はじめての外の世界
父と母の部屋の前で、私はごくりと唾を飲んだ。
外へ出たいなんて、これまで一度も言ったことがない。乳母やメイド任せに暮らしてきた“箱入り娘”が突然そんなことを言い出せば、心配されるに決まっている。
でも、行かなきゃ。外を知らないままじゃ、この領地のことを何も分からないままだ。
扉をノックして呼ばれるまま中へ入ると、父も母も柔らかく微笑んだ。
「どうしたんだ、メイア。珍しいな、こんな時間に」
「お、お父様……わたし……領地を、少しでいいから見てみたいの。外に行きたいのです」
言った瞬間、心臓が跳ねた。
反対されるかな。危ないからダメ、とか。まだ子供なんだから、とか。
しかし父はきょとんとし、次に母がふふっと笑った。
「まあ。いいじゃありませんか。今までお外に出たいなんて言わなかったものね」
「そうだな。領地を見るのは悪いことじゃない。
……ただし、ミュネを必ずつけること。いいな?」
え?……そんな、あっさり?
もっとこう……説得したり、泣いたり、感動の親子劇みたいになると思ったのに。
「は、はい!もちろんです!」
こうして、拍子抜けするほど簡単に外出許可は降りた。
* * *
そして翌日、玄関先でミュネがやや複雑そうな顔をしていた。
「お嬢様が外へ……本当に、珍しいことですね。ほら、手をどうぞ」
猫族らしいしなやかな身のこなし。長い耳がぴんと立ち、薄い尻尾がゆらゆら揺れている。
私は勢いよく手を伸ばした。
「ミュネ、行きましょう!」
「……はぁ。はりきってますね、お嬢様」
領主館の門を出る。
それだけで胸が高鳴った。前世では当たり前だった外の空気が、こんなに新鮮に感じるなんて。
正面の道を少し歩くと、一面の畑が広がった。
「わぁ……!」
風に揺れる黄金色の麦、淡い緑の大豆。
そよそよと波打つ様子は、絵本の中の世界みたいだ。
「これは……小麦ですよね?」
「はい。領地の主作物です。この季節は育ち盛りで、見応えがありますよ」
前世の記憶が蘇る。田舎で見た麦畑、家庭菜園で育てた豆……。
でも、この世界ではどれも少しずつ形が違う。
歩きながら、私は頭の中で叫んでみた。
(鑑定!)
……沈黙。
(鑑定っ!!)
やっぱり何も起こらない。
ミュネが不思議そうにこちらを見るので、慌てて視線をそらす。
は、恥ずかしい……!
魔法がない世界って、何度思い知れば気が済むの私!
* * *
やがて、領内の中心地へと入った。
「中心地」と言っても、小さな集落のようなものだ。
道沿いにぽつぽつと店が並び、人通りもまばら。
八百屋の店先には色とりどりの野菜が並んでいる。
前世でお馴染みの玉ねぎや大根らしきものもあれば、ひょうたんを縦に伸ばしたような妙な形の野菜まであった。
「ミュネ、あれは……?」
「あれは“ズダリ”という野菜です。煮込みにすると甘くなりますよ」
「へぇ……」
(鑑定!)
無反応。
――くぅ。もうやめよう。痛いだけだ。
通りを進むと、猫族、犬族、人族が入り混じって生活している。
見ているだけで面白い。子供たちが尻尾を揺らしながら追いかけっこをして、犬族のおじさんが荷車を引きながら笑っている。
こんなににぎやかな世界を、私はずっと知らずにいたんだ。
帰路につこうとしたとき、視界の端で何かが光った。
「ミュネ、あそこ……」
「木工師の工房ですね。家具や道具を作っています」
半開きの扉の向こうで、屈強な犬族の大工が木を削っていた。
店の片隅には、木の切れ端が山のように積まれている。
私は思わず駆け寄った。
「すみませーん!」
犬族の木工師が振り返る。
「おや、嬢ちゃん。どうした?」
「その……この端材、いただけませんか?」
木工師は少し驚いたように眉を上げる。
「こんなゴミでいいのか?」
「はい!とても欲しいです!」
メモ帳の代わり。
紙は高級品、鉛筆も無い。
ならば、木の板に刻めばいい。
木工師は笑いながら、数枚の平たい切れ端を渡してくれた。
「好きに使いな。怪我すんなよ」
「ありがとうございます!」
帰り道、ミュネは呆れたように、でもどこか優しく微笑んでいた。
「お嬢様は、変わっていますね」
「え?そう?」
「ええ……でも、楽しそうで何よりです」
私は胸いっぱいに吸い込んだ外の空気を感じながら、強く思った。
――もっと、この世界を知りたい。
そして、この領地の力になりたい。
その第一歩を、ようやく踏み出せた気がした。




