第四話 「霊と妖」
霊じゃない?この世には霊じゃない他のものがまだ存在するということか?
俺と良平は顔を見合わせた。今までこういうことがなくはなかったが、霊なのか他の何かなのかなんて考えたこともなかった。
「わたくしは…霊ではない。もしかして…」
明るい血まみれ野郎の表情が曇った。すると途端にぞわぞわっと身の毛がよだつ。こっちの背筋が凍るような、気配そのものが暗く重く沈んでいくような、周りの空気ごと支配しているような感覚。
荻野はため息をついた。
「そう、あなたは妖⦅あやかし⦆なの。」
荻野は初めて血まみれ野郎に言葉を返した。それはことの重大さを表しているように思えた。良平もそれに気づいたようだ。
「荻野さん。霊と妖だと何が違うの?」
荻野が答えようと口を開きかけると、血まみれ野郎がそれを遮った。
「いいのです、椿様。どうりで、身が軽いと思いました。このような見た目の割に、中身が軽いと言いますか…。」
血まみれ野郎は言葉を切り、窓の外で流れていく景色を目で追った。今朝見たばかりの、寂しそうな顔だった。
「わたくしはきっと人間だったのです。ですから心の臓の重さを覚えているのでしょう。しかし日が経つにつれ、胸は次第に軽くなっていきました。わたくしがわたくしでなくなっていくのを、ただこの身で感じていたのでしょう」
荻野もつらそうにうつむいている。過去に何かあったのだろうか。
「ただ…わたくしにとってはそれが恐ろしいのです。現にいま、わたくしには記憶がないのです。わたくしが何者なのか、何をしていたのか、何をしなければならないのか…何も存じ得ないのです」
良平は荻野が何も言わずうつむいているのを見て、それ以上は何も聞かなかった。
血まみれ野郎は窓の外を眺めながら、話し続けた。
「怖かったのです。ですから、同じような得体の知れない身柄の同士を頼り、光希様のお噂を耳にし、ここまでやって参りました…。しかし、思わぬ偶然。椿様のお陰で、わたくしは自分が何者なのか分かったのでございます」
血まみれ野郎の表情はまた元に戻っていった。すると同時に、重く、暗くなっていたあたりの空気が軽くなっていった。
閉まっているはずのバスの窓から、冷たいがさっぱりとした空気が入り込んでくる。
「…わたくしは、今から在るべき場所へ赴くのでしょう?」
血まみれ野郎がきくと、荻野はゆっくりとうなづいた。
「そう。あなたのやるべき事は、自分が何者なのか思い出すことではなく、そこで役目を果たすこと」
血まみれ野郎はも胸に手を置いて、そっとうなづいた。それは今の胸の軽さを受け入れたような、自分自身をやっと認められたような、穏やかな表情だった。
「…そこはどこなんだよ。こいつがいるべき場所って、どういうところなんだ」
俺は我慢できずに聞いた。「行けばわかる」とか、秘密とか、あんまり好きじゃない。気になって仕方がないから。
ただ荻野はそんな俺の気持ちを見透かしたように(本当に見透かされているんだけど)、左側の口角だけ上げて冷たく言い放った。
「…田村。いけばわかるから」
まず先輩呼び捨てにしちゃダメだろ。
俺のそんな表情を見て、血まみれ野郎と良平はぷぷっと軽快に笑った。
「着くわ。ついてきて」
荻野はバスを降りると、バス停のすぐ脇の林に囲まれた階段を途中まで登り、木の間にぽっかりと空いた穴からその林の中に入って行った。
「うわ…まじかよ、無理だって」
良平はこういった男の子が好きそうな場所が苦手だ。なぜかというと、虫が嫌いだから。つくづく2枚目気質でムカつくやつだ。
荻野はそんな良平の言葉を無視して、その林の中をどんどん進んだ。慣れているのか、すぐ姿が見えなくなった。
となりのトトロ かよ。
うねうねと曲がって生えた木が細くて暗い道を作り出し、かがんで歩かないといけない。
すると、突然視界が開けた。
そこは林に囲まれた広い芝生が広がる、街灯も道路もない、まさにスタジオジブリの作品に出てくる主人公が住んでいそうな土地だった。
「なんだよ…ここ。すげえ」
俺は興奮が抑えられず、辺りをキョロキョロと見回した。人もいない、立ち入る気配もない、暗くなったら何も見えないだろうその場所は、小さい頃に憧れた秘密基地のようだった。
視界の端に荻野をとらえた。
そこには、今にも倒れそうな廃墟が二つ重なったような、遠くから見たらただの瓦礫の山にしかみえない建物がたっていた。
荻野は2つある入り口の、右側の前で立ち止まっていた。片方の手をボロボロの引き戸にかざし、何か感じ取っているようにも見えた。
すると荻野は勢いよくその引き戸を開けた。
後ろで叫び声がした。
急いで振り返ると、良平はけろっとしている。
「どうした、光希。」
良平が俺に問いかける。良平の後ろにいたはずの血まみれ野郎がいない。
どこだ。
必死にさがすが、見つからない。気配もない。こんなことは初めてだった。
すると、次は荻野が叫んだ。
「入って!早く!!扉が閉まる前に!!」
荻野は膝をつき、廃墟の引き戸を開けて閉まらないようにしがみついていた。
今にも崩れそうな引き戸は、バタバタと音を立て、閉まろうとしていた。
荻野の小柄な体は引きずられ、膝から血が滲んでいるのが遠目に見えた。
「光希、どうする?」
良平はその様子を不可解な目で見つめながら、なおかつ冷静に聞いてきた。
どうするも何も、行くしかなくね?
俺は答えるより前に走り出していた。
よくわからないけど、荻野が必死になって入れと言っている。
荻野の事を何も知らないけど、
荻野はきっと俺らを信じている。
根拠はないけど、そんな気がしている。
それにきっと、
いま荻野を信じて失敗するより、
荻野を信じずに失敗した方が後悔する。
良平も走りながら俺に並んだ。
目が合うと良平は真っ直ぐに俺を見据えて、
腹を据えたようにまた前だけを向いた。
大丈夫だよな、こいつもいるし。
-つづく-