1 新しい生活 下
7
今になってその時のことを思い返してみても、俺と少女の新生活は順調に違いない。
何か特別なことをした訳ではなかったし、何か特別なことを二人で話をした訳ではなかったけれど、何の滞りもない、平凡な、それがきっと、思い描いた通りの普通だった。
ユースケを見送った後、部屋の中をすみからすみまでぐるっと案内した後、俺たちは二人で持ってきた荷物の荷ほどきをした。着替えをタンスにしまって、絵本を本棚にしまって、教科書を勉強机に並べて。それからリビングに戻った俺たちは二人で話をした。これからの生活のこと、連休から始まる小学校のこと、そんな話の一つ一つをゆっくりと俺から少女へ話したのだ。
それも月が俺が思っていた以上にしっかりした子どもだったからだ。相変わらず返事とかは一切なくて反応も有るのか無いのか分からないことの方が多かったのだけれど、玄関を上がる時に何も言っていないのに靴を揃えていたことだとか、部屋に上がってすぐ洗面所で手を洗おうとしたことだとか、俺だってもういつからか気にしなくなったことを自分からきっちりしようとする姿が印象的だった。そして意外だったのが思いのほか彼女が俺の話を素直に聞いてくれたことだった。部屋を案内した時も車を降りてからずっと行く先・案内する先について来てくれたし、部屋を整理した時もそこがクローゼットで〜それがタンスで〜それが本棚だ、と言う風に説明すれば俺が率先しなくても自分から荷ほどきした物を片付けてくれた。勉強机だけはそれが何か分からない様子だったけど。だから俺が彼女と接していて頭を抱えてしまう様なことは何もなかった。
正直なところ、俺は今日まで少女のことを侮っていて、あるいは、要介護者のようにさえ考えていて、少女の反応なんてものも少女の行動なんてものもまったく期待していなかった。だから今日初めてつぶさに彼女の姿を見て、まったく俺も子ども相手だからと失礼なことを思ってしまったな、とそんな自分を恥じるくらいだった。
そういう意味で、何もなかった、だから最高な一日であり、新しい生活の最高の始まりだと思ったのだ。
そう、最高の1日だった。それから俺が夕食の支度に取り掛かろうとして、その間に月には先に風呂に入ってもらおうとして、そんな提案が月に却下されてしまうまでは。な。
新しい生活を迎えて、俺自身ずいぶんイケていて、彼女も素直で、これ以上ない順調な滑り出しだと思っていたのだ。それなのに、どうしてそんなことになってしまったのか。俺は思い出してしまったのだ。俺という人間は、女子というやつが大の苦手なのだった。
8
「来てあげたわよ。」
そんな声が聴こえて最初にインターホンに映ったのは美咲だった。
「本当にな。一体何が「大丈夫」だったんだろうな?」
そして美咲の後ろから姿を見せたのはユースケだ。まったく返す言葉もない。
ともかくそんな二人を招き入れた俺は2人をリビングに案内するのだった。
「良い部屋じゃない。」
「そうだろ?」
「適当に惣菜を買ってきてやったぞ。」
「あと飲み物もね。」
「助かるよ。」
それから持ってきた荷物を並べてそれぞれダイニングテーブルに着こうとした。
「で、椅子は2脚しか無いみたいだけど? どうやって4人で座るんだ?」
*
4人で囲んだダイニングテーブルには色とりどりのおかずが並んでいた。一つは俺が作っていた二人分の夕食で、肉じゃがと炊き上がったばかりの白ご飯と、それからインスタントの味噌汁と。そしてもう一つはユースケたちが買ってきた鶏のから揚げだとかポテトサラダだとか。それが一つのテーブルの上にごちゃ混ぜに並んでいるのだった。
そして俺はと言うとリビングから持ってきた背の足りないスツールに腰を下ろしていて、ダイニングチェアに座った月の隣で小さくなりながらミックスサラダをモグモグと食べていた。
「そもそもなんでアンタがお風呂に入れてあげないワケ。」
そう言って俺に指を差してくるのは向かいのダイニングチェアに腰掛けた美咲だ。
俺の肩身がせまい理由はなにもスツールが小さいせいであるばかりではなくて、もちろん後先考えずに2人を呼び出した申し訳なさみたいなものがあるからなのだけれど、それ以上にいつの間にか話が俺を糾弾する流れになっているからであって、正直なところ、あまり掘り下げて欲しくない部分に話が及んでいるからだった。
「だいたい、まだ6歳なんでしょ?
