ、桃色の花弁はひらひらと回転しながら地上に着地。今のところは無尽蔵に咲き誇っている桜だが、それも一週間と経過すれば半分以下になり、そして一ヶ月も経てば、かつて咲いていたことがウソみたいに跡すら残さないだろう。
そんな景色を何度も見てきた。これでもかというほど予習してきた。
だからこそ――志村くんが自分に振り向いてくれなくなったあの日から、徐々に恋心がすり減っていくことは、ごく自然なことだと燐音は切り替えようとした。
でも、できなかった。
嫌だ嫌だ嫌だと、言葉が音として外へと出る以上に、心が雄弁に志村くんへの愛がなくなっている事実に対して悲痛な叫びを上げていた。しかしその叫びに、身体が追いつくことはなかった。
せっかく志村くんがプレゼントしてくれた髪留めは、さながら足かせみたいに思えてきて、付けることができなくなった。あんなにうれしかったのに。あんなに喜んだはずなのに。その欠片すら感じることができないのが口惜しかった。
――うん、すっごく似合ってるよ。柏木さん。
「……っ」
思い出だけが苦くなっていった。甘かったはずの角砂糖は、今や燃え損なった石炭と化していた。にもかかわらず手放そうとしないで、すがりついている自分は、さぞ醜いだろう。さぞ卑しいだろう。わかっている。そんなことは、自分が一番わかっているんだ。
どんなに手で受け止めようとしても、指の間からポロポロとこぼれ落ちるか、存在していないかのように透過してしまうばかりだった。
燐音はいつしか、受け止めるのをやめていた。
そんなある日。高校最後の入学式を終えてから一週間もたたない放課後のことだ。四月を迎えてもなお、頑固な油汚れのように雪は残り、朝は凍結して滑りやすく、放課後には溶けだしてベチャベチャになる厄介な時期。
燐音は昇降口を出てすぐ、視界の端に映ったのは髪染めを失敗したような中途半端な金髪の男と、いかにも気の弱そうな男子生徒が二人きりで体育館側へと歩いていくのが見えた。
それを何となく眺めていると、かつての志村くんも同じようにイジメっ子に連れられて暴行を受けたときのイメージが燐音の頭に浮かび上がった。
明確に助けてあげようという意思はなかった。ただかつての思い出を巡るようにしてふらふらと後ろをついて歩き、ちょっとばかし傍観してから帰ろうと思った。
ほとんどイメージ通りに、イジメは行われていた。「今月の用心棒代は……」なんてボヤいていた。かわいそうという気持ちはあるにはあるが、かといって自分の労力と時間を削ってまで助けるに値しない人。
いつしか燐音は、志村くんか、志村くん以外かでしか人を分別しなくなった。
これ以上いても特に面白くないだろうと思い、いざ踵を返して帰ろうとしたその時、バリバリと足元で大きくなにかを踏んだ音。木の枝だ。それは距離にして約七メートルほど離れていたとしても十分すぎるくらい響いた。
「あっちゃー、よりにもよって優等生にバレちゃった」
ガリガリと髪の毛をかきむしりながら、めんどくさそうな表情を作っていた。口と耳にもピアスをしているという特徴的な見た目から、校内ではちょっとした有名人だ。名前は確か……
「どうします? 矢澤さん」
近くにいる人は……わからなかった。そういえばいつも金魚のフンみたいにあとをついて回っているから、名前に金が付く人なんだろうと思った。見た目からして足腰に人一倍重労働を強いている体形。
「あっ……」
硬直した顔とは正反対に身体は逃走を選択したが、それよりも早くイジメっ子Aは先回りし、近くの壁際まで追い詰めてきた。
「まーまーそんな逃げないでよォ、大人の話をしましょうや」
「乱暴するの?」
このときの燐音は自分でも説明できないくらいに冷静だった。でも一方で、投げやりな気持ちも隣り合わせにあった。乱暴されても文句が言えないくらいには、さまざまなものを失くしてきた気がした。
それがかつていた同性の友達だったり、イジメを見過ごさない正義感だと気づくことはできなかった。
「いやいや、女を殴る趣味はねぇよ。だってすぐ壊れちゃうし。俺は同性の弱者をいたぶるのが好きなんだ」
「弱者……」
口に出してみると、まず最初に脳内でヒットしたのはイジメられている志村くんの姿。自分自身、どうして最初に考えついたのか分からなかった。
「柏木さん? 大人の話に戻るんだけどな……」
イジメっ子Aはどこか上の空気味の燐音に声かけをした。その後私物か他人から巻き上げたやつなのか知らない財布から、ゴソゴソと四枚の野口英世と一枚の北里柴三郎を取り出した。
「これで見逃してくれねぇか?」
金額にして五千円。一人で焼き肉に行ったり、回転寿司に行ったりとお金による行動範囲は非常に広いだろう――なんて思った直後、燐音の頭の中を音速で思い出が走り抜けていった。
それは文字通りわずかな時間だが、その間にただのクラスメイトでしかなかった小学生、好きになった中学二年生、距離を取られた中学三年生と、そこから今日に至るまで緩やかに恋心を失っていく自分の姿が見えた。
キラリと流れ星のような思い出が、幾多も自分の横を通過していったその刹那――ひらめいた。ひらめいてしまった。
そうだ。そうすればいいじゃないか。
志村くんが離れる起点となった出来事を思い出した。そこに答えはあった。なんでこんな簡単なことが思いつかなかったんだろうと、その時は思った。
「いや、お金はいらない」
「へ? それはどういう……」
燐音はお金を逆に突き返した。面食らった表情のイジメっ子Aに肩が触れ合う距離まで近づき、小声であるお願いをした。
このときすでに、自分の中に悪魔が巣食っていた。
「その代わりさ……やってほしいことがあるんだけど」
*
日は暮れ、街灯のほのかな光が等間隔で浮き彫りになっているのが見える。夜風が吹くたびに、どこかの庭先から夕食の香りが漂ってきた。羽佐間のスニーカーが地面を踏み鳴らし、規則正しい音が静寂を破る。隣を歩く燐音は半歩遅れて、時折空を見上げながらついてきた。 二人の影が街灯の下で長く伸び、やがて短くなり、また次の街灯へ向かって伸びていく。その繰り返しが、まるで時間の経過を視覚化しているかのようだった。
それぞれの家路につくための分かれ道にたどり着く。ここでずっとタイミングを見計らっていたかのように、葉純さんがお通夜ムードを引き裂いた。
「十分なくらい、共犯じゃないか」
あの場からいなくなったと思っていたが、どうやら話を聞いていたらしい。この声は羽佐間に自分の意見を言っただけだと思ったが、電気ショックを受けたように燐音が肩をビクつかせた。
「え……今の声って……」
引きつった面持ちであたりを見渡している。声が聞こえた? 今までずっと羽佐間とだけしかしゃべれないという制約でもあるかと思ったが、まさか夜という人間の活動範囲外の時間が、肉眼でも霊体を捉えることを可能にしているのだろうか。怖い話の舞台は大半が夜中なので、きっとそうなのだろう。
燐音が真後ろへと上半身を動かしたその刹那――瞳孔が大きく開いた。葉純さんと目が合ったことがわかる。
葉純さんはいたずら心が沸き立ったのか、ただ登場するのではなく、宙に浮いている特徴を活かし身体を反転させてきた。そのインパクトは抜群で、「キャアアアア!!」と燐音は百点満点の悲鳴を奏でる。
「あ、あなた……は……」
質問したくなるのはごく自然な心理だった。いきなり重力が逆になった人が目の前に現れ、羽佐間にしか話していないはずの話題に対して意見を言ってきたのだから。葉純さんは、それを軽くあしらった。
「卑怯者に名乗る名前はないよ」
「っ!!」
今の葉純さんの目つきはいつになく厳しい。声は夜の墓場のように冷たかった。さっきの反転した状態で登場は、いたずら心ではなく怒りから?
