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一話 サヨナラだけが 人生ならば

「オレは……オレは死にたかったんだよ!」


 人間の皮をかぶった『石像』――志村羽佐間(シムラハザマ)の告白。

 月明かりが、屋上のコンクリートに青白い影を落としていた。昼間は生徒たちの喧騒に満ちていたはずのこの場所も、今は静寂に包まれている。フェンスの金網が夜風に揺れて、微かな金属音を立てた。

 校舎の向こうには、オレンジ色の街灯が夜に抗うようにアスファルトを照らしている。近くを通り過ぎる車のヘッドライトも、はるか遠くにあるコンビニの看板も、みんな、みんな、自分は此処にいると訴えるようにして光っている。


 ――サヨナラだけが人生だ


 友達を作るのも、恋人を作るのも、家族を作るのも、よくできたお人形遊びをするようなものだ。

 それは『永遠』じゃない。必ず別れがくる。

 別れは怖くて、暗くて、嫌いだ。だから決めたんだ。もう大切な存在は、特別な存在は作らないと。

 …………そう決めた、はずなのに…………

 

「どうして目の前に現れたんだ! どうして邪魔をするんだ! オレの人生だぞ!! 好きに、させてくれよ……」

 さよならだけが人生だ、さよならだけが人生だと、そう思って生きてきた。だからこそ、最後は自分で自分の人生に手を振ってやろうとしたのに……それを、こいつは……!!

「●●●さん、彼氏として(・・・・・)、一つ頼んでもいいですか。オレを殺し……」

「ダメ」

「え」

 

 ――世界が止まった。

 羽佐間の唇と、●●さんの唇が触れ合う。

 ただ、それだけなのに。魔法にでもかかったかのように、そうとしか思えなかった。

 それは、死者と割り切るにはあまりにも温かくて……優しくて……切なくて……たったそれだけの行為で、自分の全てを奪い去ってしまうような……

 月をバックにした●●さんが、逆光で黒く染まっている。そこから浮かび上がるようにして、紫色の星(・・・・)が煌めいていた。

 サヨナラから一番遠い場所で、物語は動き出した。

 

    *


 ――雨がふっている。

 ただし、普通の雨ではない。例えて言うなら墨汁のような、真っ黒な雨、黒い雨。

 音もなく、ただ、しんしんと。地面に落下した瞬間、消えてしまうように。溶けてしまうように。

 あの日からずっと(・・・・・・・・)、途切れることはなかった。

 羽佐間の感情が落胆する具合に応じて雨は強くなる。もちろん幻覚だ。分かってはいるのだが……その二文字で片付けるにはあまりにも、生活の一部として、また自分の一部として、深く染み込みすぎた。

 昼休み。ある生徒は友達と談笑にふけながら弁当を食べ、またある生徒は一人で学食へと赴き、またまたある生徒はそれすら勉強の時間に費やしていた。時間の使い方は自由であり多種多様。

 ――ただし、オレという例外は除く。

 薄暗い旧資料室には、常にほこりやごみが宙を舞っている。傷がつきカビの生えた棚には、時間の経過をありありと思い知らせるほどの古い書物や教科書が乱雑に入れられていた。ジメジメした空気が肌に吸着するようで、不快極まりない。

 でも、行かないといけないのだ。まるで連休明けのサラリーマンや学生のように身体が重くても、慢性的な腰痛持ちのように身体がどんなに痛くても、行かないといけない。

 その理由は……

 

「オラァ!」

「……っ!!」


 お腹をイジメっ子の拳が突き抜けるたび、中身が一気にせり上がった。今すぐに吐きたい。吐いて楽になりたい。しかしそうしてしまったら最後、「気持ち悪い」などと理由をつけられてさらに殴られることは分かっていた。四回実体験をしたから間違いない。

 だから、物言わぬ貝になる。風にそよぐ植物になる。不動な建造物になる。それだけが羽佐間の持てる唯一の手段だった。


「……うぅ……」


 うつむきながら、羽佐間は声を出すのを必死にこらえた。目玉をこぼしそうなくらいに大きく見開く。口元を両手で塞いだ。

 開けるな。開けるな。開けるな。

 呪いのように何度も言い聞かせた。もし口を開けたら入ってきてしまう。黒い雨が。それは殴られることよりも大層恐ろしい出来事に思えた。


「おいおい、『石像』がしゃべるなんておかしいだろ。黙れよ」

 そのあだ名の由来は、読んで字の如く石像のように喋らないことからきている。どうしても喋らないといけない日がある場合は、全て筆談で乗り切った。

「おかしいおかしい! 絶対おかしい!」

「…………」


 小学校、中学校とイジメられなかった年はなかった。高校に入学してから二年間は単なる空気として一次的に静穏を手に入れたものの、三年に進学したとほぼ同時に再開。おかげで黒い雨は、毎日土砂降りになってしまった。

 幼稚園児の頃から一人でいるのが当たり前だった。詩を読むのが好きで、特に好きな作家は寺山修司。だがあの日――父の死をきっかけに、その人の詩が読めなくなってしまった。好きだったはずなのに、嫌いになってしまうという痛みほど、心をえぐるものはないだろう。

 しかも追い打ちをかけるように、母は幾度となく「どうしてお友達を作らないの!」とヒステリックに喚き、家族間の仲はさながら氷点下のように冷めきっていた。

 だから、学校行事で親が来ていないなんてことは日常茶飯事。むしろ当たり前に文化祭や運動会で親と戯れているなんて光景が、羽佐間からしたらフィクションにしか見えなかった。


 ザァー ザァー ザァー…………

 ザァー ザァー ザァー…………


 世界が、目まぐるしいスピードで、烏羽色に覆われていくように視える。一種のスペクタクルだった。

 この頃になってくると、音のほかにも濡れるような冷たい痛みが全身を硬直させるのだ。呼吸が拙くなり、臓物がキュッと縮こまっていくのを感じる。

 そして――視えてくるのだ。

 黒い雨を隠すようにして、もう一つの幻が。羽佐間は安堵の表情を浮かべた。もう自身の傷も、痛みも、なにも気にならない。


「ねーねー、涅槃西風(これ)ってなんて読むのー?」


 年齢は一気に十一歳も若返った。まだ小学生に上がりたての頃、今はもうできない無垢な笑顔を浮かべながら、亡き父の膝の上に座っていた。すぐ近くでは著名な作家の詩集が広げられていた。

 殴られてもいない、蹴られてもいないゆで卵のような綺麗な肌で、羽佐間は分からない漢字を指差した。


「これはね、涅槃西風(ねはんにし)って言って、涅槃会という日の前後に吹き続く西風のことを言うんだよ。ついでに言うと春の季語でもある」

 父の声色を例えて言うならば、シルクで全身を包み込んでくれるような優しさそのものだった。滑らかでスルスルと耳に入ってくる感じ。最悪詩集が読めなくても、意味が分からなくても、声を聞くだけで十分満足していた。

「へー! 父さんは物知りだね! でも風の部分読んでないじゃん! どうして?」

 その時の父の顔は、どこか切なそうに見えた。

「ははっ、どうしてなんだろうね」


 つらい現実から目をそらすようにして、淡い思い出に身を委ねる。母と違って、羽佐間がふだん一人で生活していても、なにも咎めはしなかった。非常に温厚な性格で、怒った姿なんてめったに見たことはない。

 ……………………もし仮に、父が生きていたとしたら、どうだろう。今の自分をみて、悲しむのだろうか。怒るのだろうか。わからない。

 不毛な空想だ。人はいずれ死ぬ。

 どんなに裕福な人でも、貧しい人でも、英雄でも、極悪人でも、決まって平等に訪れる。

 父はただ、その時期が少し早かっただけ。

 サヨナラの時期が(・・・・・・・・)少し早かっただけ(・・・・・・・・)

 サヨナラだけが人生だ。

 サヨナラだけが人生だ。

 サヨナラだけが……


「食らえッ!」 


 手に分厚い辞書を携えたイジメっ子が、羽佐間の脳天めがけて振り下ろしてくる。

 脳が予想外に振動したと思った瞬間、意識はプツンと途切れた。

 