一人でお風呂に入れって言う方が無理があるんじゃないの?」
その通りかもしれない。
「一体なにが無理なの……。」
美咲は怪訝な顔をする。
これにはひどく個人的で、ワケの深い事情があるのだ。それをどう当たり障りのないカタチで説明しようか。と、そんなことを考えていた時だった。唐突に横から口を挟んできたのは唐揚げを摘んでいたユースケだった。
「コイツ、女子のパンツを見て鼻血を出して以来、女性恐怖症でインポなんだよ。」
お前はなんちゅう説明をしてくれるんだ。
納戸から持ってきた少しだけ背の高い脚立に座っているものだから「あ、その肉じゃがの小皿取って?」と適当な感じで夕飯をパクパク食べていて、その片手間みたいに俺の沽券に関わる話をさらっとするものだから腹が立つ。説明そのものはまったくの嘘ではないだけに尚更だ。
「意味分かんない。」
美咲が眉をひそめる。俺も意味分かんないと思う。
「確か中学の時だっけ? 高校の時じゃ無かったよな?」
そんな俺たちを無視してユースケはから揚げをムシャムシャ食べながら話を続けようとする。だから俺は誤解が広がらないためにもこれだけは言っておきたかった。
「勝手に話を盛るんじゃねーよ。今でもちゃんと勃つからな。」
「……、子どもの前よ……。」
そう言いながら白い目を俺に向けてくる美咲。
「悪かったよ。今までの話は聞かなかったことにしてくれ。」
美咲の横で言い聴かせる様に月を窺うユースケ。
まぁこの件について俺から詳しく説明するつもりはないだのけれど。別に起きてしまった事実を否定したりもしない。大体の大筋はそんな感じだった。だから、まぁなんと言うか、俺も恥を忍んでこの2人に泣きつくことにした訳で。まぁこの2人なら何とかしてくれると思ったんだ。
*
俺は普段からユースケと呼んでいる。
この男の本名を木村祐之介と言って、俺たちはもう中学からの付き合いになる。中学時代には当時住んでいた地元から京都の嵐山までの片道 60 kmをサイクリングと称してなんちゃってマウンテンバイクで丸一日かけて往復してみたり、高校時代には修学旅行の山梨・蔵王のスキー場で吹雪の中を不幸にもレストハウスの裏手で遭難しかけたりもした仲で、社会人になった今でもそんなバカをするのはあまり変わらないかもしれない。
そんなユースケが中学のクラスメイトだった美咲と結婚したのがもう一年前のことで、その時には俺が地元のメンバーの中でただ一人地元に残っていたと言う理由で二次会の幹事をしたのをよく覚えている。式の半年前から三ノ宮を歩き回って、場所を見繕って、レクリエーションを考えて、新郎新婦ご両名の知人の皆様方からメッセージビデオを貰って集めて。まぁ、準備から当日の進行まで盛り上げて色々協力した訳だ。
だから、二人には貸しを作ったってことで、今回のことで二人を頼ってもバチはあたらないと思ったんだ。
*
だからまぁ、口ではなんだかんだいっても、今となっては安心している俺が居た。
風呂に入るのを嫌がる月のことも、2人なら良くしてるだろうと思ったからだ。
「だから、二人が来てくれて助かったよ。
後はよろしくな?」
俺はそれですべてが解決したと思ったんだ。
「?」
「?」
「???」
一瞬の間が空いた。まずユースケと美咲が首を傾げて、今度はそれを見た俺が首を傾げてしまったからだ。それから口を開いたのはユースケだ。
「なに言ってんだ? 入れてやるのはお前だろ?」
「わたしたちは月ちゃんの様子見を見にきただけだし。」
そう言われてまったく頭がついていかなかったのは俺だ。
「??? マジ?」
「まじ。」
俺はてっきり2人が月を風呂に入れてくれるものだとばかり思っていたのだが。
「そうね。いい機会だし、苦手を克服しましょう。」
「????」
「そう言う訳だから、オレタチは後ろから見守ってるぜ?」
「????????」
_9*_
で――
まぁ、結局はこうなるんだよね……。
今、月ちゃんと一緒に脱衣所にいるのは*わたし*だった。そして彼女の服を脱ぐのを手伝っているのがわたしであり、これから彼女を風呂に入れるのもわたしなのだった。
アイツが子どもの面倒を見ると言う話を旦那から聞いた時は「本当に大丈夫_?!_」って思ったんだけどね。本当に大丈夫じゃなかった訳だ……。
今日だけでずいぶんとアイツのイメージが壊れつつある。
女性でないとできないことだと思う。なんて言われたからどんなハプニングが起きているのかと思ってきて見れば決してそんなことはなかったワケで……。一体これのどこが難しいことなのだろう……。
「はい、バンザイして?」
確かに喋らない子どもだけど。月ちゃんは素直に言うことを聞いてくれるし……。
「女の子一人お風呂に入れてあげられないなんてね?」
そう言えば。高校の時、一部のクラスの女子がアイツのことをヘタレだと言っていたのを思い出した。一応アイツとは中・高と同じ学校に通ったのだけどわたし自身あまりアイツに興味が無かったからその理由なんてスルーしていたのだけど。なんだか今になってその理由が分かってしまった気がしてとても残念な気持ちになった。案外さっき旦那とアイツがしていた話も本当なのかもしれない……。
まぁ、わたしとしては一向に女性の話を聞かないからアイツはホモなんじゃないかと勝手に解釈したりもしていた訳で、今回の話を旦那から聞いた時は実はロリコンだったのか、と一人で納得していた訳なのだけど……。
本当に。どうして面倒を見ようなんて思ったんだろうね?