「あ、でも羽佐間の彼女ってだけは言っておかないと」
「っ!! 五十嵐さん、それは」
言い過ぎだと言うよりも早く、葉純さんの声によって発言がせき止められた。
「羽佐間は黙ってて」
先ほどのお葬式ムードとは比較にならないくらいの気まずさと苦痛に満ちており、口をつぐむしかなかった。
「つまり柏木さんは、自分に頼ってほしいという欲だけでイジメを促し、ほぼ三年生になってから前日まで見て見ぬふりをしたというわけでしょ? 直接手を下してない分、イジメっ子よりタチが悪いよ」
「…………うぅ……」
手をギュッと握りしめ、制服のスカートをつかんでいる。その姿は、頭の上に乗っかった罪という岩を必死に耐えているみたいだった。
「五十嵐さん、いい加減に……」
「羽佐間は優しすぎるよ! どうして怒らないの!」
そのときの迫力は、つい数時間前に自分の身体へと戻った際に見せたときのそれとよく似ており、百パーセント怒ることができず、いろんな感情がおもちゃ箱の中身のようにごちゃ混ぜになっている。羽佐間は自分自身でもわからなかった。こういうときにどうすればいいのか。今まで散々憎しみをたぎらせるとかなんだとか言っておいて、燐音の事情を知ったら手のひらを返してしまった。もし事情を知らなければ、葉純さんの望むとおりにできたのだろうか。
……いや、そうじゃないだろう。望むとか望まないとかじゃなくて、自分自身でもわからないわけがなくて、本当はずっと答えを知っていた。話を聞いていて分かったことがある。自分は憎しみや怒りより、それ以上に『感謝』していたのだ。正常な人間と同じように接してくれた、唯一無二の存在だったから。無意識のうちに燐音を特別扱いしていたのだ。だとしたら合点がいく。
でもそれでいいのだろうか。
それが燐音のためなのだろうか。
答えが分かっているのに口に出せない自分は、誰よりも臆病風に吹かれていた。
「……私は、あまり人に対してえらく言えないけど、これだけは言わせて」
スッと葉純さんは燐音の近くに身体を移動させる。下をむいたままなのは、これから言われる一言が、自分の中で一番の傷をほじくるからだろう。
「羽佐間は、あんたの自己肯定感を満たすための道具じゃない」
「……!」
燐音はカッと目を見開き、その端からは小さく涙の粒が押し出されるようにして出てきた。
「五十嵐さん!」
羽佐間は須臾に手を差し出したが、その時にはもう燐音が走り去ったあとだった。途中、コンッと何かがアスファルトの上を跳ねるような音がしたので寄ってみると、かつての自分がプレゼントしたであろう白いライラックの髪留めが落ちている。衝撃で花弁の一部が欠けていた。
「ねぇ羽佐間」
「…………」
髪留めを拾い上げ、羽佐間は立ち尽くす。振り返ることなく、葉純さんの言葉を受け取った。
「愛と依存を履き違えないで」
「……!」
――待ってって言ってるでしょ! どうして一人で抱え込むの? 私が、こんなに近くにいるのに!!
――すべて、委ねてイイんだよ……? だって私は、ずっと羽佐間の味方なんだから。
あの言葉は本当であり、ウソでもあった。
きっと燐音のことだ。あのイジメっ子たちにちゃんと加減を考えて羽佐間をイジメるように言っていたのだろう。だからこそプチいじめなんて造語を使ったんだ。こんなはずじゃという言葉にも腹落ちする。確かにやってきたことはダメだ。まず前提としてどんな理由であれイジメが肯定されていいはずがなく、それが特定個人の身勝手な理由ならさらに罪が重くなる。あまりにも非常識、恥知らず、許されざる行為だ。そのはずだ。
そうやって――割り切れたらどんなに楽だろうか。
愛ゆえに罪を犯し、愛ゆえに道を踏み外し、愛ゆえに選択を誤る。それらを美徳と片付けてしまうほど愚かではないが、羽佐間自身、なにも心当たりがないわけない。むろん葉純さんの件で、だ。今まで燐音のことは知り合いとしか見てなかった。知り合いより上の関係で呼ぶことができなかった。そのせいか、話してくれた燐音の歪な家庭事情や誕生日プレゼントでさえも、すっかり頭から抜け落ちていた。
もし自分が燐音と同じ立場だったらどうだろう。間違いを犯さずにいられただろうか……なんて、ここで即決できないということは、八割方答えは出ているようなものだった。まるで奴隷みたいだ。それを手に入れるためなら手段を選ばない、選べない哀れな存在。
オレには燐音の気持ちがわかる……なんて大層なことは言えず、一人になった足音が帰宅するまで夜を鳴らしていた。
*
燐音の告白から四日が過ぎた。暑さはこれから夏にさしかかるだけあってどんどん上がっており、風は浴場内のようにムワッと生暖かい。もうちょい春に季節の椅子を譲ってあげてもいいと思うのだが。間に土日の時間を挟んだものの、その時に葉純さんとの会話はほとんどなかった。一応補足するが、決して仲が悪くなったというわけではない。お互いに考える時間が欲しかったんだと思う。しかしながら羽佐間は、許すか許さないかの答えを出すことができずにいた。
このまま一人で考えていても埒が明かないと思い、思い切って燐音に話しかけようとしたが、土日以外の出席日はすべて学校を休まれるという荒業により阻止されてしまった。言うまでもないが、やはり思うところがあるのだろう。
とはいえ、このまま手をこまねくわけにもいかないので、羽佐間は思い切って学校に行く直前、葉純さんに頭を下げて頼み込んだ。要件を聞いた葉純さんは、半ばあきれたような口調でしゃべった。
「ハァ? それって正気?」
「頼む! 自慢じゃないけど、今まで燐音以外の人間とまともに付き合ったことがないから、こういうときどうすればいいか分かんなくて……だからお知恵を!」
ずっと考えあぐねて答えは出なかったけど、太陽が東から昇り、南を通って西に沈むくらい、紛れもないことがある。それはこのまま、燐音と疎遠になるのは嫌だということだ。それほどに思い出が羽佐間にとって特別なものとは、以前に説明しただろう。
好意に応えることは難しい。でもせめて仲直りしたい。また一緒に、コンビニスイーツを買って食べるような、そんな関係に戻りたい。そう思うのは、ワガママなのだろうか。
「お知恵をお知恵なーい」
「やかましいわ」
せっかく熱意を込めて燐音との今後を考えたつもりなのに、その一言で今までのやりとりがコントに思えてしまった。葉純さんはツボに入ったのか、うつむきつつ声を殺しながら笑って羽佐間の肩をバシバシとたたいてくる。いやいや、そんな面白くないぞ。
「ウソウソ。彼氏が困ってるときに手を貸すのが彼女の役目だからね」