    * 


 夢を見ている。

 身体つきは今より幼く、それだけでは情報として不確かなのに、学年と季節はありありと中学一年の夏だとわかった。羽佐間の足音だけが夜を鳴らすようにして響いていた。

 ――ただ遠くへ行きたかった。その意識だけが独り歩きしていた。 

 理由が分からないまま、真夜中に公園へと歩を進めていた。風が枝の間をすり抜け、ささやくように葉を震わせて、街の灯りが遠くにぼんやりにじみ、ベンチの影だけが濃く地面に張りついていた。公園に一歩足を踏み入れると、そこはまったくの別世界。満月をみた人間がオオカミに変わるように、時間帯が変わるだけで違う顔を見せてきた。

 脆弱な光を放つ街灯の中を進み続けた。真夏にしては季節が変わったかのように冷え込んだ夜の中。パジャマの布地が役に立たなくなって、吐く息の白さがうざいくらいに目について、それでも歩き続けた。やがてとりわけ森の深いところまで入っていったときのことだ。


「夜のお散歩にしては……」

 

 ――天使が、上から降ってきた。

 耳の中をじんわり温めるような低音ボイス。羽佐間の位置からして頂点が見えないくらいに高い木から、綿ほどの体重も感じさせないように、ゆったりと着地してみせた。


「ずいぶんと物騒だね」

 そのひと言がきっかけで、半分夢うつつだった意識は覚醒。見ると風の影響か倒れた木の上に、だれかが座っていることに気付いた。顔はぼやけてよく見えなかったが、自分より大きい体格と高い身長であることから、年上の女の人であることだけはわかった。

「だれ……?」

「一度くらいは憧れたことないかい? 『永遠』というやつに」

 まるでフィルターから透かすようにして、表情筋の動きから微笑を浮かべた女の人は儚げで、切なげで、羽佐間が指でつついただけでも壊れてしまいそうな雰囲気。得も言えぬまま立ち尽くした。呼吸が止まった。そんなアクシデントに見舞われたのは、鼻息だけで吹き飛ばしてしまうのではないかと不安がよぎったからだ。

「君は詩が好きだったよね?」

「ど、どうしてそれを」

 女の人は不敵な笑みを浮かべていた。

「さぁ、どうしてでしょう?」

 後ろ手を組みながら背後に回り込むと、「君のことが、好きだから」と両肩に手を置きつつ、耳に囁いてきた。低音のゆったりとした音の波が、耳かきのように心地よかった。

「は……はァァァ!?!?」

 突拍子もなく見ず知らずの人に告白されてしまい、羽佐間は汗顔の至り。つい反射的に身体が距離をとってしまった。

「て言ったら?」

「え?」

 体温を引っこ抜かれたように熱が引いた。

「て言ったら君は、どんな反応をするのかなーって」

 ニィと白い歯を見せてきた。ようはからかわれたのだ。そのことを幼いながら把握し、つよいショックを受けた。おまけに一弾指の時間でもその気になってしまったことがなによりも惨めで……せめてもの抵抗として、フンと鼻を鳴らしそっぽを向いた。

「あーごめん、怒らせちゃったね。お詫びにとっておきの詩、教えてあげるからさ」

 仏頂面になりつつも、とっておきという言葉につられて訊いてみた。

「…………それって、お姉さんが考えたの?」

「まさか。私の一番好きな……」


 …………

 ………

 ……


「っ……」


 ジンジンとしびれのような頭の痛みで目を覚ます。羽佐間は夢を見ていたという記憶だけを残し、肝心の内容は一切消え失せてしまった。スマホの時計を確認すると、時刻は五時半。いつもなら三時や六時間目の授業に間に合うように目を覚ますのだが、今日は夢のせいかそうとはいかなかった。

 傷だらけの窓の外の景色は、絶えずして黒い雨が音もなく降り注いでいる。今はどんな天気なのだろうか。どんな景色だろうか。時間からして夕日がこんにちはしてくる頃合いだろう。でも、その夕日を拝むことはかなわない。

 いつか、雨は、止むのだろうか。

 よろけながら立ち上がると、その際に手でついた本に目がいく。表紙の一部がかすれたり、破けたりして全部は読めないが、すべて詩集であることは確かだった。昔は好きだったはずなのに、今は父との思い出を回想するだけなのがひたすらにむなしい。中学二年のときに一度魔が差して詩集を読んだことがあるが、結果は吐き気を催しただけと予想通りだった。

 教室に戻り、一人、帰りの準備。その後昇降口を抜け、校門へ向かおうとしたその時、校門近くの壁に片膝を曲げつつ赤みを含んだ空を見やっている人影が見えた。その正体は、中学時代から付き合いがある柏木燐音(カシワギリンネ)その人だ。男女の意味で付き合ってはいない。女の子らしい華奢(きゃしゃ)な体型で、肩にかかる程度まで伸ばしたこげ茶色の髪が風に遊ばれている。パッチリとした右目に泣きぼくろがよく目立った。顔は異性同性問わず美人と評しており、おまけに人あたりもいいので、周りから好印象に見られていることが多い。実際そのとおりだ。

 

「今日は、遅かったね」

 今日は羊のような形の雲がちぎれて流れたのを見届けてから、視線を移した。いつも、中学時代から変わらない動作。朗らかな笑顔。それらを向けられるたびに、胸を締めつけるような罪悪感と情けなさにとらわれた。目線を下げる。

「どこかで居眠りでもしてたの? 今日ってすごく気温が安定してて、暑くもなければ寒くもなかったよね。思い返せば日向ぼっこびよりだったかも。あ! 日向で思い出したけど、最近のコンビニスイーツに日向夏を使った……」

 燐音は頼んでもいないのに勝手に話しを展開してきた。気を使ってくれたのかと申し訳なくなる。

「…………」


 無視して燐音の脇を通り過ぎようとしたその時、「待ってよ」とか細く弱々しい声でつぶやいてきたが、羽佐間は聞こえないフリをした。ズンズンと歩調を大きくして家路につこうとする。

 だが一足早く、燐音が正面に回り込んだ。さっきまで見ないようにうつむいていたが、つい頭が上がってしまう。瞳は、今にも涙のダムが決壊寸前だった。右目の泣きぼくろが見るからに湿っている。


「待ってって言ってるでしょ! どうして一人で抱え込むの? わたしが、こんなに近くにいるのに!!」


 燐音の一言一言が、羽佐間にとって、まるで言葉のトゲみたいに内臓のあらゆる箇所に刺さる感覚がした。高三になってからほぼ毎日、主張が日に日に勢いを増している気がする。そのたびに中学生の頃デパートで買い物をした思い出、公園を散策した思い出、博物館や美術館に行った思い出たちが、キラキラと宝石のように輝いていた。想像の中だけは、黒い雨が降っておらず美しいままで。

 輝きを維持したい。守りたい。そんなふうに考えるのは、果たしておかしいことだろうか。

 

「柏木さんに、迷惑かけたくない」


 視線を下ろす。燐音が今、どんな顔をしているのか容易に想像できるからだ。きっと悲観をそのままこすり付けたような表情をしているのだろう。中学生の頃、当時は燐音に頼りっきりだった。依存していたとも言えるだろう。いまと似たようなあだ名をつけられてイジメられたとき、間に入って護ってもらった。

 当時から燐音はクラスの人気者で、たいていはひと言発してしまえば、それだけで人が変わったかのように態度を改めてくれた。そんなすごい人の近くに入れたことで、さぞ自分までもが強くなったかのような感覚に、羽佐間は酔いしれた。まるで虎の威を借る狐。

 だが、しばらく経ったある日に悟った。ひょっとして今の自分は、すごくかっこ悪いんじゃないかと。女の子に守られる男なんて、幼くて未熟なプライドが許せなくなったのだ。

 その日を境に、燐音との距離を大きく開けた。


 ――強くなるから。燐音の力なんか借りなくても、一人でも大丈夫だから。

 

 そんなことを口走った気がする。でもそれは、風呂敷を広げただけに終わった。

 本当は逃げたのだ。燐音から。自分自身から。

 燐音と比べて、自分はあまりにも劣等種で、出来損ないで、ろくでなしと卑下した。守ってくれたことに対してお礼が何もできていないこと、借りが増えていくことに対して重みに耐えられなかったことから、羽佐間は離れることで、本来果たすべき義務を放棄したにすぎない。

 さっきと同じように燐音の横を通り過ぎようとすると、後ろから女の子特有の細く柔らかい腕が、優しく胸部に回された。温かくて、優しい体温が、制服の上から伝わる。ずっとこうしていたいと誘惑に駆られたが、歯を食いしばり、なんとか踏ん張った。


