1 新しい生活 _(2019.09.25添削修正)
2章
まったくの他人同士だった。
そんな私たちが暮らし始めるということ。
そんな当時のことを今になっても私が覚えている理由はもちろん色々あって、
それまでとは違う場所で暮らし始めたこともそうだし、
それまでとは違う人と暮らし始めたこともそうだし、
でも、
なによりも一番の理由は、
私自身が何も期待していなかったからだ。
だからまだ私が幼かった頃のことなのに、
いくつかの場面は今でも私の中に残っているのかもしれなかった。
1
俺には理想があった。まだ子どもだった頃に憧れた。思い描いたのは強い自分の姿だった。何でも出来る行動力があって、何でも分かる知識があって、カッコウが付いて。そして自分にしか出来ないことが出来るそんな唯一無二の人間。きっとそんな人間に自分自身がなる日を夢に見た。
けれどいつから俺のそんな理想は褪めていった。成長するにつれて、大人になっていくにつれて。そんな理想の自分なんてものはどこにもなくて、現実にはそんな憧れなんて何の役にも立たなくて。そんな風に生きることが必ずしも正しい訳じゃなくて。子どもだった頃の自分が磨り減っていくだけなのだと。分かっていった。
だからいつから俺はもっと大人になって、もっと賢く生きようと思うようになっていった。現実に自分を合わせること。誰が聞いても納得するような生き方を探すこと。誰に話しても間違いじゃないと言える生き方を選ぶこと。それが賢さみたいなものなのだと思うようなった。
そして俺は変わった。
現実には少しでも楽に生きられる方法を探していただけで、妥協するための言い訳を探しているだけだった。大人になった俺は何もできない人間になってしまっていた。
気が付いていた。
だからそんな自分に嫌気が差したのだ。
2
そこも気が付けばずいぶんと鬱屈とした毎日を溜め込む場所になってしまっていた。
三ノ宮の駅に程近いアパートの3F。
周囲には繁華街があって立地がよかった。その場所は、何でも出来る場所だった。部屋を出てほんの少し歩けばそこが三ノ宮の駅前で、周囲にはデパートや飲食店はもちろん、アミューズメント施設や専門店までなんでもあった。何もするにも困らない場所だった。だからその部屋を見つけて一人暮らしを始めたばかりの頃は、これからこの場所でどんな暮らしをしようかと鮮やかな想像に胸を膨らませていたのだ。
そんなかつての部屋も今では色褪せてしまって、いつの頃からだろうか、ただ帰ってきて寝るだけの場所になってしまっていた。以前は毎日のように凝った料理に挑戦していたキッチン廊下も今では溜まったゴミを置いておく場所になっている。色々と趣味のモノを買い揃えた部屋も日が経つにつれて少しずつ使わなくなっていく物が増えて、必要の無い物たちが増えていって、押し入れからは収まりきらなくなった物は溢れて散らかるようになっていった。掃除道具ももうずいぶんと同じ場所に出しっ放しで、部屋はいつでも埃ぽくて、そんな場所の一体どこから手をつければいいのか。
ただ、今ではもうそんな部屋を綺麗にすることにも疲れてしまった。
忙しさの中で一日が終わる頃に帰ってくると、部屋のドアを閉めたとたんにそれまで体の中で張り詰めていたものがふっつりと切れてしまったみたいになって、それから特に何かをする訳でもなく、ただモノをどけただけの机でコンビニで買って来た夕食を食べて、水垢の溜まった浴室でシャワーを浴びて、そしてシーツにしわの寄ったベッドで横になるのだ。それを繰り返している毎日。そんなことさえ気にならなくなってしまって、いつからかそれが居心地がいいとさえ感じるようになってしまった自分が居る。
そんな場所にまた俺は帰ってきてしまった。
だからそんな場所に帰ってきた俺はいっそ全部捨てようと思ったのだ。
その日は金曜日で俺は仕事を終えて帰宅したばかりだった。ワイシャツ姿でスラックスを履いたままだった。夕飯も食べていなかったかもしれない。けれどそんなことはどうでも良いと思った。一刻も早く始めたかった。だから部屋に戻った俺は玄関の靴箱の上にビジネスバックを置くと、帰ってきたそのままの姿で腕まくりをして、雑然とした部屋の掃除を始めたのだった。
始めにキッチン廊下に埃と一緒に溜まっていたコンビニ弁当の空き容器・空き缶・空のペットボトルなんかをそれぞれビニール袋にまとめていって。ポストから持ってきて積み重なるままになっていたチラシ・いつのものか分からない封筒、それから部屋の隅でうずたかく積まれていた雑誌や本棚で埃を被っていた本なんかを紐でまとめて。それが終わると廃品回収業者から届いていたダンボールを広げて、その中へ押入れからベッドの下から不用品を引っ張り出してきては押し込んでいくのだった。
