Patch13:深夜のデバッグ
祝祭の喧騒が遠のき、村が偽りの安寧に包まれた深夜。石造りの宿舎の奥、一筋の月光さえも拒絶するような影の中で、ガドは一人、魔導通信機を起動しました。
端末から漏れる青白い発光が、彼の端正な横顔を冷酷に切り出し、その瞳に宿る機械的な温度を浮き彫りにします。
「……パッチノートへ伝達。南西聖域の『再定義』は完了した。シン様の『勇者としての自覚』を住民の記憶に深く刻み込め。猶予はあと数日だ」
通信の向こう側にいるリマスタ(聖和改修省)の執行官たちへ、ガドは事務的で、氷のように冷徹な命令を下します。その声には、先ほどまで民衆の前で見せていた慈愛の欠片もありません。
「我々が旅立った後、この村はもはや用済みだ。シンの勇者様というデータさえ抽出できれば、このテクスチャを維持する必要はない。リマスタを全員引き上げさせろ。……『幸福のパッチ』が解けた後、住民がどうなろうと私の知ったことではない。データのゴミ箱へ放り込んでおけ」
冷酷な廃棄宣告を終えたガドは、通信のチャンネルを最上位権限――「王の回線」へと切り替えました。空間がわずかに歪み、重苦しい重圧を伴ったノイズが走り始めます。
「……聖王ゼオン様。内密にお話したき儀がございます」
しばらくの沈黙の後、通信機から、巨大な空洞で響くような、威厳に満ちた空虚な声が返ってきました。
『……ガドか。報告を聞こう。シンはどうなった』
「はっ、ゼオン様。ご子息シン様が、第一の神器『黄金の盾』を継承されました。……盾が実体化した瞬間、シン様の不確定な『感情』は、神器の指向性に沿って吸い取られたようです」
『何……!? 感情を吸い取られただと?』
ゼオンの声が、一瞬だけ微かに揺らぎました。父親としての動揺か、あるいは想定外の事態への警戒か。しかし、その後に続いた言葉は、血の通った親のそれとは程遠いものでした。
『……そうか。ならば、これで以前よりも扱いやすくなったということだな、ガド?』
「はい、ゼオン様! 左様にございます!」
ガドの声が、初めて歓喜に弾みました。それは主君への忠誠というより、完璧な実験結果を導き出した研究者の、狂気じみた愉悦でした。
「反抗の兆しさえも盾の静止の中に封じ込められました。理想のユウシャ様に、また一歩近づきました! もはやシン様を乱す不確定要素は、内部からは発生し得ません」
『ハッハッハ! 重畳。世界を維持するための完璧な歯車が必要なのだ。不純物の混じらぬ黄金の部品……引き続き頼むぞ、ガド』
「もちろんでございます、ゼオン様! ……ただ、一点。外部からの懸念事項がございます」
先ほどまでシンの成長を語り、弾むような歓喜を漏らしていたガドの声音が、その瞬間、氷点下まで凍りつきました。一切の揺らぎを排した、機械的で、それでいて底知れぬ殺意を孕んだ重い響き。
『なんだね?』
「ニア様です」
ガドがその名を口にした瞬間、通信機の向こう側でゼオンの呼吸が、まるで不快な虫を視界に入れた時のように、極めて冷淡なものへと変わりました。
『ニア……? ああ、あの忌まわしい娼婦の腹から出た子供か。シンの側に置いている、あの娘のことだな』
聖王の口から出たのは、実の娘に対する言葉とは思えないほど、無機質で汚物じみた蔑みでした。
「左様にございます。城での徹底した抑圧により、自尊心という名の機能を完全に損壊させていたと判断しておりましたが……どうやらこの村までの道中、あるいは先ほどの神器継承という極限状態において、彼女は想定外の『自己』を再起動させてしまったようです。現に、シン様に毒を吹き込み、世界の仕様を疑わせようと画策しております」
ガドの瞳が、暗闇の中で獲物を狙う爬虫類のように細まり、昏い青色の殺意を放ちました。口元は笑っているにもかかわらず、その声には一切の慈悲が存在しません。
「ゼオン様。これ以上の干渉は、シン様の精神的安定、ひいては世界の構築に重大な欠陥を招きます。……もし、陛下のお許しをいただけるのであれば。ニア様を――(ジジジッ)……デリートしても、よろしいでしょうか?」
