第10話 ハーヴァーの町
それから、二年の月日が流れた。
精霊たちと過ごした穏やかで密度の濃い日々。薬草を摘み、ポーションを作り、魔法の訓練に励んで——私は少しずつ、でも確かに力をつけてきた。
そして今、ついにその時がやってきた。
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朝の空気が澄んでいる。
村の入口に立ち、私は祖母の顔を見上げた。
「ラミナ、忘れ物はないかい?」
「うん、大丈夫。ちゃんと確認したから」
「そうかい。それなら安心だ。……いつでも、戻っておいでよ」
「もちろん! おばあちゃんも元気でね」
「達者でな。風邪なんか引いちゃだめだよ」
祖母とのやりとりがひと段落したところで、キャラバンの先頭にいたボッシュさんが声をかけてきた。
「それじゃあ、行こうか」
軽く手を上げると、馬車の御者が合図を受け取り、車輪がゆっくりと動き始める。
振り返ると、祖母をはじめ、村のみんなが並んで手を振ってくれていた。子どもたち、おばあさん、おじさんたち、いつもの顔ぶれ——。
いつも通りの笑顔なのに、今日だけは、それが特別に見えた。
「また帰ってくるから! みんな元気でね~~!」
私は思いきり手を振りながら叫んだ。
皆の姿が小さくなっていくのが、こんなに寂しいなんて思わなかった。やがて村の風景が遠ざかり、視界から完全に消える頃——私は目元をそっと拭いて、馬車の中に腰を下ろした。
「……いつでも戻ってこれるさ」
隣に座っていたボッシュさんが、静かに言った。
「……はい、そうですね」
アクアとミントも、今日は言葉少なに私の肩のあたりに寄り添っている。まるで、寂しさに共鳴してくれているみたいだった。
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「さて、これからの予定を伝えておこう」
ボッシュさんが姿勢を正して話し始める。
「今日の夕方には、ハーヴァの町に到着する予定だ。そこに一泊して、明日、イアンたち本隊と別れて、私とラミナ君は港から船で帝都グリーサに向かう。船旅は短い。午後にはもう帝都に着くはずだ」
「はい、わかりました……なんだか、初めてのことばかりで、ちょっとワクワクしてます!」
そう言って笑った私に、ボッシュさんも小さく頷いた。
「そうか。村の外に出るのは、初めてだったな?」
「はい、こんなふうに馬車に乗るのも、旅をするのも初めてです」
森や丘が流れる景色に目をやる。見慣れない世界が、少しずつ目の前に広がっていく。
「もちろん、途中には盗賊や魔物が出る危険な地域もあるが、今回は護衛もついている。安心していい」
「はい。私も精霊魔法が使えますし、少しでもお役に立てるように頑張ります」
この二年間、アクアからは水魔法の基本と応用、ミントからは薬草や薬の知識、精霊の力の扱い方を学び続けてきた。毎晩魔素を使い切る訓練を積んだおかげで、私の体内魔素量も大きく成長した。
「そうか、それは心強い。期待しているよ」
「はい!」
ボッシュと話している横で、ミントとアクアが浮かれたようにひそひそと会話していた。
『久しぶりの旅やね~、なんやワクワクしてきたわ』
『そうですね。私も新しい土地を見るのは楽しみです』
精霊たちも、旅の道中を楽しんでいるようだった。
私は、馬車の窓から外を眺めながら、馬車に揺られて過ごした。見慣れた森の景色が少しずつ変わり、空の色も次第に夕暮れに染まっていく。
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「もう少しで着くぞ」
「えっ、ほんとですか?」
「ああ、見てごらん。左手の景色が麦畑に変わっただろ?」
「あ……ほんとだ」
「ハーヴァの町の周辺は広大な麦畑が広がっているんだ。これが近づいた証拠さ」
ボッシュの言葉に、私は首を伸ばして興味深く外を見つめた。やがて馬車がゆっくりと減速し、ついに止まった。
「着いたな。ハーヴァの町だ」
馬車の後方から、甲冑の音を響かせて兵士が近づいてくる。
「身分を証明できるものはお持ちですか?」
ボッシュが私に目をやり、やさしく声をかける。
「ラミナ君、村長からもらった身分証明書を」
「あっ、はい……えっと、ちょっと待ってください」
私は慌ててカバンの中を探った。底のほうに押し込まれていた書類の束の中から、小さな羊皮紙を見つけて取り出す。その間に、ボッシュは兵士に自分の証明書をすでに手渡していた。
「ふむ、ボッシュ・ランフォール殿ですね。確認しました。……お嬢さんの方は?」
「これです」
私は身分証を両手でそっと差し出した。兵士は目を通し、うなずく。
「うん、確かに確認しました。お通りください」
兵士が手を挙げると、門が開かれ、再び馬車が動き出す。
そして——石造りの門をくぐった瞬間、目の前に広がった景色に、私は息を呑んだ。
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そこには、私の知らない"世界"があった。
村では見かけなかった石造りの二階建ての家々が立ち並び、石畳の道には同じ形の石が隙間なく敷き詰められていた。行き交う人々も多く、馬に乗る人、荷車を引く人、店先で声を張り上げる商人たち……どれもが活気に満ちていた。
「初めての町はどうだ?」
「……なんか、すごいです……!」
私がぽつりと答えると、ボッシュは少し笑って肩をすくめた。
「ハーヴァに驚いてるようじゃ、帝都を見たら腰を抜かすかもな」
「そんなに違うんですか?」
「ああ、皇帝が住まう城、巨大なアカデミー、闘技場、大聖堂……ハーヴァが村に見えるくらいに壮観だよ」
帝都——その響きだけで胸が高鳴る。
