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微睡む牙古鳥の随筆

不調は幸福の符丁

 もうそろそろ、今年の誕生日を迎えようとしている。


 なんだかんだと生きてきて、もう既に若いという感じはしなくなって久しいが、思い返す日々というものは常に心の隣に寄り添っていて、その距離は決して離れることはない。

 要するに、口語的に言うところの


「ついこのあいだ成人を迎えたばかりなのに、もうくたびれた中年なんですけど!?」


 という感じの、概ね誰しもにあるであろう感覚が、多分に漏れず私にもそう感じられている、ということだ。


 勿論、他者の心のうちというものは、本質的には知り得ない未踏であることから、本当はそんなことを感じている人は実際にはいないのかもしれないが。

 それでも、知り得ないとはいえ――あるいは知り得ない(・・・・・)からこそ(・・・・)、内在の解釈における現実では、他者の言葉というものは、他者の心の少なくとも一部分を示す概念であることに相違ちがいなく、故に「誰かからそう聞いた」ことの、それも複数人からしばしば聞けるタイプのことというのは、即ちそれが一種の典型的な想起(・・・・・・)であることを示すのだろう、と不肖私はそう考えている。


 相も変わらず毎度毎度回りくどい事しか書いていないが、より簡単に趣旨を言うなら、


「まぁよく聞く話だから、たぶんよくある話ってことだよね」


 の一言で不足なく伝えられることを、私自身の解釈で記述し直しているだけでしかない。

 そして、私の書く文章の、特にフィクションでない系統の作品を知っている方々ならば、そういった記述を前文に置いていることが、実のところ作品の主題に対してはビタ一文たりと関係がない場合がそこそこある(※)というのはお分かりいただけていることであろう。


 今回も、そのパターンだ。なので、ここまでの話は正直読み飛ばしても良いです。


 ……なんなら、別にここから先の話だって、別に読み飛ばしても良いですが。興味あるなら、見ても良いんじゃないですかね。有益かどうかは知りませんけど。


----


 正直なところ、誕生日が近いというのはただの事実の表記であって、ここからする話には間接的な関連しかないのである。


 要は、加齢に伴う身体の健康度合いの低下が、最近目に余るようになってきたという話を、今からする。

 幼年期や、いわゆる社会人として独り立ちをするくらいまでの間は、誕生日というものは概ね「祝われることに対して大きな利益を伴う」ハレの日の側面が強く現れるものだが、そこに贈物おくりものを貰うという、短絡的で即物的な利益を得られなくなってからは、誕生日というのは純粋に


「歳を重ね、また一つ死に近付いていった」


 と感じる、一つの契機に過ぎなくなっていく。別に、歳を重ねることが嬉しかった訳ではなく、誰かが寿ことほいでくれるから――それに伴いなにかが貰えるから、誕生日は喜びに紐付けられていたに過ぎないと、そう感じるように変わっていった。


 ……なに? それはお前が欲深のゴミカスなだけ?

 まぁまぁ、そう仰りたい気持ちはよく分かります。正確には分かってなんていないでしょうが、そういうことにしておきます。それでも、別に歳を重ねることそのものは、貴方がたにとってもそれほど利益の高いことではないのかなと思いますが。


 確か、西暦2024年の日本国における年齢基準での制限解除は、把握している限りでは


・18歳:成人(18歳未満禁止のものの合法的閲覧、選挙投票権)

・20歳:嗜好品類(酒、煙草)の解禁

・25歳:被選挙権(各種議員)の獲得

・30歳:被選挙権(参議院議員、県知事)の獲得


 大体こんな感じだったはずで、その他にも小中学校、高等学校への進学も原則としては年齢で決まるので節目にはなるとはいえ、特に20歳をこえてからの権利獲得を心待ちにしている人というのは、そんなに多くはないと思っている。

(飲酒だの喫煙だのに関してくらいまでは分からんでもない)


 なんにせよ、生きる時間が延びるほど、その分だけ老いていくのは間違いない。勿論、成長と言ってもいいのだが、それは単なる言い換えに過ぎないし、人の命が有限のものである以上、我々は生きている間は常に死に近付いていく存在なのである。

 普段は結構忘れがちなその事実を、誕生日という節目が思い出させてくれる。そういう人も、別に極少数というわけではないだろう。……いや、これは別にそうでもないかもしれんな。どうでもいいし。



 と、いうわけで。ここからが本当の本題。

 本当に無駄な話してからしか本来書きたかったことも書けやしねえ。コンテンツ量の不足に対する不安なのか、それとも思った事を思ったまま書きたいだけなのか、それすらも知らん。


 大体、何年前くらいからだったか。少なくともここ五年とかの話ではないはずの、大分前から、健康診断で「要精密検査!!!」の字が踊るようになっていた。

 かねてから悪かったのは肝機能で、今年からは追加だったか元からだったかで脂質代謝と腎機能まで要精密検査の烙印(烙印とかではないけど)を押されてしまったのである。そうはなるまいと、運動を開始したのが同年の二月の半ばとかだったので、どう考えても改善の効果は出ていませんね。それはそう。


 それで、去年の秋ごろから冬にかけて、あること(※)が切っ掛けで


「まぁちゃんと生きないとねぇ」


 と強く思うようになり、数年越しにやっと通院の意思を固めた、というのがちょうど四月の頭のことだった、というわけ。

 通院だけでなく、運動習慣の再獲得を目指して朝活や、とかもひと月以上続けられていたり……やはり生きる活力というものは、そこにいる誰かへの執着や、その他諸々の現世に対する欲に起因して生じるものなのだなと再認識しつつ、馬鹿な生き方に対して「のう!」を突き付け、過去の自分と決別をしよう――まさに、そういう感じでありました。


