二話 カ霊シとして できること
「あ……ああ、あ」
うまく言語化できなかった。少しでもしゃべろうとするとすぐに度肝を抜かれたショックに邪魔されて音を発することができない。羽佐間の目は中にスイカを入れられるのではないかと思うほどに開いていた。
よく見ると、まゆ毛まで、髪と同じくガラスのような透明感のある真白色。目玉もただの目玉ではなく、奥の方はまるでアメジストみたいに妖しく妖艶な紫色の輝きを放っているように見えた。目立つはずなのに今になって気づいたのは、出会った当時は人の目をみて話すという一般常識ができていなかったからだろう。
本当に幽霊なんだろうかと疑ってしまった。柴犬のように透けているわけでもなく、ちゃんと服や顔などのパーツが余すことなく作られており、唯一生者でないことを識別できるとしたら、足にくっついるはずである黒い主人の従者が見当たらなかったことだけだ。
百七十センチ以上ある羽佐間と同じくらいの長身長、スラッとモデルのように長く細く白い脚、顔立ちの幼さや制服を着ていることから、自分と同じ年代なのは間違いない。
だがとてもそうとは思えないほどの大人の美貌と、人生経験の豊富さを感じさせた。
「どうし、て……」
かろうじて一言だけをこぼす。それだけに労力を投入しすぎたせいで、身体は金縛り状態になっていた。
「君は死んでもいるし、同時に生きてもいる」
「……え……」
言葉を失った直後、「葉純の兄貴〜!」と歓喜の涙とションベンを流しながら幽霊の女の人の足元まで走った兄の柴犬。その後くるりと踵を返し、前足で羽佐間を指しながら、
「こいつが、こいつが俺様のこと蹴ったんだよォォォ! オヤジにも、オヤハハにも蹴られたことないのにぃ!」
「オヤハハ?」
幽霊の女の人は、「はいはい辛かったねー」と扱いに手なれた様子で頭をなでた。たとえ幽霊でも主人とペットの関係性は変わらないらしい。
「太郎、そもそもオヤハハなんて日本語は存在しないんだよ? オヤジはあるのにオヤハハがないのはおかしいかもしれないけど、それが事実なんだ」
「何を言ってるんだ……」
ついていけずにようやくツッコんだ言葉を気にすることなく、幽霊の女の人は羽佐間の方へと向き直った。
「まぁそんなことは置いといて、まずは自己紹介をしないと。私の名前、知らないでしょ?」
そう言われて初めて、ずっと見えなかった違和感がやっと姿を現す。今までずっと女の人という認識で通っていたため、名前という重大な要素を見落としていた。
幽霊の女の人は、緩慢な動作で手を差し出す。
するとそれに準ずるように、いつの間にかフェンスの上で羽を休ませていた大量のカラスたちが鳴きながら飛び去った。まるで場の空気を読んだみたいに。一斉に。跡を残すかの如くひらひらと羽が舞い落ちては、床を黒く色付けた。
ほんの数秒の時間、世界に二人きりになった。
「――五十嵐葉純。これから、君の彼女になる人の名前だよ」
フッと唇が笑みの形に彩られ、片手を腰に当てる。
彼女、という言葉を耳にした瞬間、記憶は音速のスピードで初めて出会った時の出来事を思い出した。
――そのときは、私と一緒になろっ?
「覚え、てて……」
だが、身体全体が歓喜の声で満たされるより早く、羽佐間は「ちょっと待ってください」と冷静に呼び止めていた。
「さっきの言葉、もう一回言ってもらえますか」
感動しすぎて、危うく聞き逃してしまうところだった。
「さっきって……『太郎、そもそもオヤハハなんて日本語は存在しな』」
眉をひそめつつ視線を左上に上げている葉純さんをみて、つい「そっちじゃなくて!」と声を荒げてしまった。らしくない。だがそんなことはどうでもいいと思うほど、ある一言がずっと頭にひっついていた。
「そっちじゃなくて……もっと前です」
言葉を紡いだ直後、さっきの勢いに冷水をかけられたのか、小声になった葉純さん。
「……君は、死んでもいるし、同時に生きて……」
「そこです! そこ! いったいどういうこと……」
まくし立てようとした羽佐間の唇に、葉純さんの大福のように白い人差し指が置かれた。
「それを言葉で話すより、まず三秒間だけ目を閉じてもらったほうが早いよ」
「え……目を……え?」
「いいからいいから」
言われるがままに目を閉じる。まさかこのままずらかるんじゃないだろうな。
「三……二……一……ハイッ! もういいよ〜」
手をたたかれたのと同時に目を開ける。数秒ほど意識がぷかぷかしたが、羽佐間の視界は何も変わっていなかった。
それなのに葉純さんは、「ンフフ〜」と意味ありげにニヤケけると、ちょんちょんと床を指さす。自分だけ何も分かっていないのは気持ち悪かったので、吸い込まれるように目線を落とすと、
「…………………………………………?」
――床には、オレがいた。正確に言えば、志村羽佐間が倒れていた。
そんなはずはない。頬をつねって自分の存在を確認し、再度床を見下ろす。
――やっぱりそこにはオレがいた。某有名雑魚キャラの死亡シーンみたいに横向きで、片足を上げ背中をくるまったような体勢で、だ。
放心状態だったが、またしても太郎? が自分の抜け殻? で尿を垂れ流したせいで羽佐間は正気を取り戻した。
「こんなところに都合よく電柱……」
二回目にして羽佐間は流れ作業のように片足をつかみ、ぶんぶんと回転エネルギーをプラスしてから星間飛行を味わわせてやる。
それで終わりではない。たまたま近くにあったバズーカ砲を構えると、なんの躊躇もなく引き金を引いてやった。「太郎やー!」と咆哮が夜の闇にこだまし、汚い花火が上がる。ちゃんちゃん。
「な、ななななななななんじゃこりゃァァァァァァァーーーー!!!!」
トルネード状に円を描きながら上昇する。ベタベタと顔や身体を触ったが、人間の肌とは思えないくらいに体温を感じられなかった。あと何気にさらっと空が飛べるようになってやがる。魂が揺さぶられるほどのショック!! そこに冷静な葉純さんの解説が入る。
「見ての通り幽体離脱だよ。一回くらいは聞いたことあるでしょ?」
「いやあるだろってそうじゃなくて! どうしてオレが幽体離脱してるってことを……」
話を遮るように葉純さんが上昇してきて、「霊体になったらいいことその一、私に触れられる」と羽佐間の手を取って耳たぶを触らせてきた。プニッとマシュマロのような福耳で、霊体になったせいか体温を感じる。
こんなにも容易く生きている人間に触れられるなんて、幽霊の中でもかなり霊力がつよい部類にはいるのではないだろうかと羽佐間は思った。
なんて考察をして、冷静沈着さをアピールしたけど……ごめん。正直言います。めめめめめちゃくちゃ動揺してます! 興奮してます! なんかもう爆発しそうです!! メーデーメーデー!!!!
「そう言われても、うまく説明できるかなぁ……」
こめかみの辺りを人差し指でポリポリとかきながら、葉純さんは拙いながらも一生懸命説明してくれた。どうやら自分は、あのとき屋上から飛び降りることで死に極限まで近づいたらしい。それは分かっているのだが、問題はその後だ。羽佐間の身に何が起こったのか。
そこからどういう手品を使ったのか、こうやって生還したことで才能が目覚めたというのだ。その才能というのが、葉純さんいわく今の幽体離脱らしい。よく理解できない人のために分かりやすく例えると、バトル漫画にてピンチの局面で力が覚醒するアレだ。どうせなら指から弾丸を放ったり剣を生成してみたかった。
聞く限りでは女子風呂とか女子風呂とか女子風呂などが覗けてラッキーかと思うかもしれないが、そんなことはない。むしろ厄介なことに、一度幽体離脱してしまったら最後、一時間は自分の身体に戻ることができないと告げられた。
――いや、オレの身体ぞ? 何その設定? 何そのインターバル? 納得いかないんですけド!?