(どんな場所なんだろう……)
日曜学校で聞いた話の中にしかなかった世界。それが、いま私の目の前にある。
「会頭、今日の宿に到着しました!」
御者席からイアンさんの声が響いた。
「そうか、ありがとう。ラミナ君、降りようか」
「はいっ!」
馬車の後方から降りると、夕暮れに染まった町の明かりが静かに揺れていた。
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「ラミナ君、こっちだよ」
「あっ、はい!」
ボッシュに導かれて、一軒の宿屋の扉を開ける。中は、木の温もりが漂う広い食堂。旅人や地元の人らしき人たちが笑い合い、食事を楽しむ声があふれていた。
(にぎやか……)
私は無意識に足を止めて、目を見開いた。
(これが、町での生活なんだ——)
「あの……ここは?」
「1階は大衆食堂になってるんだよ」
私の視線の先には、村では見たこともない光景が広がっていた。何十人、いや、それ以上の人が談笑しながら食事をしていて、この空間だけで、私のいた村の人口を超えている気さえした。
「すごい人の数ですね……」
「ハーヴァには、だいたい600〜700人くらい住んでいるからね。君の村と比べれば、20倍くらいは人がいるんじゃないかな」
「へぇ……。じゃあ、帝都ってどのくらいなんですか?」
「昨年末の時点で、25万人だったかな」
「……え?」
あまりの桁違いな数に、頭がついていかない。村にしか住んだことのない私にとって、それはもう想像の外だった。
「まあ、それだけ帝都は広くて大きな場所ってことさ」
「……私、ちゃんと暮らしていけるのかな」
胸の奥に、不安がじわりと広がっていく。
『大丈夫やで、うちらがついとるから』
『そうですよ。私たちがいますから』
「うん……ありがとう、二人とも」
ミントとアクアの存在が、これほど心強く感じられたのは初めてだった。
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「すでに部屋は取ってあるから、まずは夕食にしよう」
「はい、お願いします」
「すいませーん」
「いらっしゃいませ」
声に応えたのは、オオカミの耳と尻尾を持つ女性だった。村では見たことのない——獣人。
『おお、オオカミの獣人さんやな』
『他にも猫の獣人の方が厨房で働いていますよ』
『ほんまや、昔とはえらい変わったなぁ』
「そうなの?」
『せや。昔は獣人が人前で働くなんて、まずなかった時代があったんや』
『そうですね。リタがアカデミーを去る頃に、ようやく町でも働けるようになったんですよ』
「……なにかあったの?」
『あったで。ほんま、しょうもないことがきっかけでな』
『今となっては笑い話ですけどね。詳しくは帝都で』
「うぅ、気になるけど……」
ミントとアクアがなにやら思わせぶりなことを言っているが、今は詳しく教えてくれないらしい。
「3人なんだけど、席は空いてるかな?」
「はい、空いてますよ。こちらへどうぞ〜」
獣人の女性——ウェイトレスに案内され、四人がけの席に通された。ふかふかの椅子に座ると、少しだけ旅の疲れが和らぐ気がした。
「何か食べたいものはあるかい?」
「えっと……何があるのか……」
「もちろん。すいませーん、メニューをお願いします」
「かしこまりました〜!」
ウェイトレスがすぐにメニュー表を持ってきてくれた。
「お待たせしました。ご注文がお決まりになったらお呼びくださいね」
ウェイトレスが置いていったメニュー表を、ボッシュが手に取り、私の前へと差し出してくれる。
「この中から、好きなものを選ぶといい」
「ありがとうございます」
私は受け取ったメニューに目を通す。けれど——。
(名前は並んでるけど、どんな料理か分からない……)
選ぶに選べず、困っていたそのとき——。
『ハーヴァオムレツが評判ええらしいで』
『ええ、今も頼んでる方が多いようですね』
「そうなの?」
『ええ。迷ったら、それにしてみたらどうですか?』
「ハーヴァオムレツで! ……なんだか、それが一番人気みたいだから」
『ええ、間違いない選択だと思います』
「私はそれにするつもりだったよ」
「そうなんですか?」
「ああ、美味しいからね」
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ボッシュは手を挙げ、再びウェイトレスを呼んだ。
「ハーヴァオムレツのセットを3つ。それと、飲み物は……私はエール。ラミナ君は、グレープジュースでいいかな?」
「はい!」
「じゃあ、エール2つとグレープジュース1つで」
「かしこまりました〜!」
ウェイトレスが厨房へ戻ったタイミングで、イアンさんが席にやってきた。
「すいません、遅くなりました」
「いいよ。準備を任せてすまなかったな」
「いえ、こちらこそ」
そのまま料理が届くまで、私たちは軽い雑談を楽しんだ。村の話、ハーヴァの出来事、帝都の噂話——。
そして、しばらくして運ばれてきた夕食に、私は思わず目を見張った。
ふわふわに焼かれたオムレツに、香ばしく焼けたパン、彩り豊かなサラダ。どれもが湯気を立てていて、食欲をそそる。
「これは……美味しそうですね」
「だろう? 初めての町で、こんなに美味しいものが食べられるなんて、幸先がいいよ」
ナイフを入れると、とろりとした黄身があふれ出し、ひとくち頬張ると優しい味が口いっぱいに広がった。
その味に、どこか懐かしさを感じながら、私は心の中で静かに思った。
——きっと、これから始まる暮らしも、大丈夫。
賑やかな食堂のざわめきの中、私の胸の不安は、少しずつほどけていった。
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