『……。ああ、許可しよう。』
「御意。寛大なるご決断、心より感謝いたします」
ガドは恭しく頭を下げました。その口元は、獲物の首筋に牙を立てる直前の獣のように、深く、残酷な三日月を描いていました。
通信が途絶え、部屋に再び沈黙が戻ります。ガドは月光の下で、自身の首筋に浮かぶ、黒紫色の細い脈動――先ほど一瞬だけ見せた「力」の名残――を指でなぞりました。 用済みの村、そして、英雄の道に汚れをつけようとする不純物の妹。 冷徹なシナリオが完成しました。
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ガドが通信機の前でその残忍な本性を剥き出しにしていた時、宿舎の厚い垂れ幕の裏、わずかな隙間にニアの影がありました。
『何……!? 感情を吸い取られただと?』
通信機から漏れ聞こえるゼオンのその声を聞いた瞬間、ニアの指先が微かに震えました。 息をひそめ、己の存在を世界の背景に同化させる技術。それは、王城という名の地獄で、実の父からも使用人からも「存在しないもの」として扱われ、いじめ抜かれてきた日々の中で、生き残るために嫌応なしに習得した生存本能でした。
(お父様……やっぱり、貴方は……)
これまで抱いていた違和感が、パズルのピースが嵌まるように次々と合致していきます。 自分がどれほど虐げられても、その冷たい瞳には映っていないかのように振る舞っていた理由。シンへの異常なまでの「愛情」に見えたものが、実はただの「執着」と「利用」であったこと。
そして何より、ガドです。 兄シンに寄り添う忠義の騎士を演じながら、その裏で兄の心を削り取り、自分を「排除」しようとしている怪物の正体。
「(……ガド、貴方はお兄様を『ユウシャ』になんてしたくない。ただの、自分の思い通りに動く『人形』にしたいだけなんだ……)」
ガドから放たれた明確な殺意。自分に向けられた「デリート」という宣告さえ、今のニアには二の次でした。自分を殺そうとする毒蛇が、今もなお兄の隣で、その魂を侵食し続けているという事実。
そのことが、彼女の胸の奥に眠っていた「自尊心」という名の小さな火を、激しい決意の炎へと変えました。
(神殿での予感は正しかった。ガド、貴方はお兄様の側にいてはならない……世界で最も危険な『毒』。私が消される前に、たとえ刺し違えてでも、お兄様を貴方の鎖から解き放たないと!)
ニアは音もなくその場を離れました。 自分が「処理」されるまでの猶予はあと僅か。 彼女は翻るスカートの音さえ殺し、夜の廊下を駆け抜けました。向かう先は、神器に心を吸い取られ、空虚な眠りについているはずの兄、シンの部屋。
偽りの平和が崩れ落ちる前に、彼女は「不純物」として、最愛の兄へ最後の反抗を届けに行くのです。
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シンの部屋の重厚な扉を、ニアは静かに押し開けました。 月明かりの下、ベッドに座るシンは、膝の上に置いた『黄金の盾』をただ見つめていました。その瞳には以前のような輝きはなく、鏡のように平坦で、何も映してはいません。
「……お兄様」 「ああ、ニア。どうしたの、こんな夜更けに」
返る声は穏やかですが、まるで遠い異国の地から届く残響のように無機質でした。ニアは動悸を抑え、あえて幼い頃のような無邪気な笑みを浮かべて近づきました。
「お兄様、その盾……近くで見せてくれない? 触ってみたくて」 「いいよ。ガドは『不用意に触れさせるな』と言っていたけれど……ニアなら、いいよね」
感情を吸い取られたシンは、疑うことも拒むことも忘れたように、言われるがままその至宝をニアへと差し出しました。
ニアが盾を受け取った瞬間。 ずしりと重い金属の冷たさと、指先から血の気が引くような「断絶」の気配が伝わります。しかし、ニア自身には何の異変も起きませんでした。
(私には何も起きない……。でも、お兄様はこれに心を……?)