とにかく確かなことは、自殺しようとしたにもそれを阻止され、おまけに変な能力が開花してしまったという事実だけだ。
「死から生還したってことは、やっぱり、オレって……」
葉純さんの方をみると、いかにも気分が悪そうに視線を逸らしてきた。
――君は死んでもいるし、同時に生きてもいる。
さっきの言葉が脳裏を駆け巡った。だんだんと身体の中心あたりから熱が冷めていくように、羽佐間の心に暗い翳が覆っていくのが理解できる。
「どうして、助けたんです」
羽佐間の声は、吐く息をうっすら白く染める大気よりも冷酷で、氷柱のように鋭い。
葉純さんは目を伏せており表情は分からなかったが、ある程度遠くてもはっきりと肩が震えているのが見えた。
飛び降りる直前に聞こえたダメという言葉、ポケットに詩を入れた人物――いま、ピタリと真実のピースがはめ込まれた。
「…………」
何を考えているのだろうとも思ったが、それよりも早く感じたのは、自身の回答を無言で返してきたことに対しての怒り。羽佐間はギギッと歯ぎしりをしてから大声で尋ねた。
「どうして助けたんだ!」
目の端からは涙が光っている。このときになって、今自分が置かれている理不尽な現状が分かってきた。分かってきて……どうしようもなく悔しかった。
いろいろとイレギュラーな事態に振り回されてうやむやにされていたが、そもそも自分は人生を終わらせたくて屋上に来たのだ。うまくいけばぽっくりと逝けて、そのまま葉純さんと……なんて妄想を膨らませていたのだが、それをもっとも最悪な形で邪魔されてしまった。
しばらく葉純さんは言いにくそうに口をわなわなさせたあと、覚悟を決めたのかキリッとした顔立ちで羽佐間と向かい合う。
「助けたかった。死んでほしく、なかった」
言い終えたあと、葉純さんは同じように目の端がにじんでいった。片手を握りしめ、胸のあたりにそえながら震えている。
本来相手を思いやっての言葉なのに、羽佐間の心が絶望の色に染まっていくのが分かった。さっきの喜びがウソみたいに思え、腹の中がぐるぐると直接手でかき回されているみたいに気持ち悪くなる。
「オレは……オレは死にたかったんだよ!」
羽佐間は冷たくなっていたはずの身体から、真逆の熱いものが込み上げてきた。それがまた今ここに自分がいるという事実を押しつけられているようで、なおさら悲しい。
「…………」
「ほとんどの人生かけてイジメられ、父親は早くに死に、家族関係も悪くなり、あげく大切だったはずの人はイジメの件に一枚かんでた! こんな状況でどう生きろって言うんだ! ふざけんなァ!
どうして目の前に現れたんだ! どうして邪魔をするんだ! オレの人生だぞ!! 好きに、させてくれよ……」
『好きにさせて』。そう言いつつも、一番選びたいと思う選択肢を、おびえて選べずにいた。それが苦しくて、たまらず膝から崩れ落ちて床に手をつく。
さよならだけが人生だ、さよならだけが人生だと、羽佐間はそう思って生きてきた。だからこそ、最後は自分で自分の人生に手を振ってやろうとしたのに、それをこいつは……!!
「……五十嵐さん、彼氏として、一つ頼んでいいですか。オレをこ……!」
殺してくれって言おうとしたのに、
「ダメ」
とあっけなく二文字で返され、しかも――唇を奪われた。
「え……」
*
今の羽佐間の気分は、プカプカ、プカプカと、布団にくるまっているときみたいに極楽だ。
五月とは思えないくらいの気温によって、街は陽炎で揺らめいていた。ゆらゆら、ゆらゆらと。遠くで飛行機が飛んでいる。後ろから付いてくるように雲が出来上がっていく。モクモク、モクモクと。三年生の教室は三階にあって、そこからでも見上げないと梢が見えないくらい高い松の木がある。まっ、それだけなんですけド。
日常の何気ない一コマ。それを唇に右手を添えながら見ている。見ている。でも実際は、景色の情報なんてどうでもよかった。
屋上を飛び降りたはずなのに、気がつくとフェンスの内側で目を覚ました。そこで半透明の喋る柴犬と出会い、そのうち一匹にはションベンを二度もかけられた。
アンラッキーなことがありつつも、ついに初恋の幽霊の女の人と再会。そして幽体離脱の力の目覚め。ラストは……悪い口を塞がれるようにして接吻を食らわされた。あまりにも無茶苦茶なボーイミーツガール小説。
夢にしては胃もたれを起こすほどの情報量だ。
「……くん、……間くん……佐間くん!」
今は国語の授業で、担任の司先生が注意をしていた。だけどその声は本人のもとへは届かなかった。
なぜならまだ夢の世界と信じて疑っていなかった羽佐間は、葉純さん(そういう設定の攻略ヒロイン)との妄想で頭がいっぱいいっぱいだったから。
遊園地に行ったり、一緒にゲームをしたり、どこか高いレストランでお食事をしたり……そして最後は、月明かりが幻想的に照らすベッドの上にて、二人は上も下も固くキツく結ばれ……
「羽佐間くん!! 今は授業中!」
「ッ!!」
背中に氷塊を詰められたようにして、突如として意識が現実に戻る。目をパチパチさせながらあたり見渡した。どうしてか分からないが、ほとんどのクラスメイトが自分をみていたことに、羽佐間は遅れて恥ずかしい気持ちになった。
それだけならまだ良かった。良かったのに……
「佐藤さん、前回の続きの段落から読んでください」
今になって国語の授業と気づいた。しかし羽佐間の机には教科書はおろか、ノートや筆箱さえも見当たらない。臓器のあいだに冷たい風が通った気がした。
「はい。『〇〇さんは✕✕さんと接吻を交わした。心臓が止まるかと思った。いや、実際は止まっていたかもしれない。身体中の血液が濁流のように頭のてっぺんに集まる』」
「セップン……?」
豆はないが、近くに鬼がいるのかとあたりを見渡した瞬間――記憶から右ストレートパンチを食らった。
昨日の夜に起きた夢のような出来事の一部始終。初恋の人と出会ってキスをした直後、本当はその時に恥ずかしさのあまり、羽佐間は頭から多量の湯気を出しながら気絶してしまったのだ。
教室に備え付けられたカレンダー見て、昨日から今現在まで時間が経っていることに目玉が飛び出しそうになった。それまでの時間の感覚が一切なかったからだ。
「登校時に見かけたときも、廊下ですれ違ったときも、授業を始めるときも、ずっと唇に手を当てたままでしたけど、どこか具合でも悪いの?」
と先生から真剣な表情で訊かれてしまい、羽佐間はしどろもどろになりつつも手を振ってごまかした。
言えない。言えるはずがない。キスをされてから気絶し、起きたあともずっと正気を失っていたなんて。いくら童貞で、初めて異性から受けた刺激だとしても、その後の反応が三周ほど回ってキモい。キモすぎる。
葉純さんと口づけのシーンが意図せずに脳内で再生され、おまけに強く強く焼き付けられる。あの時の熱、感触、あれは空想じゃない! 夢じゃない! オーノー!! ファーストキッスが、あんなにもあっけなくゥゥゥ!!!!
変なテンションになってしまった。いったんおちんちんつこう。
そういえば、朝のときに母から「どうしたの」とも言われていたような気がする。だがその時はさっきまでと同様、ずっと唇を手に添えていただろう。
恥ずかしいを通り越して、もはやあきれた。そうしなければ店舗名、『恥ずかしがり屋さん』を開業してしまいそうだったから。
「勉強……するか」
それだけが、自身の屈辱的な過去を少しでも拭い去るたった一つの道だった。だがしかし、その道具が手元に一つもない。
最悪となりの生徒に声をかけて借りないといけないなと考えつつも、普段から声を出すのを控えている羽佐間からしたらとても鬱々とした精神状態だった。
苦し紛れに机の中に手を入れる。中身はむろん空……じゃない!? 今日の授業内容である国語、英語、保健体育、数学、社会、情報の六教科と鉛筆がすべてけずられた状態で筆箱に入っていた。
どこぞの童話に出てくる小人がやってくれたのかと考えていると、机の中から一通の手紙を見つける。手紙と言っても、もう使うことのない古い問題用紙の裏面を使用した簡素なもの。
――君が気絶したあと、家まで運んだり授業の準備したりするのはすっごくすっごく大変でした。これはお礼にあんなことやこんなことをしてもらわないと割に合わないなー。PS 柴犬たちの名前は太郎、た太郎、あた太郎です。三匹合わせて三太☆苦労’s(今考えた)、なんてね。プレゼントとか運びそう。ションベンだけど。
「………………なんだよそれっ」
そう言って羽佐間はプフッと笑った。その様子をとなりの席の女生徒に見られてしまい、嫌悪の顔色を作られる。しかしながらそれが些細なことだと思えるほど、最初は小さかった笑いがだんだんと身体の中で大きくなっていく。外に漏れ出ないようにこらえるのが大変だった。
「…………ねむっ」
笑いのツボが平常化してきた頃、今度は落ち着いた反動で眠気に襲われる。先ほど自分の口ではっきりと勉強しようとは言ったものの、人間の三大欲求のうち一つを司っているだけあって、とても太刀打ちできないものだった。羽佐間のやる気が著しくそがれていく。
もういい、もういいやと手のひらを返し、そのままふわふわと気持ちの良い羊の国へと入国しようとしたその時、
「…………ハッ!」
バチン! と勢い余って強く頬をたたきすぎた。だが眠気覚ましには最適で、となりの席の女生徒が何事!? という目つきで羽佐間をみている。
目をつむったら霊体になるという体質を忘れてしまうところだった。もしかして授業中の睡眠はおろか、これから夜寝ることすらままならなくなるのではないだろうか。もしこの症状が生涯続くとしたら大ごとだ。次葉純さんに会ったらその件について話してみることにしよう。
それ以上考えようとしても思考は鈍り、脳は本格的なスリープモードに移行しようとしていた。凍死しないように奮闘する登山家の気持ちが少しだけ分かった気がする。
とりあえず最初の課題は、意思とは無関係にまぶたが閉じようとするのを何としても阻止することなのだが……いくら爪を指に食い込ませたり、唇をかんだりしても、すぐさま眠りという名の悪魔が大鎌を振りかざしながら追いかけてくることにかわりはなかった。
頭をブンブンと左右に震わす。何か面白いことを考えて気を紛らすのはどうだろう。できるだけ刺激的なのがいい。
その安易な決断がいけなかった。
その瞬間、脳裏に映し出されたのは、葉純さんに唇を奪われた記憶。それまでならまだかわいいほうだと思う。だが思春期特有の無制限の性欲の力によって、キスのほかに強引に押し倒され、服を脱がされ、生まれたままの姿を蹂躙され、性的な意味でむさぼり食われる自分の姿が……!
