湯けむりの向こうの日常
「何も無い日常って、良いものね」
そう呟いた今日は――大衆浴場の完成日。
「ふふ〜、ふふ〜♪」
上機嫌のまま暖簾をくぐり、まずは外観を一周。
「おお……! ザッ、って感じね!」
石組みの配置、入口の高さ、湯気の逃がし方。私が描いた、あの少し大雑把な絵から、よくぞここまで形にしてくれたものだ。
中へ入る。
「……いいわね」
広めに取られた脱衣所、風通しの良い天井。
木の香りが残る床板も申し分ない。
「湯船も……完璧」
肩まで浸かれる深さに、子どもでも安心な浅場。そして――
「外の露天風呂は……」
思わず声が漏れた。
石垣に囲まれた湯船から見える空。
湯気の向こうに、いつもの領地の風景が滲む。
「素晴らしい……!」
これなら、仕事終わりに立ち寄る者も多いだろう。身体を洗い、温まり、疲れを流す。
「清潔になって、身体もリフレッシュ。気持ちもね」
その日の夕方から、浴場には人が途切れなかった。農夫も、職人も、商人も。
笑い声と驚きの声が、湯けむりに混じって広がっていく。
特別な出来事は無い。けれど――
こういう日常が続くなら。それはきっと、とても幸せな領地なのだろう。
私は少し離れた場所から、その様子を眺めながら、静かに頷いた。
「メイヤ様!」
慌てた声に振り向く。
「どうしたの?」
「魚が! 大きな魚が、埋め尽くしてます!」
「魚!? 解ったわ、すぐ港へ向かうわ!!」
「あ、いえいえ! 港じゃなくて……川です!」
「……川?」
急いで外へ出ると――
「うお!? いつの間に温室がこんなに増えたの!?」
以前は点在していたはずの温室が、川沿いにずらりと並んでいる。
視察をしていなかった数日の間に、随分と景色が変わっていた。
「メイヤ様!こっちです!」
案内されて川辺へ駆け寄る。
「……っ!?」
川面が、黒く見えるほど何かが蠢いている。
「川を……埋め尽くすほどの……大形の魚!?」
水面が跳ね、銀色の背が次々と現れる。
「何これ……?」
「ニジニジ魚ですか!!」
「え?ニジニジ魚!?」
見覚えはある。だが、こんな数は聞いたことがない。
「何だこりゃ!?川が動いてるじゃない……」
「これ……食べられるの?」
「ええ、食べられますが……」
言葉を濁す役人の表情が、異常事態を物語っていた。
「……何で、こんなに?」
腕を組み、周囲を見渡す。
川沿いの温室。そこから流れ込む排水。
そして――
「……あっ」
一つの答えに辿り着く。
「温水を流したせい……か?」
夏が過ぎて涼しくなっても水温が下がらない川。餌となる微生物も増え、繁殖条件が揃いすぎた結果。
「まさか……川そのものが、養殖場状態?」
誰も否定できなかった。
「……」
メイヤは、魚で溢れる川を見つめながら、静かに呟く。
「また……想定外、ね」
だがその口元は、ほんの少しだけ――楽しそうに、緩んでいた。




