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思い出の空き地

作者: 桜井 裕之

今年で35歳になる吉田和夫は通常ならいつも会社に向かうために通る玉山下水駅付近に来ていた。日曜日、特に用事もないのにここへ来てしまったわけだが実はいつものことである。大抵は駅の周辺にある店に入り、適当に買い物をしてから帰る。この日もそんな雰囲気だったがちょっと休みたかった吉田はとりあえず駅前にあるコーヒーショップに入り窓側の席に座った。

(そういや、ここでコーヒーを飲むのも久しぶりだな、昔は友達とよくここでコーヒーを飲んだっけ)

しばらくして店を出た吉田は玉山下水周辺を散歩したくなった。駅の南口を降りてテクテクと進んでいく。

(見慣れた光景だと思ったのだがこうして歩きながら周りを見るといろいろ変わってきているなぁ)

近くには墓地がある。とても広く南口付近の面積の大部分をこの墓地が占めている。静寂な墓地を横目で眺めながら歩くと広い幹線道路に出る。そこを突っ切ってさらに歩くと右手にこれまた広い空き地がある。それこそ本当の「空き地」である。何もない。周りが柵で覆われている。入口も出口もなく駐車場の役割も果たしていない。吉田がこの空き地を目にするのは久しぶりであった。

(前に来たのはいつだっけなぁ…ここは殺風景だからな。だが、ここは…ここには…思い出があるんだ)

吉田は柵にもたれかかった。そして空き地を眺めながら、かつてここにあった真っ赤な建物を思い浮かべたのである。そこは多くの人間が集まる仕事場であり、さまざまな感情が行き来する「現場」でもあった。それは12年前くらい前にさかのぼる。


「おーい、こっちだ。確かにこの建物だぜ」

ヤンキー上がりの寺山恭一郎は反対方向に目を向けていた吉田に言った。寺山は高校時代の同級生だ。

「えっ?やっぱりここ?ここでいいのか」

「ああー、どうみてもここだよな。番地で言うと間違いない」

求人募集雑誌を片手に寺山は言った。募集では「プリンター組み立て」と書かれていて、あまり細かいことは記されていない。その赤い5階建てで幅の広い倉庫のような大きなビルは2人が日頃からよく見る光景で、建物の大きさといい色といい、とても印象に残る建築物なのである。

「まさかここでプリンターを作っていたとはな」

「おい寺山、この建物、いままで何だと思ってたんだ?」

「そうだな、裁判所じゃねーかなぁっと」

「裁判所がこんな真っ赤な色してるのかよ、問題になるだろうよ」

「いやいや、裁判といやぁ~とにかく相手をやっつけたいと躍起になってる人間が集まるだろ?相当に目が血走ってる連中がよ~」

「そんなんじゃね~だろうよ、まあ、ここだということが分かったんだ、入口を探そう」

2人はぐるりと回りながら入口を探した。やがて巨大な正面ゲートが姿を現した。

「建物もデカイが入口もかなり広いな、おっ、吉田、何か彫られているぜ」

「館名板だな。カオス・ハイパーチップスゴールド……」

「それが社名か」

「そのようだな。よし、行ってみるか」

面接会場は4階だということ。2人はエレベーターを使わず階段で上がった。階段を使うことで少しでも建物の大きさを実感できる。2人で行動する場合、気になる建物は階段を使う。いつしかそれが習慣になった。

面接会場はあたかも仕事の合間を縫って設置したような即席によるものだった。すでに幾人かの人たちが集まっていたが通路が狭く普通に歩けるようなスペースはなかった。

「どこに並べばいいんだい?椅子もないのに」

「寺山、どうやらここが一番後ろのようだ」

「そうか、ホント、狭くてよくわかんねぇ~や。まあ、いいか」

2人が並んだすぐ後にまた誰か並んだ。しばらくすると人材派遣会社「ハッスルライフ」の担当者、佐々木志郎が「すみませ~ん、遅くなりました」と言って狭いのに駆け足でやってきた。

「皆さん、どうも、遅くなりました。中へお入りください」

並んでいた通路の脇にあった部屋にどっと一度に人が入り込んだ。並んでいた意味がない。吉田も寺山もここにきてようやく自分達は派遣社員ということで、カオス社の面接を受けるのだなということがわかった。

「私があなた方の担当となる佐々木と申します。これからあなた方が働く現場となる部署の責任者、および指導してくださる人たちに挨拶をしにいきたいと思います。職場となる作業場は3階にあります。では、皆さん、私についてきて下さい」

佐々木がそういうとくるりと背を向け歩き出した。全員が佐々木の背中を見て付いて行く。何か急がれているようだ。面接も行なっていないし説明もまったくといっていいほどされていない。ただ、どうやら我々はこのまま採用という形をとらされそうだ。それはそれで助かると吉田は思った。佐々木が案内した場所は3階の中央エレベーター付近の広いスペースを要するスペースだった。そこにはすでに多くの人が集まっている。人の輪の中心にいるのが3階フロア全体を仕切る製造課の課長、甲野英次。すでに佐々木からは大まかなことは聞いている。長身で細身のインテリ風のメガネをキラつかせる40代半ばくらいの男だ。甲野はまわりを見回した後、深呼吸してから落ち着き払った口調でミーティングを始めた。甲野の業務上の話が一通り終わると即、解散となってまわりに集まっていた人たちがそれぞれの職場へと散らばっていった。佐々木が甲野に挨拶すると甲野は「で、いつから来れますか」と尋ねた。「少々お待ちください」と佐々木は言うと我々のほうに目を向け「皆さん、明日から出勤できますか?」と言ってきた。

早い。早い対応だ。よほど忙しいのか?と吉田は思いながらも寺山と共に明日からでもと告げた。他の人たちも同じ返答だった。こうして吉田と寺山の新たな働き場が決まった。


勤務日の初日、控え室にいると気さくな声をかける人が現れた。

「あ、どうもよろしく、僕は主任の尾花といいます。これから部署についての説明と作業内容についてお話しましので、準備はいいですか?」

「はい、よろしくお願いします」

「では行きましょう、こちらです」

のちに甲野にもっとも可愛がられている部下であることがわかる尾花誠一郎の案内で2人は控え室をあとにした。尾花は派遣社員たちの管理を任されており年齢は30代半ばくらい。長髪と爽やかなイケメン顔が印象的だ。吉田と寺山が案内されたのはプリンター内の各部品を組み立てる作業だった。とても細かく手先の器用さが求められた。その工程に携わる従業員は吉田と寺山を合わせても10人くらいだった。若い女性が何人かいた。わりと楽しそうな職場である。