「だァーッ!! 何考えてんだオレ! 変態じゃないかァ!」
この瞬間、いまがまだ授業中というのを忘れていたことにより、クラスメイト全員と先生の目が点になり一点へと集中した。
高校で二年以上は勉学を共にしたにもかかわらず、羽佐間の声をまともに聞いたことがあるのは燐音だけ。そんな無口な人がいきなり叫ぶのだから、注目を集めないはずがないだろう。
遅れて、たったいま言葉を詰まることはなく発せられたことが信じられなかった。
自然に、あまりにも普通に、よどみなく、父が亡くなる前のときみたいに。
「…………今は理科の授業じゃないですよ」
いや完全と不完全なほうじゃない! と黒い雨の幻影がなくなった今、勢いでしゃべろうとしたものの、またいつも通り喉が塞がれた感覚に陥ってしまう。口々に「はじめて声聞いた」や「ついに壊れたか」などと好き勝手に発言し、羽佐間は肩身が狭かった。
授業が終わるまでの時間をずっと、クラスメイトの好奇な視線が突き刺さったまま過ごした。
*
授業を二、三、四となんとか受けてようやくの昼休み。羽佐間が廊下を出てすぐの窓に、葉純さんは両腕を乗せながら空を眺めていた。現在の太陽の位置からして影が斜めに伸びるはずだが……そこにはただ、フローリングの床が白く光っているだけ。もちろん窓ガラスは誰一人として反射していなくて、よほどにぼーっとしているのか、他の生徒が葉純さんの身体を通過しても、まるで気に留めていなかった。
な、なんか声をかけづらい。
「あ! 終わったなら終わったって声かけてよ〜」
ためらっていると、葉純さんの方から羽佐間の存在に気づき、両腕を自分の腕に絡めてきた。体温は全くないが、二つの柔らかい感触に口元が緩んでしまいそうになる。でもそうなってしまったら最後、一人でいるにもかかわらず口元をほころばす変質者という烙印を押されることになるだろう。抑えろ、抑えろ、自分。
「あ、あの五十嵐さん、場所……」
それとなく移動しようという旨を伝えたつもりだが、葉純さんはなにもわかっていないようで、腕に絡まる強さが増していく。
「え〜いいじゃんいいじゃん、道端にいるバカップルのようにいちゃつこうよ〜。まずは一番ソフトに接吻から」
目を閉じ、顎を少し上向きにすることで羽佐間の身長に合わせようとしているのだろう。ついつい吸い込まれそうになったが、拳を握りしめてこらえる。
「ソフトの意味履き違えてません!?」
近くを通りがかった生徒が、いきなり羽佐間が大声で喋ったことに怪訝な表情を向けてきた。急に背中のあたりが寒くなるのを感じ、気分が落ち込んだ。そんな顔色をみて察したのか、葉純さんは青ざめた顔で「ごめ、ん……」と謝ってきた。苦い沈黙が辺りに落ちていく。
「私っていつもこうだ……」
眉根を寄せ、苦虫を噛み潰したみたいに歯を噛み締めていた。その声は、羽佐間の耳で聞こえたか聞こえていないかの境目のような音量で、だから実際には言っていないかもしれないし、その逆かもしれない。なので追及はしないでおいた。
「ついてきて」
別に声が漏れるなんてことはないと思うのだが、葉純さんは耳打ちで静かに人けが少ない校舎の端まで誘導してきた。近くに多目的教室があるが、今日は誰も使っていないのか、中から声は聞こえない。
「君の訊きたいことはわかる。幽体離脱の件でしょ」
「そ、そうですよ! おかげで寝ないように指七本が犠牲に……」
眠気覚ましのために尊い犠牲を払った指たちを見せる。鉛筆などで定期的に痛みを与え続けたため、血は出ていないが、その一歩手前のような赤黒い色合いをしていた。羽佐間はほんのジョークとして話したつもりだったが、予想に反して葉純さんは心底申し訳なさそうな顔をしてしまい、罪の意識をあぶりだしているような感覚になる。「あ、足の指とか使わなくてよかったですよ! はは」と速やかに思いついたネタで不器用に笑い飛ばした。愛想笑いなんて高等技術を、まさか生きているうちに実践するとは。
度を超えた壊滅的な顔だったのか、面持ちが戻った葉純さんはくしゃりと笑った。かわいい。
「それで、なにがあるんですか? 幽体離脱を改善する方法って」
「……屋上にいたとき、言ったでしょ? 君は死に極限まで近づいた。だから幽体離脱のような能力に目覚めたって」
「そうですね」
「でね、考えたんだけど……じゃあ逆に、『生』に極限まで近づいたらどうだろう」
「『生』に極限まで近づく?」
ちょっと何言ってるか分からない。
「簡単だよ。やりたいことをやってみるとか、行ってみたい場所に行ってみるとか、食べたいものを食べてみるとか、死んでいる人にはできない人生というものを謳歌する! 君の場合は青春がいいかな?
そしたら幽体離脱の逆、すなわち元に戻るかもしれない。確証はないけど、我ながらいい論理だと思わない?」
葉純さんはドヤドヤと胸を張っているが……肝心の張っている山は、緩やかな平地である。
「ま、まぁ、考えなしに動くよりは」
羽佐間は顎に手を当てながら他の方法考えるが、葉純さんが言った手段こそ最適解だと思われた。おおむね納得していると、「あ、そうだ。一つ言い忘れた」と予期せずして耳打ちで話しかけられドキリとしてしまう。
「生に近づくと言っても、やらしーことじゃないからね」
「ッ!!」
やらしーの部分はほとんど吐息で構成されており、それに加えて落ち着いた低音ときたものだから、あまりにもリビドーを感じずにはいられなかった。『生』は生でも『性』ではない。分かっているのに抗い難いのは、男の性という他ない。
「い、五十嵐さんとそういうするなんてことは想像してません!」
ついウソを言ってしまった。しかも最後の方の言葉は若干裏声になってしまい、恥ずかしさの火山が爆発寸前だ。それに対して葉純さんは何も分かっていないのか、きょとんと首をかしげている。冗談だろ? おい。ここにきてはしご外す?
