Patch12:第一の神器
ガドから放たれた黒紫色の衝撃波が、神殿の冷気と激突し、空間そのものが悲鳴を上げました。聖騎士の「光」ではない、命を削り取るような禍々しい波動。それは、住民たちの怨嗟の声さえも物理的に圧殺し、神殿の壁に深い亀裂を刻んでいきます。
「ガド……その力、なに……? 怖いよ、やめて!!」
シンの叫びも、今のガドには届きません。完璧な管理を否定され、演算が破綻した彼は、ただ「障害の排除」という原始的な衝動に突き動かされていました。
「シン様、動かないでください……! 貴方は私が定義した『正解』の中にいればいい。このノイズどもを消し去れば、また元の綺麗な世界に戻れるのです……!!」
ガドの瞳は、もはや爬虫類のような冷たささえ失い、濁った殺意に染まっていました。彼の指先から放たれる闇の術式が、逃げ惑う住民たちの「静止した時間」を無理やり食い破り、塵へと変えていきます。
その光景を、ニアは瓦礫の影から、勝ち誇ったような、けれどどこか悲しげな瞳で見つめていました。
「……ふふ、あはは! 見て、お兄様! あれが貴方の『一番の理解者』の正体よ。思い通りにならないものを、力でねじ伏せる……それが、貴方の信じた正解の『裏側』なの!」
「……っ!」
シンは、ガドの背中を見つめました。いつも優しく、進むべき道を教えてくれた大きな背中。それが今は、見たこともない恐ろしい怪物の影を落としています。 同時に、シンの脳裏に、ニアの言葉が反復します。
(『想像』してみて……思い通りにならないこの『泥』の中に、何が隠れているのか……)
シンは、ガドに消されかけている一人の少年に目を向けました。 自分を呪い、自分を拒絶した少年。でも、その震える指先は、確かに「生きたい」と、あるいは「痛みを止めてほしい」と、この理不尽な世界に抗っていました。
「……ガドの言うことは、『正解』かもしれない。でも……」
シンの中で、何かが弾けました。 彼はガドの闇の奔流の中へ、あえて自ら飛び込みました。
「シン様!?」
「お兄様!?」
ガドが驚愕し、魔術を止めようとしますが、間に合わない。闇の波動がシンを飲み込もうとしたその瞬間――。
シンの胸元から、これまでとは比較にならないほど、重く、鈍い光が溢れ出しました。
それは太陽のような眩しさではなく、あらゆる変化を拒み、あらゆる干渉を「無」に帰す、絶対的な拒絶。
――第一の神器、『黄金の盾』。
シンが手にしたのは、煌びやかな武具ではありませんでした。彼の意志に呼応し、空間そのものが「板状」に結晶化した、不格好で、けれど揺るぎない**「断絶」**の概念。
ガドの黒い魔力も、住民たちの怨嗟も、神殿の崩壊さえも。 その盾に触れた瞬間、すべてが「静止」し、シンを傷つけることができなくなりました。
「……守れた。……ガドの攻撃からも、この人たちの悲鳴からも。僕は、僕を……守れたんだ」
シンの声は、喜びに満ちてはいませんでした。
盾を手にした彼の瞳は、どこか遠く、感情を失った標本たちの瞳に似てきていました。
「傷つかない」ということは、同時に「何も感じない」こと。
彼は盾を手に入れた代償として、世界との関わりを自ら断ち切る「孤独な王」としてのパッチを、自らの魂に当ててしまったのです。
シンの手元に実体化した『黄金の盾』は、周囲のすべてを、そしてガドの放った禍々しい闇さえも無機質な静止の中へと封じ込めました。崩壊しかけていた神殿の瓦礫は空中で止まり、沈黙が支配する異様な空間が出来上がります。
ガドは、その絶対的な「静止」の輝きに恍惚とした表情を浮かべ、跪きました。
「……ああ、これです。これこそが、世界を不変の幸福へと導く究極の解答。素晴らしい、シン様……!」
ガドの腕に滲んでいた黒い紋章は、シンの盾が放つ「拒絶」の波動に押し込められるように消え、彼は再び完璧な騎士の姿へと書き換えられていきます。しかし、一度暴かれたその異質な気配を消し去ることはできませんでした。
崩れゆく神殿の出口へ向かいながら、ニアは盾を抱えて虚ろな瞳で歩くシンの背中を見つめ、胸が締め付けられるような悲しみに襲われていました。
(……やっと、声が届いたと思ったのに。お兄様は結局、その『痛み』から逃げるために、自分を閉じ込める壁を選んでしまったのね……)
ニアの言葉に揺れ、泥の冷たさを感じたはずのシンの心は、今や盾の魔力によって「傷つかない」領域へと隔離されてしまいました。今のシンは、先ほどの葛藤さえも「なかったこと」にされたかのような、滑らかで不自然な静寂を纏っています。
神殿を後にする際、ニアはガドの首筋に残った微かな翳を鋭い視線で捉えました。
(あの禍々しい力……ガド、貴方は一体何者なの? お兄様の純粋さを利用して、世界をどう書き換えようとしているの……?)