「……ありがとうございます」
「それに……あんなこと言われちゃ〜ねぇ〜」
葉純さんはニヤニヤと悪巧みをしていそうな笑みを向けてくる。
「あんなこと? あんなことって……」
なにか変なことでも言ったのだろうか。少なくとも悪口は言っていない気がするし、葉純さんはガツンと息を吸い上げ、聞いているこっちが恥ずかしくなるほどに熱の入った声色で放った。
「隣に立てるくらい、かっこいい彼氏になりたいです!」
直後に頭の芯が沸騰して茹で上がったような感覚に陥る。その正体が羞恥心と知った頃には、羽佐間は耳まで真っ赤にして葉純さんの言葉を止めようとしていた。
「ちょちょちょちょちょちょ! 五十嵐さん! タイム! タァァァーイム!!」
自分のやった行動にウソはないと思っているが、それが他者の口から語られるほど、つ◯の剛士、上◯雄輔、野◯保直樹の三人を刺激されることはない。羽佐間は両腕を大きくT文字に突きだした。
「? どうしたの? そんなシ◯ア専用みたいな顔して」
「誰のせいだと思ってるんですか! あれはその……その場の勢いというか……気合を入れるというか……」
あ、やばい。目を見て話せない。恥ずかしー。誰かヘルプミー! って、そんな人間関係は形成してなかったワ。
「つまり、全部がウソってこと?」
小首をかしげているが、その顔は根っから疑ってかかっているとは思えないほどに勝ち誇ったスマイルだった。極刑レベルに犯罪的でかわいい。
「いやそうゆうわけじゃなくて……あの、その……うぅ……」
力なく下を向くと、「よーしよーし」と赤ちゃんをあやすように頭を撫でられた。見た目は同世代なだけに、ものすごく恥辱的な気持ちになる。でも一方でちょっと興奮したのは内緒だ。
「まぁまぁそんな落ち込まないで。話を戻すけど、ちゃんと羽佐間の力になるつもりだから。黒船に乗ったつもりでいていいペリーよー」
後半の葉純さんの鼻が高くなったように見えた。ていうか語尾ひどすぎだろ。
「そこは大船じゃないんですか」
「同じようなもんじゃない? 知らんけど」
「適当だ……」
「それに私は、」
その言葉以降、しばらく間があったので、登校時間が迫っていることから羽佐間は玄関に行き扉を開けようとしたその時、
「羽佐間の隣に立てるくらい、可愛い彼女になりたいから」
とおくめんもなく言われてしまい、羽佐間はハートを矢で乱れ撃ちされてしまった。十分の遅刻を余儀なくされた。
授業中、休み時間と羽佐間の頭の中は常に燐音とどう仲直りするかを考えていた。それは葉純さんも同じだった。教室の天井付近を何度も旋回しながら「ゔーん……」とうなるような声を出し、ずっと腕を組んでいた。燐音の方から言わせるのは難しいだろう。なんならこのまま縁を切られそうな勢いだ。自分から直球で言うのもなんか違う気がするし……と考えたその時、ついに葉純さんが「あっ」と間違いなく何かを導き出したような声を出した。さすが自分よりずっと年上なだけある。
「唐揚げ食べたい」
裏切るまでの時間が早すぎないか?
次の瞬間、羽佐間の身体は葉純さんにより乗っ取られてしまい、霊体となって追い出されてしまった。昼休みに屋上で弁当を食べてる際に起きた事件であった。
「ちょっと! 何するんですか!?」
「だってしょうがないじゃないかぁ。羽佐間の食べてる弁当がおいしそうに見えたからぁ」
「そんなえ◯りかずき風に言っても許されることじゃないですよ。どうするんですかあと一時間」
悲傷な顔貌を浮かべている羽佐間なんて歯牙にかけず、葉純さんはバクバクとハイテク掃除機の勢いで唐揚げ弁当を食べすすめていく。そのついでににんじんを食べてくれるのがありがたかった。
「この唐揚げすっごくおいしい! 生姜がたっぷりはいってて、食べれば食べるほど健康になりそう!」
葉純さんは目を輝かせながら、美味しすぎて頬が落ちないように片手を添えている。それをみて羽佐間は、昨日自分のかわりに教科書や鉛筆などを取りそろえてくれたお礼としてなら別にいいかと思った。
「そう、ですか」
咀嚼して、舌で味わい、のどを使って飲み込む。これらは生きている人間だからこそ文字通り味わえる特権であり、死んでしまったら最後、二度と自分が大好きな食べ物はもちろん、この先もずっと食べることなんてできないだろう。葉純さんみたいなイレギュラーを除けば、それが普通のはずだ。羽佐間の肉体に入った葉純さんは、天にも昇りそうなほどに幸せな顔つきをしていた。もう昇ってるだろってツッコミはなしな。自分ってこんなふうに笑うことができるのかと、ちょっと感心した。
最後の唐揚げが葉純さんの口に運ばれていく。その様子をみて、羽佐間は無念さよりまず早朝の出来事を思い出していた。
毎日のイジメがなくなった今、弁当は毎日自炊している。母が料理しない分、自分の方で勝手に成長した感じだ。今日も今日とて早起きし、仕込みをしようとしたのだが……なんの断りもなく、何故か母が料理作りを手伝いに来たのだ。どういう風の吹き回しだと思った。しかも手間暇かかるからあげというチョイス。朝起きてすぐなのか、寝巻きのままで、短めの髪の毛は寝癖が立ちまくっていた。
唐揚げは羽佐間の二番目に好きな料理だった。葉純さんに食べられる前に一つだけ食べることができたのだが、これがまたドンドンと涙腺を刺激するような味わいだった。志村家特有なのだが、ニンニクよりショウガの旨味や主張が強く、逆に食べれば食べる程に健康に近づく気がした。
どうして今日になって作ろうと……
なにかしらの記念日だろうかと考えていると、葉純さんがもう一つのおかずのベーコンをあーんしてきた。もはや解説するまでもないが、幽霊は食事や排泄などが無用なタイパ万歳のボディを持っている。でもそれを知っていてあえてネタに乗っかるというのも彼氏の仕事? だったりするのだろう。羽佐間の予想通り口を開けて顔を近づけると、その前にパクリと口の中で消失マジックを披露してきた。その時のしてやったりとした顔が額縁に入れたいぐらいには反則級に可愛かった。
「仕方がないから私が代わりに授業を受けてあげよう。なーに、心配することはない。私のIQは五十三万です」
胸をポンと打ちつけ、ドヤ顔を浮かべる葉純さん。相手目線から自分のいけ好かない顔をみるというのは、直視しかねる。
「その発言の時点でIQ五十三なのが確定しましたよ」
羽佐間の言葉から逃げるように葉純さんは、話題を転換した。
「そういえばいろいろ考えたけど、柏木さんと仲直りする方法なんて思いつかなかったよ」
