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不幸になりたくないから幸福に縋ってもいい。それが恋のはじまりだっていい。あなたのその浅ましさを、私が愛と名付けよう。

作者: 柏原夏鉈

公園のベンチは冷たかった。

隣に座る摩周ましゅう日葵ひまりからは、甘い花の香りがする。

幼稚園の頃から隣にいた、ふわふわとした茶色の髪を持つ幼馴染み。

誰からも愛される愛嬌を振りまく、非の打ち所がない美少女だ。


「別れよう、希湊きなと


唐突な宣告だった。

だが、僕の心拍数は一回も乱れない。


「分かった。いいよ」

「それだけ? 私、別の好きな人ができたのよ? ずっと前から」

「おめでとう。幸せになるといい」


嫌味ではなく、事実として、僕はそう告げた。

日葵ひまりは顔を歪め、ひどく不満そうに立ち上がった。


「……希湊きなとって、本当に冷たい。あなたといても、生きてる実感が湧かないの」

「奇遇だね、僕もそうなんだ」


彼女は僕を傷つけたかったのだろう。

残念ながら僕に傷つくような心は備わっていない。


「私はぜったい幸せになるの。あんたは勝手に不幸になってよ」


それだけ言い残すと、日葵ひまりは去った。


「ああ。そうするよ」


僕の返事は日葵ひまりの背中には届かなかった。



――― ୨୧ ――― ୨୧ ――― ୨୧ ―――



僕の名前は、神威かむい希湊きなと

どこにでもいる、ありふれた高校生だ。

成績は平均より少し下。運動は昔から苦手。

特筆すべき点のない、無機質な記号のような存在だ。


僕の人生には決定的な変革――パラダイムシフトが起きた。


普通なら、絶望して寝込むような出来事なのだろう。


けれど、僕は自分なりに消化した。

ゴミ箱に捨てるように、ひとまず目の前から見えないことにした。


今日からは、昨日までと全く同じ生活を送る。

誰にも言わない。誰にも悟らせない。

僕が不幸になったなんて事は、きっと誰も興味が無い。

それを、僕自身の日常で証明しよう。


僕を切り捨てた日葵ひまりへの、意趣返しにもなればいい。


朝、いつも通りの時間に目が覚める。

カーテンを開け、昨日と変わらない太陽の光を浴びた。

リビングへ行くと、母がキッチンに立っていた。


「おはよう」


母は僕の方を見ることなく、手際よく弁当を詰めている。


「おはよう。今日は早いのね」


父は食卓で新聞を広げていた。

活字を追うその横顔には、何の感慨も浮かんでいない。


「--まだ生涯期待生産性の基準値を引き上げるというのか」


妹は部活の朝練があるらしく、リビングと洗面所を慌ただしく往復している。


「お兄ちゃん、そこどいて! 遅刻する!」


妹が僕の脇をすり抜けていく。


ほら。誰も、僕の不幸に気づかない。


それは朝の献立と同じくらい、誰かに報告する必要のない情報だ。

棚からグラノーラの袋を取り出す。

器に入れ、冷蔵庫から出した牛乳を注ぐ。

サクサクとした音を立てて、淡々と胃に流し込む。

味は、昨日と全く同じだった。


「行ってきます」


一言だけ残し、僕はいつも通りの時間に、家を出た。



――― ୨୧ ――― ୨୧ ――― ୨୧ ―――



教室のドアを開ける。

僕の姿を見つけた途端、クラスの空気がわずかにざわついた。

友人である佐藤が、遠慮がちに近寄ってくる。


「おい、希湊きなと。聞いたぞ。日葵ひまりと別れたんだって?」

「ああ。昨日、そうなった」

「……大丈夫か? 結構長いこと付き合ってただろ」


佐藤が顔を覗き込んでくる。

僕は微塵も揺らがぬ声で、淡々と答えた。


「ああ。でも、何も変わらないよ」


佐藤は複雑そうな顔をして、自分の席へ戻っていった。


完璧だ。

僕はいつもの僕を、完璧に演じている。

日葵ひまりとの決別など、僕の生活に一ミリの影響も与えていない。

僕は静かな満足感を覚えた。


自分の席へ向かう。


「おはよう」


いつものように、隣の席の女子に挨拶する。

しないと、以前に文句を言われたことがあった。

それから返事があろうと無かろうと、声だけはかけておく。


いつものように。昨日と変わらないように。

けれど、彼女は違った。


天河てんかわ維綴いつり

背中まで伸びた真っ直ぐな黒髪は、鋭利な刃物のように冷たい光を放っている。


維綴いつりは、僕をじっと見つめていた。


いつも通りに鞄をかけ、椅子を引き、そして席に着く。

今日は返事がないのかな、そんな風に思ってちらりと見てみる。


すると、維綴いつりはじっと僕を見つめている。


思わず、目をそらす。気まずい。

おはよう、の言い方が馴れ馴れしすぎたのかな?

何かの邪魔をしてしまったのだろうか?