「あの、吉田といいます。よろしく」

「こちらこそ。どうぞよろしく」

振り向いたその女性はとても可愛い娘だった。名を葉山結衣といい年齢は吉田より2つ下くらい。笑顔が似合う活発そうな娘で笑うと白い歯が印象的だ。もう一人、結衣と一緒になって作業をしている娘がいる。名を今岡圭子。年齢は結衣と同じくらい。おとなしそうでどこか翳りのある娘だ。

尾花から指示されたとおり作業を開始しようとすると横やりで阻止しようとする者が現れた。

「ちょっと違うんだよな、ここはそうやってやるんじゃないんだよね」

「いや、でも主任の言われた通りにやってるだけなんだけど」

「何をどう言われたか知らないけれど、その調子でやってたら日が暮れてしまう。まあ、見てなって」

確かに早い。手馴れた手付きだ。吉岡は彼に名前を聞いた。

「僕は北野浩文という。ワンダフルから来ている。君たちは?」

ワンダフル?なんだ?派遣会社か…ここは各方面から派遣が来てるのかと一瞬、吉田は思った。

(そういえば先ほど挨拶した女の子たちも別の派遣会社から来てるのかな)

「えー、僕は吉田和男、そして…」

「あー。オレは寺山っていうんだ」

北野が吉田がふと考えていることを察したように吉田に言った。

「ここはさ、3つの派遣会社があるんだ。下からジョブリーグ、ハッスルライフ、そしてワンダフルだ」

「下からってどういう意味です?」

「時給の違いだよ。下から1150円、1250円、1350円」

これを聞いて吉田も寺山も顔つきが変わった。とくに寺山は唇がへの字になって目も細くなった。

「なんだ、知らなかったのか?同じような作業であっても時給は派遣会社によって異なるのさ」

「いや、派遣先によって時給が違うというのはよくあることだと誰かが言ってたけど、そうハッキリと具体的に数字を出されるとさすがになぁ~」

吉田が首をかしげながらそう言うと北野は「ハッキリしておいたほうがいいだろ、いずれ分かることなんだから」と言ってヘラヘラしながらフロアぼ壁側にある棚から小さな部品が区分けされている籠を取り出すと「僕がやり方教えるから」と言って説明しながら作業を始めた。吉田は有難いと思ったが寺山は彼の横やりな親切をむしろ不快に思った。


正午の休憩が入り、5階にある食堂に人が集まる。とても広い食堂だ。見回した限りでは300人くらいは一度に座れるのではないかと思うくらい広い。吉田と寺山は唖然とした表情で騒然としたカウンターに並んだ。定食のおぼんを持って席に座ろうとするとあることに気付いた。テリトリーのようなものが敷かれていた。どのような道筋でそうなったのか分からないが、役員、男性社員、女性社員、女性パート、派遣社員……

「こっちこっち」

手を振りながら叫ぶ男がいた。派遣担当者の佐々木だった。

「いやぁ、君たちに来るのを待ってたんだよ、ここに座って」

まわりを見ると見覚えのある人たちばかりである。そう、吉田や寺山と同じハッスルライフから来ている派遣メンバーである。そのハッスルライフ関係の人たち専用?のテーブルがあるのである。窓側とは反対方向の隅にあるのである。窓側はカオスの役員、正社員で占めていた。ハッスルライフのテーブルは壁側でカウンターから来た道を少し戻るような位置にある。また隣接する入口付近にあるテーブルのいくつかが他の派遣メンバーと思われる人たちがいるが、とにかくガラが悪い。

「ジョブリーグの面々だよ、前に話しただろ?」

通りかかった北野が吉田に耳打ちし、彼は他のテーブルエリアに向かった。(そういえば北野はハッスルライフじゃないもんなぁ)吉田はそう思いつつ目線をそらすと結衣と圭子の2人の姿を目撃した。彼女たちはジョブリーグのテーブルに座っていた。吉田はてっきりあの2人はワンダフルだと思っていたので心外だった。まわりがガラの悪い連中揃いなのでまるで狼集団に取り囲まれた赤ずきんちゃんに見えてしまった。

「これからはみんなここへ集まって食事をしよう、他の迷惑にならないように」

佐々木はそう言って皆に忠告したが、役員あたりにそう指示された感ありありであった。なんにせよこれからはこのメンバーで仕事するのだ。吉田は今日一日の仕事を終え、寺山と共に赤い建物カオスを後にした。


それから1週間ほど経ってハッスルライフから新人が入ってきた。名前は森川修司。30代前半のやや小太りで黒縁メガネをかけたおとなしそうな人だ。森川も吉田たちと同じ作業場で働くことになった。見るからに動きが鈍く不器用な手付きであきらかに主任尾花の表情は曇っていた。10時の休憩となって缶ジュースを飲みに自動販売機のあるところまで行くと結衣と圭子がひと足先に缶ジュースを片手に休憩していた。結衣が販売機の傍にある壁にもたれながら言う。

「ここって休憩できるところ少ないでしょ、建物こんなに大きいのに」

吉田も思い当たるところがあった。休憩所が建物のわりには少ないしスペースもそんなに広くはなかった。寺山がまわりをキョロキョロしながら「確かになぁ」と言って販売機からコーラを取り出す。

「でもこれだけ大きなビルだから散策すればいろいろ見つかるかもよ」吉田がそう言うと

「散策したよ。いろいろ見て回ったし……何もないのよね」と結衣がつまらなそうに言う。

「表向きはビルディングだけど中は工場みたいだよね。本社はまったく違う雰囲気なんだろうけど」

「私達はここへ来る前は小作にある半導体会社で働いてた。でも派遣ってそんなに長くいられないじゃない?契約期間終えてここへ来たんだけど、職場環境も待遇も前のところのほうが良かったなぁ」