「え? そういうことってどういうこと?」
つぶらでいたいけな瞳をしている。まるで幼い子どもがお母さんに「ねーねー、赤ちゃんってどうやってできるのー?」と訊いているときのような純朴さがあった。思いがけない反応にあわてふためく羽佐間をみてついに理解、もしくは最初から白を切っていたのか、葉純さんはニチャリと特撮に出てきそうな女幹部の悪い笑みを浮かべ、そしてつんつんと頬を指で押してくる。今すぐにでも全速力で駆け出したい精神状態だった。
「んんん~? そういうことってどういうことかな〜? かなかな〜?」
葉純さんは含み笑いをしながら上目遣いを浮かべてくる。そういえば、読んでいるエロ本にこんなシチュエーションがあった気がした。ウザいムーブのはずが、ちょっとだけ嬉しいと思っている自分がいるのは、もしかしなくても変態の素質があるかもしれない。
「あれ……あの子」
もはや名人芸のような早業でからかいをなかったことにすると、葉純さんは階段の踊り場に視線を投げた。それにならって羽佐間も視線を投げると――そこにいたのは、同じクラスメイトの柴山苹果。
校則違反のはずだが省みることなく、赤と灰色のパーカーを制服の上から着用し、おまけにヘッドホンを首元にかけているから何でもありだ。顔はフードをかぶっているため、ほとんどその素顔を知る者はいない。だが前に一度、うっかり柴山さんが落としてしまった消しゴムを拾って手渡したことがある。その際に見えた目つきは、まるでドラマに出てくる誇張しすぎた殺人鬼のように怖かった。
あと関係ないかもしれないが、今日は中指と人差し指に怪我をしていて、リンゴのイラストが描かれている絆創膏が二枚見える。
「柴山さんがどうかしました?」
「いや、その、私の気の所為だと思うんだけど……」
腕を組みながら十秒ほど考えあぐねた葉純さんは、答えに到達したのかハッと驚いた顔をした。そして、「ちょっとごめん!」となんの断りもなく羽佐間の身体に憑依してきたのだ。それによって抵抗する間もなく自分の身体から追い出されてしまい、霊体のみとなってしまう。
一方羽佐間の肉体を手に入れた葉純さんは、何を思ったのか柴山さんのところへ行き話しかけている。今までまともに会話していたのは燐音だけだったので、それ以外の生徒と話すのは気が引けたが、今更言ってもしょうがないだろう。
話を盗み聞きするのも悪い気がしたので遠くから見守っていると、柴山さんがパーカーから唯一見える口元をピクピクと引きつらせ、身体を西◯カナくらい震わせていた。何かしら一大事があったのは明白。そんな姿をみてしまったら、罪悪感より好奇心が勝つのは必然で、無重力状態と化した身体を動かす。だが一歩遅かったのか、柴山さんは哀愁ある後ろ姿を見せながら教室へと帰ってしまい、なんだかのけものにされたみたいで居心地が悪かった。
「何を話してたんです?」
「ちょいと大人でアダルトな話を」
羽佐間の肉体を得た(以下略)は、明日急遽遊園地に行くことが決定した小娘のような顔をしている。言葉が重複するってよっぽどのことなのだろうか。
「高校生が一体何言ってるんです」
「見・た・目・が、高校生だから。でもここで実年齢を聞くのはNGだよ。それは彼氏のマナーに反するから」
「き、気になる……」
それは純粋な疑問だった。初めて出会ってから、もうすぐ五年のときが流れようとしているのだ。にもかかわらず、消えることなく今もこうして目の前にいる。変わらない姿で。四十九日という概念は通用しないのだろうか。現世にとどまりすぎて消滅、または悪霊化とかしないのだろうか。
だが、そんな心配は無用かもしれない。それなりの時間を一緒に過ごしてきて羽佐間が思ったことは、葉純さんからはむしろそこら辺にいる人よりも生きている人間らしく、使う言葉がおかしいかもしれないが、生気にあふれている気がした。なにか秘密があるのだろうか。でもそれを訊くことができるほど、まだ親密になっていないし、懐疑心を抱いていないと言ったらウソになる。
これからゆっくりと固い結び目をほどくようにして、葉純さんを受け入れられるだろうかと不安が募った。時間がかかるかもしれない。失敗するかもしれない。その前に燐音の時の二の舞になるかもしれない。
それでも……と考えたその時、葉純さんが教室の引き戸を開けて見えたのは――薄っぺらい笑顔を作り、でも目だけは研いだばかりの包丁のようにギラギラとしている……
「おいおいおいおいおいおーい、釣れねぇじゃねぇか。一体どこで油売ってたんだ? ああ?」
イジメっ子Aだった。表面上こそ笑顔を浮かべているものの、その裏では粘着質な悪意が透けており、馴れ馴れしく肩を組んでくる。羽佐間は時計をみてギョッとした。本来なら昼休み、イジメられるために前もって旧資料室で待機していないといけない時間帯だったのだ。ところが葉純さんと過ごすことに気を取られ、うっかり頭から抜け落ちてしまっていた。
「いつもの石像がいなくて、オイラ寂しくて寂しくて夜しか眠れなかったんだ。この気持ち、わかるだろ?」
確認するように気色悪い笑みを向けてくるのはイジメっ子Bだ。ただしのその対象は葉純さん。うつむいてしまってどのような表情かは伺えない。周りのクラスメイトは一様に視線をそらし、我関せずの意思表示をしていた。
羽佐間は元の身体に戻ろうとしたが、残酷にも空気のようにすり抜けてしまう。このままじゃ痛い目に遭うのは目に見えている。でもどうしようもないと血が凍りついたその時、
「汚いな……」
「…………!?!?」
出来事を自覚するのがかなり遅れてしまった。あまりにも現実離れしていて、どう受け止めていいのか分からなかったから。声の正体が葉純さんと分かったのは、事が終わったあとだった。
イジメっ子Aが「は?」と問いかけるより早く、両手で腕をつかみ、ぐいっと肩から正面に引っ張る。その衝撃で身体が刹那、宙を舞い上がったかと思うと、次の瞬間にはがたたん!! と机や椅子を巻き込みながら床にたたきつけられていた。
その道のプロがほれぼれする程にきれいで無駄のない一本背負い。倒れたイジメっ子Aは、一、二回ほどピクピクと痙攣したあと、電源が切れたように動かなくなった。
少しの間が空き、聞いたことのない甲高い女子クラスメイトの悲鳴を皮切りに、教室は一時騒然となった。
残されたイジメっ子Bはぽかんと口を開けて唖然としている。信じられないとでも言いたげだ。かくいう羽佐間もその一人。もやしの擬人化みたいな体形から繰り出されたのは、オリンピック選手が繰り出すそれと一緒なのだから。
「お、お前、は……!?」
ようやく状況を理解し身の危険を感じたのか、イジメっ子Bは両方の拳を前に突き出している。とはいえ戦い慣れていないのか腰が引けており、常に安全圏でイジメていることの弊害が出ていた。
羽佐間は起こった出来事に圧倒されていたが、やがて自分の肉体でとんでもないことをやってくれたなという思いが急激に募っていく。そして、
「なにやってんだよ! 怒りを買うようなことして!」
つい言葉に多量の怒気を含ませてしまった。それに対して葉純さんの返答は実に冷めていて、
「私はただ……肩に乗った毒虫が鬱陶しかったからはたき落としただけだよ」
とあっけらかんとした口調で言ってきたのだ。一瞬怒りの炎が鎮火されたかけたものの、再点火のツマミを回す。
「は、ハァ!? なにをバカなこと……」
焦って言葉が尖ってきた羽佐間に、葉純さんは鋭利なアイコンタクトをして制してくる。一応男であるはずなのだが、怖くてひと言も発することができなかった。
「君は、悔しくないの? 当たり前に殴られて蹴られて……それでも男?」
「え……」
どうしてそれを……と葉純さんに問いただそうとしたが、それよりも早く倒れてのびていたはずのイジメっ子Aがムクリと起き上がってきてしまう。幽霊になったせいかヌラヌラと怒りのオーラをまとわせているのが見えた気がした。
「テンメェ……石像の分際で楯突こうなんて、その根性だけは褒めてやるよ。それに免じて、この場はおとなしく引いてやる。だがな、諦めたわけじゃねぇ。放課後、俺と勝負しろ! 一騎打ちで!!」
*
ピピー! とホイッスルが吹かれるのと同時に、サッカー部の部員たちが練習に励んでいる。地面を蹴る音やサッカーボールが飛んで行く音に混じって、グラウンドの端のスペースでは、ひっそりと戦いの火ぶたが切って落とされようとしていた。
このまま勝ち逃げすればという羽佐間の考えを却下し、あろうことか葉純さんはイジメっ子Aの挑戦を受けてしまったのだ。悔しくないのかという問いかけに対しては、もちろん答えはイエス。だがしかし、それは背負い投げをしてくれたときに十分溜飲は下がったのだ。だからこれ以上の争いは不毛でしかない。
イジメっ子Aを痛めつける必要はないと思ったし、なによりまず、これ以上葉純さんに戦ってほしくなかった。しかし今の現状からして、試合を棄権するのは難しい。
逃げ道をふさぐように、グラウンドの使われていないスペースではそれなりの人が集まっていた。好奇心や怖いもの見たさで寄ってきた観客たち。数は……少なくとも二十人以上いる。それだけではない。校舎の窓から高みの見物を決め込んでいる生徒もチラホラと見受けられる。いつも通り流れるはずだった一日に突如として割り込んできた刺激とでも言うべきなのだろうか。「どっちに勝つか賭けようぜ」なんて声も聞こえてくる。当事者からしたら気が気じゃなかった。
葉純さんは、イジメっ子Aと三メートルほどの距離を開けて向き合っている。互いに無言で微動だにしていない。西部劇でよく見かける、銃の撃ち合い前の静寂のようだった。少しの手の震えや足のすくみを合図として始まる命のやりとり。そんな緊張の時間。
両者は動きやすいように体操服を着ている。喧嘩なんかではなくスポーツマンシップにのっとった安全な勝負をしてほしいと願ったが……それもはかない夢に消えた。
その間を風は素知らぬ顔で通り過ぎていく。
「よく逃げなかったな。ほめてやるよ」
