世界商品登録機構・アグライアの動く日
世界商品登録機構・総責任者アグライア=ホルンベルグは、執務室で分厚い書類の束をぱたりと閉じた。
「……あのちっこいの、やりやがったわねぇ」
机に積まれているのは、例の少女――メイヤが提出した五つの提案。そのうち今日確認したのは四点。
1.簡易手押しポンプの構造図
2.天然酵母づくりの実験手順
3.九九表の下書き
4.簡易そろばんの斜視図
九九とそろばんは机上で完成図が描ける。問題は一と二だ。
そしてその“問題”は――もう解決されてしまった。
アグライアは、机の端に置かれた試作品の報告書と、皿の上に残っている焼き立てパンの欠片を眺めて鼻を鳴らした。
「はッ……本当に水、汲めちゃったじゃないの」
簡易手押しポンプの試作品は、若手技師二人と老工匠の三人で半日。
構造は単純、部品点数も少ない。組み上げ後の動作確認では、井戸から水を“押し上げる”という動作が、誰にでも目で分かるほど軽快だった。
そして二つ目。
「……このババアがスープに浸さずパン食べるなんて、いつ以来よ」
天然酵母の試食。
酵母の培養手順書は、文字も図もやけに丁寧で、素人でも段取りがわかる構成だった。調理工房の職人たちが試行錯誤しながら焼いた試作パンは、香ばしく、ふっくらし、口の中にほのかな酸味と甘味が広がる。
アグライアは、ひひひ、と喉の奥で笑った。
「こりゃあ……市場、大荒れだわ。ひぃひぃひぃ」
美味いパンの普及は、王都だけでなく地方の食生活すら変える。
井戸への依存が緩和され、女・子どもの水汲み労働が軽くなる。
九九とそろばんは教育の基礎を底上げし、度量衡表案が通れば商取引全体が整う。
――これは世界が変わる。数十年ぶりの“大仕事”だ。
アグライアは机から勢いよく立ち、窓の外へ視線を投げた。遠くに王都の街並みが伸び、煙突の煙が上がり、人々の生活が続いている。
「さて……群がってくるゴキブリ共(商人ども)を追い払わなきゃね」
このレベルの新商品が出れば、金の匂いを嗅ぎつけた商人たちが必ず押し寄せる。
だが今回は、アグライアが方針を決めた。
「下品な利ざやだけ狙う商会は全部無視。こっちから“工場”を選んで打診する」
量産体制を整えられ、規格を守れ、価格も安定できる―
本当に実力のある工場だけに、製造の権利を与える。
普及を優先するため、製造単価は機構側で決める。
欲をかかずとも工場は利益を出せ、買う側も手が届く価格。
「世界商品登録機構が価格を決めるなんて、ほんと……何十年ぶりだったかねぇ」
アグライアは書類を手早く仕分けしながら、にやりと笑った。
「メイヤだったか。あのちっこいの、やっぱりただ者じゃないねぇ……」
セレスティア学園長の話を聞いたときは鼻で笑った。
しかし、提出された図面・計画書・下書き――どれも筋が通っており、論理に齟齬がない。
何より、子どもの発想にありがちな“夢物語”ではなく、再現可能な“現実的技術”だけが並んでいる。
(あの小さな手で……どんな未来を描いてるのかね)
アグライアは椅子に腰を下ろし、書類にサインを走らせた。
「……よし。工場リストを三つまで絞る。午前中に使いを飛ばして、午後には面談。文句言う暇、与えないわよ」
そう呟いた瞬間、執務室の扉がノックされた。
「総責任者様、王都商工会と北部工業組合から“緊急面会”の申し出が——」
アグライアは即答した。
「全部断りなさい。向こうから来るなら放っときな。うちは“いい工場”だけ選ぶのよ。この建物内にも既にゴキブリ共も侵入してたか」
「……承知しました!」
返事が下がり、扉が閉まる。
アグライアは、机の上の試作品報告書をひとつひとつ指で叩きながら、大きく息を吐いた。
「はぁ……忙しくなるわね。神経すり減るわよ、まったく」
でも、その口元は笑っていた。
「――こういう仕事が、一番好きなのよ。ひひひ」
ババアは立ち上がった。
世界が動き出す、その中心にまた自分が立てる。
久しぶりに全身の血が騒ぐ感覚がした。
「さて……こっちも本気を出すとするかね。メイヤちゃん?」
その呟きは誰にも聞こえない。
しかし確かに、ひそやかな熱と期待を孕んでいた。
世界商品登録機構の重鎮、アグライア=ホルンベルグ。その老獪な意志が、世界に大きな波紋を広げようとしていた。