機嫌を損ねてしまったのだろうか。


しばらく隣は見ないようにしようとした。

でも、維綴いつりは許してくれなかった。


維綴いつりが、僕の顔を覗き込んできた。


大きな目だ。そして美しい目だ。

僕の"いつも通り"を、すべて剥ぎ取ってしまうかのように、鋭かった。


「なに?」


僕は問いかけた。

これほどまでに、心がときめき、緊張し、こわばるような思いをしたのは、久しぶりだ。

彼女はいったい何を見て、何を考えているのか、全くわからない。

そして、僕がいったい何をしてしまったのかも、わからない。


「……希湊きなと、私の恋人になってよ」


聞き間違いだろうか。本気で、そう思い込みたかった。

あるいは、何かの罰ゲームが進行しているのだろうか、そうであってほしいとさえ。

しかし、現実は無慈悲だ。


周囲がざわつき始めた。


「私、決めたから。希湊きなとが恋人になってくれるよう、がんばるよ」

「ちょっと待ってほしい。どうして、急にそんなことを言い出した?」

「急なのはわかってる。でも、しょうがないじゃない。今の希湊きなとを見て、恋に落ちたんだから」


「恋におちた!?天河てんかわさんが希湊きなとに!」


佐藤が騒ぐ。

それが起爆剤になって、一気にみんなが騒ぎが始める。

予鈴が鳴っても収まらず、教師がやってきて皆を沈めるまで続いた。



――― ୨୧ ――― ୨୧ ――― ୨୧ ―――



青空が広がる屋上。

フェンスの向こう側から、街の喧騒が遠く聞こえてくる。

僕は、隣に座る維綴いつりの存在を、これでもかというほど意識していた。


朝の挨拶を交わす程度の仲だった彼女と、二人きりで弁当を広げている。

この非日常的な状況に、僕の思考はさっきから空回りし続けていた。


希湊きなと、それ。お母さんが作ったの?」


維綴いつりが僕の手元の弁当箱を指さした。


「ああ、そうだよ。彩りはいいけど、味は普通かな」

「いいな、美味しそう。私のは、自分で作ったんだ」


維綴いつりは自分の弁当箱を見つめて、少しだけ恥ずかしそうに笑った。


「今日は手抜き弁当だから、本当は見せるの恥ずかしいんだけどね」


そう言いながら彼女が見せてくれた中身は、手抜きとは程遠いものだった。


丁寧に詰められたおかず。色鮮やかな副菜。

僕は社交辞令のつもりで、一番に目を引いたものを褒めた。


「……そんなことないよ。その卵焼きとか、すごく美味しそうだし」

「本当? じゃあ、食べてみて!」


維綴いつりは迷うことなく箸で卵焼きをつまむと、僕の口元へと運んできた。


「はい、あーん」

「えっ……」


「いいから。ほら」


彼女の真っ直ぐな視線に気圧され、僕はゆっくりと口を開けた。


柔らかな卵の食感と、出汁の優しい風味が広がる。

維綴いつりは僕が飲み込むのを待ってから、少し身を乗り出すようにして質問を重ねてきた。


まるで、空白だった僕たちの時間を埋めようとするみたいに。


「ねえ、希湊きなとは休みの日は何してるの? 家でゆっくりする派?」

「……映画を観たり、本を読んだり。たまに散歩するくらいかな」


「へえ、インドアなんだ。じゃあ、好きな食べ物は? やっぱりお肉とか?」

「カレーかな。凝ったやつじゃなくて、普通の家のカレー」


「カレーね、覚えた。部活は入ってないんだっけ?」

「帰宅部だよ。運動は昔から苦手で」


「ふふ、正直だね。じゃあ最後に。……好きな女の子のタイプとか、ある?」


核心を突くような質問に、僕は返答に窮した。

答えを探して視線を泳がせていると、維綴いつりの手が僕のシャツの裾をぎゅっと握りしめた。


引き留めるためではなく、僕がそこにいることを確かめるような、切実な強さだった。


「……希湊きなと


維綴いつりの声が、少しだけ低くなる。


「私、うざいって自覚あるから。でも、手を緩めるつもりもないの」


握られた拳に力がこもる。


「本当にダメってなったら、黙っていなくならないで。その前に、言ってね」


彼女の瞳は、僕の心の奥底を見透かそうとしているかのようだった。


昨日、日葵ひまりに言われた言葉が蘇る。


"……希湊きなとって、本当に冷たい。あなたといても、生きてる実感が湧かないの"