「すべて、委ねてイイんだよ……? だってわたしは、ずっと羽佐間の味方なんだから」

「……ありがとう」


 一応は礼を言った。その言葉は紛れもなく本心からくるものだ。しかし今はその優しさが、その関心が、痛みでしかない。黒い雨の足が速まっていくのを感じる。さりげない善意にすら応えられなくてもどかしい。燐音の抱きしめる手が緩んだ。安心したのだろう。だがそれに続くように、「でも、そういうわけにはいかないから」と羽佐間は腕をほどいた。

 視界の端では、燐音の差し伸べられた手が見えた……気がしたが、これは自分の問題だからと心のなかでつぶやく。

 振り返ることはなかった。

 振り返りたくなかった。

 足音が遠のいていく……

 そのまま帰宅し、リビングに入ると母の書き置きが置いてあった。『ご飯は自分で作って食べてください』という温度のない言葉。申し訳程度にニンジンの塩ゆでだけが小皿に乗っかっている。最後に同じ時間で食した日を考えて、古すぎて思い出せなかった。


「ハンバーグ……」


 脳裏には一瞬、かつて父が生きていた頃の食卓の映像が流れた。だが羽佐間の想像力が足りないのか、すぐに黒い雨が現実へと塗り替えてしまう。ギリッと歯ぎしりを一つしながら、階段を駆け上がった。自分の部屋の途中に父の部屋があるのだが、いつもその場所だけは早歩きになってしまう。理由なんて考えたくなかった。

 自室に入ると、あとは何をするでもなくベッドに寝転がった。お腹は夢をみたせいなのか空いていない。ギシリと付き合いの長いベッドがうなる。


「…………」


 窓を開けているせいか、行き交う車たちの残響が耳に流れ着いてくる。その合間を縫うように、自転車のブレーキがきしむ短い音や、誰かの笑い声がかすかに混じっては、すぐに闇に溶けていく。これからどこへ向かっていくのだろう。家か。それともこれから仕事に向かうのか。はたまた家族と、親友と、恋人と外食か。

 それぞれの人生が、それぞれの一瞬が、羽佐間の横を通り過ぎていった。


 ――すべて、委ねてイイんだよ……? だって私は、ずっと羽佐間の味方なんだから。

「……『ずっと』なんて、永遠なんて、あるわけないのに……」


 暗黒色に染まったベッドの上でつぶやく。それは自分自身に言い聞かせているように聞こえた。カーテンの隙間からは街灯の弱い光が細く差し込み、部屋の中に淡い影をつくっていく。

 ヘッドボードには写真立てに入れられた羽佐間と燐音のツーショット写真をぼんやり見つめた。写っている建物からして博物館に行ったとき。あの時は楽しかった。でも今は痛みでしかなくて、だったら目に映らない場所にでも置けばいいものを、めんどくさいを言い訳に何もしない自分。存在が痛い。

 いきなり距離を置いた羽佐間に対して、燐音がただ黙っているわけもなく、「何か悪いことをしたのか」、「気に障ることを言ったのか」、「せめて内容を言って謝らせてほしい」などと言ったが、すべて無視した。

 その結果、あとに残ったのは気まずい距離感だけ。もう何年も、まともに燐音と目を合わせていない。

 どんな感じで笑っていた? 

 どこの表情筋を使っていた? 

 最初から存在しなかったように、記憶が抜け落ちている。きっと燐音が毎度校門で待ってくれているのは、足にプログラミングされた機械的行動といったところだろう。そうに決まっている。

 だがそれも、いつかは終わるだろう。

 永遠なんて存在しないから。


「サヨナラだけが人生だ……サヨナラだけが人生だ……」


 誰に聞かせるわけもなく独りごちる。そういうものだと、脳に刷り込みを行う。

 何回も。

 何十回も。

 何百回も。

 これからも。この先も。ずっと。ずーっと。

 

    *


 不思議な夢をみてから一週間が経過し、羽佐間は買いだめした食材を片手に、国道沿いの歩道を歩いていた。日が西へと傾き始めたことで空はサーモンピンクの輝きを放ち、電柱や道行く人が淡い影を地面に伸ばしている。遠くに見えるオフィスビルの窓ガラスが夕陽を受けて、まるで宝石箱のように輝いている。どこかの家庭か飲食店か、美味しそうなカレーの匂いがして、本当に、本当にちょっとだが胸の内側が和らいだ。

 何気なしに視線を投げた対向車線側の歩道に、どこかで見覚えのある背丈と後ろ姿をした女性が見える。ブォンブォンと車がせわしなく視界をふさぐが間違いない。燐音だ。

 ここ最近になって、中学時代から続く説教や校門で待ってくれるという行動をしなくなっていた。きっと燐音も忙しいのだろうと割り切ろうとしたが、どうにも上手くいかなくて……自分から避けていたというのに、いざとなると気になって仕方ないのは、まことに身勝手だな思う。

 本来なら今すぐにでもまわれ右して家に帰るべきなのだが、目線だけは縫いつけられたように燐音の動向を追っている。そして――車の切れ目から見つけてしまった。


「ッ!!」

 

 まず最初に起こったのは、黒い雨が場面を切り替えたかのようにして瞬時に降りしきる。羽佐間の人生上、こんな経験は初めてだった。鼓膜にまではいってくるほどうるさい雨音。だがそんなことはどうでもいいと思えるほど、視界に映った映像が脳の中心にへばりついていて離れない。

 つい反射的に、近くの電柱の陰に隠れてしまった。絶え間なく自動車が行き交っている状況で、こちら側なんか見えるはずもないのに。燐音の隣には、よく見るともう一人いた。それも羽佐間がよく知っている人物で、特に昼休みの時間、悪い意味でお世話になっている……イジメっ子がいたのだ。

 頭がコンピューターの内部構造くらい混乱したが、まずは理由を考える。もしかしてイジメを止めようと直談判しているのかもしれない。それはマズイと思い、尾行をすることに。

 さっきと同じく電柱の陰に隠れたり、道端に停車していた車の後ろに隠れたりと様子をうかがう。分かったことは、他愛もなく二人で学校での出来事を話していたことだ。〇〇の授業が難しかった、〇〇くんは今日もうるさかったなど、聞くに値しないやりとりばかり。

 イミガワカラナカッタ。

 胸の中心あたりは、ズキズキと病のような痛みが発生している。それはなぜ? と考えて、嫌がらせをしてくる人なんかと仲良くなんかしてほしくないという手前勝手な思想に、髪の毛先まで支配されたからだと気づいた。

 『友達』と認めるのが怖くて、『知り合い』で落ち着かせたくせに。


「……今更、虫がよすぎるよな」

 これ以上尾行しても、自分の価値を下げるだけなのはわかっているのだが……下り坂を転がる石のように、羽佐間は行動を止めることができなかった。話を聞き続けて十分ほどが経過した頃、唐突に石は意思を持ったかのようにピタリと停止。そして、

「そういえばさ、|プチイジメの件はうまくいってる《・・・・・・・・・・・・・・・》?」


 ?????????????????

 耳を疑う。それどころが、その耳を手で一時間以上入念に洗って天日干しした後、あらためて聞きたいと思うようなセリフが、燐音の口から発せられた気がした。


「ん? ああその話? お前の要望を叶えるのは、まだ先だろうよ。アイツ全然泣かねーからなー。マジで前世は石像かもしれねぇな。ははっ」

「……………………ぇ」


 こげ茶色の髪の毛が、小風で揺れている様を、見つめている。見つめている。「うまくいってる?」という言葉が、ずっと脳内を体育館のように反響していた。かつてイジメから護ってくれた人から出た言葉だとは思えない。だから幻聴を聞いたのかもしれないと羽佐間は自分をだましてみたものの……一度聞き取った音の記憶は、かたくなに真実から目を背けようとはしなかった。

 『味方』という言葉は……『委ねてイイ』という言葉は……


「ウソ、なのか……?」

 

 ――サヨナラだけが人生だ

 まるで、タイミングを見計らったように思い浮かんだその言葉は……あまりにも残酷で、残忍で、それでいて動かしようがない事実だった。今までの喜びは、嬉しみは、すべて今この瞬間の悲しみや苦痛を肥やすためのエサに過ぎなかったと、暗に教えられた気分。目の前がぐらつく。急速に雨脚が強まっていく。

