第169話 店舗契約
麦の取引が一段落し、私たちは再びロシナティスの商業ギルド、ギルドマスター室へと戻ってきた。
先ほどまではなかったはずの茶器が、テーブルの上に整然と並んでいる。騒ぎになっていないのが不思議だった。
「ラミナ!飲んで良い!?」
「あっ、うん」
念のため私に許可を取った後、セレスは自分の分を一息に飲み干し、私の湯飲みにも手を伸ばして空にした。
「喉渇いていたの?」
「ん~ん、ただ単に美味しそうだったからね」
屈託のない笑顔で答えるセレスに、苦笑いがこぼれた。
「当然だ。このお茶は倭国から仕入れた最高級品だよ」
「へぇ~」
──できれば私も飲んでみたかった。
「それでは、物件の候補地に案内しよう」
「お願いします」
「ワクワクだね~!」
セレスは足取りも軽く、明らかに興奮していた。
「そうだね」
私はというと、正直そこまで気乗りしていなかった。住む予定があるわけでもないし。
一階へと降りると、先ほど案内してくれた職員が変わらずそこにいた。テレポートで消えたはずなのに、何も騒ぎになっていないところを見ると、もしかすると彼女の中では「そういうこともある」くらいの認識なのかもしれない。
「こっちだ」
案内されたのは、商業ギルドの目の前、町の中央広場に面した大きな建物だった。
「ここですか?」
「ああ。飢饉の影響でテナントが撤退してしまってな。今は空き家になっている」
シルビアが正面扉を押し開けると、湿った空気と共にほこりとカビの匂いが漂ってきた。
「しばらく掃除していなかったな……」
『ささっとやってしまいましょう』
アクアの言葉と同時に、室内は目に見えて清潔さを取り戻していった。
「精霊か?」
「はい。たぶん“アクアクリーン”の魔法です」
「なるほどな。では、こちらへ」
私たちは厨房へと案内された。
「元はパン屋だ。厨房設備は一通り揃っている。オーブンも二基あるぞ」
「いいね~!」
『あぁ、この設備と立地なら、俺としてはありだな』
グレンの言葉が、どこか期待に満ちていた。
「続いて二階だ」
階段を上がると、いくつかの扉が並ぶ廊下に出た。
「従業員の休憩室、更衣室、物置……だが、居住スペースとしても十分に使える」
二階、三階と順に見て回ると、帝都の自宅よりも明らかに広い。どちらかといえば、ファミリー向けの間取りだった。
「最後に地下を案内しよう。食料庫として使ってくれても構わない」
地下は広く、柱こそあるものの無駄な壁がなく、倉庫としては申し分ない広さだった。ただ、ところどころ壁に入ったヒビが気にかかる。
「壁のヒビは大丈夫なんですか?」
「築20年だ。すぐに倒壊するような危険はないと思うが、補修は必要かもしれんな」
私は壁を見て回りながら、まん丸に小声で尋ねる。
「まん丸、補強ってできる?」
『いいよ~!やっていいの?』
「契約したらお願い」
「セレス、どうする?セレスが住みたいなら、私はここでも良いよ」
「する!」
即答だった。
「では、契約書を用意しよう。商業ギルドに戻るぞ」
「やった~!」
彼女の全力の喜びように、つられて私も頬が緩んだ。
「まん丸、お願いね」
『は~い』
私は小声で依頼を告げた。きっと、帰る頃には見違えるはずだ。
商業ギルドのギルドマスター室へ戻ると、契約書に署名し、鍵を手渡された。
「ところで、借りるんじゃなくて購入でよかったのか?」
「その方が後のこと考えずに済みますから」
実際、大して高くなかったし、悩むまでもなかった。
「だが、セレスティアはともかく君は乗り気ではなかったように見えたが?」
「最初はそうでした。でも……一点だけ、気に入ったところがあって」
3階のバルコニーから見える、海と夕暮れ、そして帝都グリーサのシルエット。あの光景だけは心に残っていた。
「セレスが気に入ってるようですし」
そう言うと、シルビアは満足そうに頷いた。
「こちらからは以上だ。何か他にあるか?」
「麦はどうするの~?」
「そうだな、明日の朝、ギルドにまとめて持ってきてもらえれば助かる」
「いいよ~」
「ありがとう。パン職人も探しておこう」
「お願いします」
「ああ、こちらこそ、今後ともよろしく頼むよ」
シルビアが手を差し出し、私もそれに応じて握手を交わした。
「それじゃ、下まで送ろうか」
「ありがとうございます」
ギルドの入口まで送ってもらい、ヴェネスが声をかけてきた。
「ありがとう、ヴェネス」
「いえ、お互い大変なのはこれからですから」
「そうだな。早速、明朝出発の者に護衛をつけてくれ」
「ええ、承知しました」
護衛……。麦を輸送するのだろうか?
「それでは、ラミナさん。送りますよ」
「あ、お願いします」
わざわざと思いつつも、断りにくくて頷いた。
商業ギルドを出て数十歩。すぐ目の前に、もう私たちの家があった。
「今日は本当にありがとうございました。それでは、おやすみなさい」
「ありがとうございました」
ヴェネスが軽く会釈し、去っていった。
鍵を開けて中に入ると、木材の清々しい香りとともに、清潔な空気が出迎えてくれた。
灯りを点けると、昼間の物件見学時とはまるで別物のように整えられていた。
「なにこれ……?まん丸?」
『ボクじゃないよ~。セレスだよ~』
「ぇ?」
「新築同然にしといたよ~」
セレスが当然のように言ってのける。
「意味がわからないけど、セレスの力でってことだよね?」
「そうだよ~。私の行動範囲なら、ある程度は自由にできるの」
確かにクゥも町の中で力を使っていた。なら、セレスも……。
「そうなんだ」
思わず、さっき頼んだまん丸の苦労が無駄になった気がした。
「ご飯食べよ~!」
セレスは意気揚々と麦の袋をカウンターに置く。
「今から何か作るの? ワイバーンの肉が残ってるし、焼いて食べない?」
「食べる~!」
『ボクも~!』
焼き肉パーティーは、思いのほかにぎやかで、そして心地よかった。
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