第11話 イベント発生には恥じらいも大事……?
ウタ姉とショッピングモールへ行ったその翌日。空がまだ薄明るいと表現しても良い明るさの、朝6時を少し回った頃。
俺はバイト先(予定)である近所の喫茶店に出向いていた。今日から見習いのバイトとして、土日祝とバイトの日々が始まる。……どれも、研修期間で及第点を貰えれば、の話だけど。もし働くことが正式に決まったら、平日の午後にもバイトを入れる予定だった。
(……うん。やっぱり、いい雰囲気だな、ここ)
俺は店の正面に立って、町の喫茶店にしては大きくて立派な外観を眺める。落ち着いた色合いの壁と、窓枠やドア枠、屋根などの要所にレンガ色がある。壁にはご丁寧にツタまで生えていて、まさに喫茶店と言う雰囲気。現実世界とはどこか隔絶されているようにも感じられるこの場所には、小鳥遊家もちょくちょく立ち寄っていた。
(卓さんと詩音さん。いっつもモーニングセット、頼んでたっけ)
家族との思い入れがある場所で働くことができる。そう思うと、自然と口角が上がるのが分かった。
入り口には「close」の看板がかけられている。けど、店内にはもう明かりが点いていた。
「お、おはようございまーす……」
とりあえず挨拶をしながら、入店する。人生で初めてのバイト。緊張で声が小さくなるのは許して欲しい。
と、ドアを開けたとたんに広がる、コーヒーの良い香り。自分でもコーヒーを飲むようになってからは、この香りで妙に落ち着くようになってしまった。
緊張でガチガチだった心と体が、ほぐれていく。小さく息を吐いて顔を上げると、視線の先、カウンター席の奥で微笑んでいる老人と目が合った。
白髪と言うのが憚られるほどのハリとツヤのあるグレーの髪。60は超えているはずなのにスッと背筋は伸びていて、コーヒーカップを拭く姿は様になっている。身長は俺よりも高くて、180㎝はありそうだ。目元、手元には確かにシワはあるんだけど、それすらも貫禄と呼べそうな。ゲームで知った単語「好々爺」という言葉が似合う、そんな紳士だった。
「おはよう、小鳥遊くん。今日からよろしくね」
落ち着きのある声で、微笑みかけてくれる店長さん。また少し緊張してきたけど、家族でよく訪れていた店。店長とは顔なじみと言える仲だ。挨拶を返すことは出来る。
「は、はい! よろしくお願いします!」
「元気いっぱいだね。……それじゃあ早速、着替えてもらおうか。お手洗いの横に控室があるから、そこで着替えてね」
「わ、分かりました」
「多分もう1人、小鳥遊くんの先輩が居ると思うから。部屋に入る時はノックしてあげて」
店長さんの言葉に頷いて、俺は左手奥にある奥まった通路を目指す。その道中、俺は店内を見回す。今日からここが戦場だ。マップの把握は大切になって来る。
ゆとりのある「く」の字に折れたカウンター席が8席。カウンターの奥に厨房がある。お店入って左手、お手洗いに近い窓際に、皮張りのソファ席が2つ。右手側に計6つのテーブル席があった。
ソファ席が6人掛け。テーブルには2~3人が座ることが想定されているから、理論上は最大で38人。これを店長さん夫婦と、バイト2人で回すことになりそう。
(先輩。どんな人なんだろ……?)
優しい人だと良いな、なんて思いながら、控室の扉をノックする。と、中から「はーい」と言う女性の声が返って来た。
「小鳥遊です。入っても良いですか?」
「あれ、先輩? ……どうぞー!」
少し違和感のある女性の発言に首を傾げつつも、俺は控室に入る。
そこは、大体8畳(約3.6×3.6)くらいの部屋だった。中央にはお店にある物と同じ丸テーブルと椅子が置かれていて、壁沿いに従業員用のロッカーが4つ、並んでいる。控室と言うだけあって、特筆すべきものと言えばそれくらいなんだけど……。
「どうしたんですか、ウタ先輩? 風邪でも……え?」
口に、栄養が詰まったゼリーパウチを咥えながら着替えをしていたらしい先輩バイトさん。店の制服でもあるブラウスのボタンを留めながら俺を見て、固まってしまう。同時に、呆けたように半開きになった先輩の口からパウチがこぼれ落ちた。
自毛……かな? 長い銀髪がサラサラと背中からこぼれ落ちる。日本人離れした長い手足、整った目鼻立ちもそうだけど、外国人の血が混じっていそう。多分、日ごろウタ姉の姿を見てなかったら見惚れてしまいそうな、不思議な雰囲気を持つ女性だった。
そんな銀髪先輩バイトさんは、さっきも言ったようにブラウス1枚の姿。ブラウスのおかげで、ギリギリ、上下ともに下着は見えていない。ただ、きれいな鎖骨とその下にある胸元は見えてしまっている。
「お、おはようございます?」
「あ、うん、おはよう。……キミ、誰?」
最初に挨拶した俺が言うのもなんだけど、このまま話すんだ。とは思いつつも。
「小鳥遊です。小鳥遊、好。唄は俺の義姉です」
「あー、なるほど。ウタ先輩の、弟さん。……なるほどね」
ひとまず足元に落ちたパウチを拾い上げながら、うんうんと首を縦に振っている先輩バイトさん。屈んだせいでいよいよ青いブラジャーが見えたけど、本人に気にした様子がないから俺もスルーする。
この人の言葉から分かったかもだけど、実はこの喫茶店、去年までウタ姉がバイトしていた場所でもある。いわば伝手を頼る形で、俺はこの、雰囲気のある喫茶店で働くことが出来ていた。
「アタシは飛鳥。飛鳥ヘレナ。聞かれる前に言っとくと、お母さんがフィンランド人。髪はもともと色が薄いんだけど、一応、染めてる。学年はキミの1つ上で高2。よろしくね」
「あ、はい。よろしくお願いします」
それはもう淡々と、自己紹介を済ませてくれた飛鳥さん。その間も着替えの手を止めず、気付けばブラウスに黒のスラックス姿になってしまっていた。途中、チラチラと青い布が見えたはずなのに、一切合切ドキドキしないのはどうしてだろう。
「あ、早く着替えてね。多分アタシが教えることになるだろうし、覚えることも多いと思うから」
じゃね、とだけ言い残して、最後に長い髪を1つにまとめながら控室を出て行く飛鳥さん。控室の窓の上にある時計を見れば、開店まであと10分もない。
(……なるほど。恥じらいって、結構大切なんだな)
お互いに動揺しなければ、特別なイベントなど発生しないことを確認して、俺も早々に着替えを始める。とは言え、違和感を覚えながらもドアを開けた俺の不注意でもあるはず。
手早く着替えを済ませた俺は店に戻ってすぐ、飛鳥さんに頭を下げる。
「さっきは、すみませんでした……」
「あ、うん、大丈夫。アタシの方も不注意だったし。ウタ先輩、辞めたの知ってたしね。まぁ悪いと思うなら、仕事を早く覚えて、アタシを楽させてくれると助かるかな」
青みがかった目を細めて、苦笑してくれる飛鳥さん。落ち着いた話し方もそうだけど、先輩と言うだけで妙な包容力がある。それに、どこか現実離れした空気感を持っているからかな。ゲームの中に居るみたいに、全く緊張しない。
「えっと、改めてよろしくお願いします」
「あはは、何度目? でも、うん、よろしくね」
こんな一幕で、俺の高校生活における初めてのバイトは幕を開けたのだった。