 ここではない遠くへ行きたいと、強く願った。

 だから羽佐間は走る。走る。ひたすらに走る。

 どうせならイジメっ子に一発でも殴りかかればよかったと思ったが、そんな度胸があれば今日までイジメられることなんてなかっただろう。足がちぎれそうなくらいの痛みを感じても、拳を握りながら、涙を路上に散らしながら、唇をかみしめながらながら前に進み続ける。外部の痛み以上に、心が原型を留めないくらいに踏み荒らされたようだった。

 モノクロで染まった世界を駆け抜けていく。自分がどこを走っているのか分からなくなるくらい、がむしゃらに。雄たけびを上げながら。周りの目なんて気にせず。黒い雨が口の中に混入したが、まったく気にならなかった。

 仮に……もし仮に、小中高とすべてのイジメが燐音によって仕組まれていたとしたら、どうなのだろうか。

 どうもこうもない。

 そんなわけがないのに、そんなはずがないのに、今はそれすらまともに信じることができない。有り得べからざる事態だ。弱くなった。もろくなった。

 |ぜんぶわかっていたはずなのに《・・・・・・・・・・・・・・》……


「ハァ、ハァ、ハァ…………ウゥ……」


 息も絶え絶えになり、とある場所でガス欠のように倒れ込んだ。頬に冷たく硬い感触がする。見ると均一に敷かれた大きめの石畳。羽佐間は下を向いていたことが多いので、自分がどこにいるのかすぐさま認知した。

 ――時の輪公園。

 都会の喧騒から離れた、まるで時間が異なる速度で流れているかのような静謐(せいひつ)な空間。 公園の入口をくぐると、まず目に飛び込んでくるのは、巨大な円環状の石造りのモニュメントだ。風化した石の表面には、太古の文字のような刻印が施され、訪れる者に何かを語りかけているようだった。十五ヘクタールもある広大な敷地内には、図書館や美術館、プールや公会堂と施設が充実していた。無数に生えた木々は季節ごとに桜や紅葉と色を変え、老若男女問わず毎日たくさんの人々が訪れている場所だ。今はちょうどみずみずしい緑色をした若葉が息づいていた。

 しかしながら、そんなネットで紹介されているような情報なんかより、なにか、決定的な、心当たりがあるような……めまいすら覚える既視感。あたかも『導かれた』ような脳のエラー。

 フラフラと千鳥足を行使しながらいつの間にかたどりついたのは、園内でも特に木々が深く生い茂っている森のど真ん中。幼い頃、家族全員で公園に行ったとき、母から「ここは迷いやすいから入らないでね」と言われたような気がした。

 周りを見渡してみたが、確かにどこをみても同じような景色ばかりで、一向に出口のようなものは見えない。踏みしめる葉や枝の音だけが、空虚に響いた。


「……?」

 

 その時、視界に女性が映った。

 羽佐間の位置関係からして、顔はよく見えない。言葉を発するわけでもなく、ただ一点の方向をジッと見つめている。太陽の明かりがそれほど届いておらず、細かい部分は分からないが、自分と同じ高校の制服を着ていることだけは理解した。スカートが風でしずかにそよいでいる。

 女性にしてはやけに身長が高い(・・・・・・・・)。頭二つ分ほどの差がある。

 なにも考えず声をかけようとして――たちまち口を塞いだ。瞬間的な自己防衛本能が作動したから。理由はわからない。いや、正確にはわかっているのだが、それを口に出したくなかった。出してはいけないと思った。雨音が人生を生きてきた中で一番うるさい。羽佐間の耳をぶち破りそうな勢いで、強く強く地面を打ち付けている。心臓の警報ベルが高鳴っている。

 見てはいけない、確かめてはいけないと何度も叫んでいるのに……恐れている自分を否定したくてつい、女性の前に飛び込んでしまった。最初に顔が見たかったので、頭を上にあげて視線を送る。そして、


「ウワアアアアァァァァァァァ――――ッッッッッ!!!!!!!!」 


 冗談抜きで、人生で一番の大声を出した気がした。羽佐間はみっともなく尻もちをついてしまう。直後、衝撃で女性の前髪が揺れて、目が合った。

 そこに置かれていたのは、すでに命の灯火が消えた虚の燭台(首吊り遺体)

 頬は青白い色に染まり血の気が感じられず、口から半分ほどだらりと舌を垂らしている。目には生気が宿っておらず、まるで作り物のようにはめ込まれていた。顔はところどころ刃物で切られたような切傷がついており、想像なんて到底できないほどの痛みと苦しみが張り付いている。

 指の爪が茶色がかった黒のような色になっているのは、時間が経って固まった血がついているからだろう。その証拠に、首の部分には深く痛々しいひっかき傷がついている。もがいて縄をほどこうとしたところか。やけに身長が高いと思ったのは、首を吊っていたことで足が宙に浮いていたからだ。心臓が人生で一番というほどにうるさく脈打つ。鼓膜の近くまで移動したようだ。ドクンドクンドクンドクンとハイテンポが続くと思った矢先――


「……………………あれ」


 安定した。

 森の中のせいか、住宅街よりも断然多く鳥の声が聞こえる。それに被さるように車がとおり過ぎる音。夕風に吹かれて森林全体が合唱しているかのような音を響かせている。意識が平穏を取り戻していた。普通ならもっと動悸が激しくなったり、気持ち悪くなったり、一秒も早くこの場から離れたいと思うのが必然だろう。

 だがそれどころか、羽佐間は動悸が徐々に収まっていくのを感じた。教科書通りの正常なリズム。ドクン、ドクン。ドクン、ドクンと。

 気持ち悪くどころか、逆にお腹の中心に心地よい風が吹き抜けていったかのような清涼感? がある。さすってみると快感さえ感じた。


「これは……」


 ひざに手をつきつつ立ち上がって見えたのは、ポケットからはみ出た便箋と一枚の写真だった。発作的に羽佐間は、最初に写真から手に取る。服装からして中学の卒業式で、卒業証書が入った筒を持ち、両親と一緒ににこやかな笑顔を浮かべていた。キズなんてない、きれいな顔だ。その後ろには今にも写真の中で動き出しそうなくらいに躍動感のある桜が写っていた。

 次に三つ折りにされた中身を読み取る。こちらは実にシンプルだった。

 ――もう つかれました

 その一言だけが書き記されていて、便箋の余った箇所は、あったかもしれない女性の未来が書かれている気がした。

 友達、

 恋人、

 家族、

 希望、

 夢、

 想像した中にマイナスの要素はなかった。なぜだろうか? 自分なりに女性を慰めようとしている? だとしたら……とんだお笑いだ。

 すでに死んだ人間に、いったいどんな慰めがあるというのだろう……

 

「うらやましい……」


 両手で口を押しつける。あたかも朝のルーティンで歯を磨くようにさりげなく、今、自分はなんて言ったんだ? うらやましいと口にしたのか? その驚きのせいか、一回目の枝がメキメキと折れるような音をほとんど聞きそびれてしまう。違和感を感じつつ次に音を聞いたときには、遺体の重さに耐えかねて落下してしまい、羽佐間に覆いかぶさったあとだった。ファサッと木の葉が上に舞い上がる。はたから見れば、彼女に押し倒されたような体勢だが、その相手は、とうに魂のない人形と化している。

 今、首を少し近づけるだけでキスできるほどに近くにある顔。よくよく見るとなかなかの美形だなと思った。小顔で鼻が高く、生きているうちはそれなりにモテてたのではないかと考えたが、事情を考えるだけ無駄というやつだろう。死んでしまった今となっては。

 温かい。

 女性に触れている部分は、まるで寒い冬の夜、家に帰ってつける最初のストーブみたいに、羽佐間に天国のような安らぎを与えた。燐音に抱きしめられたときとは比べ物にならなくて、なぜそうなのかなんて考えが及ばないほどに、ただただ気持ちがいい。これは……

 記憶が花開く。怖いものをみた日の夜に、父と一緒に抱きしめ合いながら寝たときの思い出がくっきりとした輪郭を形成して蘇った。それに伴って、まるでそうするのが当然というかのように、両手を女性の背中にそえる。その瞬間、電撃が駆け抜けるようにあの時の記憶が閃いた。


 ――一度くらいは憧れたことないかい? 『永遠』というやつに。

「……!!!!!!!」


 まるで、舞台の緞帳(どんちょう)が一瞬にして上がったようだった。

 空の高みでは、沈みゆく太陽の名残が淡い金色となってほどけ、紫がかった薄い雲の端をやさしく染めている。その柔らかな光が、梢の葉を一枚ずつ透かしながら、森全体に薄いヴェールのように降りそそいでいた。風がそっと通り抜けるたび、枝葉がかすかに揺れ、光と影が葉裏で金の鱗のようにきらめいて見えた。

 見える。世界が、見える。

 鮮明に。

 明瞭に。

 くっきりと。

 黒い雨は、もう見る影もなかった。

 チュウチュウと鳴く小鳥の声が、さながら羽佐間のために演奏されたファンファーレに聞こえる。今まで封じられていた五感が、急に息を吹き返したみたいだった。

 風の音、

 遠くの鳥が飛び立つ音、

 地面の臭い、

 雑草の臭い、

 全体的な空気の味、

 郁郁青青(いくいくせいせい)の新世界。感想を言うのがもったいないくらいに……息をするのも億劫になるくらいに……こんなにも、こんなにも……!!!!


