開戦の狼煙
山中に建てられた巨大な宮造りの屋敷。日はまだ高い位置にあったが、そこは鬱蒼とした木々に覆われ薄暗く湿っていた。屋敷内には行灯や燭台などの照明器具が至る所に置かれていたが、どれも厚く埃を被り、長い間使われていないことが窺える。
そんな光が入らない薄暗い屋敷の一室で、欄干に寄りかかった男が退屈そうに高層ビルが立ち並んだ眼下の景色を見下ろしていた。腕には幼い少女を抱えている。
華奢な少女とは対照的に、男の見た目はまさしく獣。結び紐で纏めきれていないゴワついた黒髪を肩まで伸ばし、着物の裾からは逞しい体躯がのぞいていた。
「夜咫さま、紫雲が帰ってきた」
「あぁ、そのようだな」
眠っていた幼女がふわりと目を覚まし、舌足らずな言葉で夜咫に告げた。
直後、襖が外れんばかりの勢いで窓から強風が吹き込んで来る。
「夜咫様!!」
突如として部屋に姿を表した男が、興奮した様子で夜咫に頭を垂れた。着物を纏ったその容姿はスラリと長く、一纏めにされた髪が垂れる様子はさながら柳のようにも見える。一見すると人間と変わらない姿をしていたが、山羊のように横に伸びた瞳孔は人のそれとは異なっていた。
「全く騒々しいな。紫雲、窓から出入りするなとあれほど」
夜咫が呆れたような視線を向けるも、紫雲はバッと頭を上げ興奮が抑えきれない様子で続ける。
「夜咫様!一族の生き残りを見つけたのです!」
紫雲の報告を聞くや否や、夜咫も目を細め、喜びを隠しきれない様子で喉で笑った。
「…そうか。実に久しぶりだな。十年…いや二十年ぶりか」
「はい。我ら総出で捜索しているにも関わらず、これほど時間がかかるとは…たかが人間ごときにお恥ずかしい限りです」
「まぁ、そう気に病むな。彼らはかつて妖共から力を借り、国を治めていた者たちの末裔だ。血が薄れ、その力が衰えたといえど厄介な能力を持っていることに変わりはない。一筋縄でいかぬのはお前も承知の上だろう」
苦虫を噛み潰したように顔をしかめた紫雲を、夜咫は静かに宥めた。
「それで、場所は?」
「ここから南東にいくつか山を超えた先、温泉街近くの山中です。奴はひどく気配に敏感でした。恐らく犬の一族で間違いはないかと」
「だろうな、他四つの一族は既に仕留めた。残るは彼らだけだろう。紫雲、この件はお前に任せる」
「はい」
紫雲はニヒルな笑みを浮かべ、恭しく頭を下げた。
「俺は古い友人に会いに…ん?そういえばお前、なぜ相手が気配に聡いと分かった?」
夜咫の問いに紫雲が固まる。
「…お前、気づかれたな」
バツが悪そうに視線を逸らした紫雲の様子に、夜咫はジトリと不機嫌そうな視線を向けた。その口端から覗く犬歯は獣のように鋭く尖っている。
「…っそ、それがですね夜咫様。距離は十分に取っていたのですが…」
「紫雲、失敗した?」
それまでぼんやりとニ人の会話を聞いていた少女が可笑しそうに笑った。紫雲は黙れというように少女を睨みつけたが、突然襲った背筋の毛が逆立つような威圧感に、ハッと夜咫へと視線を戻した。
「気付かれたことは仕方がない。だが、また逃げられても厄介だ。早々に向かえ」
「はっ」
紫雲は緊張した様子で応えた。夜咫の声音は先ほどまでと変わらず穏やかだったが、ビリビリと肌を指すような“ここには居ない誰か”へ向けられた凄まじい憎悪の感情は、長く付き従ってきた紫雲でさえも一瞬身を竦ませる程のものだった。
「それとお前、妖たちに食い物を与えるのは構わないが大概にしろ。無闇矢鱈に町や人を消すな。猟犬に追われたら面倒だ」
「善処いたします」
否定とも肯定とも取れない返答に、夜咫はため息をついた。
「では」
再び頭を下げた紫雲の姿が煙のようにふわりと消え、その直後、外へと強風が吹き抜けて行けていった。その反動で屋敷全体が揺れ、柱の軋む音が響く。
「あついは本当に騒々しいな。鹿というのは静寂を好む生き物ではないのか」
夜咫はうんざりしたように呟いた。
「紫雲は昔からうるさい。だから賑やかなお祭りも好き。赤音も…お祭りは好き」
「あぁ、そうだったな。だが、それとこれとは別だろう。あいつは昔からガサツすぎる」
少女の言葉に、夜咫も過去を懐かしむように言った。
「さて、赤音。俺たちも出かけるぞ」
「どこへ?」
「先ほど言っただろう。古い友人…蛇姫のところだ。一族の生き残りが見つかったと知ったら、奴も喜ぶだろうさ」
夜咫はその分厚い掌で赤音を撫でるとそっと床へと下ろした。一際大きな欠伸をし、未だ眠そうに瞳を擦りながら部屋を出ていく赤音の姿を愛おしげに見つめていた夜咫だったが、その視線を再び眼下の街並みへと向けた。
「どこへ隠れようとも逃しはしない」
唸声にも似た低い声で呟いた。その表情には笑みが浮かんでいたが、血のような真紅の瞳の奥では先ほどと同様、強い憎悪の光が燃えていた。