揺れる海とまだ名のない決断
報告書を机に置いた領主は、深く椅子に背を預けた。
「……しかし、うちからは何も出来ぬな」
静かな声だったが、そこに含まれる重さは、部屋にいる全員が理解していた。
両脇に立つ二人の隊長――近衛隊長と機構隊長も、言葉にはせずとも半分は同意している。
「お前達の言いたいことは分かるぞ」
領主は目を細める。
「正規軍が五百もあれば、という話だろう。参戦して王に恩を売る。それが出来れば、後々は大きな力になる」
だが、と彼は首を横に振った。
「現実はそう甘くない。今の我が領は、防衛と補給で手一杯だ。下手に動けば、こちらが崩れる」
近衛隊長が小さく息を吐く。
「……ですよね」
機構隊長も腕を組んだまま、無言で頷いた。
その時だった。
扉が乱暴に開き、伝令役が駆け込んでくる。
「た、たった今、大変です!」
息を切らしながら、叫ぶ。
「漁村より報告!沖合に一隻!南のロウル領船籍と思われる船が確認されました!」
部屋の空気が、一瞬で変わった。
「なに……?」
領主は即座に立ち上がる。
「このタイミングで、だと?」
近衛隊長が険しい顔で言う。
「反乱軍に加わっている可能性は?」
「それとも、王都側か……?」
機構隊長も視線を鋭くした。
ロウル領。
王国領ではあるが、長年“中立”を掲げてきた特殊な領だ。独自の外交官を立て、王都からの公式使節すら拒絶しているという話もある。
「中立を保っている……という建前か」
領主は低く呟いた。
「あるいは、どちらかに唆されたか……」
近衛隊長が尋ねる。
「向こうの領主との面識は?」
「以前、一度だけだ。王都のパーティーでな」
領主は記憶を辿るように言った。
「今は、女領主のはずだ」
敵か、味方か。
それを判断するには、情報が足りない。
だが――悠長に構えていられる状況でもなかった。
「……私も出る」
その言葉に、二人の隊長が同時に顔を上げた。
「軍を出す」
「……軍?」
近衛隊長が、思わず聞き返す。
領主は一瞬だけ沈黙し、それからはっきりと命じた。
「リディア隊を緊急招集だ」
その名が出た瞬間、空気が一段階張り詰めた。
「完全武装。即応態勢」
「それと、手の空いている者は全員、武装の上で待機させろ」
機構隊長が一歩前に出る。
「交戦前提、ですか?」
「いや」
領主は首を振った。
「まだだ。だが、こちらが“何も出来ない”と思われるのは、最悪だ」
力を示す必要がある。しかし、引き金は引かない。
「まずは、相手を見る。話せる相手なら、話す」
「話せない相手なら?」
近衛隊長の問いに、領主は窓の外――海のある方向を見た。
「その時は、その時だ」
短く、しかし揺るぎのない声だった。
王都は混乱し、反乱軍は遊撃戦を続け、各地の領主は静かに動き始めている。
そして今、この小さな男爵領の海に、ひとつの“波”が現れた。
それが嵐の前触れか、
それとも――新たな均衡の兆しか。
まだ、誰にも分からなかった。
ただ一つ確かなのは。
この領は、もう「何も起きない場所」ではなくなっている、という事だけだった。