……急に場の空気がしんと静まる。言葉に詰まってしまう。
「そう、ですか……」
ふと、別にこのままでもいいのではないかという考えが脳内を通過する。だがそれを受け入れてしまっては昔と同じだ。
「柏木さんにそれほどのことをされたって自覚、ちゃんとある?」
「……ああ、授業中も考えてた」
そんなに時期が経っていないだけあって、羽佐間は今でもありありとイジメられていたときの記憶を掘り返すことができた。殴られた痛み、蹴られた痛み、多分これらは、生涯消えることのない傷として心の奥に溶け切らず残る確実性がある。それが暗雲を放出し、自分の人生に陰りをもたらすだろうと。しかし過去に縛られてばかりではいけないように、少しでも前に進みたい。イジメっ子と戦った時も、そんな弱かった過去から少しでも逃れたい気持ちあってこその行動だから。燐音に対しても例外なく動きたい。
「その上で……って、こっから先は言うまでもないか。今悩んでるのが、何よりの答えになってるし」
「…………」
上を向いた葉純がまた「あっ」と言葉をもらす。唐揚げはないので、たぶん小◯製薬かと思ったら違った。
「確か柏木さんと知り合った時期が中学二年の時なんだっけ?」
「話を聞いた限りでは……そうですね」
その時の記憶は曖昧だが、燐音は違うんだろうなと思った。
「その時羽佐間は詩集を読んでたんでしょ?」
「それが……どうしたんです?」
質問には答えず、代わりにニシシと夏休み数日前の活発な少年みたいな笑顔を作ってからフィンガースナップをして、「決まった!」と宣言した。
なにがというより先に、葉純さんは人差し指と親指を口の中に突っ込み、空気を吹き込むような仕草。口笛のつもりなんだろうが、音が何も聞こえない。まだ初心者なのだろうと思っていると、屋上のフェンスがカチャカチャと揺れる音がして、通常なら風と思うかもしれないが、羽佐間はそうでないと断言できた。幽体離脱なんて力を持ってしまったからかもしれない。
「葉純の兄貴〜!」
嬉しそうな声と嬉しそうにションベンを漏らしながら近づいてきたのは太郎だ。そして一メートルほどソーシャルディスタンスをとっているた太郎。時折豚の死骸を見るような目つきを向けており、それは羽佐間も同じだった。だから太郎なんて名前よりお似合いのがあるだろう。
「げっ、妖怪ションベン漏らし」
「そんな名前じゃねぇよっ! オレさまには太郎っていう立派な名前があるんだぜっ! 芸術家だぜぇ〜」
太郎は覚えたての知識をひけらかした五歳児みたいな得意顔を浮かべた。
「お? じゃあ一回爆発してみる?」
たまたま近くにあったバズーカ砲を構えると、太郎は毛を逆立てて歯をむき出しにした。
「なんだテメェ? やんのかテメェ?」
ガルルルルと羽佐間に噛み付くまで秒読みになっていたところを、た太郎が仲裁に入った。
「まぁまぁ、僕たちを呼んだってことは葉純兄さん、何か『任務』があるってことですか?」
任務という言葉が気になったが、それよりもこれから放った葉純さんの言葉が、周囲一体の思考を氷漬けにしてしまった。
「そう。今からみんなで……『仲直りしたくなる俳句』を作るんだ!」
両手に腰を当てつつ、至って真面目な顔だ。それがより一層謎を深めていった。深すぎて下部マントルに届きそうな勢い。
「「「………………………………………………ハァ?」」」
一人と二匹の声が被った。一人の方は目が細胞レベルまで点にして、二匹の方は主人に去勢手術をすると告知されたような面をしていた。葉純さんいわく過去の羽佐間が詩集を読んでいて、その頃に燐音と出会ったのだから、それになぞって似たようなことをすればいいのではないかというふわっとしたものだった。
「じゃあ詩を作るのは?」
「ダルいから無理」
羽佐間の提案は悪・即・没にされてしまった。いいのかよそれで。でも反論したところで代案なんてないし……
そうと決まったら、決まってしまったら、早速葉純さんは透過する能力で教室がある下の階に潜っていった。それから一分半ほど待たされると、「お待たせー!」と手には俳句を書くときによく使いそうな細長い紙とペンを携えている。どこからガメてきたのだろうか。
「テーマは仲直り! 思わず仲直りしてしまいたくなるような面白……じゃなかった俳句を考えよう!」
「え、今一瞬面白いって……」
羽佐間は悪寒が走った。あかん気がする。
「できたぜ! 傑作がよォ」
器用にもペンを口にくわえた状態で文字を書いてみせた。そういうところは尊敬できる。太郎は音読した。
「仲直り あー仲直り 仲直り」
ごめん、やっぱり撤回しよう。こいつは糞だ。
「だと思ってたよ!」
「なんだ? ついに羽佐間も俺様の魅力に気づいちまったのか」
フンと黒い鼻を鳴らし、誇らしげな顔をしている。こいつは定期的にイキらないと死んでしまう病なのだろうか。いやもう死んでるんだけどさ。
「その逆だよ。バカも休み休みいいなよ」
羽佐間の言葉に対し太郎は不服なようで、ガンをつけてきた。
「そんなはずはないぜ! この俳句はとある有名な作品からイントローションを受けて作ったんだ。だからもちろん高評価だよな? 葉純の兄……」
いちいち言葉が違うなんてツッコむのもアホらしい。
「おごるんだ 金で一発 解決だ」
その考えが葉純さんと一致していたのか、太郎の言葉を無視して作品を発表してきた。ナイス。
兄貴〜……と遠吠えのようなどこか悲しげで哀愁のある声が屋上にこだました。葉純さんにしてはえらく現実的だ。
「おごるって、具体的には何です?」
「うーん、家かマンションの二択で迷ってるんだよな〜」
清々しいくらいの非現実!!
「そんなお金、学生のオレが持ってるわけないじゃないですか!」
「えぇ〜持ってないの〜? ケチンボー」
葉純さんは眉をひそめ、口をすぼめながら言う。うっかりキスしそうになるからやめてほしい。
「なんだよケチンボって。もうそれ死語ですよ」
「しゃあないぜ。こうなったら我が弟に我らの命運を託すしかないぜ。死ぬなよ!」
もう死んでるわ。そんなに壮大なことではないと思う。おそらくこの中で一番の真面目であり、普通属性のた太郎。頼む! この腐った流れを変えてくれェ!
「すみません、ハイクってなんですか?」
「おバカ属性二匹目ぇ!!」
一度も使われていない消しゴムのような、汚れなきまっすぐなまなざしで言ってきた。まさしく義務教育の敗北と口にしかけたが、犬相手には間違った言葉遣いだと気づく。葉純さんからざっくりと説明を受けたあと、満を持して、た太郎が「できました!」と名乗り出た。今度は大丈夫……だよな?