彼女の中で、一つの確信が芽生えました。ガド・レギオンは、シンの側にいてはならない、世界で最も危険な「毒」であると。
一方、ガドもまた、歩きながら冷徹な演算を繰り返していました。
シンは盾を手に入れたことで、皮肉にも「余計な想像力」を失い、再び扱いやすい純粋な人形へと近づきました。反抗の芽は、盾の静止によって摘み取られたのです。
(……計算通りだ。シン様の感情の揺らぎというノイズは、神器の力で中和された。もはや、彼の心を乱す要素は一つしかない)
ガドの冷たい視線が、ニアの背中に向けられます。
(ニア様……貴女は少々、シン様に『現実』を教えすぎた。これ以上の干渉は、パッチの整合性を著しく乱す。……そろそろ、貴女という不純物をどう処理すべきか、最終的なリマスタの計画を立てる必要がありそうですね)
黄金の盾を手に入れた勇者一行。しかし、その内部は、かつてないほどの不信と狂気によってバラバラに裂けようとしていました。
神殿を後にするとそこには眩いばかりの陽光と、変わらぬ「極彩色の幸福」が広がっていました。
「おお……勇者様! 盾を、聖なる盾をお手にされたのですね!」
「万歳! シンの勇者様、万歳!」
出迎えたのは、頬を引き攣らせるような満面の笑顔を張り付かせた住民たちでした。彼らは神殿の奥で「本物の時間」に閉じ込められたかつての自分の悲鳴など知る由もありません。シンの姿が見えるなり、機械的な賞賛の声を上げ、地面に額を擦り付けます。
その時、祝祭の騒音を切り裂くように、頭上で「システムエラー!システムエラー!」と鳥たちが一斉に鳴きました。
その光景を、ニアは吐き気を堪えながら見つめていました。
お兄様は、あの地獄のような真実を目にした。泥の冷たさを知った。それなのに、外に出ればまたこの「偽物の楽園」が、何事もなかったかのように彼を飲み込んでいく。
(……お兄様が盾を手にしても、世界は一ミリも動いていない。救われた人なんて、どこにもいないのに……)
隣に立つシンは、抱えた盾を見つめたまま、どこか虚ろな目で民衆を見下ろしていました。先ほどまで流していた涙も、激しい拒絶の感情も、その瞳からは綺麗に消え去っています。
「――皆の者、聞きなさい! 偉大なるシンの勇者様は、今ここに第一の神器『黄金の盾』を継承された! これこそが、世界に永遠の安寧をもたらす不変の証である!」
ガドの声が聖域に響き渡ります。その顔には、先ほどの狂気も黒い魔力も微塵も感じさせない、一片の曇りもない「完璧な騎士」の仮面が張り付いていました。 彼は即座にリマスタ(聖和改修省)の執行官たちへ、この「奇跡」を全世界へ流布するよう命じました。シンの勇者という偶像を、より強固に、より絶対的なものへと書き換えていくために。
「シン様。さあ、彼らに慈悲の言葉を。貴方は正解を選ばれたのです。貴方の盾が、この幸せな景色を守り続けるのですよ」
ガドの滑らかな助言に、シンは操り人形のように小さく頷きました。
「……うん。そうだね、ガド。僕が、みんなを……このまま、守ってあげるよ」
その言葉は、もはや「対話」ではなく、世界を止めるための「宣告」のようでした。
その日の深夜。 祝祭の篝火が消え、村が静まり返った頃。ガドは一人、冷たい月光の下で魔導通信機を起動しました。
「……パッチノートへ伝達。南西聖域の『再定義』は完了した。シン様の『勇者としての自覚』を住民の記憶に深く刻み込め。猶予はあと数日だ」
通信の向こう側にいる執行官たちへ、ガドは事務的で、氷のように冷徹な命令を下します。
「我々が旅立った後、この村はもはや用済みだ。……シンの勇者様というデータさえ抽出できれば、このテクスチャを維持する必要はない。リマスタ(聖和改修省)を全員引き上げさせろ。……『幸福のパッチ』が解けた後、この地がどうなろうと私の知ったことではない」
それは、シンの光によって無理やり生かされていた住民たちを、用が済んだ瞬間にゴミ箱へ捨てるという、残酷な廃棄宣告でした。
ガドの瞳には、跪いていた老人の感謝も、子供たちの笑顔も、最初から存在していませんでした。彼が見ているのは、ただ「シン」という名の完璧なプログラムが、世界というサーバーを完全に支配する未来だけ。
暗闇の中、ガドの口元がわずかに歪みました。
「……ニア様も、その時に一緒に『整理』できれば手間が省けるのですが。……ふふ、せいぜい今のうちに、その濁った瞳で世界を眺めておくことです」
【市民ログ:0012-B】
「……ああ、勇者様! 万歳! 万歳! シンの勇者様が『黄金の盾』を手にされた……これ以上の幸福がこの世にあるでしょうか! 見てください、この輝かしい太陽を! 私たちの肌を撫でる、心地よい風を! ここには病も、争いも、悲しみもありません。勇者様が、そう決めてくださったのですから。
……え? 『システムエラー』という鳥の鳴き声がうるさい、ですって? おや、何を仰るのです。私には、天界の調べのように美しく聞こえますよ。 この音が鳴り響く限り、私たちは嫌なことなんて一つも思い出さずに済むのです。 かつての自分が泥の中で何を叫んでいたか? ……ふふ、そんな古いデータ(記憶)、もう消去してしまいましたよ。
あ、記録官の皆様。 この素晴らしい楽園の景色を、どうか忘れないように【ブックマーク】しておいてくださいね。 皆様が私たちの『幸福』を観測し続けてくださる限り、このテクスチャは不滅なのですから。
……おや? ガド様、リマスタの皆様、どこへ行かれるのですか? 『用済み』? いえいえ、聞き間違いでしょう。 だって、私たちはこんなに幸せで……こんなに……。
……あれ? なんだか、急に体が……熱く……。 い、いえ! なんでもありません! 私は幸せです! 私は、正解の中にいます! さあ皆様、次のパッチが当たるまで、笑顔で、笑顔で待ち続けましょう……!」




