Patch09:静止する楽園
馬車が南西の聖域へ入った瞬間、シンは窓の外を見て歓声を上げました。
「わあ……! 見て、ガド、ニア。ここ、お花が歌ってるみたいだね。空気までキラキラしてるよ」
シンの瞳に映るのは、四大執行機関**「テクスチャ(景観保全省)」**が総力を挙げて塗り替えた、極彩色の偽物でした。
この地はシンの誕生以来、無機物の時間は停止し、人間は「死」から切り離された不老の存在となりました。
最初は「神の奇跡」と喜んだ村人たちでしたが、その実態は、病にかかっても死ねず、欠損した肉体も戻らないまま、永遠にその苦痛が持続する地獄。 ガドは、シンがこの地を訪れる一週間前、テクスチャの執行官に冷徹な命を下していました。
(……この悲鳴はシン様には相応しくない。住民の精神を再定義しろ。『幸福』以外の感情をすべてパッチで上書きするんだ)
その結果が、今シンの前に並ぶ「笑う人形たち」でした。 村人たちは一様に真っ白な衣服を纏い、頬を引き攣らせるような満面の笑みを浮かべて一行を迎えます。
「聖なるシン様……ああ、お会いできて、私たちは……幸福です……」
代表の老人が震える声で語りかけます。しかし、その瞳は一切笑っていません。どころか、老人の袖から覗く手首は不自然な角度に折れ曲がったまま。本来なら激痛にのたうち回るはずの負傷ですが、再定義された彼の脳は、それを「最高の喜び」としてしか認識できないようプログラムされていました。
「みんな、立って! 僕が来たからには、もう何も怖がらなくていいんだ。お腹が空くことも、病気も、僕が全部『正解』にしてあげるからね」
シンの無垢な言葉が、死を奪われた者たちにさらなる「幸福の呪い」を上塗りしていきます。ニアは、その光景を馬車の中から見つめ、胃の奥がせり上がるような不快感に襲われていました。
「……気持ち悪い。(あの人、腕があんなに曲がってるのに、どうして笑ってられるの? まるでお兄様の光で、無理やり顔を固定されているみたいだ……)」
ニアは鼻を突き刺すような、防腐剤と人工的な香料が混ざったテクスチャ独特の香りに顔を顰めました。 前の村で食べた、泥だらけの「甘い石」。あの不格好で、脳を痺れさせるような暴力的なまでの「生の味」。それに比べれば、この村の幸福は、プラスチックの果実を無理やり飲み込まされているような無機質なグロテスクさに満ちていました。
シンの歓喜の声が響く中、その背後でガドがニアにだけ聞こえる氷点下の声を落としました。
「……ニア様、その鼻をつまむような仕草はやめなさい。景観が汚れる。シン様の光を前に不快感を示すなど、もはや精神のバグだ」
ガドの横顔は「理想的な騎士」そのものですが、瞳だけは爬虫類のように冷たくニアを値踏みしています。 ニアは怯える代わりに、ガドが民衆に見せる「慈愛の微笑」を完璧に模倣して見上げました。
「あら失礼。あまりに『完璧な修正品』ばかりで、見惚れてしまいましたの。……特にあちらの男性、脚が折れているのにヨダレを垂らして笑っている。ガド様が塗り固めたこの嘘、お兄様の光で焦げてしまわないかしら?」
ガドの眉間が、明確な殺意を孕んで跳ねました。
「僕の管理に綻びはない。死ねない身体に幸福を流し込まれた住民が、シンの旅路を汚すことなどあり得ない。貴女のような欠陥品には、この美しさが理解できないようですね」
「ええ、そうですわね。私のようなバグは早く削除したいでしょう? ……でも残念。私を消せば、お兄様の『幸せな家族ごっこ』が壊れてしまう。それは貴方の演算では『不合格』なのでしょう?」
ガドは蛇のような眼差しでニアを射抜きました。
「……賢しい蛇だ。ですが、せいぜいその薄汚い自意識を大事にしておくことです。いずれシンの光がすべてを定義し尽くしたとき、貴女の醜い個性も、ゴミ箱に捨てられる記憶として消えるのですから」
「ふふ、楽しみですわ。その時、ガド様はどんな顔をして消えていくのかしら?」