けれど、今、僕のシャツを掴んでいるこの手の熱は、間違いなく僕の存在を肯定していた。


「……分かった。いなくなる前に、必ず、言うよ」


僕がそう答えると、維綴いつりはようやく力を抜き、ふわりと微笑んだ。

その笑顔は、冬の終わりの太陽のように、僕の冷え切った心を静かに解かしていくようだった。



――― ୨୧ ――― ୨୧ ――― ୨୧ ―――



放課後の教室、帰宅の準備を整えた僕の隣に、維綴いつりが音もなく忍び寄ってきた。

沈みかけた夕日が教室をオレンジ色に染め、窓の外からは運動部の威勢のいい声が響いている。


維綴いつりは僕に顔を近づけてきた。

耳元で吐息が漏れるほどの至近距離で囁いた。


「ねえ、二人だけの秘密、作らない?」


その提案は、男子のたましいを直撃する魅惑に満ちていた。

僕の心は、もう揺れることのないものだと思っていたが、大きく揺すられた。鼓動が跳ねる。


「二人だけの、秘密って……」

「しっ!……誰かに聞かれたら、いけない、よ?」


いけない。


「……」

「ねえ、いこ?」


その誘いに抗う術を、僕は持っていなかった。



――― ୨୧ ――― ୨୧ ――― ୨୧ ―――



放課後の喧騒を抜け、彼女に導かれるまま辿り着いたのは、駅裏の少し寂れたビルだった。

入り口の脇では、けばけばしい赤やピンクのネオンが、まだ明るい夕空の下で不自然に点滅している。


維綴いつりは迷うことなく、建物の奥へと足を進めた。

手慣れた様子で受付のパネルを操作し、店員と手短に言葉を交わして、伝票の挟まったバインダーを受け取る。


「……いつも、ここに来てるの?」


思わず、喉の奥から絞り出すように問いかけた。維綴いつりは振り返り、当然のことのように微笑む。


「うん、もちろん」


薄暗い廊下を歩き、指定された番号の扉を開ける。

室内はさらに仄暗く、使い込まれた小さなソファが一つ、重苦しく鎮座していた。


部屋に入ると同時、維綴いつりは壁にかかった内線電話を手に取る。


「あ、アイスティを二つ、お願いします。……ええ、すぐに」


受話器を置くと、彼女は僕の方を向き、少しだけ唇を尖らせた。


「さっさと注文しておかないと。いいとこで邪魔が入るのは嫌なの」


密室に、年頃の男女が二人きり。まずは維綴いつりが座って、その横並びに少し離れて、僕は座った。


少しだけ静かな時間が流れる。


すぐに、店員が飲み物を持ってきて、ドアが閉まるや、否や。

テーブルの上にあった黒いマイクを手に取って、僕の方へ、逃げ道を塞ぐように差し出してくる。


「まず、希湊きなとに歌ってほしい」


彼女の瞳が、至近距離で僕を射抜く。


希湊きなとがどんな歌を歌うのか、私、すごく興味あるんだ。歌い方って、その人の本質が出ると思うから」


僕は、彼女の真意を測りかねたまま、静かに息を呑んだ。


歌うことはきらいじゃない。

いや、得意なのか自覚はないけど、好きと言ってもいい。


歌うことは、僕にとって唯一、感情の吐露だった。

記号として生きる日常の中で、声に感情を乗せる瞬間だけは、自分が自分であることを許される気がしていた。


期待に満ちた目で僕を観察する維綴いつりから、差し出されたタブレットを受け取る。

歌い慣れた歌を、選ぶ。


正面の画面にはすぐに歌の名が表示され、維綴いつりは声に出さずに「おー!」と口を動かした。

僕は、マイクを握り、イントロが流れると同時に、立ち上がる。無意識に。


僕は目を閉じ、心の奥底に溜まっていた澱を吐き出すように歌い始めた。


"ぼくがしのうと おもったのは うみねこが――"


この歌は、絶望の淵にいる人間が、日常の些細な景色の中に死の理由を見出し、同時に生への微かな未練をなぞる。

もともと好きだった歌だけれど、今の僕にはまるで、自己紹介をしているみたいに、感じる。


歌い終えて目を開ける。

維綴いつりは呆然とした表情のまま。頬に涙が流れ落ちていくのも、気づかない。僕を見つめていた。


「……」


びっくりした。

思いがけない反応に、どうしたらいいのかわからず、僕も呆然と、維綴いつりを見つめている。


「……」


どのくらいそうしていたのか。さきに動いたのは僕だ。

ポケットに入れっぱなしになってたハンカチを取り出して、少し匂いを嗅ぐ。

大丈夫、変な匂いはしないな、そんなことを確認してから、彼女に差し出した。


「え?」


維綴いつりは、大きく目を見開いて、差し出された物がわからないようだった。


「なみだ、出てるから。……僕の歌、泣くほど、そんなに下手だった?」


少し笑顔を浮かべて、柔らかく、僕は言った。

維綴いつりは、あわてて自分の頬をなでて、その手を見る。びっくりした表情で。


「ち、ちがうの!」


僕の差し出したハンカチを受け取りながら、慌てて取り繕う。


「びっくりしたの!最初さ、この歌を選んだんだ!って思いながら、身構えてたのに!」

「うん」


「でも、そんなのぜんぶ、吹き飛ばされちゃった。……あ、下手じゃないよ!っていうか、すごくうまいよ!」

「ありがとう」


「私、カラオケで他人の歌聴いて泣いたの、初めてだよ……」

「ごめん。楽しい歌が良かった、かな」


「ううん! 希湊きなとが歌いたい歌でいいの!」

「いいの? 維綴いつりも歌わないの?」


「ごめん、さっきの希湊きなとの歌をきいたあとだと、ちょっと歌うのは無理かも……」

「……なんかごめん」


「ううん! そうじゃなくて! もっと聴きたいってこと。ねえ、希湊きなと。もっと歌って!」

「いいけど……」


「ほら!」


維綴いつりが突きつけるように、タブレット差し出すので、受け取って、歌を選ぶ。

維綴いつりの言葉通りに、僕が歌いたい歌を、うたう。


"そでたけが おぼつかない なつのおわり――"