「正直に 仲直りしたいと 言えばいい」
……それができれば苦労しないんだよな……と口では言えないので、「な、なるほど、ね」と羽佐間は笑顔を取り繕いながら回答を受け流した。予測はできていたが、今のメンバーでいい案が絞り出されることはなく、あっという間に昼休み終了十分前まで経過してしまう。周囲に諦めムードが漂い始めた頃、突如として葉純さんが奇妙なことを口走った。
「そろそろ隠れてないで、君も出てきなよ。怖くないから」
「? 五十嵐さん、誰のこと言って……」
葉純さんの目線の方向が屋上に入るためのドアの方向だったので、羽佐間もそれに合わせる。するとちゃんと閉めたはずのドアが片目でのぞけるくらいには開いていて、そこからかすかにブンブンと犬のふわふわとした尻尾が左右に動いているのが見えた。太郎たちと同じく半透明であることから、この世ならざる存在であることがわかるが、姿を見せるのが恥ずかしいのか、近寄ってくる気配がない。
犬は疑いもなく二匹までしかいないと思っていたが……昨日の授業の時にもらった手紙の内容を思い出す。実は三匹目がいたと遅れて理解できた。あの時は自分の時間が切り取られたような錯覚に陥っていて、文章がちゃんと読めていなかったのだ。たしか名前は……思い出せない。
「あれ? 珍しいぜ。あた太郎のヤツ、いつもなら呼ばれても来ねぇのに。もしかして俺様の魅力に気づいたか?」
なんか胸に七つの傷でも持っていそうな名前だな。
俳句作りに飽きたのか、鉛筆を猫がボール遊びをするようにコロコロと転がしながら時間をつぶしている太郎。しかし口調だけはたまげた様子だった。
「それは低体温症の松岡修造よりもありえないとして、本当に珍しいですね。しばらくぶりに姿を見ました」
同じくたまげたような声を発するた太郎。ドアと俳句の札を交互に目を配りながら忙しそうだった。するとあた太郎と呼ばれる犬がこちらに歩み寄ってくる。照れくささを克服してくれた――と思ったが、頭隠してなんとやらという言葉に一部則って、文字通り身体と尻尾と四本の足だけしか目視できなかった。さながら首を切り落とされて動いているクリーチャー。
羽佐間は初めて幽霊を目撃して驚きの反応をするといお約束をやってのけた。きっと葉純さんにケラケラ笑われているのだろうなと顔から火が出そうになっていると、目もくれず真剣な表情で俳句を考えていた。
なんとなく理由が気になったので訊いてみると、なんとあた太郎は今この瞬間よりずっと前、なんなら葉純さんと再会した時期が一緒だったと説明された。ずっと頭がないデュラハン状態で、羽佐間のこれまでの様子をじっと観察していたのだ。
「頭が消えているのはどうしてです? まさか、生前の飼い主がイカれたサイコパスで、首を、きり落とされて……」
口元に手を当て、言いながら羽佐間は恐怖に震える。それを葉純さんはいかにも軽い調子で、平手を左右に振りながら笑い飛ばした。
「大丈夫大丈夫! そんなホラーなもんじゃないよ。あれはただ『霊力の操作』で身体の一部を消してるだけだから」
「霊力の操作?」
「そうそう。例えば……」
パチンッ と指を鳴らした瞬間、まさに光のような瞬速で、葉純さんの頭が、消えた。いともたやすく行われるえげつない行為。
「ギャアアアアアア!!」
と喉から無理やり悲鳴が引っ張られてくる。再び葉純さんがパチンッ と指を鳴らすと、今度は頭がきちんと胴体に繋がっていた。たった数秒にして創造と破壊を見せられた気分。
パチンッ と音が鳴らされ、またもや頭が破壊された。
「ギャアアアアアア!!」
パチンッ 創造された。
「ふぅ……」
パチンッ 破壊された。
「ギャアアアアアア!!」
パチンッ 創造された。
「ふぅ……」
パチンッ 破壊された。
「ギャアアアアアア!!」
パチンッ、パチンッ、パチンッ、パチンッ、パチンッ、パチンッ、パチンッ……
「照明のスイッチかァ!!」
かくして、その一言がきっかけとなり葉純さんの人体消失マジックは終焉を告げたのだった。さすがにやりすぎたと思ったのか、苦々しく笑っていた。
「ごめんごめん」
ガハハと太郎は葉純さんと羽佐間の一連のやり取りをみて、ションベンを垂らしながらあごを外している。クソっ、よりにもよってコイツに笑われるのはムカつき度の上昇がレベチだ。
「とまぁこんなふうに、私くらい高位の存在になれば、姿を消すくらい余裕ってわけ。すごいでしょ」
軽妙に笑ってみせる葉純さん。すごいと思ったのは本音だが、ただでさえ幽霊という姿を消している存在なのにさらに消すって、そんな重複を許していいのかと思う。あと使いどころが分からない。お化け屋敷ならワンちゃん?
「心臓に悪いんでやめてくださいよ!」
「ガハハハハハハ! あれぐらいでビビって兄貴の彼女とか、みぞおちで茶でも沸かすのか?」
「糞兄、へそだよへそ」
舌を出しながら前足を手のようにして、お腹を押さえながら太郎は爆笑していた。そろそろやるか? バズーカ。
「ぐ、ぐうの音も出ない。けどそんな力、どこにあるんです?」
霊力なんて言葉を聞くと、つい架空の物語の世界観を想像してしまう。主人公が血反吐を吐くような努力を重ねて、最初は弱くても場数を踏んで強くなっていくみたいな。
「うーん、説明するとややこしくなっちゃうんだけど……結論から言うと、『どこにでもあってどこにもない』、かな」
「なるほど、わからん」
葉純さんは「だよねー」と言うかわりに苦笑を浮かべた。
「そう、だなぁ……例えばだけど、酸素って地球上どこにでもだいたいあるでしょ? けど実際の姿を見た人は誰もいない。だって目に見えないから。それと一緒で、霊力は特別な努力をしなくても身体に吸収されるの。そしてそれが、私や太郎たちにとってなくてはならないエネルギーになるってわけ」
「人間が酸素なしじゃ生きていけないのと同じってわけか……ちなみにですけど」
「ん?」
「さっきからずっとあた太郎がしゃべらないことも、霊力の操作と関係あるんですか?」
「…………」
羽佐間の発言に対して、葉純さんはやれやれと肩をすくめた。つまりそういうことなのだろう。その死人モードは俳句の中でも同じで、たった一つの作品の例を挙げると「・―・ ・―・・ ・―・ ・―・・・ ――・」のモールス信号だった。ネットで記号を調べてみると『仲直り』と書いてあった。
ダメだコリャ。
「うーん、どうしてこうも上手くいかないんだ〜?」
鉛筆を鼻と口の間に挟みながら、視線を上に持ち上げる葉純さん。そもそも仲直りしたくなる俳句作りという企画そのものがよく分からないし、メンバーが奇天烈すぎるし……という意見は羽佐間の中で飲み込んだ。他にも「ショッピング 二人で回れば バッチグー」や「ベッドイン ギシギシアンアン きっといい」や「料理して 心ぽかぽか 温まる」や「仲直りしても一人」や「―・ ――― ―・・ ――― ――・」など昼休みが終わるまでにそれなりにアイデア? が出たが、イマイチピンとこなかった。
太郎は鉛筆遊びにも飽きたのか、バカの一つ覚えのようにマーキングで顔を描いていた。た太郎は目をこれでもかと開き、真摯に、真剣に考えている様子が見た目から伝わってきていた。しかし現実としてネタが追いついていない。あた太郎は何が面白いのか……終始何も語ることなく、取り憑かれたように羽佐間をガン見していた。
もしかしたら鼻くそがついていることを無言で教えてくれているのではと考えたが……もちろんそんなことはなかった。じゃあ耳クソ? ヤケクソ? どっちだ?