 そうしていたら、ちょうど一週間ほど前に。

 爆発したんですよね。左膝。


 ……当たり前ですが、別に「左膝に知らん間に火薬と起爆装置が詰められていた」とかそういう話ではなく。そんな奇矯エキセントリックな誤読かます奴はおらんと信じてはいつつ。そもそも、そういう奴はたぶん私の書く文章を読めん。


 足の不調は、運動をしている時――に限らず、年に何度かある。特にこれといったことはしていないのに、足の甲であったり、膝であったり、とにかく一部分が痛くて痛くてたまらなくなり、満足に動くことも難しくなるのだ。動くことすら億劫おっくうで……生きているのも苦痛に感じる、そんな感じのな感じ。


 だが、その日は少し違った。違和感を感じたその日は、違和感程度で済んだ。

 次の日は、本格的に痛み始めた。姿勢を変える時にも、酷く痛む。歩くのだって、避けたいくらいに。歩かないわけにもいかないから、そういう時は頑張って耐えて動く。いつものことだ。


 その次の日は、地獄だった。文字通り、歩くことすらままならないのに近かった。これは流石にシャレならんと、ほんの近所にある整形外科に、開院を見計らって向かおうとした。


 身を清める。座る脚を、動かしたくない。

 服を着替える。姿勢を変える、それだけですら苦痛で。

 靴を履く。曲げる脚が、死ぬほど痛い。

 外に出て、エレベーターに向かう。ほんの数メートルが、あまりに遠い。

 下に着く。歩ける気すらしない。

 外に出て、坂を降りる。歩けているのかも微妙な、亀の歩み。


 ……頑張って、病院の前に着く。開くのはまだ二十分ほど先のこと。

 腰を掛けて……一息つけない。休息するには、あまりにも痛い。


 少し早く、病院は開く。……立ち上がることもままならない。無理矢理に、体を動かす。

 扉を開ける。靴が脱げない。壊れそうになりながら、なんとか脱いで、中に入る。

 受付で、初診の旨を伝える。順を待つため、席にかける。

 いくらかの時間の後、やっと呼ばれる。立つことは出来ても、既に歩けず。


 そう、その辺からもうまともに歩くのも無理になっていた。

 でも、こんな時のために練習していた……というわけでは別にないが、私には「足首を回す動作だけで横方向に進む」特技があったので、それで移動していった。手順的にはこんな感じ。


・かかとで立ち、つま先を進行方向に動かす

・つま先で立ち、かかとを進行方向に動かす


 単純な二手を繰り返し、先へ進む。まったく、この世には無駄な研鑽というものはなかったようだ。知らんけど。


 なんにせよ、そんな感じで死にそうになりながら医者のもとまで辿り着き、左膝に溜まっていたらしい水を抜いてもらったわけだ。

 ……なんか、凄い色してたよ。医者いわく、普通は無色らしいところを、素人目にもド汚い、凄く濁った黄色の水が、膝から抜かれていった。多過ぎたので、二回に分けて。


 そこから帰るまでも地獄は続いたし、痛み止めが効くまでの同日日中もずっとキツかったのはキツかったけれど、痛み止めが効いてからは、流石に死ぬ感じはしなかった。生きる時間に痛みがないとか、少ないのは本当に良いことだと知った。



 結論としては(といってもあくまで中間所見ではあるが)、高尿酸血症――ざっくり言うと「痛風」とのことでした。本格的に、生活習慣病の足音が間近に迫っているらしい。

 これをもって、現在は高脂血症と高尿酸血症の治療中ということになってしまった。あるいは、もっと早めに通院していれば良かったのだろうが。


 だが、これらの経験もまた、無駄なことだったとか、単純に悪いことだったとかは思わない。勿論、幸福か不幸かで言うならば、病気というものは概ね不幸に属する概念であるのは間違いないのだが。

 悪いことの中にも良いことはあって、簡単に言えば「不幸中の幸い」という一言で表せる概念。今回で言えば、膝の痛みが癌とか細菌性の感染症でなくて良かったし、膝から下を切断する羽目にならなかったのは幸福と言える。


 実際「そうなっていてもなんらおかしくない」ような生き方を、今まではしてきていたという話だ。今はもう、長く健康に、なるべく幸せに生きていたいのだと切実に感じている。故に、そのために出来る努力は最大限にするべきだ。


 運動の習慣は、絶やさずに。

 食事は、過剰となることを避けながら。

 睡眠もやはり大事で、しっかり寝よう。


 不健康が、不調である状態を経由することが、改めて「幸福」というものの本質の符丁となる。もう二度と経験したくない不幸の一端こそが、普段の変わらない日常の有り難さを教えてくれる。


 何事もない退屈な状態が、安寧の幸福であることを知る。


 何かを得ることが幸福であるのだとしても、失いたくない何かを失わないでいられたこと。それもまた、本来は「得難い幸福」のひとつなのであると、二度と忘れることがないようにしたいものだ。



 あるいは、遠からず死に至るのかも知れなくても。

 それが、なるべく遠い未来となることを祈るとしよう。

※前文が主題に関係ない:たまにあるときもあるので……

※健康に生きる切っ掛け:俗に言う「推し活」。もし興味あれば「結虹なる」(ゆっこなる)で検索や!

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