「…………そっか…………………………………………………………………………………………そう、だったんだ……」


 思い出した。ここは初めて不思議な女の人と出会った場所。既視感や導かれたような錯覚の答えが、デカデカと眼前に押しつけられた。ゆるやかに破顔していく羽佐間の顔。徐々に大きくなっていく笑い声。心の底から、声がかれるまで。やがて太陽が沈み、チョコレートのような甘い暗闇が世界を包みこんでもなお、笑い続けた。

 ようやく、わかった。

 永遠なんて、存在しない。ましてやつかむことなんて不可能。

 だが――永遠になる(・・・・・)ことなら、可能だ。

 

    *


 夜の校舎内は、あたかも自分のためにだけ用意された特設ステージのようだと、羽佐間は思った。

 廊下に設置された蛍光灯は当たり前だが一つもともっておらず、暗闇の中を忍び込むようにして移動する。実のところそうなのだが、脳みそからはオキシトシンがドピュドピュと出ているので気にならなかった。今すぐに快哉を叫びたかったが、ぐっと堪える。ふと窓の外を見下ろすと、校庭が夜霧に包まれている。昼間は賑やかだったはずの場所に、今は誰の気配もない。それだけでも気分を高揚させるための興奮剤としては充分すぎた。

 さっきからスマホの通知が鳴り止まないのでオフにする。主に母と燐音からだ。内容はおおかた分かっているのであえて無視する。廊下から見える教室の掛け時計は十時を示していた。

 ――サヨナラよりも永遠が欲しい。

 ようやく自分の正直な気持ちを知った。中学二年の夏、まるで夢遊病のように真夜中に公園へと出かけたなぞが、ついに紐解かれた。

 ――あの時、死にたかったんだ(・・・・・・・・)…… 

 カツンカツンと足音が、周りに誰もいないだけあって面白いくらい響いていく。ぼんやりと夢の景色のような月明かりが、等間隔に設置された窓ガラスを通して床を光らせていた。なんかのゲームで登場する空中に浮かんだ足場みたい。ちょーテンション上がるんだけド。もうアゲアゲ。羽佐間はつい童心に帰りたくなり、「よっ、ほっ、」と声を出しながら、ケンケンパの要領で光を踏みつける。脳内ではファミコンでよく流れるピコピコとした音質のBGMと、横スクロールアクションで荒いドット絵の自分が想像できた。

 そんな楽しい場面に水を差すようにして、遠くの廊下からコンコンと重たい足取り。警備員(敵キャラクター)のお出ましだ。

 サッと身を教室の中に滑らせて隠れる。心臓が皮膚の内側で激しく高鳴っているのを感じた。でもまったく不快じゃない。むしろかくれんぼをしているときのようなスリルで元気ビンビンだ。

 たしか燐音と遊んだときも同じことが……ま、いっか。警備員は見当違いな方向をライトで照らしている。しめしめ、ザマァみろ。

 足音が過ぎたのを確認してから教室を出る。悪ガキの心理が分かった。どうりで減らないわけだ。さっきからずっとこんな調子。意識していなくても、イタズラ心が泉のようにわき出てくる。これから、永遠になれることがうれしくてうれしくてたまらないのだ。

 ――オレは屋上を飛び降りる。

 だが決して死にに行くというわけではない。羽佐間はきれいになるのだ(・・・・・・・・)

 生きているだけで人間という生き物は他人に迷惑をかけ、地球に迷惑をかけ、罪を重ね、業を背負い、見た目も醜く汚れていく。しまいには欲望に溺れて自分で自分の身体を壊し、病院でやせこけた肉の塊になる。

 それらを止めるすべはなく、誰一人として『変化』、もとい『劣化』をとめることはできない。

 だがしかし、そんな劣化を止める唯一の方法が、永遠になるということ。死はいわばその手段であり、ただの通過点にすぎない。

 そんなこんなで屋上にたどり着いた。重たい鉄のドアを開けると、一気に夜風がすぐ後ろを吹き抜ける。たったそれだけのエピソードが、妙に楽しくて仕方なかった。

 恐怖はない。落下防止のフェンスを乗り越えてもなお変わることなく、自身の決意は揺らがなかった。涼風が頬をなでる。足元の面積が狭いせいか、身体がふわふわした。今なら空も飛べるはず。まぁでも、これから似たようなことをやるんだけど。

 深海一万メートルのような真っ黒に染まった地面を見下ろした。もしここから落下したとして、少しは赤色が加算されるのだろうか。だとしたら前衛的アートの完成だ。

 あとちょっと、前に出るだけで、あれほど恋焦がれた『永遠』がある。両腕を広げて、満面の笑みを浮かべて、待ってくれている。

 今、そっちにいくから待っててと目配せをする。

 わかったよ、と言葉が返ってきた気がした。

 

「…………」


 羽佐間は目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をする。ひんやりとした大気が鼻から肺へと流れては満たしていく。たったそれだけで身体中の細胞が喜んでいる気がした。

 目を開け、夜の町を一望する。まだギリギリ起きている時間帯なのか、どこもかしこも電気の点いている民家やオフィスビルなどが目立つ。遠くで街灯や信号機がチカチカと淡く光を照らしだしていて、時折車のテールランプが線を引いて走り去っていく。建物が特に集中した箇所では、遠くからでもはっきりわかるほどギラギラとしたピンクや金色のネオンサイン、カラオケ店や大衆居酒屋の看板が白くともっていた。

 

「きれいだ……」

 

 あ、口に出しちゃった。

 うっかり屋さんだなぁ、もう。

 それはさておき、これでキレイになれる。例えるなら自分は汚れた衣類で、飛び込むという行為は洗濯機の中にはいるようなもの。あらゆる苦しみ、痛み、悲しみから解き放たれ、自由になれる。 

 なんと素晴らしいことだろう! なんと美しいことだろう! 気分が最高潮に絶好調しているのをギンギンギンギラギンと感じた。


「これで……あれっ」


 視界がどろりと崩れたのをみて、自身の双眸から生暖かいしずくが分泌されていたことに惑う。

 指でぬぐってもぬぐっても、次から次へとしずくはやがて雨にかわり、羽佐間は頭を振った。そしてこれ以上あふれないように雲一つない空をみあげる。

 まるで自分が創り出した世界と宣言しているように、まん丸なお月さまが煌々と輝いていた。


「…………ふぅ」 

 と心を落ち着かせるためにため息を一つ。余計なことなんて考えるな、考えるなと何度も言い聞かせた。

「じゃっ、サヨナラ」


 フッとマッチ棒のような笑みを浮かべる。その言葉は、ほかの誰に対しても言ったセリフではない。

 羽佐間が、羽佐間の人生に手を振るために。 

 ずっと捕まっていた金網から手を離す。身体を前方にかたむける。その瞬間、体感的に数秒の出来事のはずが、ひどくスローモーションで視界に映った。

 細かな風の動き、

 一歩を踏み出すまでの時間、

 頭から徐々に暗闇にのみ込まれるまでのほんの刹那――その声は、唐突に羽佐間の真後ろから響いてきたのだ。


「ダメェ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


 ガシンッ!! と勢いよくフェンスにつかまった音がこだまする。実際に鼓膜を震わしてきたようなリアルな声量。本気でとめにかかったかのような覇気に気圧されて、羽佐間はハァハァと息を切らしていた。

 ほんの数秒前までおとなしくしていたはずの腕が、ウソみたいに震えていた。それは単に寒いからという理由でないことは、本人が一番よく分かっている。


「今の、は……」


 答えは分かりきっているが、背後を振り返る。誰もいない。しかし安易に納得できないほどに、現実味がある声だった。羽佐間は身体をおちつかせるために右手を腰に当てる。

 そして気づいた。ポケットに身覚えのない膨らみがあることに。しわくちゃな紙が一枚。なんだと思い手に取ってみると……


「ッ!? どうして、これが……!!」 


 あまりの衝撃につい手を緩めてしまい、そこに運悪く通りがかった風が紙を持ち去ってしまった。羽佐間は好きなおもちゃをほかの子取られたときの幼子のような目つきを向ける。

 それは、幼き日の断片。

 無理もなかった。本来なら机の引き出しのずっと奥に入れておいたはずの物が、なぜか手元にあったのだから。

 幼稚園児の頃に書いた詩だった。とは言っても自分の作品ではなく、ただ好きな作品を少しでも手元に置いて満足感に浸っていただけ。拙い字体ながら、一生懸命に書き写したのを覚えている。

 その内容は……

 

「さよなら……だけ、が……人生ならば……」


 ――また来る春は 何だろう?

