Patch 03:バグ
シン・ディザストラムが誕生したあの日。世界を包んだ極彩色のオーロラと、その裏側で渦巻いた漆黒の闇。
それらは夜明けと共に収束し、表向きには「奇跡の記憶」だけが残された。
あの日以来、世界は表面的には元の姿に戻ったように見えた。だが、本質的なルールは既に変質していた。
シンの誕生から、わずか数日。
王宮の朝は、かつてないほど騒がしく、そして「おめでたい」報告の嵐で幕を開けた。
聖王ゼオンのもとへ、各地からの異変の伝令が息を切らして駆け込んでくる。
「報告します! 東方の平原に安置されていた『聖剣』の周囲で、突如として大地が盛り上がり、大迷宮が出現しました! 村人たちは『勇者様の誕生祝いだ!』と踊り狂っております!」
「報告します! 北方の『魔導書』が保管されていた古塔が、今朝がた重力を無視して浮遊を開始! 浴びた老人の腰痛が完治したとの報告が相次いでおります!」
かつて五つの神器――『聖剣』『黄金の盾』『叡智の魔導書』『真実の指輪』『不滅の鎧』――を守り伝えてきた各地の聖域。
そこでは今、物理法則を窓から投げ捨てたような「神の試練」が次々と爆誕していた。
それは、世界がシンを勇者として完成させるために用意した、あまりに豪華で過剰なファンサービスであった。
ゼオンは玉座に深く腰掛け、満足げに頷く。
「ふっ、世界そのものがシンを祝福しているようだな。これぞまさに、勇者のために用意されたステージよ」
そして、最後の一人が転び込むようにして叫んだ。
「陛下! 陛下ぁ! 鳥が……! 鳥が喋りだしました!」
ゼオンが眉をひそめた瞬間、王宮の窓辺に一羽の極彩色の鳥が舞い降りた。
鳥は首をカクカクと左右に振り、信じられないほど滑らかな美声でこう言い放った。
『シン! ユウシャ! オメデト! シン! ユウシャ! オメデト!』
「おお……見よ! 鳥までもがシンの誕生に興奮し、祝福を叫んでおるわ!」
ゼオンと家臣たちが、瑞兆に酔いしれ、歓喜の声を上げる。
だが、王たちが満足げにその場を去ろうとしたその時、鳥はさらに羽を広げ、先ほどと全く同じハイテンションでこう続けた。
『システム! エラー! オメデト! システム! エラー! オメデト!』
まるで「おめでとう」と言うのが当たり前であるかのように、鳥は「致命的なエラー」をバラ撒き続ける。
「ハハハ! 壊れおったわ! 世界が喜びのあまり、壊れおった!」
ゼオンはその不吉な言葉さえも、自分たちの「正解」が世界を圧倒した証だと笑い飛ばし、王宮を後にした。
後に残されたのは、誰もいなくなった玉座の間で、一分一秒の狂いもなく「エラー」を祝福し続ける、極彩色の鳥の鳴き声だけだった。
祝宴が終わり、静寂に包まれた深夜。
聖王ゼオンは一人、寝室の巨大な姿見の前に立っていた。
今日という日は完璧だった。シンが生まれ、神器がダンジョン化し、世界は自らの手の中に収まった。
満足げに鏡に映る自分を見つめる。その瞬間、その輪郭が、ノイズのように細かく震えた。
(……この私を、誰だと思っている)
ゼオンは怒りに震える拳を、音もなく鏡へと叩きつけた。
粉々に砕け散った破片の中で、歪んだ顔がいくつにも増殖する。
ゼオンは荒い呼吸を整え、乱れた髪を指で梳いた。
そして、瞬時にいつもの「慈愛に満ちた王」の表情を作り直すと、静かに鐘を鳴らして家臣を呼びつけた。
「案ずるな。……ふと思ったのだ。この鏡という器は、実物の万分の一の輝きも写し取れぬ、不完全な偽りの品であると。これほど不確かなものに、我が愛すべきシンや、この美しい世界の姿を預けておくことはできぬ」
ゼオンは優雅な仕草で、散らばる破片を踏みつけた。
「明朝、これを『シンのユウシャ』誕生を祝う新たな法として、世界へ宣告する」
――翌朝・慈教大国グラディア 王宮バルコニー――
朝日が昇ると同時に、ゼオンは王宮のバルコニーへと姿を現した。眼下には、救世主の誕生に沸く万雷の群衆。