その時です。ニアのポケットの奥で、何かがパキリと乾いた音を立てました。 嫌な予感がして手を差し込むと、指先にさらさらとした、砂のような感触が触れます。
「え……?」
取り出した手のひらの上には、あの道中の村の少女からもらった『甘い石』が、形を失い真っ白な塵となってこぼれ落ちていました。 石に込められていたはずの「熱」も「匂い」も、吸い取られたかのように消失している。その塵がシンの足元へハラハラと舞い落ちた瞬間、ニアは悟りました。
(この石が……身代わりに? いいえ、この石と盾には、何か根本的な……因果関係があるんだわ)
ニアは咄嗟に、自分の荷物の中に隠し持っていた、最後の一つの『甘い石』を掴み出しました。 「お兄様、口を開けて。美味しいものを持ってきたの」 「……ガドがいないのに、食べていいのかな」 「いいの。一回だけ、私とのお約束」
感情を欠いたシンは、抵抗せず素直に口を開けました。 そこへ、ニアは祈るような心地で石を放り込みました。
ごくん、とシンがそれを飲み込んだ、その直後。 澱んでいた彼の瞳の奥に、一筋の、鮮烈な「火」が灯りました。
「……っ、あ。ニア……?」 「お兄様……!」 「何……これ。すごく、甘い。喉の奥が、熱いよ。……ニア? なんで泣いているの? どこか痛いの……?」
シンが、自分の意志でニアの顔を覗き込みました。 その手のひらが、心配そうにニアの頬に触れます。ガドの教えた「正解」でも、神器が強いる「静止」でもない、シン自身の温かい感情が、たった一粒の石によって再起動したのです。
「お兄様……よかった、お兄様……!!」
ニアの目から、溜まっていた涙が溢れ出しました。 ですが、その奇跡はあまりに、あまりに一瞬でした。
「うわっ……!」
感極まったニアが抱きつこうとした拍子に、傍らに置いていた『黄金の盾』が滑り、シンの腕にコツンと当たってしまいました。
刹那。 シンの瞳から光が引き、再び、あの空虚な鏡面へと塗り潰されました。
「……あ。……ニア。さっき、何を話していたんだっけ」 「……っ! 嘘、そんな……」
感情は再び、盾という名の牢獄へ吸い込まれてしまったのです。 ニアの手の中には、もう『甘い石』は残っていませんでした。
【市民ログ:013-B】
「……見苦しいものを見たな、記録官諸君。
我が娘、ニアか。 最低限の役割すら果たせず、あまつさえ世界を維持するための完璧な歯車にノイズを混入させようとは……。 あのような『バグ』は、城で処分しておくべきだった。 だが案ずるな。ガドに命じ、適切に消去させる。我が理想とする黄金の世界に、不純物は一滴たりとも許されぬ。
……お前たち、その『ブックマーク』という機能は、何のためにあると思っている? それは個人の嗜好のためではない。 この世界が正しく管理され、シンの勇者が輝かしい静止へと至る過程を漏らさず観測し、固定するための『釘』だ。 今のうちに刻み込んでおくがいい。 逆らう者がいかに無残に塵となり、従う者がいかに幸福な虚無を享受するかをな。
……シンよ。 お前の心など必要ない。 お前はただ、私の望む通りの救世主としてそこに座していればよいのだ。 お前の手にした盾が、世界から『変化』という名の毒をすべて拒絶するその日まで。
……フフ。 次の記録が更新されるのを、震えて待つがいい。 我が息子の光が、次はどこの『不必要な現実』を焼き払うのか……実に楽しみではないか」