「でも、ここは職場の雰囲気とか悪くないと思うしみんな和気藹々とやってるところあるし…」

「まだ知らないんだよね。ここがどんなところか」と割り込む形で言ってきたのは圭子だった。

「いやぁ~どんなところかつーてもよ、まあ、こんな感じでしょ」と寺山がソッポを向きながら言う。

しばらく誰もしゃべらず静かになった。間の悪さを感じた吉田が話題を変えようとした。

「そういえばここって3社くらい人材派遣、入ってるよね」

「うん。あなたたちはハッスルライフさんでしょ」

「まあ、そうなんだけど」

「ねぇ、ハッスルライフって時給いくらなの?」とまたしても圭子は間に入る。

「えっ…」吉田は一瞬、戸惑った。北野から3社それぞれの時給がいくらか教えてもらっていたが、この2人はどうなんだろうと思うのだった。吉田がちょっと話のテンポを鈍くさせると圭子が「いいや、もう行こう」と結衣の手を引っ張って行ってしまった。

(まずかったかなぁ)

吉田が苦い顔してると寺山が吉田の肩をポンと叩き、「オレ達も職場に戻ろうぜ」と言って休憩所を後にした。

部品を組み立てる工程なのでとにかく仕事が細かい。新人の森川は相当に手こずっていた。見かねた寺山が森川のところへ行き森川が手にしている部品を奪って「これはオレがやりますよ、初めてだろうからさ、森川さんは…」と言って後ろを振り返ると北野が立っていた。

「ダメだ、そんなことしては」と言って寺山が持っている部品を森川に送り返した。

「おい、初めてなんだからよ。他の仕事でもいいじゃないのか、作業を進ませる意味でも」

「いや、ダメなんだ。今、森川さんがやってることは初歩的なものでこれが自分一人で出来ないと森川さんが先へ進めないんだよ」

「でもよ、別に誰かに言われてるわけじゃね~し、要は作業として今日一日の仕事を終わらせられたかどうかでしょ」

「審判がいるんだよ」

「はっ?」と寺山が怪訝な表情を北野に差し向けたところでチャイムが鳴った。従業員一同が5階に向かう。吉田がこの建物に入ってもっとも感心したエリア、大食堂である。吉田はすっかり不機嫌になっている寺山を伴って食券を買い昼食を運んでいつものハッスルライフ専用のテーブルエリアに向かう。吉田は森川の隣に座った。森川は無言で箸を口へ運ぶ。ハッスルライフには3人ほど女性がいるが吉田とは働く場所が違っていた。部品組み立ての作業場は吉田がいる場所以外に2箇所、隣り合わせになってあるのだが、行き来する係りは決まっていて定年まじかの正社員が行なっていたりする。他にもどこで働いているのかわからない人がたくさんいるが吉田も寺山もあまり人の輪に入るタイプではなかった。そう、この時は2人とも気にしていなかったのである。


それから数日経って吉田も寺山もいつもどおり作業をしていた。森川は相変わらず不器用でしかもなかなか仕事を覚えられない。そんな時は寺山がやってきて森川の仕事を手伝ったりしているのだが、この日、吉田は彼らとは少し離れた位置にいて作業をしていた。そのためエリア全体が見渡せる状況になることで吉田の目に意外なものまで映りこんでいった。尾花が部屋の隅に身を潜めてこのエリアを視察していたのである。彼はいつもなら登場の際、「どうも、みなさん、お早うございます」という感じで周囲にあらかじめ自分の存在を知らせるのだが、吉田がこの日、目撃したのは「アレ?」と思いたくなるような尾花の姿である。尾花の知られざる面を垣間見たような気がするのだ。

(彼はあそこで何をしていたのだろう)吉田には何か意図があるだろうとは察したが具体的なことは分からない。しかしそれが放ってはいけない無視できない行動であったことが分かる時が来た。それは毎度のことながら寺山が北野の目を盗んで森川の仕事を手伝っていたときのことだ。寺山と森川の様子を尾花が腕を組みながら見ていた。いや、見ていたというより観察していた。

(また尾花主任か……いったい何だっていうんだ?)吉田がふと目線をそらすと、もう尾花の姿は消えていた。(わりと素早いんだな)ササッと現われササッと消える尾花を吉田は忍者みたいだと思った。

それからである。森川がこの作業場からいなくなったのは。食堂で会うと軽くお辞儀をするくらいで、なぜ他の部署に移ったのか理由を聞くにしても何も言わない。ただ、森川が移った先の作業場というのが前のところ、つまり吉田がいる作業場に比べ、運搬や後始末、片付け等の労働系でそこでは従業員の質も変化し、居心地のあまりよくない環境であることは分かった。つまりランクが下がったのである。何故?誰かが森川の仕事における不甲斐なさを上の人間に伝えたのか?吉田は気になってきた。そうしてよく分からない状況のまま、昼過ぎの作業場で寺山と北野の言い争いが始まった。

「アンタだろ、森川さんがまだ仕事の覚え始めだというのに移動させるようにと上に言ったのは」

「えっ?覚え始め?いや、森川さんは何も覚えていない。我々のいる部品組み立てには向いてないよ、それは確かだ。でも僕は知らないぞ、上の人には何も言ってない」

「フカシこくんじゃねーぞ、アンタ以外に誰がいるっつんだ?」

「だから知らないって。キミこそ自分の持ち場離れて勝手に何やっているんだ?」

そんな光景を少し離れた場所で唖然として見ていた吉田だが、ふと、視界に尾花の姿が映った。あの時と同じである。吉田はすぐに目を背け作業に没頭するしぐさをして様子を窺った。すると尾花のおどけた声がした。

「やあ、どうしたんだい、大きい声あげて。他の従業員の迷惑になるじゃないかぁ」

寺山が少し驚いた表情を見せた。まさか尾花がいるとは思わなかっただろう。一方の北野の顔色は変わらない。以前にも似たようなことが起こっていたのか?とにかく余裕である。

「いや、何でもないです、ただ、コイツに頭にきたんで」

「しかし先に食ってかかってきたのは君だろう」

「別に食ってかかってきたわけじゃないすよ、ただ意見を言っただけですんで」

「そうか、そんなふうには見えなかったけど」

「いや、ホント、もう、いいっすから」

一方的に責める尾花に寺山はうんざりするような表情を見せた。

「まあ、仲良くやろうよ。勤務中はお互い、やるべき仕事があるだろうからさ」

吉田はふと周辺を見渡すと何事もないようにもくもくと自分の仕事に取り組んでいる。

「そうだ、寺山くん、手伝ってもらいたい仕事があるんだ。ちょっといいかな」

「は、はい」寺山はいささか焦り気味で返事をした。

その後、尾花と寺山が作業場からいなくなり、北野は何食わぬ顔で作業の続きを行なう。吉田はこの時はそこで何が起こっていたのか判断できていなかった。異変に気付いたのは数日後のことである。