今の僕が見ている世界は"灰色"になってしまった。

鮮やかな"青"だった頃の僕に、語りかけるように歌う。

変容してしまった世界は、静かな決別へと向かっていく。

どれだけ世界が変わってしまっても、いつもの日常を続けてる。


"かわらないなにかが ありますように――"


それだけが僕の願い。


歌い終わって、静かな拍手を聞いて、僕は維綴いつりを見た。

維綴いつりは、今度は目を閉じたまま、小さく手をうち合わせて、拍手してた。

じっと聞き入っていたようだ。


「すごい。もう、すごい、の一言だよ」

「……ありがとう、かな」


「この歌、私も好きだよ? たくさん聞いた。それでも、歌う人の感情で、こんなに違って響く。歌って良いよね」

「うん」


その言葉には素直に、同意した。歌は良い。


それから、維綴いつりのリクエストに応えるように何曲も歌い続けた。

彼女は歌の間、一度も僕から目を離さず、時にリズムに乗り、時に歌詞を噛み締めるように聴き入っていた。

数曲が過ぎ、僕は喉に軽い疲労を覚えてソファに深く背を預けた。


「……さすがに少し疲れたよ」

「お疲れ様。本当に、素敵な歌声だった」


維綴いつりはそう言うと、距離を詰めて、僕の隣で座り直した。

そして、ポンポンと、自分の太ももをたたいて、僕を見た。


「?」


何をしているのかわからず、僕はきょとんとした。すると。

維綴いつりは、僕の腕を引っ張り、僕の頭に手を伸ばし、自分の膝に引き寄せ、強引に横たわらせた。


「え……」

「いいから。動かないで」


維綴いつりは僕の髪に指を通し、優しく撫で始める。

抗おうとした僕の肩の力は、その心地よい感触に一瞬で奪われていった。


「これはご褒美、だよ」

「ご褒美?」


「うん。お礼も兼ねてる。素敵な歌を聴かせてもらったから」

「……」


「あれ? 嬉しくない? ご褒美にならないかな?」

「ううん。……ご褒美です」


「良かった」

「……うん」


僕は考える。これはどうしたものだろうか。

嬉しいはずだ。隣の席の女子でしかなかった維綴いつりの、膝枕を堪能している。

ちらりと、維綴いつりに視線を向ける。維綴いつりは、優しい目で、僕を見る。微笑み返してくれる。


「……希湊きなと、私の恋人になってよ」

「……」


ふたたび、その言葉を聞いた。前に聞いたときとは、違って聞こえる。

あのときは、からかわれているのだと思った。だって、とつぜんだったから。


でも、今は、少しだけ、本当のことなのかもしれないと思ってる。

これは僕の勘違いなんかじゃない。だって、今、僕は、生きているって実感を感じている。


「へんじは、まだいい」

「……」


「でも、私に甘えてよ」

「……」


「私も甘えるから」

「……いいの?」


僕の声に、維綴いつりは小さくうなずいて、笑みを深めて、言った。

維綴いつりの優しい声が、上から降ってくる。


「生きてる人間は、誰かに甘える権利と義務があるんだよ」


はじめて知った。そんなの、日本国憲法に書いてあっただろうか。


維綴いつりの膝は柔らかく、温かかった。


「義務があるのなら、しょうがないね」

「うん、しょうがないよ」


微笑む維綴いつりの瞳には、さっきまで僕が歌っていた歌の残響が、まだ鮮やかに反射しているように見えた。

僕は、静かに目を閉じ、自分の中に芽生え始めた、昨日までにはなかったはずの感情の胎動に、そっと耳を澄ませた。



――― ୨୧ ――― ୨୧ ――― ୨୧ ―――



僕の世界に差し込む光の角度が変わった。


朝、教室のドアを開ける。昨日までと同じはずの風景の中に、今は明確な焦点が存在している。


「おはよう、希湊きなと


隣の席の維綴いつりが、微笑む。

これまでのように、ただ声だけを投げる挨拶ではない。

僕の目を見て、さあ早く、と返事を待つ。


「おはよう」


僕の返事に、維綴いつりが目に見えて顔をしかめて、首を振る。

そして、やり直しだ、と言わんばかりに、もう一度、繰り返した。


「おはよう、希湊きなと


希湊きなと、という部分に力をこめて。

――ああ。名を呼べ、ということだろうか。


「おはよう、維綴いつり


維綴いつりは満足げにうなずいた。正解したらしい。


僕が一人で完結させていたはずの灰色の日常に、彼女は躊躇なく踏み込み、新しい色を置いていく。

周囲の視線は、もはや好奇の段階を超え、一種の期待を込めた温かなものへと変わりつつあった。


事件は、そんな平穏な空気の中で起きた。


体育の授業、グラウンドでのサッカーを終えた後のこと。

汗をかいた喉を潤そうと、僕が校舎裏の水道で顔を洗っていると、背後から弾んだ声が聞こえた。


希湊きなと、お疲れ様!」


その声に、振り返る間もなかった。

水の塊が、僕の上から、僕の背中に落ちてきた。

冷たい感触が背筋を走り、体操着が不快に肌に張り付く。


