逃げていない近づかなかっただけ
マリナは、市場の裏手を歩いていた。
仕事帰り。食品加工場からの帰路は、いつも同じだ。
今日は人が多いな。それだけの感想だった。
急ぐ理由もない。走る理由もない。
だから、走ってはいなかった。
ただ――歩く位置を、少しだけ変えていた。
露店の近く。人通りのある通り。灯りの多い道。
……さっきから、同じ靴音がある。
気のせい、で済ませるには、少しだけ続きすぎている。
後ろ、二十歩。速度、同じ。
マリナは立ち止まらない。振り返らない。
代わりに、角を一つ曲がる。……ついてくる。確信。
だが、まだ走らない。
ここで走ったら、“そういうこと”になる。
市場の喧騒が残る区画へ。わざと、少し遠回り。
加工場で働く前、彼女は港で荷運びの伝票整理をしていた。人の流れを見る仕事だ。
ついてくるのは、二人……いや、三人?
マリナは息を整えた。これは偶然じゃない。
だが、逃げてはいない。
ただ、「捕まえにくい場所」を選び続けているだけ。
露店の影。荷車の横。人が交差する瞬間。
そのたび、距離が僅かに開く。
……慣れてない?追う側の、詰めの甘さ。
でも、引かないその時だった。
前方、道の先に――知らない男。
立っているだけ。だが、視線が合った。
……挟まれた。ここで、ようやくマリナは足を止めた。
「……」
走らない。逃げない。代わりに、荷袋を地面に置いた。
「……何か御用ですか?」
その声は、落ち着いていた。
次の瞬間。横から、腕を取られる。
「っ――!」
反射で肘を入れる。だが、背後からもう一人。
「やっぱ気づいてたか」
「動きが変わった時点でな」
「でも逃げなかった」
首元に布。力は強いが、雑ではない。
視界が揺れながら、マリナは理解した。
これは“通り魔”じゃない?
縛られ、目隠しをされる。
だが、無駄な暴力はない。
「抵抗は、想定内」
「素直だった方だぞ」
……誘拐。
それでも、心拍は奇妙に落ち着いていた。
逃げられた時間は、十分あった。でも、逃げなかった。
担がれながら、マリナは考える。
誰かが、“見ていた”。ただそれだけのこと。