吉田と寺山はこの日もいつもどうり出勤し、ロッカー室に向かう途中、吉田が寺山に言った。

「なぁ、お前どこで仕事しているんだ?あれから戻ってこないじゃないか」

「……まあな」

尾花にちょっと手伝ってほしいと言われて何日も経つ。吉田はおかしいと思った。

「もう、そっちには戻らねーよ」

「えっ」

「こっちも忙しくてな、じゃ、また会おうぜ」

寺山はそういって去っていった。吉田は急に不安になってきた。森川の次は寺山である。


作業場に行くと一足先に結衣が作業の準備をしていた。

「お早う」吉田が挨拶すると結衣がニッコリ笑って「お早う」と返す。少し経って北野が作業場に来る。いつもギリギリの時間だ。ふと、周りを見ると圭子がいないことに吉田は気付く。

「今岡さんは今日は休み?」吉田がさりげなく結衣に聞くと

「圭子、辞めたんだよね」と結衣が言う。

「えっ!そうなの?」

「うん」

そう言ったっきり結衣は何も語らなかった。吉田は部品を組み立てながら作業場の空気が変わっていくのを感じた。そこへあの尾花がやってくる。

「今日からみなさんと同じ工程の作業を行なうことになります杉野さんと山中さんです」

2人の新人が入ってきた。2人とも女性だ。尾花が大まかな作業の説明をしたのち結衣を呼んで今日一日だけ2人の面倒を見て欲しいということを告げると尾花はその場を離れた。吉田には分からないことがありすぎてどうも気持ちがスッキリしない。するとそんな吉田に気付いたのか北野がやってきて小声で言った。

「ちょっと話したいことがある。昼飯終わったら2階の非常階段付近に来てくれ」

吉田はありがたいと思った。彼からも北野に話したいことがあったからだ。そして吉田は昼食を済まし、言われたとおり倉庫となっている2階の非常階段のあたりまで行くと北野が腕を組みながら柱の壁に寄りかかっていた。

「やあ、来たね。そうだなぁ、まずは吉田くんの質問に答えようか。聞きたいことがあるんだろ?そこから話を広げていったほうが理解しやすいだろう」

「じゃあ聞くけど、俺が疑問に思うのは森川さんのこと。あの人について北野さんは手伝っては駄目だと言うようなことを寺山に話していた。その後、森川さんはいなくなった。それと前後して主任の尾花さんが偵察みたいな形でこちらを覗いていたのを俺は確認している」

「あのさぁ、最初に断っておきたいのは僕は何もしていないということな。そのことは頭に入れといてくれ。簡単に言うとこの会社はコンベア要員を探している。作業工程の最後のほうに組み立てた各部品のパーツをあわせてプリンターを完成させるんだ。要は商品の仕上げだ。それらはベルトコンベアに乗せられてその脇に待機する従業員が順番に組み立てていくのさ。かなりハードな仕事なんだ」

「それが、何か問題でもあるのか?」

「誰もやりたがらないんだよ、大変だから。ジョブリーグっていう派遣会社があるだろ?あの時給の一番低い会社。あそこは採用基準を思いっきり低くして半グレっぽい連中でもいいから会社の中に入れ、いきなりコンベア要員にさせるのが目的で会社側がジョブリーグと契約した。でも辞めていくヤツが多いから今じゃ派遣先が何だろうと採用基準を低くしている」

「それで面接の段階ですぐにでも働けるような体制をとっていたのか。変だなとは思っていたが」

「……」

少しの間、沈黙していたが北野が寄りかかっていた体を起こし吉田のそばに来て小声で話し始めた。

「尾花っているだろ?あの人、甲野に飼われた使いっパシリなんだよ。あの人はコンベア要員を求めていろんな部署を見て回っている。コンベア要員に選ぶための判定基準みたいなのがあってそれで選んでいくんだ」

「どんな判定基準だ」

「まずは細かい仕事、ちょうど僕と君がやっているような小さな部品を組み立てる工程だ。これがイマイチ覚えられず作業が遅い人。次に場の雰囲気を荒らす人。余計なことをやり出す人。態度が悪い人などだな」

「まるで寺山のことじゃないか」

「そうだな。尾花にとっては最高の人材だったのかもしれない。だけどいきなりコンベアまで行ってしまうようなことはない。順序があるんだよ。まずはここ、次にここ、その次はここってな具合にな」

「段階があるんだな。態度が悪かったり作業が上手くいかなかったりするたびに一つ一つ転がり落ちていくわけだな」

「正解。そのとおりだよ。だから分かるだろ?コンベアエリアにどんな人が集まっているのか……」

「……」

2人の話はそれで終わった。作業場に戻ると結衣が興味津々な表情で吉田に言った。

「ねぇ、2人でどんな話してたの?あなたと北野さんが2階の隅で話ししてるの見てしまったから」

結衣がよく行く自動販売機が2階にあったのだ。北野の話に没頭して近くまで結衣が来たなんて知らなかった。

「いや、とくに際立った話はしていない。ただ、新人がいっぱい入ってきたからどう対処したらいいかなって話をしていた」我ながら何を適当なこと言ってるんだろと吉田は内心思った。


それから数日後、いつの間にか吉田と寺山は別々に出勤していた。いつもなら2人肩を並べて歩いたりするのだが……(しかし、もう、学生じゃあるまいし、独立した社会人だし)そう思うことで吉田は気を晴らした。吉田は寺山に対して次第に距離を置くような感じで彼のことを考え始めて言った。

(もう、アイツのことは忘れてもいいかな、俺も自分のことで精一杯だし)

実のところ、吉田は怖くなったのだ。いつの日か尾花に標的にされるのではないかと。今、自分が働いている職場を手放したくないという気持ちがあった。

(とても気楽だし和やかな雰囲気だし結衣ちゃんがいるし……)