二人が視線で首を絞め合っていると、数歩先でシンが眩しすぎる笑顔で振り返りました。
「ニア、ガド! どうしたんだい? 二人して仲良く内緒話なんて!」
その瞬間、二人の表情は一秒の遅滞もなく「書き換え」られました。
「いいえ、お兄様。ガド様が、村の歴史を私に分かりやすく教えてくださっていたのです」
「ええ、ニア様がこの光景に感動し、涙を堪えておられたので、少々お時間をいただいておりました」
一滴の淀みもない虚偽。
シンは「そうか! よかった」と満足げに頷き、聖域の奥へと歩き出しました。
村の長は、歓喜に震える手で神殿の高く聳え立つ壁を指し示しました。
「あの日、シン様がお生まれになった瞬間、大地が鳴動し、この神殿は突如として異界の輝きを放ち始めました。ご覧なさい、この壁に刻まれた意匠、この重厚な石材……リマスタの執行官様たちがどれほど魔力を注いでも、傷一つ付かず、色を変えることすら叶いませんでした。この神殿そのものが、シン様が手に取るその時まで、自らを凍結させ、『変化』という不純物を拒絶し続けているのです」
長は恍惚とした表情で、もはや瞬きすら忘れた瞳をシンに向けます。
「扉の向こうの調査も試みられましたが、ユウシャの血を引かぬ者が触れれば、空間そのものが牙を剥き、時間を奪い去るとか……。ですが、シン様なら大丈夫。この場所は、貴方様がこの世界を『完成』させるために用意された、絶対不変のゆりかごなのですから」
シンはその言葉を一つ一つ噛み締めるように頷き、目の前の巨大な拒絶の壁を見上げました。
「僕のために、世界が準備をしてくれていたんだね。……ありがとう。みんなの期待に応えなきゃ」
その純粋な光に満ちた返事のすぐ背後で、ニアが冷ややかな吐息とともに、ガドにだけ聞こえる毒を落としました。
「……長の話を聞きましたか、ガド様? 『死の恐怖から解放された』なんて。あれ、本当は『死ぬことすら許されなくなった』の間違いではないかしら」
ニアは、ガドがいつも民衆に向けて見せる「慈愛に満ちた聖職者の微笑」を完璧に模倣して見上げました。
「あの長、先ほどから一回も瞬きをしていませんわ。ガド様がパッチを当てて『幸福』を流し込んでいるから気づかないのでしょうけれど、彼の瞳の奥、乾燥してひび割れているわ。……ああ、可哀想に。お兄様のために、人間であることをやめさせられてしまったのね」
ガドの眉間が、明確な不快感でピクリと跳ねました。
「ニア様……。貴女のその歪んだ翻訳能力には恐れ入る。彼らはシン様の誕生を祝う『装置』として最高潮のまま固定されているのだ。それがこの世界の仕様だと言っているでしょう。それとも、貴女が今ここで『私は不幸になりたい』と叫んでみますか? この幸せな空気の読めないバグとして」
「あら、脅し? 怖いこと。でも、ガド様だって苛ついているのでしょう? この神殿の入り口、テクスチャが精一杯塗り固めた『ハリボテの装飾』が、あまりに安っぽくて。中身が一切変えられないからって、表面だけ金箔を貼って誤魔化すなんて、ガド様らしくもない」
ガドは前を向いたまま、書類を整理するような冷徹な事務口調で返しました。
「……フン。神器の安置所だけは、我々聖和改修省の技術を以てしても干渉不可能だった。外側を飾るのが限界。扉はユウシャにしか開かず、内部の法則すら書き換えを拒む……。全世界五つの聖域すべてで起きている、聖王庁にとっての『唯一の未確定領域』だ。だがそれも今日、シン様が中へ入り、盾を手に取れば、その瞬間に私の管理下へと上書き(リマスタ)される」
「つまり、今だけはガド様でも『手出しできない真実』がそこにある、ということね。お兄様にすら見せたくない、汚い歴史のノイズが」
「黙りなさい。シン様の光があれば、歴史はそれだけで完成する。貴女のようなノイズが入り込む余地など、最初からないのだ」
「ふふ、ならいいのだけれど。その盾を手に取った瞬間、お兄様の光で、この嘘っぱちの楽園がドロドロに溶けてしまわないといいですわね?」
