階段
階段の怪談なんて下手な洒落のようだが、それが案外そうでもない。自分が聞いただけでも階段にまつわる怪異な話は少なくないのだ。
古い話だと自分の遠縁のじいさんの話がある。自分の故郷は山あいの30戸くらいの集落で、苗字が2種類しかないような田舎だから、みんな親戚のようなもので、ふつうに付き合っている分にはいいのだが、いったんこじれると大変だったようだ。
結婚か葬式か、土地か水利か、昔のもめごとはだいたいそんなものだが、そのじいさんもそんなことだったのだろう、しかし本人は思い詰めに思い詰めて、鎮守の森に通い詰めるようなことになったらしい。夜中に願掛けに行く、早い話が憎い相手を呪詛しようというのだから、いいことではないし、効果だか霊験だかがあるとは思わないのが常識だろう。
ところが、年中顔を突き合わせて米櫃の中まで知り合っている間柄というのは感応し合うところがあるのか、相手は次第に具合が悪くなり、寝つくようなことになった。じいさんはますます熱心に神社に参る。百段近い石段を毎夜毎夜、登り降りして、大願成就のその小ぬか雨の降る雨の夜、ぬるぬるする足元を見るとどうしたことかその石段は墓石だった。しかも足で踏みつけた俗名という文字には……
自分の祖父が我々腕白坊主どもをおびえさせながら語り、「人を呪わば穴二つ」と重々しく言って、にらみつけたのを思い出す。
従兄から聞いたいわゆる都市伝説的な話を紹介しよう。足の骨を折って古ぼけた病院に友人が入院していた時のことだそうだ。不自由は不自由だが、体はなんともないものだから、夜は眠れない。眠ったとしてもうつらうつらして、冷房の効きもよくないから汗でじっとり湿ったベッドの上に起き上がってしまう。
変に喉が渇いて缶入りのお茶でも飲もうかと思って、エレベーターまで杖をついて歩く。空っぽのナースステーションの前を通ってボタンを押すが、いくら待っても1階に表示は止まったままだ。ギブスをつけた足で玄関ホールの自動販売機まで降りて行くこともないが、あのベッドに戻ってもすぐに時間を持て余すに決まっている。
痛くなったり、嫌になったら戻ればいいだろうと思って、階段に向かう。これが4階だったらやめておくところだが、3階だから微妙なところだなとその友人は思ったそうだ。
この病院は古いだけあって、204号室とか、304号室はない。それがかえって数字についての迷信を意識させられるところがあって、そう考えたのかもしれない。
階段は降りるのが怖い。不自由な足で杖と手すりにつかまって、恐る恐る降りるからなおさらだ。
病院のにおいが好きな人はいないだろう。人間が生きたり、死んだりするときに発するものを無理に消毒液で覆い隠したようなにおいを嗅いでいると、見えないはずのものが見えたり、聞こえない音が聞こえたりする。
奇怪な幻想にはまり込んでしまいそうなので、気晴らしに段数を数えることにした。3階と2階の間の踊り場から14段、2階から次の踊り場まで12段だった。
踊り場というものはちょうど真ん中にあるものだと思っていたのにずれている。階段の長さが違うのかなと思って、上を見上げるとジグザグの階段が目に飛び込んで来て、見ない方がいいと思った。
この病院は4階建てで4階も病室のはずなのにエレベーターや階段では行けないようになっている。不自然な鉄の扉が階段に取り付けられていて、いつも施錠されている。ナースに訊いても、
「何でもありませんよ」と硬い表情で答えるだけだった。
その4階も屋上への階段も隙間からは見える。見えるけれど、ものすごく大きな顔がこっちを見下ろしていたら嫌だなと思ってあわてて目を伏せた。そんなふうに考えるのは滑稽と言えば滑稽だが、神経がピリピリしているから、何でもないものが違って見えたりするんじゃないかという心許なさがある。
ようやく1階に着いて、玄関ホールでぼんやりと光っている自動販売機で、お茶のボタンを押すといきなり「ありがとうございました」と甲高い機械音声が響いて、びくっとなる。人騒がせな工夫をするものだが、昨日ここで買ったときにはそんなことは言わなかったような気がする。機械が変わったような様子もない。
そのくせ全然冷えていない缶を持って、エレベーターのところに行くと今度は4階にいるという表示になっていて、ボタンを押しても降りて来ない。たとえ降りて来ても、ドアが開くのを見たくない気がする。
仕方なく階段を登り始める。少し嫌な予感があったのだが、数えながら踊り場までたどり着くとあにはからんや13段だった。エスカレーターに乗ると最初と最後で平衡感覚が狂ったように感じるが、あれと同じ気分だ。数え間違いだと無理に思うことにして、また2階を目指すが、知らないうちに「1、2、3……」と声に出してしまっていた。
13まで数えて2階に着いたとたん缶を持った手で手すりに縋っていたせいで、落としてしまった。ごとんごとんと踊り場まで転げ落ちる。
「今日も、お疲れ、ですね」
さっきの自動販売機の音声が変に途切れながら聞こえる。この病院は、1階は外来だけで、救急もやっていないから夜は誰もいない。階段はこれしかない。あの自動販売機で飲み物を買う人影はいないはずだ。
怖くてもう我慢できないからお茶なんかほったらかしにして、2階のナースステーションに駆け込もうかと思ったのだけれど、ふと違和感を感じた。階段の縁が光っている。思い当たるものがあって、また降りて行く。
12段しかない。降りるときは12段と14段、登るときは13段ずつ。踊り場の白い壁に階段が呑み込まれたり、吐き出されたりするのか。そうやって患者を惑わしていつまでも階段を上り下りさせるのか。一体何者が。総毛立つような思いをした時、上の方でガチャガチャと鍵が開くような音がして、鉄の扉が開く。……
その後、何があったのかその友人は憶えていない。朝、ベッドにいる自分をまるで落し物を見つけたように見出したと言う。見たはずのもの、されたはずのことがちぎり取られたような感じだった。
検温に来たナースに階段のところにいなかったかと訊くと、
「何でもありませんよ」と言う。
彼がお茶の缶を握りしめているのに気づくと、
「退院されるつもりなら」と目だけで笑いながら付け加えたが、その声には別の声が混じっているように聞こえたそうだ。