吉田はそう思いながら今日もいつもと変わらぬ姿勢で仕事に取り組んだ。勤務の終了時間近くなったところで、ふと、まわりを見渡すと北野が何か探しているようだった。

「北野さん、どうかされたんですか?」吉田が丁重に北野にそう言うと北野はちょっと驚いた顔をしながら「いや、なんでもないんだ。ただ、在庫品が少なくなってきてるんでそろそろ幾つかの部品を2階から取りに行こうかなと」とまわりをキョロキョロしながらそう言った。

「それなら僕が行きますよ、仕事を覚えるためにも丁度いい機会だと思いますし」

「そうかい?そうだな、じゃあ取ってきてもらおうか、ちょっと待ってな」

北野は取りに行って欲しい部品名を簡単にメモに書いて吉田に渡した。

「確かねぇ、この部品はこのフロアの一番左奥にある搬送用エレベーターを使って行くと2階のすぐ近くにあるはずだ」

「ありがとう、じゃ、さっそく行ってきます」

そう言って吉田は北野がよこしたメモを見ながらエレベーターのある3階フロアの左奥……実は吉田はそこへは行ったことがない。変な話だが薄暗かったし販売機などがある休憩所とは反対方向だからだ。人影も少ないなと思いながら進んでみると右側に少し狭い通路があった。

(ん?何だろう…ちょっと入ってみるか)

狭い通路を歩いていくとだんだん話し声なり物を動かしたりするような音が聞こえてきた。そして視界が広がった。作業場である。吉田が働いている部署よりひとまわり狭く蛍光灯は節約のつもりか幾つか明かりが付いていなかった。何よりも雰囲気が暗かった。そしてそこに森川がいたのだ。

「森川さん、ここで仕事してたんですか」

「……あ、ああ~そうです」

力ない返事だった。森川が行なっているのは部品を区分けして棚に並べたり部品を入れるためのケースを用意したり片付けたりする仕事だった。吉田が行なっている作業に比べれば大雑把でそれほど手先が器用でなくてもやりこなせる仕事だった。

「寺山…見なかったですか」

「ああ…寺山くんですか。しがらくはここで働いていたんですけど。いつの間にかいなくなってました」

「ええ!そうなんですか、で、どこへ行ったんでしょう」

「……分かりません」

吉田にとって寺山は親友である。やはり無視できる存在ではなかった。吉田はこれを機会に少しの間、3階を散策してみることにした。森川がいた作業場を出てさらに奥へ進むと左側に搬送用エレベーターがあった。これに乗って2階に下りれば北野の言う部品を持っていくことができる。近くには台車もあった。ふと、まわりを見るとエレベーターのその先に通路がある。行ってみると作業場があった。森川が働いている場所よりもさらに暗くじめじめしている。吉田は周辺を見回したが寺山の姿はなかった。森川はそこを出てさらにおくへ進んだ。何か奥のほうから機械がうなりを上げて動くような大きな音が聞こえてきた。その付近まで行くと右側に狭い通路があった。吉田は嫌な予感を感じながらもそこへ行ってみると、やはり作業場があった。とんでもなく暗い。部品の入ったケースを台車に乗せたり移動させたり力仕事が多いような場所だった。細かい作業ではないので明かりは必要ないとでも会社は思っているのだろうか?

「よっ、お前誰だ?何しに来たんだよ」

「い、いやぁ、ちょっと人を探してまして。寺山という人なんですけど」

「そういう名前の人はいないなぁ、うん?前にいたかな?とにかく今はいない」

「そ、そうですか。失礼しました」

吉田は大急ぎでそこを出た。出る前にざっと見回したが寺山の姿はなかった。いや、暗くてよく見えなかった。たぶん、本当にいないのだろう。作業員の言う「前にいたかな」には妙に真実味があった。

(どこへ行ったんだアイツ……)

吉田は先ほどから気になっている大きな機械音のする方向に目を向けると、そこには扉が開いたままになっている巨大な入口があった。

(まさか……)

吉田は何かに背中を押されるような、吸い込まれるような歩き方をしながらその入口を入っていく。一際音が大きくなった。物凄い音だ。コンベアエリアであった。

(ここが巨大なベルトコンベアがあるとかいう作業場か。しかし広いな、従業員もたくさんいる)

吉田はちょっどコンベアのスタート地点にいた。そこにいる従業員は先ほど見て回った作業場から送られてくるケースを開けて部品を取り出しコンベアの上に乗せていく。コンベアはかなりのスピードで回転していた。もたもたしていると間があいてペースが狂ってしまいそうだ。

(そうだ、寺山を探そう。どこかにいるはずだ)

吉田は作業員の邪魔にならないような場所を探した。コンベアに隣接している横に長く並ぶ棚を見つけ、そこの裏に潜ってコンベアの進む先を追ってみることにした。よく見るとコンベアはSの字型になっている。まずはスタート地点あたりから進んでいく。進んでいくごとに慌しい雰囲気に包まれていく。作業員たちの掛け声やコンベアに乗せられた部品も次々と組み立てられ重ねられて大きくなっていく。寺山はどこにいるのか……行けども行けども寺山の姿が見当たらない。S字の最初のカーブ地点に辿り着いた。吉田は作業員を上手くかわしながら次の長列の棚の裏に隠れた。そこから新たに進む。人の声がだんだん大きくなる。しかしその場所ではない。もっと奥の方だ。

(どこまで続くんだ…まだまだ先か。寺山はいったい何処にいるんだ?)

やがて2度目のS字カーブに来た。一段と慌しくなっていく。そお~と隠れながら次の長列棚の裏に忍び込んだ。目線を進む先のほうに向けると見える!やっと見える。ゴール地点らしき場所が。吉田は次第に駆け足になっていた。ふと、見渡すとコンベアの奥のほうに事務所だろうか?敷居はないが机やら椅子が置かれている場所があった。その中でも一際大きな机の椅子にデーンと座っている人物がいる。甲野課長だ。足を組み膝を付いて書類らしきものと睨めっこしている。その付近には部下であろう社員達がちょこまかと動き回っている。吉田の視界に右方向から駆け足で甲野のいる場所までやってきた人が映し出された。尾花である。なにか甲野の耳元でささやいている。うなずく甲野……まぎれもなく3階は甲野帝国であった。甲野以外の社員は彼の手下のようなものだ。吉田の目にはそう見えた。

(もうすぐだ。もうすぐゴールだ。いや、そんなことより寺山だ。ここまで進んでまだ見つからない)