 

 記憶は、中学三年の入学式の日に遡っていた。学校周辺街路樹は桜が咲き乱れ、風に吹かれては桃色の風を作り上げていた。

 昇降口前ではクラス表が張り出され、当時の羽佐間は自分の席を探していた。


「去年は違ったけど、今年は同じクラスだね」


 後ろを振り返ると、手を後ろに組みながら、なにかを企むような表情をしている燐音がいた。

 羽佐間の横を通り過ぎ、上半身だけを振り向かせてわらった。そのすぐあと、後ろで吹き荒れた風がたくさんの花弁をかっさらっていった。


「これから、よろしくねっ!」

 

 これからなんて、欲しくなかった。

 玉手箱のように燐音との思い出が一気にあふれだす。分からない問題を一緒に解いたり、一緒に昼食を食べたり、一緒に帰ったり……

 死に損ないのくせに、まるで走馬灯みたいじゃないか。

 最初は鬱陶しい人だと思っていた。中学生になったにもかかわらず父の死を引きずり、それが背景にあり羽佐間は他人を寄せ付けまいとしていた。そんな自分に飽きることなく話しかけてくれたのは、燐音だけだった。

 うれしかった。すごく、うれしかった。

 でも、今は……


 ピキッ


 羽佐間の何かが、砕ける音がした。

 身体のどこか、通常なら絶対、人目に触れない部分。

 一人が良かった。最初から一人でいれば、こんなに苦しくなかったのに。どうして? 

 いずれサヨナラしなければならないことは分かっていた。いずれ別れないといけないことは分かっていた。

 なら、どうして……?

 

 ピキピキッ


 どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして………………………………

 どうしてェ!!!!!!!!!!!!!!!

 

 ピキピキピキッ――――パリン(・・・)! と、ノイズが耳の中ではじけ飛んだ。その音の正体は……

 

「どうして、オレなんかと出会ったんだよ……!」


 その音の正体は――羽佐間が今まで押し留めていた――『後悔』という感情だった。

 壊れてしまった今、嗚咽が、情念が、とめどなく飛び出して治まらなかった。膝から力が抜けていく。どっかりと金網に背を預ける。


「ぐすっ……ひっぐ、ひっぐ…………」


 苦しい、

 苦しい、

 く、るしい、

 どうしてこんなことになってしまったんだ。もっとちゃんと、向き合っていればこんなことには……こんなこと、には……

 燐音と向き合わなかった。

 父の死と向き合わなかった。

 自身の弱さと向き合わなかった。

 そんな後悔が、羽佐間を絶え間なく攻撃してくる。

 何より、サヨナラだけが人生だなんて世の中を達観した気でいた結果が、今じゃないか。

 永遠になる? きれいになる? 

 バカらしい。

 逃げたいだけだろ!! 人生から!!

 ――苦しいときは苦しいって……辛いときは辛いって……そのひと言すら満足に言えないくらい……オレは、オレ、は――――――――――――――――――『石像』だ。

 

「うぅ……ひっぐ……ぅああああああああああああああああああああああああああああああん!!!!!!」


 人間によく似た無生物の泣き声が一つ、夜の街に溶けていった……


    *


「…………」


 すっかり夜が更けてしまった。車の音や都市部の明かりの数は目に見えてげんしょうし、確実に静寂が街全体を包んでいる。以前はどこかで聞こえていた楽しげな人の声も、今は死んだように沈黙していた。

 羽佐間は声がかれるまで泣いたあと、無気力に夜の街を見下ろす。足をぶらぶらさせながら、まだ肉体と魂が首の皮一枚でつながっていることに絶望した。その気持ちを明示するかのように、はるか遠くに見える民家の明かりが一つ消える。音もなく、一瞬で。その様子をみて、人生もきっと同じようなものなのだと思いついた。ちょっとずつ光が閉ざされるように、ちょっとずつ闇が拡大するように、一つ、また一つと大切な何かが消えていって、失っていって、最後は純粋で混じりっけのない黒が訪れる。

 死。

 せっかく黒い雨から解放されたのに。いつかまた降る、雨。

 せっかく自分の本当の気持ちに気づくことができたのに。いつかまた塗りつぶしてくる、ウソ。

 せっかく……キレイなまま人生を終えることができると思ったのに。いつかまた汚される。ドロ、ドロ、ドロ…………

 今も現在進行形で汚れていくのを感じた。それに抗うように、いつの日か女の人から聞いた詩を口にする。忘れているかと思ったが、ついさっき書かれた紙をみたおかげで、一言一句はっきりと言えた。


「サヨナラだけが 人生ならば…… 」


 口にすればするほど、現在の自分の意識は、雲の中を泳ぐように過去の自分へと送られていく。次第に羽佐間の、今より小さく頼りない背中が見えた。

 初めて女の人と出会った、あの中学一年の夏へ……


 サヨナラだけが 人生ならば

 また来る春は 何だろう

 はるかなはるかな 地の果てに

 咲いている 野の百合 何だろう


 サヨナラだけが 人生ならば

 めぐり会う日は 何だろう

 やさしいやさしい 夕焼と

 ふたりの愛は 何だろう


 サヨナラだけが 人生ならば

 建てた我が家 なんだろう

 さみしいさみしい 平原に

 ともす灯りは 何だろう


 サヨナラだけが 人生ならば……

 

「人生なんて いりません」


 女の人が言い終えた直後、二人の間に一陣の風が吹いた。懐かしさを存分に羽織った言葉が、身体中に染み込んでいくのを感じた。

 女の人は月明かりに照らされているはずだが、にしては妙に影が薄いと思った記憶があった。羽佐間の視力は悪くないはずだが、輪郭がボヤけているようにも見えた。いい意味で、この世のものとは思えない造形美。恐怖や驚きはなかく、それ以上に目を引く婀娜(あだ)っぽさと、近寄りがたい哀艶(あいえん)な気配を持ち合わせているかのように感じた。腰まで届くほどに長い真白のロングヘアに、透き通るような首元。紺藍色のスカートから伸びたふくらはぎはもはや病的なまでに白かった。しかし逆にそれが、フランス人形のような精巧な技師によって作られた美しさを発散させていた。

 詩を詠んでいる最中の表情は、喜怒哀楽すべての感情が練り込まれているように見える一方、ほんの僅かだが希望のともしびを光らせているようにも感じた。辞書に書いてある言葉なんかでは形容できず、まだ名前のない顔。


「……それ知ってる。オレの一番好きな作品」

 未発達の心が揺れ動いていた。この気持ちはなんだろうと、どうして胸が痛いのだろうと、バレないよう平穏を装うのに苦労した。

「あれ? そうだったの。奇遇だね。ちなみにだけど、この詩の題名は分かる?」

 軽微に口をほころばせながら柔和な目を向けてきた。それにドキッとしつつも、ごまかすように鼻を高くして答えた。

「寺山修司の『幸福が遠すぎたら』。幼稚園ごろに初めて見て、なんか、いいなと思って」

 もしかしてこの頃から、喪失の予感を蓄えていたのかもしれなかった。

「そう。私ね、寺山修司の中で、この作品が一番嫌いなんだ」

「え? さっき一番好きな作品って」

「一番好きであり、一番嫌いでもある」

 そう言った女の人の顔は、さっきのいろんな感情がごちゃまぜの顔を再度見せてきた。自分は「意味が分かんない」と言葉をかわそうと思ったが、軽風にそよぐ髪の毛とそこからのぞく横顔をみていると、なにも言えなくなってしまった。沈黙が月の白い光と一緒に降ってきた。

