3 記憶 ~ 食事 ~
1
その日はなんだか朝から少しだけ気分の塞いだ日だった。
朝、目が覚めた時から辺りは少し薄暗くて、空気には少しだけ湿っぽさを感じて。窓の外には薄っすらとした雲が空に切れ間なく広がっていた。そしてお昼を過ぎた頃にははっきりと黒い雨雲が垂れ込めるようになって、ポツポツと、雨の音が聞こえ始めるのだった。
暮らし始めて初めて静けが気になった。そんなダイニングで座っていた。俺はずっとそんなことばかり気にしている。そしてぼんやりと、隣のリビングにいるもう一人のことを眺めているのだった。
一晩明けて、月の様子はまたいつも通りに戻った気がする。いつも通り大人しくて静かな様子で、今はソファーにちょこんと座って病院でもらった絵本を広げていた。血色は見違えて良くなった。弱々しい感じももうなかった。点滴を打ってもらったおかげだろうか。ともかくそれは良いことだった。けれど、俺の気分は朝から晴れないのだった。
食事のことを考えていた。医者からもはっきりと食べなさ過ぎ、と言われてしまった。月がどうすればご飯をたべてくれるだろうか。朝からずっとそんなことを考えているのだ。
朝食の時、もしかすれば何もしなくても最初の時の様に食べてくれるんじゃないかと期待した。お粥もサラダも味噌汁も月はほとんど手をつけなかった。昼食の時、もしかすれば朝はお腹が空いていなかっただけなのかもしれないと思った。だから今度こそ食べてくれるんじゃなかと期待した。朝食の残りも新しく作ってみたカレーライスも一口二口で食べる手を止めてしまった。だからそんな要領を得ない状況に俺自身イライラしたと言うか、なんだか焦ってしまって。無理をさせるなと言われたにもかかわらず、昼食の時には「食べないとダメだよ」と無理強いをさせてしまっていた。
「新しい生活を始めようか」5日前には格好をつけてそんなことを言ったくせに、結局行き詰った俺はイケてないことをやっている。そして少女を見ながら色々考えてはいるのだけれど、コタエみたいなものがポンと出てくる訳でもなくて、ただ少女のことを眺めるしか無くなっていた。
そんな俺の前で少女は本を読むのに飽きてしまったのだろうか。静かに立ち上がると今度は窓の外をぼんやりと眺め始める。
「遊びに行きたいのかい?」
そう尋ねてみたのだけれど、彼女はうつむくだけで、何をしたいのか、言いたいのかが分からない。つまりそう言うことなのか。俺には目の前の少女のことが、5日が経って見ても一つも分かっていないのだ。そしてどうすればそれが見つかるのか。見失っていた。だから気がつけば俺もまた少女と同じように窓の方を眺めているのだった。
窓から見える空は相変わらず雲が全体を覆っている。
もしも。ただ少女の面倒を見ればいいと言うのであれば、いっそ割り切ってしまって、食事は無理に食べさせれば良いだけなのかも知れない。必要な世話だけをして、後は少女が何を思おうが。俺のことをどう感じようが。やることだけは事務的に済ませてしまうのもありなのかもしれない。その方が俺にとっては楽なんじゃないか、と。そんな風に考えてしまう。それまでと変わらない俺だ。確かに、考え込んでいるとそれでいい気さえしてくる。
少しは小雨になったのだろうか。雨音が消えると、俺はまた今晩の夕飯をどうしようかと考え始めた。そしてふと昼食の時に食品庫になにもなかったこと、今日まだ買い物に出ていなかったことを思い出したんだ。だからほうっとため息を吐いた俺はテーブルから立ち上がるのだった。
2
灰色の空からはしとしとと小降りになった雨粒が落ちている。それは傘に当たって雨音を立ていて。濡れたアスファルトの地面には水溜りが薄っすらと散らばっている。空気には湿った土のような、あるいは新緑のような香りがして、肌に触れるとそれは少しだけひんやりとした。そんな景色の中をゆっくりと歩いていた。街の中。そして、そこまでくると店の明かりが雨粒に散乱して一際明るく見えた。夕方のメイン通り。その店屋が立ち並んだ一つにスーパーがあって、その前で俺と月は立ち止まっているのだった。
始めは不安だった。少女はついて来てくれるだろうか。昼食のことがあるかもしれない、気分が乗らないかもしれない。だから月が買い物について来てくれたことにひとまず安心している俺が居た。そして、この街のスーパーに二人で来るのは初めてだった。 今までは俺が一人で来るばかりだった。この場所。そんな場所に初めて連れて来られて不安そうな顔をする少女の横で俺が何をするのかと言うと、店先の陳列棚をざっと見渡して、そして手近なところにあった野菜を一つ見つけてそれを手に取るのだった。