なんとなく聞こえてきた大声が聞き取れるようになってきた。

「うえ~い、らっせいらっせいらっせいらぁ~」

「早よ、運ばんかーい!」

「もたもたするなぁ~」

「順番間違いとるやんけ、そっちが先だぁ~!」

よく聞くと大声の主は一人だった。閻魔大王かと思うくらい大きな体格と鬼のような面である。どうやらこの人がコンベア全体を仕切っているようだ。ゴールと思われる場所は完成したプリンターを梱包して大きなダンボール箱に入れ、テープで止めた後、後ろにあるパレットに積んでいくといった工程だった。そしてそのパレットが退かれた場所に寺山がいたのだ。ベルトコンベアの最尾部に彼はいたのだった。いったい彼の身に何が起きたのか?いや、どれだけ尾花に睨まれたのか……

吉田はスルッと棚の裏から出て寺山にささやくように声をかけた。

「寺山、寺山、俺だ、吉田だよ」

返事がない。

「寺山、どうしてここにいるんだ」

「……」

「頼む、返事をしてくれ」

寺山がやっと気付いたのか横目で吉田を見ながら言った。

「何しに来たんだ。ここはお前の来る場所じゃねいぞ」

「何しにって…心配だから見にきたんだ」

「心配?何の心配だ。オレとお前は住む世界が違うじゃないか」

「……!?」

「おい!誰だ?見かけない顔だな、どうやってここに入ってきた」

(しまった、見つかったか…)

吉田が泡を食って振り向くと、あの閻魔様が仁王立ちでつっ立っていた。

「い、いえ、すみません、部品を探しているうちに迷子になりまして、その……」

「部品?倉庫は2階だ。ほら、邪魔だ邪魔だ」

吉田は適当にぺこぺこしながらその場を離れた。2階の倉庫に向かう途中、チャイムが鳴った。頭が混乱しながら吉田は寄り道せず、この日はまっすぐに家路に急いだ。


自宅のアパートの一室で吉田はコーヒーを飲みながらすっかり考え込んでしまっていた。寺山には会えた。しかしそれはかつての寺山ではなかった。いや、もしかすると変わったのは寺山ではなく自分のほうかも知れない…自分が和やかな雰囲気に包まれてあの部署で仕事をしている間、寺山は地の果てまで転がり落ちていたのだ。吉田は時の流れの残酷さと切なさのようなものを感じ取りながらベッドに横たわった。

(このままでいいのか、吉田よ、いい加減に目を覚ませ)自分で自分に言い聞かせながらその日は眠った。


次の朝、吉田は颯爽と赤いビルディング、カオス・マイクロチップスゴールドに向かった。その日はかなり風が強かった。しかしその日はこのくらいの風が丁度よい、とても気持ちがいいと思えるのであった。着替えてから作業場に行くと結衣が「お早う」と気軽に声をかける。

「あー、葉山さんお早う!」

「アレ?今日はとても爽やかな顔してるじゃない。何かいいことあったの?」

「いやーぁ、別に。ハッハッハッ」

しばらく作業をしていると北野が吉田のところへやってきた。不機嫌そうな顔である。

「昨日、頼んでおいた部品の仕入れ、ぜんぜん埋まってないじゃないか、どうしたの?」

「はあ?何のことっスか?知らないっスよ」

「えっ?」

「確かに頼まれましたけど、適当でいいじゃないっスか、無けりゃぁそのつど取りに行けば」

「……」

その時、北野の背後から尾花がやってきた。

「吉田くん、適当ではちょっと困るな、いつもの君らしくないな」

相変わらず爽やかな笑みを浮かべながらも吉田に釘を刺した。

「いやぁ~いたんスか尾花主任。でも今の言葉を撤回するつもりはないです。ホントに無けりゃ無いでそのつど対応していけばいいんスよ」

「そうか、まあ……しっかりやってください」そう言って尾花は去っていった。北野は不信そうな顔を吉田に向けながら「どうしたんだ?何を考えている?」と問いかける。北野は吉田が何かを企んでいることを見破っていた。しかし吉田は答えなかった。北野もそれ以上何も語らず、部品の仕入れをするため2階の倉庫に向かった。なんとも気まずい空気の中、休憩を挟んで吉田のところに尾花がやってきた。

「吉田くん、ちょっと手伝って欲しい仕事があるんだ。今やってる作業そのままでいいんで来てくれるかなぁ?」

「あー、お安い御用ですよ。で、どちらへ?」

「それは助かる、こっちだよ」

吉田は尾花の後を付いていきながらニヤっと微笑んだ。

(どうやら上手くいったようだ。北野さん、ごめん。俺にはやらなければならないことがあるんだ)

北野は去っていく吉田の背中を見ながら(アイツ…まさか)というような顔つきで見ていた。

吉田が思っていたとおり、尾花に連れてこられたのは森川のいる作業場だった。尾花はここでの作業内容を簡単に説明したあと、この部署でのリーダーである鈴木幸一を紹介した。尾花が去った後、鈴木は吉田に言った。

「アンタ、部品組み立ての方から来た人だよな、何やらかしたかしらないけど、もう、2度とあの場所には戻れないぞ」

「いやー分かってますよ、さあ、仕事に取り掛かりましょうかねぇ~」

「気楽なもんだな、まあ、いいや、ちょっとここにある物をそっちへ運んでおいてくれ、後で使うから」

「へーい、任せてください」

ふと、周りを見渡すと森川がいない。いったいどうしたのか?

