火縄の匂い、選択の距離
何だ、この臭いは――。
潮の香りでもない。鉄でもない。嗅いだことはないが、本能的に“嫌な類”だと分かる匂い。
南ロウル領の女領主――アステリアは、わずかに眉をひそめた。
……何かがある!
だが、“何があるのか”が分からない。
それが一番、厄介だった。
一方で。
こちら側――領主、近衛、機構隊長、リディア、そしてパナー以下の者たちは、誰一人として動揺していなかった。
理由は、ただ一つ。
――メイヤが、左手を上げたからだ。
それだけで、全員が理解した。
……出したな。
火縄だ!
あのお嬢ちゃん、やりやがった!
武器を向けたわけではない。構えたわけでもない。
ただ、“その匂い”が存在している。
それだけで、場の力関係は変わっていた。
「さて?」
メイヤは、口元だけで笑った。
「答えは?」
その声は、子供のそれだ。だが、響きは完全に“交渉の場”のものだった。
アステリアの護衛の一人が、一歩踏み出そうとして――止まる。
動けない。
目の前の少女は、何もしていない。
だが、“何かを出来る状態”にあることだけは、はっきりと伝わっていた。
「……このクソガキ」
アステリアが、低く吐き捨てる。
「沖の船に、私の兵が――」
「そうね?」
メイヤは、あっさりと遮った。
「沢山、居そうね」
その言葉に、アステリアの眉がぴくりと動く。
「でも?」
メイヤは、視線を左右に走らせた。
「今、ここに居るのは――軽武装の護衛が四人と、おじょーちゃん一人」
指を一本立てる。
「それに対して」
もう一本。
「こっちは、領主以下、訓練済みの近衛と機構、学生隊まで含めて、何人いるか……見えてる?」
沈黙。
波の音が、やけに大きく聞こえた。
「私だったらねー」
メイヤは、少し首を傾げる。
「貴女を捕虜にするかな」
「……なに?」
「そうすれば、領地から身代金を取れる」
淡々と、事務的に。
「それか、ここで討ち取って――“反王国派の反乱軍として上陸してきました”って話にするのも、悪くない」
一拍。
「どっちでも、うちにはプラスよ?」
護衛たちの顔色が、明らかに変わった。
それは脅しではない。選択肢の提示だ。
「この……クソガキ!!」
アステリアが声を荒げる。
「それでも貴族か!」
「またその話?」
メイヤは、うんざりしたように肩を竦めた。
「貴族、貴族って――」
一歩、前に出る。
「こっちはね」
声が、低くなる。
「貴族名乗っても、おまんま食っていけねーって話をしてんのよ」
一瞬、場の空気が凍った。
「私はね」
メイヤは、まっすぐアステリアを見る。
「“貴族”って肩書きが邪魔なら、捨てるだけ」
火縄の匂いが、ふっと濃くなる。
「だから聞いてるの」
笑顔のまま。
「どっちなの?」
王国派だと、この場で明言するのか。
それとも――。
「それとも、この領地が王国派だって情報を、他国経由で流す?」
一拍、置いて。
「それとも、直に反王国派へ?」
沈黙が、答えを待っていた。
選択の距離は――
もう、刃の届く場所にあった。




