第七話 「命懸けの涙」
「荻野!聞こえるか!」
俺は叫んだ。目の前の血まみれの霊が、実は良平だったということはさて置いて、ここにこのまま居続けるのはまずい気がしていた。
「…なに」
荻野は案外近くにいる。そして声が冷静さを取り戻していた。
「お前には今、良平の姿は見えてるよな?出口はどこだ?なんでいま俺は血まみれ野郎の姿は見えてお前たちの姿が見えないんだ!」
荻野はまた、何も言わなかった。本当にイライラしてくる。大事な時ほどなぜ黙るのか。同じ人間のはずなのに、味方なのか敵なのか、わからなくなりそうだった。
「…今は出られない。あなたはいま人間じゃない。だから妖の姿は見えても、私たちの姿が見えない」
荻野は淡々と喋っているが、俺らをこのやばい場所へ導いた当本人はこいつで、出られないとかなんとか言っている。俺がいまは人間じゃないとも。意味不明だ。自分で入ってきたのに出られないわけがない。人間じゃないわけがない。
良平の声が不自然なほど聞こえない。まだ気を失っているのだろうか。生きているのだろうか。心配だ。
「ああ…我を完全なる妖にしてくれ…。こやつが憎い…憎いのに何もできぬ…手を下せぬ…。なぜなのだ…なぜだ…神よ…。ううう、苦しい…苦しいのだ…神よ…。」
血まみれ野郎は、俺を睨むのはやめずにさっきよりも苦しみ出した。いよいよ本格的にやばそうな気配だ。そしてまた足元の闇が沈んでいる気がする。また足や手を闇に取られたら逃げられるかわからない。
そして、俺は限界だった。
もともと気が長い方ではないし、器用にこの場を切り抜けられるような脳みそなんてない。冷静に考えても、考える時間がそもそも無駄だ。
この霊がどうなろうが荻野が泣こうが喚こうが、俺らになんの関係がある?
みんなの命が最優先だ。
「良平!!おい!返事しろ!!」
俺は必死に腕を振り回し、良平を探した。霊は完全に離脱しているし、もうとっくに気がついてもいい頃だ。とにかく逃げたい。今はもうその一心だ。
嗚咽のような声がした。
荻野がまた、泣いていた。
構うもんか。どれだけ危険な目に遭ったと思っているのか。いまは泣いている理由を考えてあげるような事態じゃない。
「良平!!まだか!!返事しろよ!!」
俺は闇雲に走り出した。良平はうんともすんとも言わない。
すると、誰かが俺の腕を捕まえた。
荻野だった。
「…荻野。お前さ、さっきからなんで止めるんだよ」
荻野はまた泣きながら俺の腕を掴んでいた。
俺はようやく足を止めた。うんざりしていたが、荻野にも言いたいことはあった。
「中途半端だな。俺らをやっとここまで連れてきたのに、肝心なところは教えてくれないんだな。お前、ここで起こることも全部わかっててここに呼んだんだろ。あいつがなんなのか、なんで良平の顔してんのかも知ってる。そうだよな」
荻野の肩が震えている。
俺はため息をついた。深く深く、感情を吐き出すように。きっとここで俺が感情任せに動いても、何も解決には進まないのだろう。そう思ったから。
「なんでここに俺を連れてきた。何かを解決するためだろ?少しは信じたんだろ、俺のことを。違うか?」
荻野は顔をあげた。
違くない…んだよな。
俺は荻野の手を取った。
「じゃあ今、完全に信じろ。俺もお前を信じるから。1人で抱え込むなよ。な?もう一度言うけど、まずは3人でここを無事に出るんだ」
荻野の頬に何筋もの涙のあとがある。たくさん泣いたのだろう。
「あなたなにも変わらないのね」
荻野は俺の言葉を噛みしめるようにゆっくりうなづいた。
「え?」
何も変わらないって?なに?
涙を拭った荻野は俺の反応を無視して、何かを腹に決めたような凛々しい顔をしていた。
なんか、やっぱり俺、ヒーローっぽくね?