がっしりと葉純さんに目を合わせたまま、あくまでイジメっ子Aは平静な口調で話しかけてきた。しかし言葉の裏側には魔王のような威圧感を隠している。
「…………」
もし相手が魔王ならば、こちらは少々目つきの悪い自信満々の勇者といったところだろう。葉純さんは無言でにらみつけている。自分の顔なのに他人のような怖さがあると羽佐間は思った。
「い、今からでも、やめたほうが……」
戦うわけでもないのに、ビクビクと震えながら葉純さんをなだめている。いくら腕に覚えがあったとしても、操作するのは他人の身体であり、思い通りの動きをしてくれるとは限らない。最悪戦いの最中で骨粗鬆症になる可能性だってある。
しかし、そんな心配をみじんも感じさせない葉純さんの一本筋が通った瞳。そして「大丈夫、大丈夫だから」というセリフを聞いた瞬間、羽佐間はなにも言えなくなってしまった。肩がある位置をポンポンとたたかれる。触れていないが、熱がわずかに移った気がした。
「これは、私なりの償いだから」
「え……今なんて」
葉純さんが何か言葉を放ったように聞こえたのだが、たぶん大丈夫と同じように自分を安心させてくれるものだろう。
「なにやってんだ?」
遠目から見れば何もない位置に手を動かしていたのだから、イジメっ子Aから見れば奇妙に映ったのだろう。
その問いに葉純さんはフンッと鼻を鳴らして返した。そのなめ腐った態度が、イジメっ子Aの怒りを助長させていく。
嵐の前の静けさが、いま、終わりを迎えようとしていた。再び口を閉じ、石像のように動かなくなる。誰かの呼吸音が、風に運ばれていく砂の音に混じって聞こえてきそうだった。
ゆっくりとイジメっ子Aは両腕でファインディングポーズを取り、片足を一歩下げる。その一挙一動が、羽佐間を含めた観客の目をつかんで離さなかった。
「それじゃあいっちょ、はじめ……」
決闘の宣言をしようとしたその時、「ちょっと待ってぇ!」と髪の毛を振り乱しながら全速力で駆けてきたのは、半泣きに表情を崩した燐音だ。不審な顔をした観客を意に介さず、イジメっ子Aと何か話している。
こういうときこそ霊体の力を存分に活用しようと思い立った羽佐間は、会話を盗み聞きすることにした。
「話と違うじゃない! ちょっとだけイジメる約束だったのに!」
「都合が変わったんだよ。それに、この場で俺が逃げたりしたら赤っ恥をかくってことぐらい、わかんねぇのか? だから徹底的に」
イジメっ子Aは手をポキポキと鳴らしながら、瞳孔をガン開いた状態で「たたきのめす」と言い切った。
「わたしはそんなこと望んでない! わたしは、わたし、は……」
燐音は止めても無意味であると痛感したのか、涙声になりながら力なく首をうなだれた。『ちょっとだけイジメる約束』という言葉から分かるとおり、間違いなくイジメの一件に関与していたことが決定してしまったのだ。
怒るべきなのだろう。憎しみを持つべきなのだろう。けれども羽佐間は、ただの卑劣な奴だと割り切れない感情があった。どうしてか? 答えは分からない。
二人で話している時間が思ったより長かったのか、葉純さんは「おーい」と言っているかのようにブンブン手を振っている。それに気づいてイジメっ子Aは、スイッチが入ったように向き直った。
「悪かったな。待たせちまって」
「別に、必要な時間だからね。それくらい許してあげないと」
「……!!」
イジメっ子Aはもちろんのこと、周りの観客がざわめきだした。あの志村羽佐間が普通に言葉のキャッチボールを交わしていると。これは天変地異の前触れだと騒ぎ立てる人すらいた。
「なんだよ必要な時間って」
「わた……オレに負けたときの言い訳を考える時間、命乞いの言葉を考える時間だったんだろ? もしかして、まだ時間が必要だったりするのか?」
急に口を開いたと思ったら、出てきた言葉が明らかな煽り口調。頭が十二月下旬の北海道の大地ぐらい真っ白になった羽佐間に対して、イジメっ子Aは怒りでブチブチと幾つかの血管が切れたように見えた。
「て、テメェ……」
その一言を最後に、世界が沈黙したような静けさで場が満ちた。見るとサッカーが一時中断され、何かチーム同士で話し合っている。一瞬気を取られたが、これから行われる試合と比べてみると、それは些細なことだろう。観客も同じだった。鬼が出るが蛇が出るか分からないって顔をしている。
イジメっ子の素行の悪さ、腕っぷしの強さは校内でも有名であり、先生ですら手がつけられないほどだ。反対に羽佐間は、一言も口を開いたことのないという点を除けば、単なる一般生徒。強くもなければ、特別なスキルがあるわけでもない。だがそんな自分に、葉純さんは大丈夫と言ってくれた。なんの根拠もないはずなのに、それだけで勇気と希望が心を満たした。
互いに戦うタイミングをうかがっている。さっきも言ったが、少しの手の震えや足のすくみこそ、戦闘が始まるサインだ。しかしながらそれが分かっているので、双方動くに動けない。観客は固唾をのんで見守っている。
すべての意識が一か所に集中したその時、サッカー部が練習を再開したのか、ピピー! とホイッスルの元気な音が響いた。同時に動き出す部員たち。
それは、両者にとって試合のゴングだった。
ダダッと先に地面を蹴ったのはイジメっ子Aで、「ぶっ殺してやる!」と野蛮な言葉を口走りながら真っすぐ葉純さんへと近づいていく。
教室のときとは気迫も勢いも段違いだ。早く避けて……! と葉純さんを見て腰が抜けてしまった。腕を組みながら、いかにも雄々しい感じで仁王立ちをしている。
「なにやってんのォ!?」
羽佐間が絶対に聞こえる距離で言葉を発しても、体勢を解くことはなかった。気でもふれたか?
「死ねェ!!」
とイジメっ子Aの拳が相手に届く地点まで走ると、折り曲げた腕をこれまた真っすぐ葉純さんの顔面に伸ばしていく。ストレートパンチだ。
それでもかぶのように身動き一つしない葉純さんに青筋を立てたその刹那、スウッと羽佐間の肉体から煙に似たなにかが上から昇るようにして抜けていった。
誰にも見えていないはずだ。なぜならそれは霊体となった葉純さんなのだから。
するとどうだろう。操縦者を失った身体は、膝から糸を切られた操り人形のように倒れていき、さながらイナバウアーの如く腰を折り曲げたことでパンチをかわしてしまったのだ。
まさか避けられるとは思わなかったのか、完全に意表を突かれた顔面のまま隙を見せてしまい、再度スポンと身体に戻った葉純さんによって足払いを食らった。
なんの準備もしていない身体が思いっきり地面にたたきつけられる。砂ぼこりがいくつか跡を残すかのように舞った。
「テメェは……なにモンだァ!!」
イジメっ子Aの叫び声がグラウンドに響き渡る。その声には、明らかな焦燥と困惑が表出していた。
それらを無理やり拭うように、イジメっ子Aの拳が次々と葉純さんへと繰り出される。右ストレート、左フック、再び右――しかし、その全てが虚しく空を切るばかりだった。
葉純さんの動きは、まるで風のように流麗で、ある時は肉体に入って打撃をたたき込み、またある時は肉体を抜け出て予測不能な行動で相手を撹乱する。
極めつけは霊体となった葉純さんが羽佐間の肉体と両手をつなぎ、さながら双子のダンサーのように息を合わせての攻撃。
一人でありながら二人。二人でありながら一人。その不可思議な戦い方の前に、イジメっ子Aは完全になすすべを失っていた。
「なにモンって……私は私だよ」
イジメっ子Aにしか聞こえない声量で、葉純さんは涼しい顔で答える。その表情には、挑発も嘲笑もない。ただ、事象を述べているだけに聞こえた。
どうして葉純さんはあそこまで力を引き出しているのだろうと考えて、羽佐間はある一つの答えが浮上する。
今、肉体はいわゆる魂を失った仮死状態。だからこそ普段は制限されている脳のリミッターが外れているので、腕力や脚力が上がり、イジメっ子Aを圧倒しているのではないだろうか。脳が本来の二十〜三十パーセントほどしか振るえないのは有名な話だ。
「ウソつけェ! そんなに強かったら――ゴボォ゛!」
言葉が途中で潰れた。葉純さんの正拳突きがイジメっ子Aのみぞおちへと正確に突き刺さったのだ。基本に忠実な、しかし容赦のない一撃。イジメっ子Aの身体がくの字に折れ曲がる。
「そんなに、強かったら……ガンモォ゛!!」
それでもなお、イジメっ子Aは言葉を続けようとした。だが間もなくして、その声は再び奇妙な悲鳴に変わってしまう。
もはや彼のパンチは力を失い、よろよろとした軌道を描くだけになっていた。葉純さんの鋭いチョップが、容赦なく脇腹を切りつける。グジュリと肋骨に響く鈍い衝撃が見ているだけで伝わってきた。イジメっ子Aの身体が大きくよろめく。
地面に手をつき、完全に戦意を失ったイジメっ子Aの姿が、そこにはあった。
その様子をみて観客席がざわつく。当然だ。例えるならウ◯トラマンと仮◯ライダーがサシで戦って、なぜかウ◯トラマンのほうが膝をつかされているような状況なのだから。
「志村のヤツって、あんなに強かったっけ……?」
「マジかよ。やるやんアイツ」
「見直したわ」
とあちこちから驚きと称賛の入り混じった声が聞こえてくる。校庭を取り囲む観客たちは揃って目を見開き、理解を置いてけぼりにした表情を浮かべていた。
ま、まぁ……いま戦っているのは羽佐間であって羽佐間でないのだけどね。なんか褒められるのが心苦しくなってきたな……
深く考えずに視線を動かすと、観客席の一角に燐音の姿が目に入る。驚愕半分、心配半分とバランスが取れた顔つきで校庭を凝視していた。
試合前の言葉が蘇る。
――わたしはそんなこと望んでない! わたしは、わたし、は……
あのあと、燐音はなんと言おうとしたのだろう。羽佐間の胸の奥に、もやもやとした感情が渦巻いた。
なにかしら理由があれば人をイジメてもいいのかと、考えが負の階段を下ろうとしてしまう。せめて憎むなら、事情を訊いたあとだ。なにも急ぐ必要はない。必要はないと心臓に言い聞かせた。
ドンッ!