……どうして自分はこんなにもあた太郎のことを考えているのかと思考したものの、答えが出ることはなかった。昼休みの時間はとっくに過ぎていた。
*
その後は葉純さんが燐音に話しかけようとしたが、まるで忍者のような速足で逃げられたり、女子トイレに入られたりとなんの成果も得られなかった。放課後は昼休みで酷使した脳細胞により気力が出ず、羽佐間はダラダラと時間を浪費してしまった。時刻は午後六時。だいたいいつもこの時間に夕食を作ったりする。今日は豚肉がのこっていたからそれと玉ねぎとうどんを合わせて焼きうどん……なんて羽佐間は考えたものの、頭がそれ以上うまく回らない。おまけに身体が砂袋のようにだるく、重たい。動けない。
ブドウ糖だ。ブドウ糖が欲しい。そのためには甘いもの、すなわちスイーツが適役だ。昔ならフラッとコンビニに行って買うことができたものの、今では遠慮してしまう。少ないはずなのに、量が多いなと思ってしまう自分がいる。今の年齢で重たいと思ってしまうなんて、先が思いやられた。
もう一人と一緒に、誰かと一緒に――燐音と一緒に食べたいなと思った。思えるようになったと言い換えるべきか。
ひょっとして燐音も同じようなことを考えていて、いままさにコンビニに……なんて淡い期待を抱きながら、羽佐間は部屋のドアを開けてすぐ――ピタリと身体が静止した。
廊下に出た瞬間、飛び込んできたのは、何度も嗅いだことのある匂い。一番好きなおかずの匂い。羽佐間の鼻の奥がビリッとしびれた気がした。
考えるより先に足が動く。階段を下るほど音が騒がしくなる。食堂とキッチンがくっついた空間のドアを開けると、より強く匂いが鼻腔をなぞった。
「…………ッ」
なにも言えず、立ち尽くしていた。バシャバシャと皿洗いをしている母の姿が最初に目にはいる。その次は、テーブルに置かれた料理の数々。コショウが散らされたマッシュポテトと、食べやすい大きさにちぎられたレタス。角切りのベーコンやタマネギ、ブロッコリーなどが入ったコンソメスープ。そして……羽佐間が一番好きな食べ物である、ハンバーグが置かれていた。
その形はレストランや市販品でよく見かける丸形や小判形ではなくて、そのどちらにも属さないような、いびつな形をしている。久々に料理したのだろう。前はもっと上手かったのに。
でもこれはこれで、手作り感ある我が家だけのハンバーグ……と考えて気がついた。今日は――志村羽佐間の誕生日だったのだ。
「おめでとう」
と羽佐間の顔を見ることなくセリフを吐く母。黙々と皿を洗い続ける音が続いていく。父がまだ生きていた頃を最後に、長らくそんな家族っぽいことをやっていなかった。おかげですっかり忘れてしまっていた。
天国の階段を十八段も昇った日。
今更母親ヅラかよという言葉を直前で飲み込む。きっと葉純さんと出会う前なら衝動的に言ってしまっていたのだと思う。心を落ち着かすようにゆっくりと席に座る。
皿の隣に置かれたナイフとフォークを使い、ハンバーグを切り開いてみると、すると中から白いトロっとしたなにかが肉汁と一緒にジュワリとあふれだした。チーズだ。
それと同期するようにして、昔の何気ない日に母がハンバーグ作ってくれていた記憶が脳裏にあふれてきた。幼い羽佐間が、「チーズ入れて」とエプロンの袖をつかみながらねだってるときの光景がよみがえる。一緒に作ったこともあった。手でこねるという動作がお気に入りで、調子に乗った結果、床にひき肉をぶちまけるというハプニングもあった。
付け合わせのにんじんが嫌いで、いつもどけていた。何とか一つだけをジュースをがぶがぶ飲みながら平らげると、あとは全部母に食べてもらっていた。それを見て父は「いつか味の美味しさに気づくぞ」なんてバカなことを言っていた。
今でもにんじんが一番嫌いな食べ物だ。
「……いただきます……」
フォークでハンバーグを刺し、口に含む。二、三度ゆっくりと噛んでから、ゴクリと飲み込んだ。ひき肉たちのわずかなすき間から絶えずして肉汁が口内にあふれだし、かかったデミグラスソースの材料であろうバターのコクやうまみ、ケチャップの酸味、ブルダックのウスターソースが実によい仕事をしていた。あごが落ちてしまいそうなほどにおいしい。
そこにチーズがあるのだからまさに鬼に金棒だ。
ゆっくりと味わうように食べていたが、身体は長らく摂取していなかった栄養を摂るかのように図らずも早くなってしまう。気がつくとのどに詰まってせき込むほどに、食べ物を口にしていた。
母が「大丈夫!?」と急いで水を汲んできて飲ませようとしてきたが、それより早く事前に置かれた水を飲んで落ち着く。羽佐間は言語を覚えたてのカ◯ナシのように拙いながらも、
「お、いしい、よ、」
といった。気恥ずかしさから母の顔をみることができない。いつも葉純さんと話しているときのようにいかず、ところてんを無理やり穴から押し出すようにしてしゃべった。生きている人との会話すらロクに怠ったせいもあるだろう。
「…………」
それにしてもさっきからずっと沈黙が続いている。いいかげんうれしいの一言でも言ってほしいと思い顔を上げると――母は泣いていた。眼鏡のレンズ越しに、涙が反射して光っている。
え? え? え? と羽佐間はなにか悪いことを言ってしまったのか脳内で早急に検索をかけていると、
「今まで、ごめんね」
その七文字の発音は、羽佐間が今まで聞いた母のどんな言葉より小さかったが、他のどんな言葉よりも重く鼓膜にのしかかった。
羽佐間の顔の位置が固定され、母と目が合う。久しぶりに見た母の顔は、想像以上に老け込んでおり、ほうれい線が掘られた頬や目元のパーツだけ見れば、シニア世代の人たちと大差なかった。
老いても、醜くなっても、地に足をつけて立派に生きている母。それに対し自分はかつて、屋上にてその命を散らそうとしていた。自殺しようと思ったあの日、母や燐音からの連絡を無視した罪悪感が押し寄せてくる。羽佐間はまるでのどにつっかえていたものを吐き出すようにして口を開いた。
「こっちこそ、ごめん」
続けて言葉だけの謝罪じゃ足りず、一度席を立ってから深々と頭を下げた。「ラインの返信遅くて、心配かけた」と言葉を付け足して。
「ちょ、ちょっとやめなさいよ」
と上から声が降ってくるが、そのさらに上をいくようにして羽佐間が大声で叫んだ。
「そこまでのことをしたんだ!」
このときの脳内には、あとから見返したラインの内容が鮮明と展開されていた。
――もしかして事故にでも遭ったの?
――せめて既読だけでもつけて
――今まで母親らしいことが全然できていなかったお願いだから一言謝る機会欲しい
特に最後のメッセージは、あまりにも羽佐間の心をえぐるようだった。
――母さんを、ひとりぼっちにしないで
燐音もおおむね同じようなラインだった。一人ぼっちの苦しみは、今までの経験からそれなりにわかっているつもりなのに、よりにもよって肉親にそれを強制しようとしていた事実に震える。まるで遅効性の毒のようにじんわりと、身体全体を蝕んでいった。
「オレ……あの日の夜、連絡がつかなかった日の夜、死のうとしてたんだ」
「……!」
声にならない叫び声が聞こえた気がした。
「学校に行って……屋上に行って……飛び降りようと、して……死んだら、永遠になれるなんて幻想抱きながら……だから!」
罪悪感に頭を押さえつけられるように土下座しようとしたその時、パシッと腕をつかまれる。自分よりも少し小さくて大きい母の手。
羽佐間は上を見上げる。母は無言で、ゆっくりと首を左右に振って見せた。グイッと持ち上げられ、立たされる。
そして母は腕を四、五回軽くもんでから小さく「お父さんのみたい」と微笑んだ。手を離す。