二人が互いの急所を刺し合うような言葉を投げ合っていると、シンがひょいと、濁りのない笑顔で振り返りました。
「ねえ、二人とも。さっきから何をそんなに一生懸命話してるの? もしかして、僕が盾を取る時のお祝いの相談かな!」
その瞬間、二人は同時に「完璧な仮面」を被り直しました。
「ええ、その通りですお兄様! ガド様と、お兄様の勇姿をどうやって美しく記録に残そうかとお話ししていたのですわ。ねえ、ガド様?」
ニアはガドの「模範的な慈悲」の表情で彼を振り返り、ガドもまた、一片の曇りもない忠誠心を顔に貼り付けました。
「左様にございます。この神殿の扉が開く歴史的瞬間を、いかに完璧にパッチノートに刻むべきか……。ニア様も、兄君の晴れ舞台を心待ちにしておられますよ」
「嬉しいなあ! 二人がそんなに楽しみにしてくれてるなんて。よし、行こう。僕がこの扉を開けて、みんなを本当の幸せで守ってあげるんだ」
シンが意気揚々と、巨大な黒い扉の前に立ちました。 リマスタたちが何年かけても傷一つつけることができなかった、沈黙の壁。
シンが巨大な黒い扉の前に立つと、周囲の空気がさらに密度を増し、村人たちの歌声すらも「不変」の重圧に押し潰されて消えていきました。
その扉は、聖王庁のいかなる魔術も、テクスチャのいかなる欺瞞も受け付けなかった、世界に穿たれた「拒絶」そのものです。シンがその表面に白く濁りのない掌をそっと重ねた瞬間、世界が震撼しました。
――ゴォォォォォォォォ……!
地底の底から這い上がってくるような、重厚な地鳴り。 シンが「ユウシャ」の魔力を流し込んだ刹那、扉を覆っていたテクスチャ(景観保全省)の偽りの金箔が、耐えきれなくなった皮膚のようにボロボロと剥がれ落ちていきます。
剥き出しになったのは、陽光を吸い込むような、深淵の黒。 そして、その中央に刻まれていたのは、 茨に絡みつきながらも誇り高く咲き誇る、一輪の薔薇の紋章。
「あ……」
ニアが息を呑みました。 その紋章が剥き出しになった瞬間、彼女の鼻腔を突いたのは、人工的な花の香料ではなく、あの泥だらけの「甘い石」を食べた時に感じた、狂おしいほどに濃厚な「生」の匂いでした。
ガドは背後で、その忌まわしい紋章を隠そうと、シンの前に出ようとしましたが、一歩遅かった。
ギィィィィィィィィィッ……!!
数十年、一度も動くことのなかった巨大な扉が、断末魔のような軋み声を上げてゆっくりと開いていきます。
扉の隙間から溢れ出したのは、シンがいつも放っている「暖かな光」ではありませんでした。
それは、すべてを凍りつかせ、変化を拒み、沈黙だけが支配する、冷たくて暗い、「本物の時間」の重み。
「お兄様、待って……!」
ニアの制止も届かず、シンは吸い寄せられるように、開き放たれた闇の中へと足を踏み入れました。
シンがその瞳に、神殿の「内側」を映した瞬間。 それまで浮かべていた全能感に満ちた笑顔が、まるでパッチが剥がれるように、音を立てて崩れ落ちました。
「……なにこれ……?」
【市民ログ:009-B】
「……あら、まだそこにいらしたの?
そんなに熱心に私たちの行く末を見届けてくださるなんて、まるでパッチノートを隅々まで読み込む熱心な記録官のようね。ふふ、光栄ですわ。
でも、お忘れじゃないかしら? この物語は、誰かが『記憶』にとどめておかなければ、ガド様の冷たい指先一つで、綺麗さっぱり『なかったこと』にリマスタ(消去)されてしまうかもしれないの。
だから、そう……。もし貴方が、お兄様の光に焼かれず、私たちが足掻くこの『歪な真実』を忘れたくないと願うなら。
その手元のブックマークというやつを、しっかり刻んでおいてくださる? それから、もし私の毒気が少しでも貴方の心に響いたなら、評価で私を勇気づけて。……ガド様をさらに苛つかせるための、いいスパイスになるでしょうから。
次に扉が開くとき、貴方がまた『正しい観測者』としてそこにいてくれることを…… 期待していますわ」




