日常が始まり影が伸びる
朝の鐘が鳴った。
それは、これまでの領都にはなかった、新しい意味を持つ音だった。
「はーい!並んでくださーい!走らない!」
校舎の前で声を張り上げているのは学術員の一人。
その背後では、年齢も背丈もばらばらな子供たちが集まっている。半分は期待に目を輝かせ、半分は不安そうに親の服を掴んでいた。
――学校兼・託児所。
領主命令として告知されてから数週間。
準備期間を経て、今日が正式な始業日だった。
「……本当に、子供を預けていいんだよな?」
門の外で、父親が落ち着かない様子で呟く。
「昼飯も出るって……本当か?」
「本当だってば。昨日、献立表まで配られたでしょ」
母親は苦笑しながら、子供の背中をそっと押した。
「ほら、行っておいで」
子供は一度だけ振り返り、親の顔を確認すると――勢いよく走り出した。
校庭には、簡素だが十分に丈夫な滑り台とブランコ。
木製の積み木が箱に詰められ、輪投げ用の杭が地面に打ち込まれている。
「うわーっ!」
「これ、積むの?」
「せんせー!ぶらんこ!」
一斉に弾ける声。
それを見ていた学術員の一人が、小さく息を吐いた。
「……大丈夫そうですね」
「ええ。思ったより、ずっと」
補助員として配置された女性が頷く。
「泣く子もいますけど……でも、すぐ慣れますよ。多分」
校舎の中では、少し年上の子供たちが机に座っていた。
「今日は文字の練習から始めます」
黒板に書かれた簡単な文字。
版画で刷られた教材を手元に置き、子供たちは真剣な顔でなぞっていく。
「せんせー、これ、地図の字?」
「そうよ。覚えたら、地図が読めるようになるわ」
「すげー……」
思わず漏れた感嘆。
それを聞いた学術員は、一瞬だけ言葉を失った。
(……この子たちは、どんな世界を見るんだろうな)
⸻
その頃、領主館の執務室。
領主は静かに書類へ目を通していた。
「学校の初動は、問題なさそうです」
報告に来た文官が言う。
「欠席は想定内です。むしろ、預ける親の方が戸惑っている様子で」
「まあ、無理もないな」
領主は書類を閉じた。
「“休み”も、“学校”も、この領地では新しすぎる」
そして、視線を上げる。
「……他は?」
一瞬の沈黙。
「物流に、微妙な変化があります」
文官は慎重に言葉を選んだ。
「北側、ガリオン領寄りの街道で通行量が減っています」
「減っている?」
「はい。代わりに、周辺の小道を使う商人が増えているようで……」
偶然とも取れる。
だが、違和感は確かにあった。
「偵察、か」
「可能性は否定できません」
領主――ガルドは、ゆっくりと椅子に深く座り直した。
「……始まったな」
短く指示を出す。
「領境の見張り小屋の人員を強化せよ」
文官は即座に一礼し、部屋を出た。
⸻
夕方。
学校の前には、子供を迎えに来た親たちが集まっていた。
「どうだった?」
「楽しかったー!」
「また明日も来る!」
それだけで、親の表情は自然と緩む。
「……正直、助かるな」
そう呟いたのは、鍛治士の一人だった。
「仕事に集中できる」
「休みの日もな」
隣で木工師が笑う。
「領主様、変な人だと思ってたけど……悪くないな」
その様子を、少し離れた場所から近衛隊長が腕を組んで見ていた。
「……守る価値は、確かにあるな」
隣で機構隊長も、同じ方向を見つめていた。
校庭では、最後まで残った子供たちが名残惜しそうにブランコを揺らしている。
夕焼け。
笑い声。
――そして、その向こう。
丘の稜線に、見慣れない人影が一瞬だけ現れ、消えた。
「……今の」
近衛隊長が目を細める。
「気のせい、か?」
「……いいや」
機構隊長は低く答えた。
「記録しておけ。小さな違和感ほど、後で効いてくる」
再び、視線を校庭へ。
子供たちの声は、変わらず明るい。
(だからこそ)
二人は、同じことを考えていた。
(――絶対に、戦場にはさせない)
日常は、確かに始まった。
だがその日常の外側で、
静かに、確実に――影は伸び始めていた。