その後緩慢な足取りで自分の席に座ってから、両ひじをテーブルの上につき、さらにその上に顔を乗せた。視線を左上に向けつつ、ポツポツと口を動かし始める。
「覚える? 昔家族全員でハンバーグ作りしたときのこと。羽佐間ったらしょっちゅうチーズ入れてチーズ入れてなんていうもんだから、すっかり買い物の時にチーズを買うクセがついちゃって。でもなかなか使うタイミングがなくて。
それと羽佐間って昔は食いしん坊だったでしょ? たしかフライパンぐらい大きいハンバーグを作ったものの、外側は焦げて中身は生焼け、なんてことがあったじゃない。もちろんチーズなんか固形のまま溶けちゃいない。失敗して泣いてるあんたに、あたしとパパで作り直して、山分けして……楽しかったな〜」
母は嬉々とした表情の中に、同じくらいの悲しみと苦しみをブレンドさせていた。母も母なりに父の死と向き合っていたのだろう。自分の知らないところで、見えないところで、ずっと戦っていたんだ。
在りし日の思い出を一通り語ると、母はキッチンの方へ向かっていった。大皿を用意し、なにかを盛っている。
自分の席にその大皿が置かれた。そこにはなんと、嫌いなにんじんの輪切りが、例えて言うなら罰ゲームのように盛り付けられていたのだ。
「今まで残してきたツケ、ちゃんと食べて返しなさい」
ポンと軽く背中を押される。
「……!」
母の意図を理解した羽佐間は、再度席に座ってから、フォークでにんじんを刺す。昔は塩ゆでだったが、少しでも食べやすくしてくれたのか、フライパンに残ったデミグラスソースとハンバーグから出た肉汁の混ざったソースで煮込まれた一品に仕上がっている。
頬が俄然ぴくつき、鼻が曲がりそうになった。デミグラスソースがかかっていたとしても、その奥にある独特の臭いがまだ隠しきれていない。
けれども、羽佐間は食べた。最初は呼吸を止めつつだったが、感触や苦みが広がるうちに止めるのすらしんどくなっていく。
おいしくない。
こんなのを好んで食べるウサギは、物好きにもほどがある。
けれども、また羽佐間は食べた。
うまくない。
でも、一生懸命に噛んだ。噛み砕いだ。
途中で急に味がしょっぱくなり、さらにうまくなくなった。
けれども、またまた羽佐間は食べた。
むしゃむしゃと、一度に二個食べてもなお、にんじんを食べることをやめなかった。視界が溶けたアイスのようにぐちゃぐちゃになっていた。
うまくない。
うまくない。
うまくない。
うま、く……
うま……
「やっぱり、嫌いだなぁ……」
父の死から約九年。羽佐間は母との間にあった溝を、すべてにんじんに変えて平らげてみせた。
最高においしくなくて、最高に幸せな食事だった。
*
部屋に戻ってすぐに広いと感じるのは、やはり葉純さんがいないからなのだろう。なにか危ない目に遭ったりしていないだろうか。なんて言葉は、生きている頃に掛けてあげるべき言葉だったのだろう。生まれる時代が遅かった。
放課後を知らせるチャイムが鳴った頃、急に葉純さんが「ひらめいた!」と目に光を宿したと思ったら、そのネタをゴニョゴニョと太郎たちに耳打ちで聞かせていた。羽佐間も内容を聞き取ろうとしたものの、それより早くみんなでどこかへと飛んでいってしまった。それから五時間以上音沙汰がない。
現在の時刻は八時四十分。いいかげん心配だ。待たされる身にもなってほしい。
ベッドで横になっていた身体をムクリと起き上がらせ、羽佐間は窓の外をみた。もちろんそんな都合よく葉純さんたちが飛んでくるなんてことはあり得ない。
いつもの帰路につく車の群れ。遠くで聞こえる信号機の音。雲のフィルム越しに見えるシルエット気味の月。
「……?」
それで終わるはずだったのだが……羽佐間は、ある一人の制服を着た女性に目を引きつけられていた。ふらふらと千鳥足で、今にも道路に倒れそうな危うさがある。
でもそれだけ。凶器を持っているわけでもないし、創作物に出てくる魔物のように異型の形をした存在というわけでもない。
じゃあどうして?
なんというか……今まで葉純さんと生活してきて、なぜかたくさんいる人の中から、ある特定の人物だけに視線が引っ張られるということがたまにあった。大怪我をしていたからだとか、周りの人と比べてみすぼらしい格好をしていたからだとか、そんな理由じゃない。まるで引力でも働いているみたいに。男が美女に、女が美男に惹かれるみたいに。
そういえばさっきの女性、喧嘩が終わった日の夕方に見かけた人とそっくりだったような……
いやいやいや、そんなはずはない。
とは言いつつも羽佐間は、もう一度自覚した状態で確かめる勇気がなかった。さっさと窓のカーテンを閉めてしまおうと手を動かしたその時、制服を着た女性が自分の方を見てくる。見つめる視線に気がついたのだろう。
早く、カーテンを閉めればよかったと、深く後悔した。
目は、二つではなかった。
十……二十……三十……それ以上の眼球が、身体中に奇抜なファッションのごとくパチパチとまばたきした眼球が、ギョロリとこちらを見やる。複数のレーザーポインターが、一気に自分へと照射されたようだった。
「ヒッ!!」
下から引きちぎるほどのパワーでカーテンを閉め切った。ぐらりと羽佐間の足が敷かれたカーペットの上に崩れる。見えなくなったあとも、依然として心臓が鉄格子を打ちつけるようにして高鳴り続けていた。
なんだ、あれは。
幽霊? 冗談はよせ。幽霊は葉純さんや太郎……
「……待てよ」
そう考えて気がつく。羽佐間は今日に至るまでずっと、葉純さんと太郎たち以外の|この世ならざる存在をみたことがない《・・・・・・・・・・・・・・・・・》と。
交通事故に遭った幽霊、
病気で死んだ幽霊、
自殺した幽霊。
もしかして、もれなくみんな天国か地獄へ行ったということなのだろうか? 葉純さんのように地縛霊や背後霊などの一人か二人ぐらい、いてもおかしくないはずなのに。
羽佐間はまだ知らなかった。葉純さんの交友関係を。知っているのはあくまで今と出会った頃だけ。それ以前のことも……死んだときのことも、なにも知らない。実際に死人である葉純さんに聞けば、きっと答えがわかるだろう。とはいえ話してくれるだろうか。
いや待て。それ以前に話させること自体、デリカシーに欠けるじゃないか。でも知りたい。知りたくない。考えがあっちこっちと途方もなく移動しては、ゴールのない迷宮へといざなわれていく。
「っ!?」
その時、コンコンと扉をノックする音が聞こえた。ただでさえ怖いものを視たあとのせいで、羽佐間はまるで漫画の表現みたいに飛び上がって天井を突き抜けるほどには驚いてしまう。もとより驚いただけで実際には突き抜けていない。母なのだろうか。
続けてゴンゴンと扉をノックする音。要件があるなら別に壁越しでもいいのに……と思いながら、羽佐間はドアノブをひねろうとする。半回転ほど回してからピクリと手が止まった。
本当に回してもいいのだろうか。
どうしてこんなことを考えるのかと自分で自分に疑問を持った。なにかよく分からない力で次の行動に進まないのが嫌で、さっさと回してしまえばいいのにと思えば思うほど、逆に身動きが取れなくなる。その正体は……恐怖心だった。
ゴンゴンとたたく音。たたく音。たたく音。徐々に音の間隔と力加減が上がっていっている気がする。
その予想は当たっていたようで、ゴンゴンと二度たたく音から、やがてドアを蹴破らんとするほどに強く、激しさを増した攻撃へと変化。いつ扉どころか家がふっ飛ばされてもおかしくないと思った。
ガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガン!!!!!