「これは?」
キョトンとした顔を見せたのは月だった。もちろん見たことくらいはあるだろう。これはジャガイモだ。ごつごつして土の肌触りが残っている。もちろんそんなものを手にとった俺が今からモノ当てクイズを始めようとしている訳じゃない。
「これは食べれそうかい?」
そうたずねて月の目の前までジャガイモを持っていく。少女ははじめそれをまじまじと眺めていた。けれど「ジャガイモは食べれるかい?」もう一度そうたずねると、今度はなんだか渋い顔をする。まさかそんな子どもが世の中にいるなんて思っても見なかった。だから、最初に一番無難な野菜を選んだつもりだった俺はそれがいくぶんショックだったのだけれど。それから、ふと、思いなおしてポケットからスマホを取り出すのだった。
「これだな。じゃがいもを使えば俺ならこういう料理を作るんだけど。」
そう言って俺が少女に見せたのはジャガイモを使ったレシピを紹介するサイトだった。
「どうかな。これなら食べられそうかい?」
もしかすると、ジャガイモを使った料理の写真を見せれば、あるいは、少女の反応も変わるかも知れないと思ったんだ。それから今日は肌寒かった。だからほっこりとしたものが食べたいと思ったんだ。そう思って見せたいかにも旨そうな肉じゃがの画像が掲載されたのレシピサイトだった。
けれど少女はそれを一瞥しただけで首を横に振る。
うーむ。やっぱりジャガイモがダメなのだろうか? 昼間のカレーだってほとんど手をつけてくれなかった訳だし。物は試しだ、とまた別の写真栄えのするポテトサラダの画像を見せてみる。けれど月はまた首を横に振るのだ。
「ジャガイモが嫌いなのかい?」
そうたずねてみるのだけれど、もちろん少女からは具体的な返事は返ってこない訳で。
仕方ないか。ジャガイモは諦めよう。
と気を取り直した俺が次に手に取ったのはしっとりとしたキャベツだった。
「これはどうかな。」
しばらく彼女の反応をうかがってみる。とりあえずジャガイモほど嫌ではなさそうだ。
「じゃぁ、こんな料理はどうかな。」
また俺はスマホの画面を見せる。それに目を丸くして覗き込む少女の様子に、これならイケるか? と思ったのだけれど。次第になんだか怪訝な様子になっていく気がした。温まりそうなポトフの画像。うーむ。素朴な感じで悪くないと思ったんだけどな。やっぱりジャガイモが写ってるのはまずかったか? いや、でも最初の反応は悪くなかったから、キャベツは案外いい線をいってたのかもしれない。
だから俺はまた別のレシピを探し始めるのだった。
俺がわざわざ月をスーパーまで連れて来たのは、彼女が食べてくれそうなものを彼女と一緒になって探してみようと思ったからだ。正直なところ、俺が用意したものを彼女が食べてくれなかったという意味で、俺は昼食の時点で既にお手上げ状態だったのだ。だから彼女がそれぞれの食べ物にどんな反応をするのか。どれがいけて、どれがいけないのか。最初から一つ一つ確かめようと思ったんだ。だから俺は月を連れて店の中を歩き始めた。野菜の鮮やかな色が美しい陳列棚。鮮魚の光沢がまぶしいフリーザー。精肉の彩りが目を引くディスプレイケースを一つ一つ確かめる様に立ち止まってはまたゆっくりと歩き始めるのだった。そしてそこで目に付いたものを手当たり次第に手にとった。手当たり次第にレシピの画像を見せてみた。月の反応をうかがった。あるいは少しでも月が興味を示したものを手に取ってみた。そうして、二人でゆっくりと歩いて、一人で買い物をする時の倍以上の時間をかけて、店の中を見て回ったのだった。
家に帰る頃にはもうすっかり日が落ちて、夜道は街灯の明かりが照らしていた。
こんなことをして、それで月が食事を食べてくれるようになるのか。その時の俺にはまだ確信は無かったのだけれど、それでも、帰り道、俺はいくつかの材料が入った買い物袋を持って歩いていた。
_3*_
もう今となっては、そんなことさえおかしなことの様に感じてしまうのだけれど。
少なくとも、当時の私にとってはそれは仕方の無いことだったのかもしれない。
誰も私のことを知らず、
私も誰にも心を開かず、