「すんません鈴木さん、こちらに森川さんという人、働いていましたよね」

「あー、その人なら…あまりにも周囲の人と馴染めなくてね…尾花主任に呼ばれてどこかへ飛ばされてしまったみたいだ」

「あーそうですかぁ~、それはそれは」と言いながらも吉田は(尾花のヤツ、なんで森川さんのようなおとなしい人までたらい回しにするんだ?)と思ってしまうのであった。

(よし、この調子でどんどん川を下るぞ。待ってろよ寺山!)吉田はその日を境に目まぐるしく作業における環境が変わっていくことになる。目指すはコンベアエリアの最尾部、プリンター梱包、荷台搬出部署である。

「ちくしょう、やってられね~なぁ」

「吉田くん、いま何か言った?」

「何も言ってないっスよ、ただ、やってられないなと」

「どういう意味だいそりゃ、もっと真面目にやれないのか君は」

「真面目にやってるつもりっスよ、これでも」

この時、吉田の後ろに尾花の目があった。周囲は唖然としながら吉田を見ている。

「吉田くん、ちょっと手伝ってもらいたいことがあるんだ、来てくれないかな?」

(いよっ、待ってましたそのお言葉、さあ、行き場所はだいたい分かってますよ)

尾花に連れて行かれた場所は搬送用エレベーター付近にある作業場だった。従業員のルックスに品というものがなくなってきている。明らかに格下から格下へと落ちていっている。森川を発見したが話しかける気にもならない。吉田にとっては下へ下へと転がり落ちてゆくことこそが友に会うための最低条件だと思っている。(それまでいた部署があまりにも待遇が良すぎたのだ。俺には向いていなかったのだ)そう思うことで吉田は過去の自分を切り離そうとしていた。吉田は次なる「チャンス」を窺っていた。しかしなかなか尾花が現れなかった。

「ここは主任さん、あまりこないんですか?」

「あー、そうだなぁここへ来るくらいなら第1作業所とか第4作業所へ行くことが多いのかなぁ、ここは人が少ないし作業場としてあくまでも途中経過的な存在だから」

吉田はふと思った。第4作業所とはかつて寺山や結衣、北野たちと作業していた場所なのだろう。それから数えて第1とは…順番から考えてもコンベアエリアにもっとも近いあそこだ。そこに違いあるまい。吉田はその日以来、周囲に目を凝らし尾花の行動をチェックし始めた。まわりを警戒しながら作業の合間に通路を渡り広い場所に出る。それを繰り返しているその時、尾花が第1作業所のある方向に歩いているのを見た。

(間違いない。尾花は第1に向かおうとしている。チャンスだ)

「おーい、これはこっちだ、急げ急げ!」

「よし、次はこれを運ぶぞ、その次はこれだな」

「いやいや違うよ、最初に運ぶのはこれだね。いい加減、覚えてもらわなくちゃ」

尾花はそう言って第1作業所で働く従業員達に注意を促した。するとその後方から1人の男がぬ~と現れ

「そうそう、そうっスよ、ちゃんとやらなきゃっスよ、ね~先輩」

馴れ馴れしい態度で第1に入り込んできた男…吉田であった。

「なんだ吉田くん、ここへ来たってやることないだろ、と、いうか、ここで何してるんだ」

「いやー、どうもスタミナが余ってしまって、いろいろなところへ顔を出したくなるんですよ」

「そうか、働き足りないかぁ~、よし、君に打ってつけの仕事を紹介しよう、こちらへ来たまえ」

そう言って尾花は第1作業場を出て通路に向かった。

(しめた。いよいよ本拠地に潜り込めるぞ)吉田の胸は躍った。先ほどから聞こえてくるコンベアのローラーの音、物が乗せられる音、従業員たちの掛け声が次第に大きくなっていく。尾花はコンベアエリアに向かっていく、そして扉をくぐり抜けた。4→3→2→1→ゼロ!ついに到着だ。

「では吉田くん、ここで作業してくれるかな。やり方を教えよう」

尾花はそういって吉田に作業内容を伝える。が、そこはスタート地点であった。作業の手順と説明を終えると尾花はどこかに消えていった。

(さて、ここからどうしたものか…)吉田がしばらくスタート地点で仕事をしていると向かい側の従業員同士でちょっとした言い争いになった。下手をすると喧嘩になるような雰囲気の中、その後ろから社員と思われる中年男がやってきた。豚か?っと思いたくなるくらいよく肥えた体つきをしている。吉田は隣で作業している人に聞いてみた。名は鈴木仁といってこの3階ではナンバー3らしい。鈴木が言う。

「おい、喧嘩は駄目だ、ちょっと待ってろ」

しばらくすると鈴木が一人従業員を引っ張ってきた。

「今日はここへ入ってくれ、おい、君はこっちへ来たまえ!」

そういって先に言いがかりを付けてきた従業員を連れてコンベアの後列の方に向かった。

後列で作業をしていた人と交代である。コンベアの従業員はとっかえひっかえ部品のように交換できるのだ。しかし、なんにせよこれで吉田にこれからやるべきことが見えてきたのだ。

(なるほど、あの鈴木に目を付けられればコンベア最尾部まで辿り着けそうだ)

ベルトコンベアは曲がりくねっていて長い。多少、ゴールまで時間がかかるようだがやるしかなかった。比較的喧嘩の弱そうな従業員を見つけては暴言を吐き、鈴木に目を付けられてはコンベア後方に移動していく。その繰り返しだ。そして繰り返していくうちに2度目のSの字カーブを超えて最尾部がはるか後方に見えるようになった。寺山の姿が…とても小さいがなんとか見ることができる。

(やっとここまで来たか…あともう少しだな)そう思ったところで終了のチャイムが鳴った。


吉田は疲れていた。この日も一人でカオスに到着しロッカー室に向かう。着替えた後、自動販売機のある休憩所で結衣にバッタリと出会った。しかし結衣は吉田と目が合ったあと、すぐに目をそらし何処かへ消えた。

(そうか、もう自分は違う世界にいるんだもんなぁ~)第4作業場ではすでに自分は忘れ去られた存在となったと吉田は思った。だが吉田はそれだけ友との距離が近くなっていることを実感するのであった。

コンベアエリアに到着した吉田は自分のポジションに付いて最尾部方向に目をやる。カーブはもうない。あとはまっすぐ直進していけばゴール地点だ。甲野課長のいるアジトも見えてきた。デラックスな椅子にデーンと座る甲野。そのまわりにいる甲野の手下たち。尾花がいない。今頃どこかで偵察か?いや、そんなことはどうでもよい、鈴木はどこにいるんだろう?コンベア担当作業者はポジションが決まっているため移動できないのが難点だ。それにこの辺までくると喧嘩の強そうな人ばかりでその人たちと絡むことで鈴木に目を付けられるというのはどうも得策とは言えない。やはり鈴木との直接対決でポジションを移動するしかなさそうだ。吉田は鈴木が近くに来るのを待った。