「ねぇ」

「なに」

「最初に言ったよね? 永遠がどうって」

「ああ……」

「もしも、永遠に寿命があったら。もしも、永遠に好きな食べ物だけを食べられたら、もしも、永遠に使い切れないほどのお金があったら。

 もしも……永遠に大切な存在を失わなかったら。

 なーんて、考えたことはある?」

 女の人は首を傾げつつ訊いてきた。最後の言葉をパワフルにするためだけに、最初の三つは前振りではないかと羽佐間は思った。

「お姉さんはあるの?」

「あるよ。例えるなら……今見える星の数くらい!」

 口角を上げつつ、女の人は夜空に向かってピンと指を突き立てた。ちょうど雲がなく澄み渡っていたので、山の中のようによく見えた。

「それか……世界中の砂粒の数ぐらい!」

 女の人は両手をいっぱいに広げて多さを表現した。その姿が何となしにけなげで、愛おしかった。

「すごいね」

 大げさな表現だと分かっているが、それでも素直に褒めた。女の人が好むであろう選択肢を選ぶことで、ちょっとでも多く笑顔になってほしかったからだ。

「でしょでしょ。それで、君は?」

「ある……けど、もう、考えたくない」

 腹部になにかが刺さったような痛みを感じた。

「どうして?」

 なに一つとして背景を知らない純粋な目は、まるで切っ先だった。ぐりぐりとナイフが胃の中で動いていて、目の端から涙が出始めた。

「どうしてって……どんなに、星に願っても、どんなに良いことをしても、何を、しても、一度……失ったら、うし、失って、しまったら……!」


 このときの羽佐間は、モザイクで隠されても文句が言えないくらい見るに堪えない顔をしていた。父のことを思い出し、また会いたい、触りたい、話したいなど叶わない願いのオンパレードでうるうると視界が埋まった頃、女の人が同じ目をしていたことに気づいた。

 どうしてだろうと思ったその時、両肩に手を置き、謝ってきた。


「ごめんね」


 ――トクンッ と、心臓が淡く、はかなく、夢のように高鳴った。それがまるで、波紋のように全身に行き渡り、過不足なく満たしていった。羽佐間の中で見たこともない様な種が、すごいスピードで芽吹いては花を咲かしたような気がした。

 これは……この気持ち、は……


「――好きです」

 

 羽佐間が告白した瞬間、すべてを思い出した。今では何一つとして見えなくなってしまったが、かつて自分はこの世ならざる存在(・・・・・・・・・)が視えていたのだ。それが怖くて言い出すこともできず、両親と一緒の寝室で寝ることが多かった。

 初恋の思い出。相手は幽霊。

 我ながら、本当に頭のおかしい話だと思う。

 幽霊の女の人は一瞬目を見開いたかと思うと、すぐに柔和で優しげな目つきに戻った。そして、


「……ありがとう」


 それだけを言うと、幽霊の女の人はギュッと抱きしめてくれた。だがまるで冬の夜に放置された金属のように冷たく、触られているのに、触られていないという矛盾が生じていた。

 羽佐間は、「あぁ、やっぱり、そうなんだ……」と心の中で妙に納得しながら、それでもその内容は口にできず伏し目になった。もし言葉にしたら最後、自分の目の前から消えてしまうのではないか、失ってしまうのではないかという漠然とした恐怖でまた泣きだしてしまいそうだったから。

 その行動が何を意味するのか、未成熟の心でも分かった。分かってしまった。だから答え合わせをするように、「でも、付き合うことは、できない」と言われた瞬間、涙の洪水をせきとめることができなかった。心が溺れて、息ができなくなって、どうにかなってしまいそうだった。

 出会ってしまったことで、好きになってしまったことで、こんなに辛い思いをするなら、いっそ、生きるのなんてやめてしまったほうがいいとさえ思った。


「ゲームしよっか」

「……ゲーム?」

 鼻水と涙をすすったあと、何を言っているのか分からず混乱した。

「内容は簡単。私とサヨナラをするだけ。以上」

「どういうこと?」

「『サヨナラだけが人生だ』。ちなみにこれは、寺山修司じゃなくて井伏鱒二(イブセマスジ)っていう別の人の言葉だからね。まぁそれはそれとして、もしその言葉が本当だとしたら、いつかまたこうして会ったら矛盾することになるでしょ?」

「た、確かに」

「君は言葉を信じるほうに賭けて。私は言葉を信じないほうに賭けるから。すでに知ってると思うけど――私は幽霊。仮に次会うとしたら、君が死ぬときぐらいかな。そのときは、」


 ――次の瞬間、秒針の外側にいた。

 冷たかったはずの感触が、頬に触れられた唇だけは温度を内包していた。

 それはただの錯覚かもしれない。だけどそれでいいと思った。初恋の人と話せたこと、口づけをしてもらったこと、それだけでもお釣りがくるほどに奇跡な出来事ではないだろうか。柔らかくて雪のように溶けてしまいそうだった。

 羽佐間はなにをされたのか分からず、ただ魂を抜かれたようにぽっかりと口を開け、頬を手で触れることしかできなかった。

 幽霊の女の人は、膝に両手をつき、前かがみの姿勢で首を傾げつつ、トドメの一撃を浴びせてきた。

 それは……まごうことなき『希望』だった。

 

「――そのときは、私と一緒になろっ?」

 ニィと歯を見せながら、幽霊の女の人は不器用に笑って見せた。

「……!!」


 意識が、現在の羽佐間へと戻った。

 天高く持ち上がるようにして風が吹いた。夜空の星をながめながら、たっぷり三分ほど続きの言葉をかみくだく。原型がなくなってしまっても、記憶を頼りに言葉を口の中で転がし続ける。

 そして……少しだけ笑った。しかし笑ったというよりは、張り詰めていた表情筋が緩んだだけのような、頼りない表情。最後の最後まで締まらない。

 胸を張って、背筋を伸ばし、まっすぐ正面の景色を見据える。もう迷いはなかった。緩んだ表情筋を正し、しゃんと決意の二文字を彫刻する。

 おかげで決心がついた。本当に、本当に、


「…………ありがとう」


 羽佐間は、その一言だけを屋上に置いて……


 いま、


    よるのそらを、



 

          とびだした。


    *


 …………

 ………

 ……


「……………………………………っ…………」


 羽佐間が最初に感じたのは、脇腹を蹴られたような痛みだ。人間の足の大きさではない。もっと大きな何か。横向きに倒れていたが、苦痛から逃れるように仰向けになる。

 ――ん……? 仰向けって、どうしてオレは動けるんだ? 身体なんてないはずだろ。ましてや脇腹に痛みなんて感じるはずがないのに。

 星一つない空洞のような寂しい夜空が目に映るということは、目があるということ。

 ヒュウヒュウと安らかな風の寝息が聞こえるのは、耳があるということ。

 制服の上から肌寒さを感じるということは、肌があるということ。

 ドクンドクンと鼓動が鳴っているということは、心臓があるということ。

 は? わっかんね。

 幽霊の女の人から言われた「一緒に」という言葉が、今でも羽佐間の一番高いところで反響していた。


「ここは……」


 胸のあたりに手を当てると、それと同時に自身が飛び降りたときの記憶がよみがえる。地面にたたきつけられたときの肉の感触、骨の砕ける音、臓器がまろび出てそこら中に飛び散り、それらをすべて赤い鮮血が染め上げていく様を……羽佐間は瞬間的に吐き気を催した。

 それは議論の余地なく、生者にしか感じることのできないものだろう。にもかかわらず、今はこうして硬い床の上、すなわち屋上で眠っていたことが理解に苦しんだ。

 いや、こうは考えられないだろうか。実際は屋上に見えて……天国!?

