第1話 プロローグ
私の名はラミナ。ルマーン帝国の中部に位置する、緑豊かなルヴァ村で、祖母と両親と共に、穏やかな日々を送っていた。
私たちは農民だったが、父は村の狩人、ブルックスとよく森へ狩りに出ていた。獲物の肉は村の貴重な糧であり、私たちの食卓にもたびたび並んだ。
けれど、あの日を境に、私の日常は大きく揺らいだ。
ある夕暮れ、森から戻ってきた父の姿は、いつもと違っていた。
自分の足で立つこともできず、ブルックスに肩を貸してもらって、やっとの思いで歩いていたのだ。
「アマンダさん!リーシュが!」
ブルックスが叫びながら駆け込んできた。
「なんだい、どうしたんだい」
祖母が慌てて玄関に出る。
「森で狩りをしてたら突然倒れたんだ!」
「ラミナ、布団を」
祖母の声は、思ったよりも冷静だった。だが、その声に混じるかすかな緊張を、私は聞き逃さなかった。
「う、うん……」
私は急いで部屋の隅にある布団を引っ張り出し、父が横になれるように敷いた。
ブルックスがそっと父をその上に寝かせると、祖母はすぐに膝をつき、父の額に手を当てた。
「……すごい熱だね」
祖母の低い声に、不安が胸を締めつけた。
「あぁ、倒れたときはそんなに熱くなかったんだが、連れ帰る途中でどんどん熱くなってな……」
ブルックスの言葉に、祖母はわずかに顔をしかめた。
「虫にでもかまれたのかね……。まぁ、いい薬を用意しよう。……ブルックス、悪いんだが、ミランダを呼んできてくれないかい? 悪い予感がしてねぇ……」
悪い予感――?
その言葉が耳に残った。けれど、その時の私は、まだその重みを理解できていなかった。
「あぁ」
ブルックスは深く頷くと、急ぎ足で外に出ていった。
「ラミナ……、うつるかもしれんから、離れてなさい……」
祖母の言葉には、優しさと厳しさが入り混じっていた。私は黙って頷き、一歩、二歩と後ずさった。
「うん……」
私の声は、ひどくか細く震えていた。
祖母が何種類もの薬を調合し、必死に父に飲ませている最中、ブルックスが再び戻ってきた。その腕には、ぐったりと力なく抱かれた母の姿があった。
「アマンダさん!ミランダも!」
ブルックスの声は、先ほどよりも切羽詰まっていた。
「ラミナ!」
祖母が私を呼ぶ。咄嗟に返事をして、私はもう一組の布団を準備しようと動いた。
「うん!」
けれど――その時すでに、母の身体からは、ぬくもりが失われていた。
祖母が抱きとめる間もなく、母は静かに息を引き取っていたのだ。
そして、それからわずか二時間後。懸命な看病の甲斐もなく、父もまたこの世を去った。
私は、まだ五歳にも満たなかった。
何が起きたのか、理解しきれないまま、両親を失ってしまった。
あの謎の病は、村の中でも他に五人を襲った。
発症してから高熱に苦しみ、わずか二〜三時間で命を落とす。
それは、まるで音もなく忍び寄る死神のようだった。
◇◇◇◇◇◇
両親の葬儀を終えた夜。
悲しみと喪失感に押し潰されそうになりながら、私はひとり布団の中で目を閉じていた。
“なぜ、お父さんとお母さんが……”
その問いばかりが胸の中で繰り返される。
すると突然、私の頭の中に声が響いた。
『ラミナ元気出しぃ、ウチが側におるから!……って言うても聞こえてへんか……』
元気で快活そうな、女の子の声だった。
私はびくっと体を起こし、周囲を慌てて見回した。
「ぇ?」
誰もいない。もちろん、女の子の姿など見当たらなかった。
「どうしたんだい?」
祖母が、心配そうに私を覗き込んだ。
「今、誰かが“ラミナ元気出しぃ、ウチが側におるから”って……」