「わっ、ごめん! 手が滑っちゃった」


濡れたまま、僕が振り返ると。

バケツを抱えた維綴いつりが、わざとらしく、けれど、愛らしく舌を出して笑っていた。

手が滑ったにしては、あまりにも正確で、逃げ場のない水の軌道だった。


「……さすがに、手が滑ったは、無理があるよ、維綴いつり

「そのままだと風邪ひいちゃうよね」


僕の言葉など聞いてはいない。

そう言うと、維綴いつりは自身の首にかけていたタオルを差し出した。

少し大きめの、スポーツタオルだ。


「ほら、まずは、これで拭いて!」

「え、でも」

「いいから!」


その勢いに押されて、タオルを受け取って、まずは顔を拭こうとすると、ふわっと香ってきた。

それは柔軟剤の香りだけじゃなくて、洗濯のあとに付加された、様々な香り。維綴いつりの残り香だ。


「はやく!」

「……」


維綴いつりが、聞いたことのない声色で、必死に言う。

ためらうのを諦めて、受け取ったタオルで拭いていく。


「それで、上だけも。ジャージもシャツも脱ごう!」

「……」


維綴いつりが何をしたいのか、わからない。

でも、たしかに濡れて重くなったジャージやシャツは、肌に貼りついて、不快になってきたので。

タオルをひとまず、維綴いつりに返しながら、ジャージとシャツを脱いでいく。


「……え。運動苦手って言ってたわりには、以外と……」

「……」


脱いだジャージの上着とシャツを、まとめてぎゅうっと絞りながら、あえて黙って、維綴いつりを見つめる。

つまり、どういうつもりだ?という沈黙の問い。


僕の気持ちは伝わったらしいのだが、うんうん、と維綴いつりは頷きながら。

ふたたびタオルを僕に手渡し、身体を拭くように指示しながら。

維綴いつりは、勢いよくジャージの上着のジッパーを下ろし、脱ぐ。


「更衣室まで、私のジャージ、着てていいから」

「……え」


「濡れてるの、また着るのはいやでしょ? 上半身だけとはいえ、裸で歩き回るわけにもいかないし」

「いや、いいよ?」


「お詫びだから、気にしないで」

「お詫びもいらない。僕の言葉を、聞いてない振りしないで?」


「……大丈夫、くさくないよ?」

「そんなの気にしてないよ。そうじゃなくて、どうしてこんなことをしたの?」


「なまえを、書いておこうかと思って」

「え?」


「自分のものには、なまえを書くでしょ? 希湊きなとは私の物だ!と名前を書きたかったんだ」

「いつ、維綴いつりのものになったの、というのは聞かないでおくよ。それで?」


「タトゥーを入れる、私のジャージを着せて歩かせる、の二択だったんだ」

「ましな方を選んでくれてありがとう」


維綴いつりは、風変わりな性格をしてるのは、わかってきた。エキセントリックだ。

でも、それに合わせていくのも、いやじゃなかった。


僕は黙って、身体を拭き終えたタオルを手渡す。

維綴いつりも黙ってタオルを受け取り、脱いだばかりのジャージの上着を手渡す。

サイズは、僕には少し小さめだから、袖を通さずに、羽織るだけにした。

胸の部分には"天河"と書かれている。


「これでいい?」

「うん!」


今日イチの笑顔で、維綴いつりがうなずいた。

ジャージに残っている、彼女の温度が、つめたくなった僕を溶かしていく。



――― ୨୧ ――― ୨୧ ――― ୨୧ ―――



お昼休みは、自然と二人で並んで屋上へと向かう。

けれど、今日の維綴いつりは、少し違っていた。僕の腕を取り、指を一本ずつ絡めてきた。


「いこう、希湊きなと

「……」


どういうつもり?という沈黙の問い、ふたたび。

しかし、ニヤッと笑うだけで、維綴いつりは何も応えない。


ただの手繋ぎではない。手のひらと手のひらを密着させ、指を深く交差させる、恋人繋ぎ。


維綴いつり、これは……みんな見てる」

「いいの。学校中のみんなに、私たちが付き合ってるって見せつけてあげる」


彼女は僕を連れて、生徒たちが溢れる廊下を堂々と歩き始めた。


僕は目立たないように生きてきたけれど、皆に、よく知られていた。日葵ひまりの付属品として。

日葵ひまりはとても目立つ存在。誰からも愛され、愛嬌を振りまく、非の打ち所がない美少女として。


日葵ひまりが僕を捨て、別の男性と付き合い始めたという話は、"うわさ"なんかじゃなく"周知"として広まってる。


その僕と。

その手を固く握り、誇らしげに胸を張る維綴いつり

その異様な、けれどどこか眩しい光景に、廊下は一瞬で、蜂の巣をつついたかのような騒ぎになった。


「……この騒ぎは想定内なの?」

「もちろん。名前を書こうプロジェクト、第二弾よ。これ以上、わかりやすい看板もないでしょ?」


「おいおい、希湊きなと! お前ら、ついにそこまで行ったのかよ!」

「……」


佐藤が茶化すように声を上げる。

以前なら冷やかしに感じたその言葉も、今は不思議と嫌な響きではなかった。


「そこまで、が、どこまでなのかわからない」