「みつ…き…。ぬけ…がけ…するな…あ、いってぇ…。」
良平の声がする。血まみれ野郎がまた反応した。うめきながら良平の声の方に向かった。
「良平!どこだ!手を伸ばせ!触らないと姿が見えない!」
「体…肉体…我の肉体…返せ…もう少し、もう少しで我の記憶が戻る…返せ…。」
さっきと同じだ。また良平の身体をのっとるつもりだ。
俺は走った。あいつより早く良平を捕まえればいい。
「待ちなさい!!!!」
どう動いたのか、いつのまにか荻野が血まみれ野郎の前に立ちはだかった。
俺が驚くのも束の間。
荻野は血まみれやろうを抱きしめたのだ。
すると血まみれ野郎の体はまた色が薄く、曖昧になり始めた。良平の本体が消えた時とは少し違う。周りの闇がどんどん吸収していくようだった。
「ゔゔゔああああああああやめろ!!!」
血まみれ野郎は叫んだ。荻野は力を緩めない。
血まみれ野郎は闇に飲まれ、やがて消えてしまった。
今度こそ!!いまだ!!
「光希!!ここ!光希!!!」
声はかなり近い。俺は血まみれ野郎が見据えていたあたりを必死で探した。すると手の甲が何かに触れた。
ビンゴ。
目の前に良平が現れた。
「うわ、光希、久しぶり。てか、頭いってえ。え、なに、走った方がいい?」
良平は俺の姿を捉えるや否やそう聞いた。怖いとか、わけわからんとか、何かしらの気持ちがあって当然な状況なのに、つくづく頭がきれるやつだ。
「わかんないけどそうしよう。荻野!でるぞ!」
「あ…」
良平が荻野の姿を捉えた。しかし目の前にいた荻野は、俺らが今まで見てきた荻野ではなくなっていた。
そこにいたのは着物を着て、長い黒髪を地面に這わせた、歴史の資料集で見たような古代日本の女性だった。
「…ごめんなさい。事は終わった。全てを説明させて欲しいの」
顔は荻野だ。何枚も重ねた薄い着物の最上層に高貴な黄土色の着物を着ている。現代風の言葉遣いが全くと言っていいほど似合っていない。
「荻野…?椿…さん?」
俺が言うと、良平が違うだろ、という顔で俺をみてきた。それほど違うのだから無理はないだろう。
「しっ!静かに」
荻野らしき女性はふとあたりを警戒し、俺らを着物の袖で隠した。たしかに気配があった。近くをまた違うやつが通ったのがわかる。
「…今の騒ぎで他の妖が集まり出してる。ついてきて」
俺らは黄土色の着物の後ろをひたすら歩いた。時代劇に出てくる護衛の人みたいだ。さっきまで気がつかなかったが、神経を少し落ち着かせると、血まみれ野郎ではないが近い存在のものが結構周りの闇の中にいることに気がついた。何を言っているかはわからないが、耳をすませば少しザワついているような音もする。
「光希!あれ…」
良平が見つめる先にあったのは、ここに入るときに見たきりの、ボロボロの木の引き戸だった。
その時の感動たるや。
ファイナルファンタジーを4日徹夜と半日くらいでバグなし、チート機能なしで全クリして、エンドストーリーを観ているときのような、あの感じ。
疲れた…寝てえ。
「さあ」
荻野らしき人は引き戸を難なく開け、俺らを外に促した。
「あの…あなたは?」
良平が丁寧に聞いた。
「最後に出る。あなたたち、外側からこの扉を開けて押さえておいてくれる?」
「…わかりました」
俺は感動で声もでなかった。
やっと出られた。帰ってこれた。眠い…。
俺らは引き戸の外に出た。
外は夕暮れのままだった。風が吹き抜けると、開けた土地の草木がそよそよと揺れた。生き返った気分だ。
いや、もしかすると本当に死んでいたのかもしれない。
この廃墟の中での一部始終が蘇る。俺は引き戸をぼうっと見つめた。
「光希、空けるよ?」
良平は引き戸をがっしり掴み、臨戦態勢に入っている。そういえば荻野もかなり引きずられながらやっとな感じで開けていた気がする。
疲れた、倒れそう、もう無理。
しかし俺は袖をまくりあげ、四股を踏むように地に足を生やした。
今日最後の仕事だ。
「せーーーのっ」
-つづく-