紫石という名の前提
んー……。
メイヤは、机の上に広げた地図とメモを見比べながら、小さく唸った。
「この世界の“石炭”が、まさか紫色だとはね……」
完全に思い込みだった。
黒くて煤が出て、手が汚れて、火にくべれば強く燃える――そんな固定観念。
だが現実は違った。
紫がかった黒。
乾いた光沢。
火を入れた瞬間、空気の質が変わるような圧倒的な熱量。
「……今後は、思い込みで聞かないようにしないと」
自分に言い聞かせるように呟く。
石炭――いや、紫石とでも呼ぶべきか。
名称は後でいい。
問題は、王都では極秘扱いだという点だった。
「極秘、ね……」
何が秘匿されているのか。
燃料としての存在そのものなのか。
それとも溶鉱炉での使用法か。
あるいは、軍事用途に繋がる何かか。
メイヤは顎に指を当て、思考を進める。
「でも、避けては通れないわよね」
蒸気機関車。
この先、薪だけで賄い続けるのは明らかに非現実的だ。
消費量が違いすぎる。
「蒸気機関車は薪から紫石へ移行」
それだけで、燃料効率は段違いになる。
さらに――
「鉄づくりも、炭から紫石へ」
今までは木炭に頼っていた。
だが、紫石の火力を知ってしまった今、戻る理由はない。
メイヤの脳裏に、前世の知識が自然と浮かぶ。
「……石炭を蒸し焼きにすると、確か――コークス、だったわよね」
揮発分を飛ばし、より高温・高効率の燃料になる。
鉄の品質も、作業効率も、まるで別物になるはずだ。
「これも、試す価値はある」
やるか、やらないか。
迷う理由はなかった。
メイヤは素早く紙を引き寄せ、要点を書き出していく。
・紫石の燃焼特性
・蒸気機関車への転用
・溶鉱炉への適用
・紫石→蒸し焼き加工(仮称:精製炭)
・鉄生産への影響
「よし……これで」
書類をまとめ終えたところで、声を掛けた。
「パナーさん!」
「はい!」
すぐに応答が返ってくる。
「今から渡す書面を、登録用に纏めてくれる?」
「……承知しました」
パナーは書類を受け取り、静かに目を走らせる。
最初は淡々と。
だが、数行進んだところで――指が止まった。
……え?
極秘扱いの燃料。
王都でも用途が限定されているはずの紫石。
それを、当然のように工業利用し、さらに加工方法まで示している。
なぜ……?
知られていないはずの知識。
いや、知られていないどころか、意図的に伏せられている可能性すらある。
メイヤ様は……なぜ知っている?
胸の奥が、ひやりとする。
だが、今は仕事だ。
パナーは一度、深く息を吸い、書類を整え直した。
これは……私の判断ではない。
纏め終えた書面を抱え、メイヤの元へ戻る。
「メイヤ様……」
「なに?」
何気ない返事。いつも通りの、柔らかな声。
「この書面、機構登録に回します」
一瞬、探るような視線を向けてから、メイヤはあっさり頷いた。
「あー、どうぞ」
それだけ。
「……はい」
パナーは一礼し、部屋を後にした。
これは……判断を仰ぐ必要がある。
背中に、妙な緊張を感じながら。
パナーは書面を胸に抱え、静かに歩き出した。
フェルナード領でまた一つ、
世界の前提が、音もなく書き換えられようとしていることを、まだ誰も正しく理解していなかった。