「そりゃ、おまえ。……ものにしたのか、って話さ」


いやな言い方だ。誰が誰の所有物であるかのような。

けれど、そもそも僕に名前を書いておこうとしてる女子が、僕の腕を離さない。


むしろ、ぎゅっと抱きしめ、肯定してる。


「まだだよ、とこたえておく――」

「――時間の問題よ」

「おー!」


僕の応えにかぶせるように、維綴いつりが応える。

周囲の生徒たちも、驚きの表情から次第にニヤニヤとした笑みへと変わり、中には小さく拍手を送る者までいた。


遠くで、日葵ひまりが友人たちに囲まれて立ち尽くしているのが見えた。


日葵ひまりの顔には、かつて僕を"冷たい"と切り捨てた時の余裕はない。

ただ呆然と、見たこともない表情で僕たちを見つめていた。


僕と、日葵ひまりの、目が合う。

廊下の空気が、一瞬で氷結したように冷え込んだ。


人だかりを割って、日葵ひまりが僕たちの前に歩み寄ってくる。

いつも周囲に愛想を振りまいている、天真爛漫な笑みはそこにはない。

理解しがたいものを見るような、苛立ちの混じった視線が僕と維綴いつりに向けられていた。


日葵ひまりは僕を一瞥した後、維綴いつりの目を真正面から見据えた。


「ねえ、維綴いつりさんだっけ。悪いことは言わないから、やめておきなさいよ」


日葵ひまりは嘲るような笑みを浮かべ、僕を顎で指す。


「そんな男、付き合ってもつまらないわよ。何をしても、ずっと無表情なまま」

「……」


「怒りもしなければ、喜びもしない。心なんてどこにもないのよ。宰機さいき[AI]の方が、まだ感情があるんじゃないかしら」


維綴いつりの繋いだ手に、わずかに力がこもる。けれど、彼女の瞳に迷いはなかった。


「それは、あなたに魅力が無いからじゃないかしら?」


維綴いつりは、刃物のような鋭い声で言い放った。周囲から小さく息を呑む音が聞こえる。


「私には、希湊きなとは色んな表情を見せてくれる」

「うそよ」


「困ったような可愛い表情。歌っている時の魂が震えるようなかっこいい表情。透き通った美しい表情」

「歌? こいつが歌なんて歌うわけないじゃない」


日葵ひまりは信じられないといった様子で、大仰に肩をすくめて見せた。


かつての恋人に対する未練なぞ、ない。

自分の物だったはずのガラクタを、他人が磨き上げようとしていることへの、不快な優越感が滲んでいる。


「そんな男に尽くす価値なんてないわ。あなたみたいな綺麗で目立つ人。もったいなさすぎるわ」

「価値?」


維綴いつりの声が、さらに低く、重くなる。彼女は僕の腕を抱き寄せ、周囲を威圧するように言葉を継いだ。


「あなたに、希湊きなとの価値を勝手に決めさせない! 誰も、彼の価値を勝手に決められたくない!」

「はあ? 何を熱くなってるのよ」


日葵ひまりは苛立ちを隠そうともせず、吐き捨てるように言った。


「男なんて、女の価値を高めるためにしか存在しない。将来の安泰を保障する生存資源でしょ」

「……」


維綴いつりの腕に力がこもっていく。大きな瞳は見開かれて、日葵ひまりをにらみつけている。


「より高性能で、より私を輝かせてくれるリソースを選ぶのは、生物として当然のことじゃない」

「……あなたは、希湊きなとを捨てたんでしょ」


維綴いつりの纏う空気が、一気に沸点を超えた。握りしめられた拳が、小刻みに震えている。


「ええ。捨てた。それが?」

「もう二度と話しかけないで。あなたの矮小で薄っぺらな価値なんて、どうでもいいの。自分の生存率を高めるためにしか人を愛せないなんて、可哀想な人ね」


「馬鹿ね。こんな世界で生きていきたいのなら、より優れた個体を選ぶのは当たり前でしょう? 愛だの恋だのなんて、生存に有利に働くための、ただのスパイスじゃない」

「それが気に食わないって言ってるの!」


維綴いつりの怒声が廊下に響き渡り、野次馬たちがびくりと肩を揺らした。


「生涯生産性や生存率なんて、そんな客観的な数字や価値に振り回されたくないの!そんな理由で失う――」

「……維綴いつり!」


その言葉に、最も強く反応したのは、僕だ。

僕の声に、そして僕の表情に、維綴いつりは愕然とした表情を浮かべた。

思わずして、力を緩め、僕の腕から手を放しそうになったが、ギリギリで、再び力をこめた。


維綴いつりは「あとで、はなすから」と僕にだけ聞こえる小さな声で呟き、そして、日葵ひまりに向き直る。


「私は、私の心が動いたままに、恋がしたい。希湊きなとが好き。希湊きなとだから愛してる。それ以外の理由は、捨てた」


日葵ひまりは、維綴いつりの気迫に押されたように一歩後退した。

完璧だったはずの美少女の仮面が、わずかに剥がれ落ち、困惑の色が広がる。


僕たちの周りには、これまでとは質の違う沈黙が流れていた。


「いこ、希湊きなと。お昼休みが終わっちゃう」


維綴いつりは僕の腕を引いて、二人は、いつもの屋上へと向かった。