 いやいや、


「だとしたら……味気なさすぎるだろ」


 もっとこう……色々あるだろ! 雲の上に神殿があったりとかさー。すごく美人な天使が迎えに来てくれたりとかさー。しょせんは妄想癖の強い一部の人間が生み出した空想の産物でしかないということなのだろうか。

 はるか先の星がジュワリと煌めいた頃、羽佐間はふらりと手をつきつつ立ち上がる。すると足元、なにかいた(・・・・・)

 ジョロロロロロロロロロロ…………


「ん?」


 なんということをしてくれたのでしょう。どこから現れたのか、半透明な(・・・・)柴犬が恍惚(こうこつ)な表情をして片足を上げつつ、もう一つの足の間から透明な液体を発射しているではあーりませんか。

 匂いはせず、濡れた感覚もない。だが炎天下で長時間放置したCCレモンのようなぬるい温度が羽佐間のふくらはぎに伝わった。一通り出し終えてから、「ぶぃぃ〜」とかわいらしい見た目とは裏腹に、まるで温泉に上がった直後のおっさんボイス。


「スッキリしたぜ〜。まさかこんなところに都合よく電柱があるなんてなぁ〜」

 喋った。人間の言葉。

「それ電柱じゃないよ! 人間だよ!」

 また喋った。マ○クのCMかよ。

「おいおい我が弟よ。バカなことは言うもんじゃないぜ。こんな時間帯に人間がいるわけな……」

「…………」

 羽佐間と目が合う。

「あ……」

「あ……」

「「…………」」

「「ああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」」

 

 両者ともに口をあんぐりを開けて驚く。最初に行動したのは羽佐間で、ションベン兄の片足を乱暴につかむと、まるでハイテンションなハムスターが回し車を回転させるが如くブンブンと振り回し、思いっきり星空の方向へと旅行させてやった。

 このときばかりは一時的に大◯選手さながらの肩の力と腕力を引き出すことに成功。だが愉悦に浸っていると、弟? の柴犬が「糞兄ーーーッッッ!!」と空に向かって叫んでいた。

 ん? ちょっと待って。今なんかとんでもない悪口を聞いたような……

 キランッと放り投げた箇所の夜空が光った頃、てっきりなんやかんやションベン兄を慕っている良い弟かなと思っていた柴犬の口から、「尿管と頭のネジがゆるゆるな糞兄でごめんなさい」と謝罪の言葉を賜った。

 そして両手……ではなく両前足をペタンとついて首をうなだれる。それは人間で言うところの土下座の体勢だった。

 弟の柴犬は教えてくれた。糞兄ことションベン兄は、事あるごとにションベンを漏らす癖があると。いや、この場合は臭ぇだ。うれしいとき、悲しいとき、とにかく無制限。データだけにしろよ。

 ションベン兄の奇行の一つとして、『町で見かけた美女が飲むドリンクにションベンを混入させてみた』というよりにもよって迷惑系ユーチューバーみたいな企画をやろうとしたところをなんとか阻止したらしい。いろいろと苦労してるなぁ。

 その最中にざっくりと柴犬の見た目を閲覧した。クルンと背中にひっついた尻尾は、見た目からしてふかふかとした小麦色の毛並みに覆われている。足の外側や背中も同じように。なぜか全身から理知的な雰囲気を感じるかと思ったら、普通の犬らしく舌をハァハァと出していなかった。

 確か犬が舌を出す理由として、犬は人間のように全身で汗をかくことができないため、暑いときや運動後などに舌を出してハァハァと呼吸することで、唾液を蒸発させ体温を下げるとテレビで見たことがある。

 でもそれは、生きている犬にのみ(・・・・・・・・・)適用する話だと、話が終わる間際にときに気づいた。

 早くも犬が当たり前に人語を操っているという事実に慣れてきている。長らく話を聞いたところで、ようやく当たり前のように口を利くことができた。


「いや別に、君? が謝ることじゃないよ。オレもちょっと悪いことし……」

 言葉を遮るようにして、またしてもジョロロロロロロと放尿する音が聞こえた。今度はさすがに足元ではなかったものの、月で照らされた屋上の床をキャンパスに見立てている。

「はいはいはいはーい!!」


 と威勢のいい声を出しながら、無駄に洗練された無駄のない完ぺきな無駄な動きで耳や顔の輪郭などを創り上げていく。

 やがて完成したのか、足とションベンが止まる。終始一貫して弟とは対照的にずっとハァハァと舌を出していたのは、もしかして生きているからなのか、それともただのバカなのか羽佐間にはわからなかった。阿呆が酢に酔ったような顔をしている。フッとションベン兄が勝ち誇るように笑う。


「できたぜー! マーキング麻◯太郎アート。今回もなかなかの出来栄えだと思わないか? 我が弟よ!!」

 ニッコニコな兄とは正反対に弟はのっぺらぼうのように感情が感じられず、屋上のフェンスがあるところまで後ろに下がったかと思うと、一気に助走をつけて突っ込んでいった。

「このションベン糞兄がアアアァァァァァァ!!!!!!!!!!」

 歯をむき出しにした怒りの表情のままで、後ろ足を力の限り兄に蹴り上げる。糞かションベンかどっちかにしろよ。

「ケバブッ!」

 変わったうめき声を出しながら後方へ打ち上げられた兄は、屋上の外あたりで急速にパワーを失い、そのまま真っ逆さまに落下していった。悲鳴が遠く離れていく。何を見せられているんだ。

「ごめんなさい! お見苦しい場面を見せてしまって」

 人間のように、ちゃんと首を傾けて謝っている。

「い、いや、別に……」

 その一言を返すだけで精一杯だった。下手に言葉を紡ぐとラ◯ダーキックならぬドッグキックを食らいそうで。

「一応肩書きだけは兄なんですけど、脳みそのサイズがドッグフードしかなくて、本当に困ったもんですよ……」


 羽佐間からしたら、そんな流暢に人間の言葉を使っているあなたたちの方がよっぽど頭を悩ませる存在だとツッコミたかった。なんだか自分が生き返ってから? 妙にバタバタしていていい加減疲れてきた。そろそろこの場を整理したい。

 ごほんっと息を整えてから、速攻で戻ってきたションベン兄を弟の横に整列させて、とりあえず一つの謎を解き明かすことにした。


「その……どうして人間の言葉をしゃべってるんだ?」

 そう訊いたものの、二匹とも柴犬はきょとんと首をかしげている。

「んぁ? 何いってんだお前。頭悪ぃのか?」

 壊れた蛇口みたいにションベンを垂れ流すお前にだけは言われたくない。

「そんなことより……」

 ションベン兄は、いきなり理由も言わずに足元をクンクンと嗅ぎ出した。そしてひと言。

「お前、マズそうな臭いだな」

「ションベンのせいってこと忘れてる!?」

「え? 香水のせい?」

 突然椅子のようなものに、人間の如く背筋を伸ばし後ろ足を左右に広げて座りだす。

「誰も言ってないから!」

 一人と一匹という今だかつてない漫才形式を繰り広げていると、「あの!」と大声を出して、もしくは吠えて間に弟が割り込んできた。

「聞いてください。僕たちは人間の言葉なんてしゃべってないですよ。むしろあなたがこちら側の世界(・・・・・・・)に踏み入ったことで、単純な言語情報なんかではなく、心で通じ合うことができるようになったみたいな……」

「こちら側の世界?」

「そんな感じですよね?――葉純兄さん」

 弟の柴犬は背後に声を送る。すると塔屋の上から「よっ」と声を出して人の着地する音が……しなかった(・・・・・)。まるで木の葉が風に揺られて落ちたような、とても人間技とは思えない所業。

「解説どうも。あとでよしよししてあげないとねっ」


 顔は曇り空のせいでよく見えないが、それでもシルエットだけで整った顔立ちであることが示唆されていた。弟の柴犬は「やったー!」と尻尾を高々と上げて小刻みに激しく振る。

 声の特徴は、たとえるなら耳からビリリと電流が入ってくるような奇妙な心地。聞き覚えのある低音。安心感があって、くすぐったくなるような不思議な声色をしていた。

 コツン、コツンとこちらへ一歩ずつ近づくたび、あらわになっていく顔つき。やがてすべてが明らかになったとき――羽佐間は息をするのを忘れてしまっていた。どうして……


「当然だけど、初めて会ったときとは成長したね。ちょっと男らしくなった? 身長もグンと伸びたし、肩幅も広くなった気がするよ」


 羽佐間の記憶の中のモヤが、光の速度で晴れていった。

 あの頃の、初めて見た姿のまま。

 その瞬間、目の前を強風が通過したが、髪やスカートなどは息を止めているかのようにピクリとも動くことはなかった。


「ゲームは――私の勝ちみたいだね」


 あの時と同じように、ニィと歯を見せて不器用に笑ってきた。

 羽佐間の初恋が、動いた音がした。

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