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猫舌戦記

作者: 神崎玄

 私は猫舌である。

 いや、全ての人間は、もっと広げて言えば全ての舌と痛覚を持つ生き物は猫舌である。


 そのことを最初に痛感したのが、小学生の時のスケート教室だった。

 スケートリンクの横には自販機がある。

 そこにカップ式の飲料販売機があった。

 私は、冷えた体を温めようとコーヒーを買った。

 そして、何も考えずにごくりと飲んだ。

 これが紙カップならまだ警戒はしたかもしれない。しかし、保温性の高い、発泡スチロールを使ったカップだった。

 口の硬口蓋がべろりと剥がれた。

 なんてことだ! スケート教室に来て火傷を負うとは!

 ……そのあとどうしたのかは記憶がない。ただ、数日は口の中が痛かったことしか憶えていない。


 さて、うちの母親は、食事が出来るとすぐに食べに行かないと機嫌が悪くなった。

「熱い物は熱く、冷たい物は冷たく」が口癖だった。

 子供にとっては、えらい迷惑だった。勉強していようが読書をしてようが、すっ飛んでいかなくてはならない。そして、アツアツの食べ物を食さなくてはならない。多分、母はそういう(しつけ)を受けて育ったのだろう。

 食前の儀礼とかがある家ならまだよかったのかもしれない。

 うちにはそういう風習はなく、食に一礼するとすぐに食べなくてはならなかった。

 まず、味噌汁。続いてご飯を一口。それを三度繰り返して食べる。

 武家の作法なので、「いただきます」や「ごちそうさま」は言わない。小笠原流の習いである。上長が箸をつけ、あるいは「いただきましょうか」と言うと箸を取る。

 父がいる場合は、さほどつらくはない。ゆっくりと席について、食事は父が箸をつけてからだ。

 母と二人の食事は、ときに拷問だった。

 出来たての熱い物を、急いで食べなくてはならない。多分、食器を早く片付けたかったのだろう。シチューやグラタンにはあまりいい思い出はない。

 そこで物事を憶えてくると、戦略を考えるようになる。

 激アツの食事と見て取るや、汁物をゆっくりとすすり、ご飯をゆるゆると口に運ぶ。

 母が「はよ食べなさい」と言うと、説教をする。

「お母さん。ちょっといいですか」

 そこでわずかな時間が稼げる。母も箸を置くからだ。

「我が国では古来、仇敵に対する時にはこのような扱いをします。『煮え湯を飲ます』と」

「ちょっと考えてみて下さい。私は仇敵の扱いを受けるようなことをしましたでしょうか」云々。

 これで少し時間が稼げる。本質的な解決にはほど遠いとしても、熱々の食べ物は少しはさめるのだ。

 そして、母が持論の「熱い物は熱く、冷たい物は冷たく」で反論しはじめれば、しめたものである。

 まじめに話している間は箸をやすめる、これがルールだ。


 ある日、正月の特番か何かで宮中の特集をしていて、耳寄りな情報を手に入れた。

 それは、次の機会に大いに役に立った。

「お母さん。ちょっといいですか」

 箸を置く。

「天皇陛下のお台所は、お住まいの二百メートルばかり先にあるそうです。食事が整いますと、膳を持った女官が目の高さまでささげてしずしずと歩み、陛下のお食事どころに運ぶのです。その間に料理は適温となるのです。これが最上の方への扱いです」

「天皇陛下」の一言が権威を持っていた。母には反論が出来ない。「アホなことを言ってないでさっさと食べなさい」とは絶対に言えないのだ。

「自分は、天皇陛下のような扱いを受けることまでは望みません。が、せめて仇敵のような扱いはなんとしてもやめてほしいのです」

 しのごの言っている間に、食事はもう少し冷める。

 そして、私は心置きなく食事がとれる。

……このやりやりを二、三度繰り返しただろうか。母は折れてくれた。熱い物をすぐに食べろとは言わなくなったのだ。


 猫舌が勝利した、少年の日の思い出である。



 追記。

 ふと思い出した。

 ご飯が熱くて食べられないときは、真ん中に縦穴をあけて息を吹き込むといい、と父が教えてくれた。それをすると、めちゃくちゃ蒸気が噴き出して面白い。そしてよく冷ませる。

 母は苦い顔をしていた。


 

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