と意識の外で唐突に大きな音が聞こえたと思ったら、イジメっ子Aがさながら投げ捨てられた人形のように宙を舞い、地面にたたきつけられる様を目撃する。周囲から悲鳴に似た歓声が上がった。
「ハァ……ハァ……」
肩で息をしている。汗が額を伝い、体操服が乱れていた。そんなイジメっ子Aの態度を気にもとめず、葉純さんはまるでなに事もなかったかのようにあくびをしてみせ、それによって観客席がさらにざわめいた。
「もう決着、ついてるでしょ。これ以上は、無駄」
「…………」
返ってくるのは荒々しく呼吸だけ。わからない。どうして葉純さんはそんなにつよいのか。生前は何かしらの武道でも齧っていた?
「意地なんか張っても、なにもいいことないよ。本当は自分自身、分かってるんじゃないの? だから」
「もういい」
「?」
「もう……どうでもいい」
イジメっ子Aは膝に手を当て、よろよろと体を起こす。反撃かと思い葉純さんは、一メートルほど後ろに飛び退いた。満身創痍の身体に比べて発せられた声は、ひどく不釣り合いなくらいに落ち着いている。
「あ゛ぁ〜くだらねぇぐだら゛ねぇ! これじゃあ食らい損じゃねぇかよ」
吐き捨てるような声色で言うと、イジメっ子Aは両腕を上げて手をたたいた。パンパンと軽やかなメロディが、張り詰めた空気を切り裂く。葉純さんの顔が、一瞬混乱に染まる。
その時だった。
ざわざわと、周囲の空気が動く。観客の間を縫うようにして、一人、また一人とイジメっ子Aの近くに人が集まってくる。見た目からして共通点は分からない。髪の毛を染めた人、羽佐間のようにひ弱そうな人。野球部員なのか頭を丸めた人など、有象無象の人選。
やがて横並びになったことで、拍手に引き寄せられた人数が九人ということが分かる。まるで壁のようだった。無言の圧力が、校庭を満たしていく。
葉純さんの顔色が変わる。眉間に深いシワを刻み、唇を歪めながらイジメっ子Aをにらみつけた。
「お前……!」
その声は、相手の意図を理解し、怒りと恐怖が入り混じっていた。
「俺は用心深いんだよ。本当に一騎打ちだと思ったのか? だとしたらお前の脳みそ、石像よりガチガチだぁ」
ついさっきまで戦意喪失していた人物とは似ても似つかない余裕な表情。イジメっ子Aは体操服についている土を手で払った。
「最初からこうすればよかったんだ。親ガチャの恩恵を、フルに使うべきだったんだ。どんなに卑劣でも、卑怯でも、ゲス野郎でも、最後に勝ったやつだけが笑う。当たり前だよなぁ?」
財布から一万円札を数枚取り出したイジメっ子Aは、となりにいたなよなよとしている男子生徒の頬を数回はたく。すると、「アッ、アァ……アンッ」と性感帯でも刺激されたみたいに気持ち悪くあえいでみせた。
「クソがッ……!!」
葉純さんはボソリとつぶやく。その声には皮肉とも諦念ともつかない響きがあった。
イジメっ子Aは生気のシャワーを浴びたかのように生き生きとしている。比べて葉純さんの顔には疲労の色が濃く浮かんでいた。額には汗がにじみ、肩は小刻みに上下しており、ほんの数分前まで凛としていた葉純さんの表情も、今は明らかに限界に近づいていることを物語っている。如何ともしがたい相貌だ。
それを感知しているのか、買収された者たちとイジメっ子Aは葉純さんを取り囲むように全方向から距離を縮めてくる。逃げ場はない。時間が経てば経つほど、状況は悪化していく。観客の声色が不安に彩られる。それは羽佐間も同じだった。
早く、助けに行かないと。
もうインターバルの一時間はとっくに過ぎたはずだ。
葉純さんのもとへ。一刻も早く。
そう決意して、一歩を踏み出す——ことができなかった。
「ど、うし、て……」
ゴキブリホイホイに引っかかったゴキブリみたいに、身動き一つ取れやしない。
そうやって地面と格闘している間にも、葉純さんに魔の手が迫っていく。
それでも身体は動かない。それでも身体は動かない。それでも……
「早く、しないと……!」
葉純さんの周囲の人影が、じりじりと距離を詰めてくる。逃げ場が消えていく。城壁が迫ってくるような圧迫感に、こちらまで胸が締め付けられた。それでも……
「元の身体に、戻らないと……!」
まず戻ったら、イジメっ子Aの顔面に一発、腹部に一発お見舞いするんだ。それから反撃に放たれた腕を両手でつかんでからの一本背負い。それからそれから、最後に倒れたところを馬乗りになってたこ殴り。
それからそれから、それから……!
「ドウ、スレバ、イインダ……?」
突如として口をついて出たその言葉は、物理的な移動をストップさせた。
そして次に、思考の電源がオフとなってしまう。
ナンデ……?
お前に何ができる? と自分で自分に問いかけてみた。答えはNOだ。なぜなら、今までの喧嘩はすべて羽佐間がやったんじゃない。|羽佐間の肉体を得た葉純さん《・・・・・・・・・・・・・》がやってくれたから。
もとに戻ったら、弱いじゃないか。
目の前では惨憺たる光景が繰り広げられた。葉純さんは最初こそ善戦できたものの、次第に数の暴力に押されてしまう。勢いをなくし、非情にも無抵抗のまま殴られたり蹴られたりしている。まるでちょっと前までイジメられていた羽佐間の再現映像をみているみたいだ。
頭の中が黒一色に染まる。何も考えられない。言葉が浮かばない。反論も、抵抗も、何もかもが氷結したように動かない。
――なんでオレは……ダマッテミテイル?
何度も、何度も、鈍い音が響くたびに跳ねている。身体が。人と人の隙間から見える。それは自分の身体。羽佐間の身体。しかし中には彼女が入っている。倒れ込んだ葉純さんが、なすすべもなく暴力に晒されている証拠。
観客たちがどよめき始めた。やがて見ていられなくなったのか、次々と足早に退場していく。誰も止めようとしなかった。誰も声を上げなかった。
イジメっ子Aは横たわった葉純さんの腹部を、足でグリグリと踏みにじる。ねじ込むように。えぐるように。嘲笑うように。そのただならぬ有様をみて、金で雇われた人も怖くなって逃げてしまった。
――サヨナラだけが人生だ
「ッ!?」
尻尾を巻いて遠くなっていく後ろ姿を見て、羽佐間の脳裏に言葉が持ち上がった。エアハンマー現象によってマンホールが飛び跳ねるように、記憶の蓋が一気に上空へ打ち上がる。
父の死の悲しみから逃れるのに二回。
イジメから逃れるために二回。
燐音との関係が離れるのを肯定するのにも二回。
これからの人生、あと何回、何十回、何百回、この言葉をつぶやくのだろう?