残された野次馬たちと、日葵ひまりを置き去りにして。



――― ୨୧ ――― ୨୧ ――― ୨୧ ―――



屋上で、二人。

お弁当を広げるのも忘れ、僕たちはいつもの場所に並んで座り、維綴いつりに問いかけた。


「なぜ?」


その一言だ。その一言に、万感の思いが込められていた。


何を問いたいのか、あえて特定しなかった。

そうすることで、維綴いつりが何を応えるのか。もっとも大切にしてることがわかる。


「そう、ね。何から話せば、良いのか」

「……」


「でも、ウソはない。さっき言った言葉にウソはない。恋がしたい。希湊きなとが好き」

「……恋は、僕じゃなくても、いいよね」


「そうは思わない。好きになれば、誰でもいい恋は、恋じゃない。あなただけが、特別なの」

「でも、僕は、もう――」


僕は続きを言えない。


「……」

「――。いつから?」


聞き方を、変えてみよう。きっと彼女の行動には、何かきっかけがあるように感じた。


「あの朝よ。おはようって言った希湊きなとの顔を、のぞき込んだとき」


すべてが変わったあの日の、朝のこと。

挨拶しただけなのに、維綴いつりが僕の顔を覗き込んできた、あの朝だ。


「貼り付けたみたいな笑顔が、あの人に重なって見えたから」

「あの人?」


「私には兄がいた。そして、もういない」

「お兄さん……。もしかして」


ただ、その一言で2人には通じてしまった。

維綴いつりは静かに小さく頷いた。


「あの日のことは、ぜったいに忘れない。あの一ヶ月の生活は、いつまでも後悔してる」

「……」


「自分が許せなかった。どうして気づけなかったのか、ずっと、ずっと、考えていたの。だから、希湊きなとの変化に気づけたのかも」

「……お兄さんのこと、好きだったんだ」


「ちょっと違うかな。好きか嫌いかで言えば、嫌いかも。でもね。たった一人の兄なの。それだけ」

「僕にも妹がいる。きっと同じことを言う」


「不思議な関係だよね、兄と妹って。家族の親しみはある。でも、男と女の隔たりがあって、手が届く距離のようで、無限の遠くにも感じる」

「……お兄さんのことがあって、僕のことに気づけたのはわかった。でも、その先はどうして?」


「その先……?」

「君は言った、私の恋人になって。そういった」


維綴いつりは頷く。僕は続けた。


「それは、同情? お兄さんのことへの贖罪? それと、日葵ひまりと同じで――」

「どれも違う!」


維綴いつりは強く叫ぶ。怒りでも、悲しみでもなく、強く、自分の気持ちを吐き出すために。強く。


「思わなかった日はない、もし、私が兄の価値となっていたなら、と。考えなかった日はない」

「……」


「でも、許されようとは思ってない。悪かったとは思わない。だから、罪滅ぼしではないわ」

「……」


「ただ、こんな鎖につながれた生活がイヤなの。さびしいのはあなただけじゃない。恐ろしい闇を見たのはあなただけじゃない」

「うん、わかるよ。僕だって、僕だけが不幸だなんて思ってはない。きっとみんなが、あらがってる」


「……」


維綴いつりは黙って、僕を見つめた。ずっと見つめてきた。透き通る瞳が、印象的な表情だ。

今まで見せてくれた維綴いつりの中で、もっとも美しい。


「僕には価値がない。そう、決められたことだ。そう言うと、君は怒るだろう。日葵ひまりに怒ったように」

「……」


「けれど、もう、決められたことだから」

「いえ。まだよ」


決意に満ちた瞳が、僕の瞳の中で大きくなっていく。

僕の瞳の中が、維綴いつりで満ちたとき、やわらかな接触をした。


「――ファーストキスよ。これであなたはこの世界に唯一の存在になった。もっとも幸せな男だと思って良いわ」


誇らしげに、維綴いつりは言った。



――― ୨୧ ――― ୨୧ ――― ୨୧ ―――



「また明日」


維綴いつりと別れ、僕は家路につく。

一言が、これほど重いくさびになるとは思わなかった。

胸の奥で、ドクンドクンと、不器用な心拍が自己主張を繰り返す。


かつて、死は"整理"に過ぎなかった。

この世界から不要な記号が一つ消える。ただ、それだけのこと。


けれど今は、死が"略奪"に思える。


維綴いつりと交わす言葉。

維綴いつりの指の温度。


そのすべてを奪われることが、恐ろしい。


自分という存在が惜しいのではない。

維綴いつりと過ごす"明日"を失うことが、耐えがたいのだ。


「……遅いわね」


自宅の門扉に、見覚えのある影が張り付いていた。


日葵ひまりだ。


天真爛漫だったはずの美少女は、見る影もなくやつれ、スマートフォンの画面を僕に突きつけた。


「きたのよ。私に」


画面には、無機質な通知。


"生活環境再編通知"――通称「処分通知」。


この社会の管理AIかみさまである"汎人類生存保障統御宰機――宰機さいき"は、冷酷な計算式で僕たちの生死を分かつ。