「おーい、鈴木くん、ちょっと」

甲野が大きな声で呼んでいる。しめた!と吉田は思った。鈴木が小走りで甲野のところへ行く。なにか話している。それが済むと鈴木がこちらのほうに一瞬、振り向いた。吉田は鈴木に見えるように両手を高らかに上げ、大きくあくびをし「あー、飽きてきたなぁ、この仕事も」と鈴木に聞こえるように言った。あまり大きく叫ぶとその後ろにいる甲野にも聞こえてしまうのでそのあたりのサジ加減が難しい。

「おい、なんだまた君か、真面目にやらんか!」

「いやあー、真面目っスよ、ただ、ずっと動かずに低位置にいるとかえって疲れちゃって」

「なんだと?よく言った。ちょっと待ってろ」

鈴木がコンベアの最尾部あたりまで歩き出したのを目撃した。そこに寺山がいる。

(えっ、最尾部まで飛んでいった!…もしかすると寺山を連れてくるつもりか?これは面白いことになってきたぞ)

しかして連れてきたのは別の人だった。かなりガラの悪そうな男だ。その男が吉田の耳元で囁く…

「へへっ、助かったぜ、アンタのおかげで」

(寺山じゃないのか?最尾部固定か?どれだけ気に入れられえるんだ?)吉田はそう思ってしまった。

「よし、君はこっちだ!」

「へ、へーい」

「へいじゃねーよ、いいから来い!」

鈴木に誘導されて付いた場所……一気にコンベア最尾部、プリンター梱包、箱詰め、荷台乗せ作業場へ!そして、そこには寺山がいた。久々のご対面である。

「なんだお前!うん?前に会わなかったか?まあ、いいや、こっちへ来いや」

大声の主…閻魔様である。しかし吉田にはその男は目に入らなかった。

「おお、寺山、自力でここまで来たぜ!」

「ついさっきまでここにいた田中と交代って…お前か?」

「そいつ田中っていうんだ。俺に礼を言ってたぜ」

「……吉田、オレを殴ってくれ。世界が違うとか友にたいしてワケ分かんねーこと言っちまった。お前が友であるということを忘れようとしてたんだ」

ガツーン!吉田は思い切り寺山を殴り飛ばした。寺山の体は宙を舞いベルトコンベアのローラーの上に落ちた。

「寺山、俺を殴ってくれ。俺は一度、お前のことを他人だと思い込もうとしたんだ。自分のその時の環境に甘えきっていたんだ」

パキーン!寺山は思い切り吉田を殴り飛ばした、吉田の体は宙を舞いパレットが何段も重なっているその上に落ちた。

周囲からは笑い声がこだました。ゲラゲラ笑う者、クスクス笑う者、ヘラヘラ笑う者……

「何やってんだあの2人」

「走れメロスごっこかよ」

「演劇でも見せようってのか?」

「なんかハデに吹き飛んだよなぁ、あの2人。マンガかよ」

そうした中、目に涙を滲ませる者がいた。閻魔様である。

「お前達…泣かせるじゃねーか、でも今は泣いてる場合じゃねぇ、さあ、仕事だ。おい、吉田と言ったな、お前にこの流れ作業最後の工程であるプリンター梱包、パレット積みをやってもらう。な~に、簡単な仕事だ」

そう言って3人は汗だくになりながらコンベア最尾部の作業に精を出した。午後のチャイムが鳴ると閻魔様は吉田と寺山の2人に「ちょっと付き合え」といい自動販売機のある休憩所に向かった。

「コーヒーでいいか」

そう言って閻魔様は硬貨を入れ2人に缶コーヒーを差し出した。

「ど、どうも」

「お前たちはアレか?親友同士か」

「まあ、そんなところです」

「昔を思い出すぜ」

「昔と言うと…」

「実はな、課長の甲野と俺は同期だったんだ。ちなみに俺の名は村田勘介。しがない平社員よ。この会社に入った当時は甲野も俺も新入社員で本社で少しばかし働いていた。少しばかしというのは、本社で働いていたがすぐにこっちの方に移動したんだ。お互い、同じ見習いの新人としてな。しかし俺としてはここの方針というか、やり方に不満を持ち言い合いとなっていつも上の人間と対立していた。その結果、出世コースから外れちまってよ、万年平社員なわけよ。一方の甲野は俺とは逆で会社の方針には賛同し、上司には可愛がられた。最初は俺と甲野はお互いの夢を語り合いながらいつも帰りは一緒で居酒屋とかでよくはしゃいだもんだぜ。それがいまじゃお互い口も聞かない挨拶もしない社内ですれ違うことはあっても適当に会釈するだけ。甲野は今じゃ3階フロアを取り仕切る製造課長だが俺は流れ流れてこのコンベアの一番ケツで怒鳴り散らしながら仕事しているわけさ」

「村田さんはよぅ~怒るときは怖ぇーけど、けっこう優しいところあるんだぜ」

「余計なこと言うな。まあ、でもよ寺山、前からひと癖ふた癖ある奴だと思っていたが、いいダチを持ってるじゃね~か」

「お~よ、俺と吉田はガキの頃からの付き合いっすよ、一度は萎えてもう会うことないんじゃないかと頭によぎったけれど、いつかここへ来るんじゃないかとも思ったっす」

「でもここへ来るまで大変だったよ、一筋縄ではいかなかったな」

「よーし、そろそろ作業開始だ。お前ら、張り切っていくぞ!」

「おおーっ!!」

3人は休憩所を離れ、作業場であるコンベアエリア最尾部に戻っていった。

  


あれから12年の月日が流れた。かつて存在していた「赤いビル」……今は見る影もない。ただ、広いだけの空き地である。今、思い起こせばあの頃の自分は若かったなと吉田は思うのである。12年を経て、すでに会社は倒産し、その後、甲野は会社の金を横領したとかで逮捕されたと聞くが自分にとってはどうでもいい話である。悪いことやってる人間はどれだけ自分がクズな人間なのか本当は自分が一番よく知ってるのだろう、悪いことだと分かっていて悪いことやってるんだから世話はない。せいぜい「黙秘します」「記憶にございません」を連発すればよい。そんなことより唯一自分がちょっと残念だったなと思うことがある。それは結衣ちゃんだ。持って行き方次第ではおれの女になったかもしれんなどと、吉田は苦々しい顔をしながら思った。今となっては絵空事のように儚い。


(にしてもアイツ…どうしてるかなぁ)


吉田はアゴ髭をさすりながら空き地に背を向け、ポツリと何処かへ消えていった。












































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