私が答えると、祖母はふわりと目を細め、にっこり笑った。
「ほっほ、その訛りは精霊様だねぇ。あんたも、聞こえるようになったか」
「精霊様?」
聞き返す私に、祖母は頷いた。
「そうさ。村でも、うちの畑だけは雑草がほとんど生えず、良い麦が育つだろ?」
「うん」
「それはね、植物の精霊――ドライアド様が、ずっと見守ってくださってるからなんだよ」
「そうなの?」
私の声には、驚きと戸惑いが入り混じっていた。
「そうじゃよ。血筋なのかねぇ……。リーシュも、幼い頃に精霊様の声を聞いたと言っていたよ」
「お父さんも……? おばあちゃんも聞こえるの?」
私が尋ねると、祖母は静かに首を横に振った。
「もう久しく聞いてないねぇ。……少し、精霊様にまつわる話をしてあげようかねぇ」
「うん、お願い」
私は膝を正し、祖母の方を見つめた。
すると祖母は、懐かしそうに遠くを見つめるような目をして、ゆっくりと語り始めた。
「私の婆様がね、精霊使いだったんだよ」
「おばあちゃんのおばあちゃん?」
思わず問い返すと、祖母はこくりと頷いた。
「そうじゃ。ラミナから見れば、ひいひいおばあちゃんにあたるねぇ」
「ひいひいおばあちゃんが……精霊使い?」
私はその言葉に驚きの声を上げた。けれど、祖母は微笑を浮かべたまま、言葉を続けた。
「そうじゃよ。婆様はねぇ、かつて世界中を旅してまわった冒険者でな。この村出身の戦士の男と結婚して、ここに来たんじゃ」
祖母の声は穏やかだったが、どこか誇らしさを感じさせた。
「その時な、婆様は四人の精霊と契約していたそうじゃ。水の精霊ウンディーネ様、植物の精霊ドライアド様、地の精霊ノーム様、火の精霊イフリート様。どの方も、強くて立派な精霊様だったんじゃよ」
その名前を聞くだけで、胸が高鳴った。
まるで絵本に出てくる伝説のような存在が、私の血の中にも流れているのだと知って――。
「けれどなぁ、婆様が亡くなったときに契約は切れ、ウンディーネ様、ノーム様、イフリート様はどこかへ行ってしまわれたそうじゃ。ただ……ドライアド様だけは、今もこの家のそばに留まり、見守ってくださっているらしいよ」
……じゃあ、あの時、私の頭に響いた声は――。
「そうなんだ……。それじゃあさっきの声は、ドライアド様? 今も、そばに居るのかな?」
私が不安と期待を入り混ぜながら尋ねると、祖母は優しく微笑んだ。
「ラミナが声を聞いたというなら、きっと居るんじゃろうねぇ」
私はそっと目を閉じ、耳を澄ませた。
もう一度、あの声を聞きたい。あのあたたかくて、元気をくれた声を――。
けれど、いくら待っても頭の中に声は響いてこなかった。
「……精霊様の声、聞こえないよ」
寂しさを滲ませてそう告げると、祖母は深く頷いた。
「そうかい。……でも、時期も時期だしね。今週末の“洗礼の儀”で、精霊使いのスキルが発現するかもしれないねぇ」
「スキル……。一人一つ、必ずもらえるというあれ?」
私は以前、村の学校で教えられたことを思い出しながら尋ねた。
「そうじゃ。婆様も精霊使いだったし……。ラミナにも、その力が宿るかもしれんよ」
祖母の言葉に、心の奥にほんの小さな光が灯った気がした。
両親を亡くしてから、ずっと塞がっていた胸の奥に、ぽつりと希望の種が落ちたような――。
「……そうなのかな!?」
自分でも驚くほど明るい声が出た。祖母はそんな私を見て、再び微笑む。
「精霊使いが身に付くといいねぇ」
「うん!」
その時の私は、まだ何も知らなかった。
この先に待っている運命も、精霊たちとの絆も、命を救う力の重さも。
それでも――確かに、私は前を向く一歩を踏み出していた。