ふわりと風に流されるはずがないのに、霊体が意識の範囲外のところで勝手に後退していた。本当に幽霊になったみたいだ。
「………………………………………………どうせ、結ばれないから、叶わないから、離れて、しまうから……」
一体、何を意地になっていたのだろう。いつも通りに唱えればいいじゃないか。
サヨナラだけが人生だ
サヨナラだけが人生だ と。
いくら彼氏彼女なんて特別な間柄でも、それは永遠じゃない。幽霊と人間の仲なら、なおさら。なおさら。
「…………」
ドライアイスのような目つきで葉純さんを見つめる。
イジメっ子Aに足で転がされてた。自分の身体なのだが、特にどうとは思わない。肋骨の内側がスッとしている。羽佐間は憑き物が落ちたような気分だった。
今、葉純さんから離れることができたら……それはすっごく幸運なのだろう。
お互い傷は浅い。もちろん心のほうの傷。お互い深くなって、あとに引けなくなってしまう前に、こちらから切ってしまうんだ。
縁を。
そうだ、それがいい。そうに決まっている。後腐れがなくて最高じゃないか。今身体に戻っても痛いだけだし、二、三日霊体で適当にブラブラしながら、怪我が治った頃に戻るといい。そうすれば安全。イイね、それ。名案だ。
だから……
「五十嵐さん……」
見える距離ではないが、羽佐間はゆっくりとした動作で片手を上げて、左右に振ろうとする。決別する意味でのさよならのポーズ。
これが……これが最善なんだの言い聞かせる。
震えた腕に、鞭を打つようにして……手を……
「なかった、のに……」
「っ!!」
背後から急に声をかけられたと思ったら、そこには膝をつき、両手で自分を抱きしめて震えている……
「り、燐、音……?」
ほかの人と同じく退席したかと思ったが、ただ場所をずらしただけだった。ずっと見ていた、ということなのだろうか。
「こんなはずじゃ、こんなはずじゃなかったのに……!」
その言葉を最後に、両手で顔を隠してしまった。「うっ、うぅ……」と沈痛な声に混じって、目から涙を量産しているのは明らか。胸が苦しくなる。どうして? 相手はイジメの首謀者みたいな人なのに……
無意識のうちに、羽佐間は燐音の言葉を反芻していた。声の火花が衝突しては消え、衝突しては消えを繰り返し、やがて確固たる意味へと形をなしていく。
そして――ハッとした。
屋上での夜。自殺しようとしていた夜。死ぬはずだった夜。自分が発したあの言葉を……
――どうしてこんなことになってしまったんだ。もっとちゃんと、向き合っていればこんなことには……こんなこと、には……
父の死の悲しみから目を背けた後悔。
燐音との関係が消える後悔。
自分自身の引け目から逃げた後悔。
そして羽佐間は今まさに、新たな後悔の『瀬戸際』にいた。
――五十嵐葉純。これから、君の彼女になる人の名前だよ。
葉純さんの言葉が脳内に轟き、爆発するかのようなスピードで全身を満たしていく。身動きが取れなかったはずの身体が羽のように軽い。天下一武道会で重しを外したときの悟◯の気持ちがあり得ないくらいよくわかった。
それからの行動は早く、飛行能力を使って一目散に葉純さんの方へと飛んでいく。危うくとんでもないミスを犯すところだった。
もう迷わない。迷いたくない。
サヨナラの悪魔に惑わされないで、自分のすべきことを、自分のしたいことをやり遂げたいと、羽佐間は思った。
「安心しろよ。死なねぇようにぶっ殺してやる」
「…………」
イジメっ子Aは葉純さんの襟首を持ち上げて立たせる。だらりとして力なく立たされる様は、本物の屍のように見えた。
「これで……終わりだァ!」
とRPG主人公の主人公が魔王に必殺の一太刀を浴びせるようなセリフを言いながら殴りかかる。
その瞬間――ゴンッと音と同時に顔中に痛みがほとばしった。風にあおられた木の葉のように身体が吹き飛ばされる。ただし、その対象は……
「…………………………え……ど、どうし、て」
目の前で親が殺された光景を目撃したような声を出す葉純さん。
その対象は……肉体を取り戻した羽佐間本人だった。
最初は顔だけだったが、間もなくして一気にほかの箇所の痛みが津波のように襲ってくる。意識がはっきりしている状態でバラバラにされる苦痛を味わっているようだった。
「ガァァァ……!! アッ、アァ……ググッ、イギィ…………」
「き、君! 急に身体に入ると、痛みが……」
なにか葉純さんが喋っているような気がするが、今の羽佐間に声を聞き取る余裕なんてびた一文もなかった。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死…………………………
いや、死にたかったから別にいいのでは?
いーじゃんいーじゃん、このままあの世への片道切符を切ってもらおうや。今度こそかわいい天使に会えるカモ?
そうだ。受け入れよう。さすれば解放される。この痛みはもちろんのこと、こんなクソみたいな人生から……
「……れて、ください」
「え? 何……」
「離れて……ください!」
耳に届いていないという可能性を考慮して、一語一語をかみしめるようにして口に出す。さっきの自分はたちの悪い幻だと、羽佐間はそう言い聞かせる。
地獄のように痛い。死ぬほど痛い。でもそれを、葉純さんは受け続けていたんだ。ここで引いたら、男以前に人間として失格な気がした。
「離れるのは君じゃないか! どうして、そんな……」
葉純さんは出会った屋上で見たときと同様、胸のあたりを強く握りしめた。たとえ死人でも、胸は痛くなるものなのだろうか。
いかにも愚かなことをしてくれたなという目つきと、心なしか安堵した目つきの両方がうかがえた。真意は痛みで分からないが、できれば後者がいいな。
「これは……志村羽佐間の喧嘩、ですから。他人に、肩代わりさせちゃ、いけないですよ……」
「他人って……私は君の彼女……」
「彼女、だったら――どうして名前で呼んでくれないんです?」
「……ぁ」
核心を突かれたのか、葉純さんはそれっきり何も喋らなくなった。
羽佐間は砕けそうな骨をものともせず、何とか二本足で立ち上がる。それに気づいたイジメっ子Aはほくそ笑んだ。
「おいおい、まだやりたいの? それとも家に帰って、ママのおっぱいでも飲みに行きてぇのか?」
「まだ……終わって……ねぇ」
フラフラと目の前がかすんで見える。このままだと逆に視界が晴れて、きれいな川が見えそうだ。「このままだと死んじゃうよ! 早く私に」と葉純さんが言い終えるより先に、羽佐間の言葉が遮る。主に『死んじゃう』という言葉に反応した。
「すでに死んでる人間に、もう一回いかせるなんて、できないですよ」
ここは任せてくださいと遠まわしに告げるように、柔らかく笑った。
「……!」
葉純さんは絶句したかのように目をパッと大きく見開いた。何かおかしなことでも言ったのだろうか。当たり前のことを言ったつもりなのだが。
「オレは……別に構わないです。五十嵐さんはどういう目的があるのか……どうして、オレに近づいたのか。そうじゃなかったら、初めて出会った中学一年の夏……あのゲームのことを覚えてるはずがない」
「羽佐、間……」
「ヒヒッ、やっと名前で呼んでくれた……」
ゲラゲラと下品な笑い声が聞こえる。だがいまは、これっぽっちも気にならなかった。名前を呼んでくれた嬉しさからか、うっかり足の筋肉が緩んでしまい、前のめりに倒れかける。
立ちどころに葉純さんが支えようとしたが、その前に羽佐間は自分の腕で地面を受け止めた。
もう、一人でも、大丈夫。
「オレ、ちょっと浮かれてたと思います」
「え……?」
「五十嵐さんのような、綺麗な人が、初めての彼女になってくれて……嬉しかったです。ちょっと困った部分もあるけど、それ以上に……オレのことを想ってくれてるんだって、大切にしてくれてるんだってことが、伝わりました」
「…………」
「けどオレは、何も返せてない! それどころか、逃げて、逃げて、逃げまくってるんですよ! もううんざりだ! もう疲れた! 自分を、嫌いになるのは……!」
あの時、『さよならだけが人生だ』なんて気取っていた自分を殴りたい。羽佐間はイジメっ子の何十倍も、自分自身に腹が立っていた。
「…………」
「そしていつか、五十嵐さんからも逃げてしまうかもしれない。そんなの、嫌なんです。無責任じゃないですか。だから……」
膝が笑っている。立っているのがやっとだ。生まれて間もない子鹿のように、頼りなく、今にも崩れ落ちそうな自分の足。
それでも、
「痛みなんかどうでもいい、恐怖なんか、どうでもいい。自分の体質を治すことなんか……もっとどうでもいい。今は……ただ……」
身体が自分のものでなくなったかのようにおぼつかない。たかが目を開ける行為にも全神経を注がないといけないほどだ。
それでも、
それでも、
「今、は……」
唇を精一杯震わせながら、背を向けて去ろうとしているイジメっ子Aに叫んでやった。
「五十嵐さんの隣に立てるくらい、かっこいい彼氏になりたい!!!!」
このとき、葉純さんの口からはある言葉が飛び出していたのだが、羽佐間の耳には届かなかった。気力と根気だけで立っている容体ゆえに、それも仕方ないだろう。
拳を振り上げ、うなり声を発しながら、イジメっ子Aの元へと踏み出していく。
頭の中では、後悔の瀬戸際にいた頃のセリフで唯一正しいであろう言葉がこだましていた。
――どうせ、結ばれないから、叶わないから、離れて、しまうから……
そんなことはわかっている。わかっている。ものすごくわかっている。
けれどもそれがどうした?
果たして結ばれることだけが幸せなのか?
ハッピーエンド以外の物語はゴミクズなのか?
そんなわけがないだろう。面倒な理屈、やらない言い訳は後回し。行動する動機としてはたった一つ。羽佐間が、今、一番に感じていることは……
かっこよくなりたい。
数多の女性にフェロモンをまき散らすより、たった一人を夢中にさせられるような……そんな人がいい。そんな人間に、自分はなりたい。
衝動に身を委ねながら突き進む。恥も外聞もあったもんじゃない。たとえ一縷の望みしかなくても関係ない。
半狂乱になりながら顔をゆがませ、拳を伸ばす。対象に当たるまであと一メートル……五十センチ……二十五センチ……
閉じてしまいそうな意識に思いっきり怒鳴りつけてやった。
彼氏として!!!! できることをしたい!!!!!!
