ハム
パナーは、機構本部の正面入口に立っていた。
……表から入るのは、久し振りだな。。
裏口や連絡通路ではなく、あえて正面。
今日は、それでいい。
受付に進み、軽く頭を下げる。
「最高責任者に会いたい」
受付嬢は、慣れた笑顔を浮かべた。
「恐れ入ります。最高責任者との面会は、事前にアポイントが必要ですが――」
「無い」
即答だった。
受付嬢は一瞬だけ言葉を止め、すぐに業務用の声に戻る。
「申し訳ございません。日程調整を行っていただかないと――」
その対応は正しい。正しすぎるほどだ。
パナーは、内心で小さく舌打ちした。
……仕事だ。悪くない。
無言で懐に手を入れ、小さなメモ紙を取り出す。
その場で、カキカキと短く書き、受付嬢の視界に差し出した。
メモに書かれていた文字は、たった一つ。
――「ハム」
次の瞬間。
受付嬢の顔色が、みるみる青ざめた。
笑顔は消え、背筋が伸びる。
「……少々、お待ちください」
声の調子が、完全に変わっていた。
受付嬢は慌てて奥へ下がり、小声で何かを伝える。数十秒も経たないうちに、戻ってきた。
「失礼いたしました。こちらへどうぞ」
先ほどまでの対応とは別人のようだった。
案内されたのは、来客用ではない奥の部屋。
扉は厚く、外の音は一切遮断される。
「只今、最高責任者をお呼び出ししております」
「……了解」
パナーは椅子に腰掛け、静かに息を整えた。
“ハム”――
それは緊急連絡用の合言葉であり、事前連絡を無視してでも通すべき案件を意味する符丁。
つまり。
これは「相談」でも「確認」でもない。
既に始まっている前提の話だ。
奥の部屋で、扉の向こうの気配を感じながら、パナーは静かに待った。
フェルナード領から持ち込まれた話が、いま、機構の中枢へと渡されようとしていた。