「じゃぁ入ろっか。」
そう言いながらわたしは月ちゃんの背中を押す。月ちゃんもわたしの方をチラチラと窺う様に見上げてくるのだけど、それ以外は特に嫌がる素振りもなく、わたしにしたがって浴室に入ってくれる。その様子を見ていると、案外、一人で入るのが怖かっただけなんじゃないの? シャワーを嫌がる様子も無いし、シャンプーを嫌がる様子もないしね。だからたったこれだけのことを三十分も大騒ぎして出来なかったアイツの姿を思い出すと、それがとってもバカらしくなって、わたしはついため息をついてしまうのだった。
「?」
わたしの前で座った月ちゃんがどうしたことかと見上げてくる。
「あぁ、なんでないよ。
そうだ、明日一緒に買い物に行こっか。着替えも全然ないんでしょ?
ウンと可愛いのを選んであげる。
大丈夫、お金は全部アイツに出させるから♪」
_10*_
で――
*オレ*の目の前には遣り切った顔をした男がいた。
その顔はオリンピックの陸上100 m 走で世界記録を破った男の様に爽やかであり、
その顔はテニスの4大大会でグランドスラムを達成した男の様に誇らしげでもあった。
但しこの目の前の男は何もしていない。
全く、この歳になって一体何を怖がることがあるのか。いざ子どもを風呂に入れる時に及んでまで挙動不審でへっぴり腰であったのだが。そもそも肝心の脱衣所に入ってこようとしないわ、服を脱がせてやろうにも手が震え始めるわ、渋い表情をして顔をそむけ始めるわで。挙句そんなアイツの姿を見ていた子どもの方がアイツのことを怖がり始めたのだから酷いもんだ。まさかここまで何も出来ないとは。
本当にな。一体何が大丈夫だったのか。
そしてオレたちの前でそんな醜態を晒した男は今、キッチンで平常を装いながらコーヒーを入れていた。何でもかんでも捨てた割にはそう言うステータス的なものは残していたらしい。そしてそんな男をオレはダイニングから眺めているのだった。
「本当にそんな調子で大丈夫なのか? 取り消すなら今の内だぜ?」
「うっせーな、漢に二言は無いんだよ。」
「余り痩せ我慢はしない方が良いと思うけどな?」
「バカ言うな。この程度で挫ける俺じゃぁないのさ。」
とか何とか言うのだけれど。心なしかポットを持つ手は震えていて、額には脂汗が浮かんで見えるのだが。
「一体どうすればそんな言葉を吐けるんだかな。」
「今日だって風呂以外のところは順調だった訳だし、上手くいかない理由を探す方が難しいね。」
まぁ、本人はそう言ってる訳で、オレもこの男が一度言い出したら聞かない性格なのは分かっていたから今更になって止めるつもりもないのだが。
「ゴールデンウィークが明けて子どもの学校が始まったらまた大変だぞ?」
「望むところだよ。勉強道具も揃えたし、健康診断も病院で終わらせた。お前が一番気にする手続き関係だって終わらせてるんだから大丈夫だろ?」
「どうだかな?」
「まぁ見てろって。」
今日のことがあるから最早その自信も*前フリ*にしか見えないのだが。
「ま、じゃぁとりあえずの問題は明日からの風呂をどうするかだな?」
オレがそう言うとまたこの男は頭を抱え始めるのだ。
やれやれだな。こんな調子で子どもが成長して行った日にはこの男は一体どうなってしまうのかね。卒倒して倒れてしまうのかもしれない。そんな、無用の心配すら始めてしまうほど、目の前の男はオレを不安にさせるのだった。
_11*_
確かに。
思い返せば*彼*はずっとそうだったかもしれない。
不器用で、お節介で、そして頼りなくて――、
そんなことを思い返していると、
*私*の知っている彼というのはもうずっと変わらないのかもしれなかった。
だから、*私*はそんなことを時折懐かしく感じたり、
時には腹立たしくも感じるのかも知れなかった。