*
西日が校舎の影を長く伸ばし、オレンジ色の光が校庭を染めていた。どこか遠くでカアカアとカラスが鳴いている。一羽、また一羽と、夕暮れの空を横切っていく黒い影。サッカー部の生徒たちは、とっくの昔に帰ってしまっていた。賑やかだったグラウンドは今、しんと静まり返っている。
グラウンドの真ん中で、羽佐間は大の字に寝そべっていた。土と鼻血のついた体操服のまま、土臭い地面に身を預けて。
ただぼんやりと、空を見上げている。
なにを考えているわけでもない。いや、なにかを考えていたのかもしれないが、それは言葉にならない漠然としたものだ。疲れているのか、それともなにかから逃げているのか。自分でもよく分からない。
「ショートコント、ハナハナの実」
そこに呑気な葉純さんの声が聞こえたと同時に、羽佐間の腕からは新たに二本の細くて白い腕がニョキニョキと生えた。急に現実へと戻された心境になる。だが顔つきは燃え尽きたかのように無反応だ。
それを見て葉純さんは「はは……」と一目で見て苦笑いとわかるような微妙な表情筋の動きを見せた。隣にペタンと体育座りする。特になにをするわけでもない。時間が一秒一秒流れる様を、時折流れる風の音とともにかみしめているだけ。
どれくらい砂が下にこぼれたのか分からなくなった頃、ポツリと一言だけ、葉純さんが喋った。その一言は、まだ現実で起こった出来事として処理しきれていなかったものだ。
「負けちゃったね……」
条件反射のようにまぶたを閉じる。しかし逃げられないのかまぶたの裏では、イジメっ子Aに殴りかかったときの光景がリフレインした。
羽佐間は攻撃できなかった。 振り上げた拳は何もないところでつまずいたとことで地に落ち、そこから立ち上がる筋力も残されていなかった。面白がったイジメっ子Aは一方的に、容赦ない拳の雨を後頭部、背中へと休むことなく降らせてきた。
まだだ、まだ我慢するんだと、歯を砕く勢いで強くかみしめた。
本能が身体を動かした。特別な技術も、戦略も、なにもない。イジメっ子Aが葉純さんのときと同じように正面から殴るため、襟首を持ち上げた。クタクタになった身体を鉄拳が撃ち抜こうとした。
その瞬間こそが狙い目だった。
相手の腕が再び顔面に迫った瞬間、咄嗟に身体を前に傾け、イジメっ子Aの二の腕に食らいついた。
歯だ。
人間の身体で一番硬い部分は歯ということを以前旧資料室で読んだことがあったのだ。力の限り、顎に全ての力を込めて噛み締めた。腕の肉が歯に食い込む感触。そして口の中に広がる鉄の味。 「痛ってぇ! 離せ!」 と悲鳴が聞こえた。
だが羽佐間は離さなかった。むしろさらに強く、さらに深く噛み締めた。これが残された最後の抵抗。 「もうわかったから! わかったから離せ!」と イジメっ子Aの声が懇願に変わった。必死の声色。痛みに耐えきれなくなった声。
――勝った、のか?
それが羽佐間にとって最後の意識となった。
いや、そんなことはこの際どうでもいいだろう。『負けた』、この一言に尽きる。自分は戦いに負けたのだ。
彼氏としてできることをしたいなんて格好つけて、その結果がこれじゃ……かっこ悪い。あまりにも現実的で、あまりにも重い響き。 負けた、負けた、負けた……何度もその言葉を繰り返した。心の中で、途切れることなく。声に出してしまうと、事実に押しつぶされてしまいそうだった。
それがわかっていたのに、葉純さんは……
気づいたら、視界がまどろんでいた。 熱いものが頬を伝う。涙だった。 悔しさか、屈辱か、それとも安堵か。自分でもわからない感情が、涙となって溢れだしていた。ただ一つ確かだったのは、負けたということ。そしてその事実が、胸を締め付けて離さないということだった。
「ごめん、五十嵐さん。ごめん、なさい……」
敗者の泣き顔ほど無様なものはない。羽佐間は腕で自分の目を隠した。不甲斐ないにも程がある。葉純さんには醜態を晒しただけで、いいところを見せるどころか、かえってマイナスでしかない結果になった。
幻滅されただろうか。されただろうなぁ。今この瞬間に、別れの言葉とか聞かないといけない感じ?
こんなのが、こんな自分が、彼氏になんてなれるはずがない。
そんなことを思っていると、何を考えているのか、いきなり葉純さんは隠した腕をどけて目を合わせてきたのだ。瞳の中のアメジストがひときわまばゆく光り輝いている。手を振り払おうとしても、霊力なのか素の力なのかびくともしない。
変わらない泣きっ面に、葉純さんはきっぱりと告げた。
「私は! かっこよかったよ。すっごく」
葉純さんは使われていない鉄板のように冷たいおでこをくっつけてきた。そして同じような言葉をブツブツと繰り返す。洗脳されるように掛け値がなく思えてきた。両手はいつしか指と指の間に絡まれ、恋人つなぎ状態となっていた。
普段イジってくるときとは違い、今は菩薩のような優しい相好で見つめられる。その瞬間、羽佐間の中に巣食っていた苦い虫が、音を立てて浄化されていった。
「え……?」
そのたった一言で、羽佐間は自分がしてきたことが決して意味のないことではないと思えるようになってしまった。魔法にでもかけられたようだ。
あれほど責め立てたはずの自分が、少しだけ、本当に少しだけだが、悪くない奴に見えてくる。イジメっ子Aに噛みついたその姿、勇気と希望を見いだした。
多分それらは錯覚なのだろう。だがそれでも、噛みつく前と後では生まれ変わったみたいだった。
そんな気にさせてしまう葉純さんは、嫌いで避けていたはずの特別な存在になりつつあった。あるいはもうすでに、なっていたかもしれない。
「それと、私のほうこそごめん。せっかく君……じゃなかった、羽佐間の彼女になったっていうのに、ずっと名前で呼ばなくて」
「だからそれは構わないって……」
普通に会話できると羽佐間自身驚いていた。ちょっと前まで涙と鼻水で言葉にならないかと思っていた。
そんな思慮を巡らせていると、葉純さんは体育座りをやめて立ち上がり、オレンジから夕闇に染まりつつある空を顔を上げて眺めた。そのまま数歩ほど歩きだす。ちょうど光が逆光のようになり、彼女は黒いシルエット模様になった。
「いや……これは私個人の問題だから」
すべての色を飲み込みそうな黒い背中で語られ、羽佐間は何も言えなかった。その言葉は低く、重く、どこか遠くを見つめるような響きを帯びており、言外の意味がはっきりと込められていた。
今は、まだ話せない――そう暗に告げられたような気がして、意識せずに腕を伸ばす。遠くへ、行かないようにと。
するといつの間にか、指の間の景色に誰かがこちらに手を振っている人物が見えた。女性だ。しかしかなりぼやけており、ビルがゆがんで人に見えたかもしれないし、ただの目の錯覚かもしれない。
重苦しい沈黙が二人の間に横たわった頃、校舎の方向から「羽佐間くーーーん!!」と燐音が片手に白い救急箱を抱え、もう片方の手を大きく振りながら、こちらに向かって全速力で走ってくる。これは目の錯覚ではなかった。
そっと景色の一部へと変化するように、葉純さんは音もなく離れていった。
「燐音、どうしてき――ワッ!」
、 羽佐間の問いかけに答えるより早く、燐音は力いっぱい抱きしめてきた。ボコボコにされた身体にそのアクションは傷口に塩を塗りたくるみたいで、「痛い!」と声が漏れるが、それ以上の涙でぐちゃぐちゃになった言葉が覆い隠してしまう。
「ごめんなさい!! ごめんなさい!! ごめんなさい!! わたしが、あんなヤツの力さえ借りなければ、こんな、こんな……」
その涙に、その言葉に、どうしてもウソがあると思えなかった。その後痛みがぶり返している羽佐間に気づいて、大慌てで手当てしてくれた。慣れない手つきで、ぎこちなく、それでも最後までやりきってくれた。
記憶を掘り返す。今まで何百回と校門で自分が来てくれるのを待ってくれた燐音のことを。
素直に信じるべきだったのだ。そのやさしさを。そのぬくもりを。
信じるより疑うほうが楽になり、距離をとって、サヨナラの言葉に耳を貸してしまって……情けない。心の弱さ、未熟さにも責任の一端がある。
「なぁ燐音」
「なに?」
責任の一端がある。が、これから心を鬼にしてあのことを訊かないといけない。
「いい加減、教えてくれないか」
木々が風に揺れる音が流れる。その言葉だけですべてを理解したのか、再び燐音の目が水気を増していく。
だがこぼれてしまう前に、自らの頬をパシン! と両手で打ちつけることで強制的に逆流させた。その後手を前髪にやったかと思うと、髪留めを取って羽佐間に見せてくる。白いライラックの装飾が、濃い夕焼けのオレンジ色を吸収してマリーゴールドになっていた。
「これって……」
「……覚えてないかな? これは、羽佐間くんがわたしに買ってくれたもの、なんだよ?」
そう言った直後にのぞかせた燐音の笑みは……今まで見てきたどの顔よりも、一番悲しげに見えた。




