2 私
_1*_
その当時、私の目に映る周りの景色はめまぐるしく変わっていた。
お爺さんと暮らしていた一軒家の古めかしい雑然とした景色、三ノ宮の大通りの朝の整然とした景色、病院の白い壁と白いベッド、それから車から見えた神戸の街並みと大きなマンションとそして整理された新しい部屋。そこでは色んなことが起きていて、そこにいた色んな人たちの顔が次から次へと浮かんでは消えていくのだけれど。
けれどそんな私を取り巻いていた世界の変化とは対照的に、その真ん中にいたはずの私はと言うと、そんな周りの様子には無関心で、自分のことにも無感動で、正直どうでもいいことのように感じていのを覚えている。
それはきっとその当時の私には何も無かったからだ。あの時の私にとっては何も無いことが当たり前だった。家族というものがあやふやで、父親と言うものを知らず、母親と過ごした記憶もほとんど無く。私にとって、世界と言うのは、私と、それ以外の人たちという二種類の人間しか居ない場所だった。どこに居ても誰と居ても、それが変わることは無かった。
それはきっと疎外感だった。
だから私が誰と暮らし始めたのだとしても、私がどこかで暮らし始めたのだとしても、私にとってのそれまでが何か変わった訳ではなくて。だから当時の私にとっては彼が知らない人間の一人であることに変わりは無かったし、だから当時の私はそんな彼に対しても無感情だったのだろうか。だから当時の私の姿がなおさら他人のことの様に感じてしまうのだけれど。
そんな私と彼の生活を記憶の古い順に思い出していくと、最初に思い出すのはやっぱり私が二回目の行き倒れをした時のことで、そしてそれの記憶に引っ張られて思い出すのが本当は無口なはずの彼が独り言のように話しかけてくる姿なのだった。
2
正直なところ、いざ少女と暮らし始めた時の*俺*は、これからの生活をどうしたいだとか、そのためにどんな必要な用意を済ましていなければいけないだとか、そんな目先のカタチにばかりに気を取られていたことを今となっては否定しない。別な言い方をすると、そう言う体裁みたいなものさえきちんとしていれば後の生活は自然と上手く回っていくものだと思ってんだ。だから目の前で一緒に暮らしていたはずの天ヶ瀬月という一人の少女のことが疎かになっていた。実際それが起きてしまうまでは俺たちの生活は風呂と言う問題を除けば上手くいっていたから尚更だった。
初日、俺が風呂に怖気づいたことに目を瞑ればすべてが上手くいった。2日目、美咲に先導されて月のものを買いに出かけた日も。3日目、月と二人でぶらぶらと家の周辺を歩いて見て回った日も。それ自体はありがちな日常の一コマという感じだった。だから、3日目が終わる頃には俺はほとんど何もしていないのに、何も起きなかったからこそ「なんだ、子どもの面倒をみるのなんて余裕じゃねーか」なんて思っていたのだった。
_3*_
それももとはと言えば私がほとんど食事を口にしなかったからだ。
「お腹が空かないかい?」と言う言葉の意味が分からなかった。「美味しいかい?」と言う言葉にどんな風に答えていいのか分からなかった。「もういいのかい?」とどうしてそんなことを聞かれているのか分からなかった。私にとっては目の前に出された料理のどれもが「よく分からないもの」でしか無かった。そして私はそれは全部、残さずに飲み込まなければいけないのだ。だから食事の時間と言うのは私にとっては毎日やってくる嫌な時間だった。もしも誰かが何も食べなくてもいいと言ってくれるのなら、私はほとんどなにも口にしなくてもいいと思っていた。だから私が彼と二人で食事をした時、彼が「残してもいいよ」と言ってくれたこと。それを私の良いことだと思ったんだ。だから私は彼の顔色を伺いながら少しずつ食事を残すようになっていった。
1日目、彼の家で暮らし始めた最初の食事の時、彼は「ちょっと子どもには多すぎたか?」とつぶやいていた。それでも私は周りから見られていて怒られるのが嫌だったから無理してできるだけ食べた。2日目、買い物に出かけた日、私には美咲さんが付きっ切りで食事の時もよく食べるように言われた。3日目、その日も無理に食べようとしたのだけれどとうとう途中で気分が悪くなって朝を食べる手を止めてしまった。私は怒られるのではないかと思ったのだけれど、彼は「残していい」と言った。それから残す量がどんどん増えていって、4日目の朝には今度は身体がほとんど食べ物を受け付けなくなっていた。そして次に覚えているのは見慣れた病院の白い景色なのだった。
4
「うーん……。疲れかな。」
目の前ではイマドキのメガネをかけた医師がうなりながらカルテをペンでなぞっている。それを横から神妙に覗っているのが*俺*だった。
俺がそれを見つけたのは買い物から帰ってきた時だった。
その日は朝から月の様子が見るからに芳しくなくて、用意した朝食をほとんど口にしなかったのもそうなのだけれど心なしか顔色も悪く見えて。だからそんな彼女を一人にするのは気が引けたのだけれど、昼食と夕食の材料がなくなってしまったからには買出しに行かない訳にもゆかず。彼女が横になったのを見ると三十分ほどの時間で食事の買出しを終わらせてまさに帰ってきた時だった。
そして、最初にリビングの真ん中で倒れている月の姿を見つけた時には、俺はまた何かの間違いで目の前の少女がこのまま死んでしまうのではないかと思ったのだ。
「大丈夫。ちょっと体調を崩してるだけだから一日安静にしてたら良くなると思うよ。」
だからその言葉に胸を撫で下ろしている俺が居た。
「でも、いつもと違うところがあったなら注意しないとね。食事の時、食べる量が減ってたんでしょ?」医師は俺が最初の問診で説明した話を始める。「そう言う些細なことが体調のサインでもあるんだよね。疲れたなぁとか、だるいなぁって。でも、そう言うのって本人も気が付いてない場合があるし。気が付いていたとしても、それをどう説明して良いのか分からない年頃でもあったりするからね。周りで見てる大人が体調の管理に気を使ってあげてね。」
そして一度は医師の言葉に安堵した俺だったのだけれど、今度はそんな医師の言葉に頭を抱え始めるのだった。
まぁ、実際その通りで、俺は気が付いていたからだ。毎食ごとに月の食べる量が減っていたこと、それから調子が悪いのだろうということにも気が付いていた。それなのに普段の俺のノリで「まぁそんな時もあるよな」と独りでに納得して何もしないでいた。だからまぁ「子どもの面倒なんて俺でも見れる」と威勢のいいことを言った割にはその自覚なんてものが全然足りなかったな、とこの時に至って人目も憚らずに一人で内省しているのだった。
そんな俺を見かねてか医師はこちらを見ると微笑んだ。
「まぁ、子育てをしてるとよくあることだから。何事も経験だね。でも、無理はさせないようにね。」
それから「そうだ」と言うと今度はごそごそと棚をあさり始めるのだった。
_5*_
そして、病室を出て行くとき、
「――それから、時間をかけてもいいから、
栄養のあるものをちゃんと食べさせてあげてね。」
と、そんな言葉が聞こえた。私は憂鬱な気分になるのだった。つまり、看護師さんがそうしていたように、あるいはお爺さんがそうしていたように、彼にもまた無理やり食べさせられることになるのだと思ったからだ。そう思うと、私の気持ちは帰り道で、一層重くなったのを覚えている。