そこでようやく羽佐間の金縛りはとけ、飛び上がるようにして後ろへ退いた。そして母の胸に飛び込む幼子のようにして、布団の中へと潜り込んだ。耳をふさぎ、目を閉じる。
その結果霊体となってしまったが、そんなこと、今はどうでもいい。布団を貫通し、手を貫通し、耳の鼓膜に直接訴えかけてくるような戦慄があった。まぶたを突き抜けてくる映像があった。
もしあの音の正体が、カーテンを閉める直前に視た制服の女性だとしたら……そんなことを考えて、一段と布団を握る力を強める。けど実際は手に布団はなく、握力を強めているだけ。
五分くらいそんな時間が続いただろうか。いつからか自身のタッピングの音しか聞こえなくなり、まず手の力を緩めた。何も聞こえない。続いて布団からすり抜ける。あんなに激しくぶつけるような音が聞こえたというのに、ドアはまるで何事もなかったかのようにたたずんでいた。
怖いのだけは、怖いのだけはダメなのだ。中学生に上がりたての頃、興味本位で深夜にホラー番組を観たことがあった。それがあまりにも怖すぎてトイレに行くことができず、結果としてシーツと布団が犠牲になったことがあるのだ。その後の母にバレないように洗うのもなかなかに骨が折れた。
立ち去ってくれたのか……? なんて、気を緩ませたのが間違いだった。
「ふぅ〜」
耳から冷蔵庫のような冷たい空気が入り込んでくる。今度こそ羽佐間は、漫画でよく見かける表現のように身体が跳ね上がって、その高さが天井にまで到達した。月がきれいなう。
「い、いいいい五十嵐さん! なにすんですか!」
「なにすんですかって、無防備に二つも耳を生やしてる羽佐間が悪いんだよ?」
「人類誰だって耳は二つなんです! ってか生やしてるってなんだよ。耳がない人なんているわけが……」
葉純さんは両耳を指さしている。そこは最初から何もなかったかのように空白だった。霊力操作だ。
「ここにいるけど」
性懲りもなく羽佐間の喉は絶叫を呼び寄せてしまう。そろそろ喉の方が「もう無理ぽ」と悲鳴をあげそうだった。
涙が出るくらいまでバカ笑いされたあと、ごめんと言うように両手を合わせる葉純さん。正直な話、ほんの数秒前まで羽佐間は怒る気でいたのだが、そんな姿をみてしまったら憤怒の感情はすっかりかわいさで上書きされてしまった。
前にも言ったが、本当に生きている人間みたいによく動いて、よく笑う。
…………生きていた頃に、会いたかった。そんな気持ちは、サッと自分でも気づかないくらいの早業で隠してしまったけど。
「どうしたの? 霊体になんかなっちゃって。もしかして、私の身体とか触りたくなっちゃった?」
挑発するような笑みを羽佐間に向けてくる。葉純さんは胸の下あたりに両腕を組むことで胸の部分を強調……しているつもりなのだろうが、いかんせん大きさは目測でB〜C程なので、わけもなく悲しい気持ちになった。
「ち、違いますって! いや、あの……信じてもらえないと思うんですけど、さっき全身が目玉で構成されたような怪物? を視たような気がして……」
「……っ」
その時、葉純さんの目から紫色の光が消えたのを、羽佐間は見逃さなかった。だが、その件に関して触れることはできなかった。怖かったのだ。さっきの出来事をぶり返すようで。だから話題を変えた。
「そういえば五十嵐さん、ずっとどこに行ってたんです?」
純粋な疑問として訊いたつもりだったのだが、葉純さんはどうしてかニシシと小悪魔的な笑みを見せてくる。それはさっきの目から光が消えた出来事を消し去ろうとしているようにも見えた。
「あれ? もしかしてヤキモチ妬いてくれたの? うれしいな〜彼女冥利に尽きるよ〜」
後ろで手を組み、ウンウンと首を上下させながら、いかにも芝居がかった動作で勝手に納得している。
「そこまで言ってないでしょうが」
「ところで羽佐間」
羽佐間の言葉を無視して葉純さんが言葉を放つ。暑いと感じていたのか、窓を開けた。フワッと入り込んだ夜風がカーテンを揺らす。
次の瞬間、意味が分からずその場に硬直した。
「予約したんだ。一番安い航空席を」
「……は?」
固まった身体の脇を通り過ぎて葉純さんは、羽佐間の肉体へと入っていった。そして霊体であるほうの羽佐間の手を握ってくる。ニシシと笑みを浮かべた直後、水泳の飛び込みのようにして窓の外へダイブ。窓枠と壁をすり抜けるようにしてそれに続く。
「え? え?」
これから、いずこへ……
「行っけえええええええ!!!!!!!!!!」
なにもない空中を足で蹴り上げる。すると葉純さんのハイテンションな声と共に身体が急上昇。ブワッと誰かに殴られたような感触が伝わってきたと思ったそれは風圧で、霊体であるはずなのに意味がわからなかった。
理由を考えようとしたが、すぐにそんな暇がないほど目まぐるしく景色が変わっていく。例えるならば、車内の窓から見た近くの景色みたいな高速世界。風にがんじがらめで強く縛られ、今にも散り散りになってしまいそうだった。
見慣れた街の屋根が眼下に広がり、あっという間に後方へと流れていく。通い慣れたスーパーも、公園も、知らない学校も、すべてが光線の一部になる。
高さは七、八階あるマンションよりも高く、真っ逆さまに落ちればもちろん即死。学校の屋上で飛び降りるよりもより正確な死が狙え……ってそうじゃない!
「は、ははは離してください! おお下ろしてくだいいいいいィィィィィィィ!!!!!!!!!!」
慌てすぎた羽佐間は、自分がすでに霊体の仮死状態であることを忘れていた。死ぬことはないはずなのに足をジタバタさせる。そこに「大丈夫だから」と葉純さんのフォローが入り、ほんの少しは落ち着くことができた。彼氏として今のムーブはカッコ悪すぎるだろう。
初めて幽体離脱したとき、勢い余って飛ぶことができたことを思い出す。そうだった。忘れていた。自分はできる子なんだ。ここは冷静に、冷静に、冷静……
都市部を抜け森林地帯に突入したのだが、真っ暗闇の時間限定でのぞくその顔たちは、まるで地球に予兆なく出現したブラックホールみたいで、見る者の意識をすんなりと内方へ引きずり込んでしまった。
「あぅ……」
身体中の筋肉が活動を停止したことで、そのまま真下へ落下しそうになる。だがすんでのところで葉純さんが強く手を握り直したことで事なきを得た。「しょうがないな〜もう」と手間のかかる我が子に対しての親みたいなトーンで話したあと、ひょいと羽佐間の視界が一瞬にしてきり替わる。
「これでよしっと」
小汚い顎がよく見えた。実験に失敗したような空気をたんまり含んだ髪の毛も、パチパチとまばたきするまぶたも、よく見えた。
なぜなら今の体勢は、羽佐間の背中と太ももに葉純さんの両手がある状態……つまりはお姫様抱っこというわけだ。
いやん! 恥ずかしいですぅ!!
――普通逆じゃない? こういうのってオレが葉純さんにやってあげて、より仲が深まっていくみたいな? ラブロマンスが加速していくみたいな? なんで男であるオレの方がときめいちゃっているの? むっちゃ不本意なんだけど。
――しかもよりによって、オレがオレに抱っこされているというこの状況。なんだよ、これ。こんなにオレの顔って近くで見たらキモかったのかよ。嫌なことに気づいてしまった……
「あ、あの、おろして……」
最後の四文字は精一杯声に出したつもりだった。それなりに会話をしてきたから分かる。絶対に聞こえていたはずだ。
だが、あえて流された。
「え? 飛ばして? 羽佐間は欲しがりだねぇ〜」
欲しがりでも干し柿でもねぇ! 頬が引きつるほどわざとらしい笑顔でわかる。まずい! あれは『ヤル』顔だ!
「いや、ちが……」
冗談ですよね? 葉純さん。
――オレ、これ以上スピード出されたら肉体が、意識が、魂が、今度こそ空中分解しますよ? 目的地に着いたらオレの陰毛しかのこってないかもしれませんよ? いいんですか? 一応自分彼氏ですよ? 本当に……
「飛ばすぜええええええ!!!!!!!」
ですよねェェェェェェ――――ッッッ!!!!!
威勢のいい声と同時に、さらに視界の移動具合が早く激しくなっていく。車から即座に新幹線へと乗り換えたみたいだ。
「気持ちいいいいいいいッッッ!!!!!!」
と今まで霊体ゆえに感じられなかった風を満喫している。葉純さんの表情はとてもはじけていて、羽佐間という人間を重ねても逆に浮き出てしまうほどだった。
これから自分はどこに連れていかれるのだろうか。考えても仕方ない。それにまもなく意識を失うことになるだろう。彼氏のくせにかっこ悪いと笑うなら笑ってくれ。できるだけ大きな声で、これが夢だと笑い飛ばしてくれ。
そんなことを思いながら羽佐間は、深い暗闇へのいざないに、静かに応じていった……