その熱狂を背に、ゼオンの声が魔法の鳥と魔導通信に乗せられ、世界中に響き渡った。
「王国全土、そして我が友邦たる諸国に伝えよ! 歴史は今、この瞬間を境に塗り替えられた!」
ゼオンの声は魔導の力で増幅され、空を揺らさんばかりに響き渡った。
彼は我が子を抱くこともなく、ただ天を指し示し、その名を世界に刻みつける。
「シンが誕生した! 我が慈教大国グラディア国王、ゼオン・ディザストラムの第一子、シン・ディザストラム! 未来のこの国の国王であり、世界のすべてを救済へと導く唯一無二の救世主。……そう、彼こそが**『シンのユウシャ』**である!」
広場を埋め尽くす民衆から、地鳴りのような歓声が上がる。
ゼオンはその熱狂を吸い込むように深く息をつき、冷徹な法を慈愛の言葉で包み隠した。
「この光り輝く奇跡の前で、我らは一つとならねばならぬ。ゆえに命ずる。本日より、巨大な鏡面を持つ品をすべて回収し、廃棄せよ! 真実の光は、不確かな鏡の中などではなく、我が息子シン・ディザストラムの中にこそある!」
ゼオンは陶酔しきった民衆を見下ろし、優雅に微笑んだ。
「……ただし、最低限の身だしなみを整えるための小さな手鏡のみ、使用を許可しよう。人としての礼節までもを捨てる必要はないからな。だが、それ以外のすべては不要だ。己を映すことを忘れ、ただシンのユウシャという『正解』のみを視界に入れ、その輝きに従え。それこそが、完成された世界の唯一のルールである!」
人々は涙を流してひざまずき、己の個を捨てる証として、手近な鏡を石で叩き割った。
巨大なダンジョンの出現。しゃべりだした鳥。そして、鏡が失われた不自然な暮らし。
それらは「正解」の啓蒙と、シンのもたらす「平穏」という名のパッチによって、次第に人々の意識へと馴染んでいった。
いつしか、それらは疑うべくもない「日常」へと形を変えた。
かつて人々が「異変」と呼んで恐れたその現象は、いつの間にか世界から切り離せない**「仕様」**へとすり替わっていった。
誰もがその矛盾を指摘することなく、歪んだテクスチャの上で呼吸を続ける。 世界は致命的なバグを抱えたまま、それを「あるべき仕様」として受け入れ、穏やかだが確実に狂い始めた。
【市民ログ:003-B】
あの日、我らが見たものは「奇跡」であった。いや、そうでなければならなかった。
深夜、王の寝室から響いたあの不気味な破砕音。駆けつけた我々が目にしたのは、粉々に砕け散った巨大な姿見と、その中心で血を流す拳を晒しながら、見たこともないほど冷徹な微笑を浮かべるゼオン陛下のお姿であった。 陛下を包んでいたあの空気――。私は一瞬、背筋が凍るのを感じた。
だが、陛下が口を開かれた瞬間、その恐怖は「畏敬」へと上書きされた。
鏡は不完全な偽物であり、真実の輝きはシン様の中にこそある、と。 なんと高潔で、慈愛に満ちた言葉だろうか。己を映すという醜い執着から我らを解き放ち、ただ一つの「正解」を与えてくださる。その論理の完璧さに、私は己の浅はかな疑念を恥じ、涙を流してひざまずくしかなかった。
翌朝、バルコニーから放たれた陛下の宣告は、世界の形を変えた。 巨大な鏡が次々と割られ、ゴミ山へと捨てられていく光景。それは本来、悲劇であるはずだ。長年大切にしてきた家財を壊す人々の目に、一瞬の迷いや不満が宿っている気がした。
しかし、空を舞う鳥たちが「オメデト」と歌い、世界各地で「勇者様を祝う迷宮」が産声を上げたという報告を聞くたび、それらの「バグ」のような光景さえも、美しき新世界の「仕様」なのだと確信に変わったのである。
鳥が喋る。物理が歪む。鏡を捨てる。 かつてなら「異常」と断じたであろうそれらは、今やグラディアにおける最も輝かしい「日常」となった。
たとえ鳥が時折、耳慣れぬ「エラー」という言葉を叫ぼうとも、我らは拍手を止めない。 真実の光は、シン様の中に。 この完璧な世界に、自分を見つめるための鏡など、もう必要ないのだから。