資源が有限にして限界を迎えた現代において、人類は、生涯期待生産性ライフタイム・バリューという数値で測られる。

その数値が一定基準を下回った者は、社会全体の幸福度を下げる "負債資源" と見なされ、その存在を抹消――処分される。


人類存続のための究極の合理的政策。これが、この世界の正体だ。


通知から執行までの猶予は一ヶ月。その間、家族にさえ開示は許されない。

知らせることで発生する "過剰な悲しみ" さえも、社会全体の生産性を低下させる非合理なコストだと、宰機は判断しているからだ。


それは、あの日、あの朝に、僕にも届いた。


「おめでとう、とは言えないね」

「冗談はやめて! あの人も逃げたのよ! 私の数値が下がったからって!」


日葵ひまりが叫ぶ。


かつて僕を捨て、より高い"生存資源"へと乗り換えた日葵ひまりが。

縋ったその"生存資源"もまた、価値を失った日葵ひまりを切り捨てた。


合理的で、そして、救いようのない因果応報だ。


希湊きなと、お願い。また、あなたで我慢してあげる」

「……」


「あの女は捨てて。もとは私の物なんだから。それにあの女なら他にも男は寄ってくるわ」

「……」


「もう時間が無いの。だからすぐに結婚して。子供が出来れば、それも生存資源になるから」

「断る」


もう聞いていられなかった。(おぞ)ましさすら感じた。

生きようとする行動が醜いのではない。

日葵ひまりの、乱暴にクレヨンで塗りつぶしたかのような感情が浅ましい。


「こんなときにやめて。あんたにも、すぐに"処分通知"が届くわ。ぜったいよ。あんたより、私の方が価値がないなんて、ありえないから!」

「……ああ。来ているよ」


「ほら! やっぱり! じゃあ、話が早いわ。死にたくないでしょう? 私と――」

「嫌だよ」


「……え?」

日葵ひまりと一緒にいても、"生きてる実感"なんて湧かないんだ。日葵ひまり自身が、一番よく知っているだろ」


「そんなこと、言わないで。ひとつだけ、なんでも聞くから。殴ってもいいよ。あ、でも、顔はやめて。生産性が下がるから……」


繰り返されていく日葵ひまりの言葉は、どれも僕には気持ち悪かった。

はっきりとさせよう、僕の曖昧な態度が、日葵ひまりも僕も、縛っているようだ。


「僕には必要ない。日葵ひまりとの関係は、切断する」


その時、ポケットの中でスマートフォンが短く、鋭く震えた。

取り出した画面に刻まれていた。天啓のように。


"宣告。負債からの別離を確認しました。現時刻を以て処分の保留、および、汝の生涯期待生産性の再評価期間を設けます。"


背筋に、冷たい氷が滑り込んできたような感覚が走った。


そういうことか。

"宰機"はすべてを監視し、計算している。


僕が今、明確に日葵ひまりを拒絶したこと、彼女という"負債資源"との繋がりを断ち切ったこと。


それが僕自身の"価値"を再び天秤にかけるに値すると判断されたのだ。


日葵ひまりという存在が僕の精神的なリソースを密かに侵食し、僕の生産性を著しく下げていた。


彼女と一緒にいることで、僕は知らず知らずのうちに"磨り減って"いたのだ。


そして同時に、一つの確信が僕を支配した。


僕がこのまま生き残るための条件。


日葵ひまりを置き去りにして、僕は走り出した。


「ちょっと!待ちなさいよ!」


そう叫ぶが、日葵ひまりは追いかけてくる様子はない。

彼女の絶叫が背中に刺さるが、もう振り返る理由はない。


維綴いつりに連絡を入れた。会いたい、とだけ。



――― ୨୧ ――― ୨୧ ――― ୨୧ ―――



夜の公園。

ベンチには、黒い髪の少女が座っていた。


僕の連絡を受けて、すぐに駆けつけてくれた、僕だけの光。


維綴いつり

希湊きなと!」


維綴いつりは立ち上がり、僕をまっすぐに見つめた。


「ごめん、急に連絡して」

「ううん、いいのよ。甘えてほしいって言ったのは私。だから、嬉しかった」


「……」

「なにかあったのね?」


「……生きたいんだ」

「……」


僕は喉の奥から絞り出すように告げた。


「生きたい」

「……」


「初めて思ったんだ。一緒に。維綴いつりと生きたい。たとえ処分される運命だとしても」

希湊きなと……」


日葵ひまりと一緒に奈落へ落ちるんじゃなく、維綴いつりといたい」


維綴いつりは、ふっと柔らかく笑った。

その微笑みは、冷え切った夜の空気を一瞬で溶かした。

彼女は僕の胸に顔を埋め、力を込めて抱きしめてきた。


「不幸になりたくないから、幸福に縋ってもいいんだよ」

「……維綴いつり


「それが恋のはじまりだっていい。希湊きなと


維綴いつりが顔を上げ、僕をまっすぐにみつめながら、言った。


「あなたのその浅ましさを、私が愛と名付けてあげましょう」



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