そうして、自分の殻に閉じこもっていた私。
どうして私はそんな接し方しかできなかったのか。
それはきっと私が怖がっていたからで、
今となってはそんな当時の自分のことが、なんだか馬鹿馬鹿しく感じてしまうのだ。
そして、そんな風に感じてしまう私が次に思い出すのは、
そんな私のために、独り言の様に話をしている彼の姿なのだった。
4
キッチンカウンターには買って来たばかりの夕飯の食材と、調味料と、それから調理道具が所狭しと並んでいる。それらを前にしてキッチンに立つ俺は腕まくりをしてエプロンをしていて、そして、たった今から夕飯を作り始めるのだと隣に置いた踏み台に立たせた月に話しかけているのだった。
「今日使う材料はこのキャベツだね。」
そしていつか見たことがある某 MOCO'S キッチンの真似をするように、大袈裟に料理を始めるのだった。
「今日のレシピは、肌寒い日にピッタリの、シンプル、コンソメスープです。それじゃぁさっそく作っていきましょう。」
キャベツを手にとって包丁を入れていく俺。テレビ番組のように事前に下準備を済ませている訳ではないから一から準備していくのだ。
「まずはキャベツだね。芯に切り込みを入れたら葉を剥いていこうか。水洗いしたら、食べやすい大きさにざく切りにしていこうか。」
「その次はにんじんだね。キャベツだけだと寂しいから彩を加えようか。栄養もあるし甘くて美味しいからね。皮をむいたら薄切りだね。」
「それから旨みを加えるためのたまねぎ。コレだね。根と先端を落としたら皮を剥いて、繊維を切るように角切りにしていこうか。少し目に染みるかもしれないから、あまり近づき過ぎないように気をつけるんだよ?」
なんと言うか。意外に、と言うか、こういうことを俺は普段からすることはないから、話しながら調理をすると言うのは疲れるもので。時折、黙って手を動かしそうになったりもするのだけれど。隣で見ている月のことを思い出すと、額に浮かんだ汗を服の袖で拭いながら、努めて分かりやすく、努めて親しみやすい雰囲気で話しかけるのだった。そしてそんな俺の隣で月はどうしているのかと言うと、何をするでもなく、どこかへ行ってしまうこともなく、ただそんな俺の手元の様子をじっと眺めているのだった。
そうして野菜を切り終わると、今度は鍋に水を張って、コンロを回して、お湯の沸いた鍋に野菜を入れていくのだった。
「よし、後は煮込むだけだけです。やわらかくなったら調味料を加えようか。」
そう言って鍋に蓋をした俺はエプロンで手を拭う。もちろん今日の夕飯のメニューはそれだけじゃなくて、続いて二品目を作ろうと今度は冷蔵庫から卵を取り出すのだった。
「そして、今日のもう一品は、ふわふわプレーンオムレツです。」
月の目の前で得意げに卵を割って、少し混じってしまった殻なんかを誤魔化すように取り出しながら、次にそれを息を切らしながら必死で溶いて、牛乳と塩を混ぜ合わせて、泡立て器があればなぁとか、漉し器がなかったなぁとかそんなことを考えながら、フライパンを熱してバターを入れて、その音を聞きながら卵を流し込んでいくのだ。
そして、夕飯が出来上がる頃にはキッチンにはコンソメのいい香りと卵とバターのの甘い香りが漂っていて、疲れなんかと相まって一層湯気の立つ様子や照明を照り返す様子が美味そうに見えるのだった。
「完璧だな。」
出来上がった夕飯を並べて席についた俺たち。ダイニングテーブルの月の前には白ご飯とコンソメスープと、それから奇跡的に上手く出来たオムレツが並んでいる。もちろん、俺の前にも同じものが並んでいるのだけれど、オムレツは少しだけ形が崩れていて少しだけくすんだ茶色をしているのだけれど。それでも美味そうであることに違いは無い。後はそれを月が食べてくれるかどうかなのだけれど。
そんなことを考えながら、俺は月が今日の夕飯を食べてくれるかどうかを見守っているのだった。
_5*_
あの日、私が食べたものが何だったのか。味がどうだったのか。その中身までははっきりと覚えてはいなのだけれど。ともかく、私たちが二人でキッチンに立ったあの日。あの日が私にとってきっかけの一つだったこと。それは間違いないことだと思った。
そして私は今でもキッチンに立っている。
だから私は今でもその時のことを覚えていて、だからその食事の時、彼が笑っていたその顔がその時の記憶の中でも一番鮮明に思い出せるのかも知れなかった。