挑発と援軍
一瞬、戦場全体が凍りついた。
先ほどまでざわついていた敵陣も、こちらの陣も、まるで同時に息を止めたかのように静まり返る。
見張り台の屋根の上で、仁王立ちのまま腕を組むリディア。
朝日に照らされ、その姿だけが妙にくっきりと浮かび上がっていた。
「……」
最初に反応したのは、敵陣のど真ん中にいた“ぶくぶく太った偉そうな奴”だった。
「な、な、何だあの女は!?」
声が裏返る。
「おい!誰か引きずり下ろせ!!」
怒号が飛ぶが、誰一人として動かない。
というより、動けない。
なぜなら――
「聞こえなかったのかしら?」
リディアは腰の剣に手を掛け、にやりと笑った。
「一騎討ちよ。一騎討ち」
その瞬間、敵陣のあちこちから、堪えきれなかったような笑いが漏れた。
「ぷっ……!」
「お、おい、今の聞いたか?」
「女が一騎討ちだってよ……」
それは嘲笑だった。
だが、同時に“空気が緩んだ”のも事実だった。
敵指揮官の顔が、みるみるうちに赤くなる。
「き、貴様ら黙れ!!」
怒鳴りつけるが、視線はどうしてもリディアから逸らせない。
「女が!しかも子供のような歳の娘が!この私に一騎討ちだと!?」
「ええ」
リディアは即答した。
「だって、あなたが一番偉そうなんだもの」
敵陣、再び「ぷっ」と吹き出す。
「お、おい……」
「確かに一番太ってはいるな……」
「やめろ!聞こえる!!」
完全に統制が崩れ始めていた。
一方、男爵領側。
「……」
機構隊長は、ゆっくりと顔を覆った。
「何やってんだ、あのお姉さん……」
近衛隊長も、乾いた笑いを浮かべる。
「いや……戦場であれをやれる胆力は、素直に凄いですが……」
メイヤはというと。
「……」
一瞬だけ天を仰ぎ、次に小さく息を吐いた。
「……想定外だけど」
そして、口元に薄く笑みを浮かべる。
「悪くないわね」
敵指揮官は、完全に退路を断たれていた。
断れば「腰抜け」。
応じれば「前に出る」。
どちらに転んでも、兵の目は確実にこちらを見ている。
「ぐ……!」
歯を食いしばり、脂汗を滲ませる。
「この私が……女相手に……!」
リディアは、追撃するように言い放った。
「安心して。あなたが負けても、兵は皆見てるわ」
「……!」
「“ああ、あの人はここで終わったんだ”って、ちゃんと理解してくれるから」
その言葉は、剣よりも鋭かった。
敵指揮官は、ついに剣の柄に手を掛ける。
「……よかろう」
低い声。
「後悔するな、小娘」
リディアは、満足そうに笑った。
「それ、そっくりそのまま返すわ」
こうして戦場は、本来あるはずのなかった形へと歪んでいく。
数と数のぶつかり合いではない。
戦術でも、陣形でもない。
一人の少女の挑発によって。
そして誰よりもそれを理解していたのは、メイヤだった。
「……これでいい」
彼女は小さく呟く。
「“最初に崩れるもの”は、もう決まったわね」
太った指揮官は、重そうな腹を揺らしながら、のそのそと自陣の前へと進み出てきた。鎧は立派だが、その下の肉がはみ出し、歩くたびに息が荒い。
一方、リディアは見張り台の屋根から軽やかに跳び降りる。着地は静かで、土煙ひとつ上がらない。
「小娘の分際で、この私を愚弄しおって……」
太った指揮官が剣に手をかける。その動作だけで、すでに肩で息をしていた。
「ふーん。ちゃんと剣、使えるのね」
リディアは肩を回し、剣を正眼に構える。
次の瞬間、二人は踏み込んだ。
金属音が響く。
重く振り下ろされる一撃を、リディアは半身でかわし、返す刀で斬り上げる。
太った指揮官は慌てて剣で受けるが、衝撃に腕が震える。
「ぬぅっ……!」
もう一合。
さらに一合。
剣の速さも、間合いも、明らかに違っていた。
リディアの剣が、鎧の隙間を正確に捉える。
ザッ――
「いたたたっ!!」
太った指揮官の腹をかすめ、赤い線が走る。致命傷ではないが、確実に切れていた。
「この私を……この私を傷つけるとは……はぁ、はぁ……」
どうやら、太り過ぎた身体が逆に急所をずらし、致命傷を避けているらしい。しかし、それでも動きは目に見えて鈍っていた。
「もう十分でしょ。降伏しなさい」
リディアが剣先を向ける。
「この私が?小娘風情に?」
太った指揮官は、顔を歪めて叫んだ。
「弓兵!この小娘を矢で射抜け!!」
その瞬間、メイヤの背筋が凍る。
「まずい!」
即座に指示が飛ぶ。
「クロスボウ、構えさせて!」
だが、その直後だった。
左奥手方向から、地響きが伝わってくる。
砂煙が一気に立ち上り、地平線が揺れた。
「な、何だ……?」
太った指揮官が振り返る。
大規模な騎兵隊。
整った隊列、翻る旗。
「構うな! 命令だ! 撃て!!」
血まみれになりながらも叫ぶが、その声にはもはや威厳はない。
「……不味い」
誰かが呟いた。
「あれは騎兵隊だ。このままじゃやられるぞ……」
反乱軍の兵たちの間に、動揺が一気に広がる。
「今のうちに逃げないと……」
「俺は聞いてないぞ、こんなの!」
太った血だらけの指揮官は、なおも叫び続けていたが、誰も耳を貸さない。
部下たちは次々と背を向け、陣形は崩れ、逃走が始まった。
その姿を見て、メイヤは一瞬困惑する。
「……どこから来た騎兵隊?」
次の瞬間、誰かが叫んだ。
「あれはエドラン領の旗だ!!」
「味方だ!!援軍だぞ!!」
理解した瞬間、メイヤは息を吸い込み、全力で叫んだ。
「味方の援軍よ!!エドラン領の騎兵隊!!」
「聞こえるだけ大声を出して!!」
その声に呼応するように、男爵領側から歓声と叫びが上がる。
逃げ惑う敵兵。
迫る騎兵隊。
そして、剣を下ろさず立つリディア。
戦局は、完全にひっくり返ろうとしていた。