最終的に俺が手元に残したものはほとんど無かった。実家から持ってきた学生時代から使っていた痛んだ木の机も、手を引っ掛けた拍子にこぼしたコーヒーがシミが染みになっていたカーペットも、取り込んだ洗濯物を置くだけの場所になってしまった読書イスも、干すことがなくなって部屋の匂いが取れなくなった布団も、酔って帰って倒れ込んだ拍子にパイプが抜けてしまったベッドも、錆びてしまったメタルラックも、何シーズンも使っていないスキー用具も、今では着ることがなくなってしまった衣服も。使わなくなった物はもちろん、まだ使えるだろう物まで、俺の者だったものはほとんど全部まとめて捨てたのだ。だから翌日、廃品回収業者を見送る頃には部屋にはベランダに至るまでほとんど何もなくて、それから部屋の拭き掃除をした俺はついに部屋の床に体を投げ出して、ガランとした部屋を見ながら満足して目を閉じたのだった。
そして、次の朝に目を覚ました俺は、ふと、いっそのこと引っ越してしまおうか、と、そんなことを思ったのだった。
――それがもう一ヶ月以上も前のことだった。
その時の俺はまだ少女のことさえよく知りもしなかったのだけれど、
もしかすれば、今になって思えば、
それが少女の面倒を見ようと思ったきっかけだったのかも知れなかった。
3
車は走っていた。病院を出た車は俺たちを乗せて走っていた。ポートアイランドの立体交差の上を走って、市街地へ戻る橋を渡って、そして海岸線へ入ると神戸の中心部からは背を向けるように大阪方面へ向けて走っていた。ユースケの運転する車。俺はその助手席に座ってぼんやりと窓に映る景色を眺めているのだった。
「それにしても、お前もまた随分と辺鄙な場所を選んだな」そう口にしたのは隣に座ったユースケだ。「わざわざ引っ越さなくても良かったんじゃないか? 駅からも遠いし、何もない場所だろ?」そんなことを言ってくる。ユースケ自身、以前に仕事で何度か訪れたことがあるらしい。その場所。確かに。そこは何もない場所だった。「正直、前の場所の方が便利が良かったんじゃないか?」そうたずねてくるユースケの横で、俺の目に映っていたのは六甲の山々を背景にした神戸の街並みだった。
変わらない生活を繰り返していた場所。仕事に行って帰ってくるだけだった毎日。そんな以前の俺が暮らしていた都市の景色。ビルの立ち並んだ神戸都心、三ノ宮の街並みを横目に眺めていた俺は、ユースケの言葉にフッと微笑むと、そんな景色から目を切って、今度は正面に映る六甲の山裾の景色に目を移すのだった。
「そうでもないさ。いいところだよ。」
車の行き先は俺が引っ越した新しい住まいだった。
瀬戸内海の海岸線から六甲の山裾に広がった神戸の街並み。それを見下ろせる高台に俺たちを乗せた車の目的はあって、晴れた日には部屋のベランダから大阪湾を挟んだ遠く大阪の街並みや紀伊半島の山々までが薄っすら見えた。そんな場所にまで住宅地は広がっていて、山を背にしたその場所を自分の足で歩くと、坂と坂とで結ばれた新緑の景色の中に白や茶色のマンションや戸建ての家々が建っているのが見えて、それが山の中腹に広がっているのだった。俺がまだ新しい住まいを探していた時、そこに俺を紹介した不動産屋はその場所を文教地区だと説明した。周囲を山に囲まれたその場所は学校施設以外には人家ばかりが目に付いて、地図で見れば小さな神社とかお寺とか山から流れ出た沢があるくらいなのだった。そしてそんな場所に居て聞こえてくるのは時折車のエンジンの音が通り過ぎていくくらいで、後は遠くのほうから聞こえてくる部活の掛け声とか吹奏楽の演奏とか、風が吹けば草木がざわめく音だとか、何かの鳥の鳴く声だとか。そこはそう言う場所なのだった。
やがて車の窓に映る景色は次第に坂を上り始める。並木道の坂には登っていく自転車の姿あって、あるいは歩いていく人の姿があって。それを車は追い越していって、そして坂の先には白い目的のマンションが見えてきて、車はその前まで来るとハザードランプを点けて、ゆっくりと走るのを止めたのだった。
「それにしてもまぁ、お前も随分と思い切ったもんだな。」
車を降りたユースケがはじめに口にした言葉がそれだった。視線の先には俺が引っ越してきたマンションがある。
「いいところだろ?」
車を降りて相槌を求めたのが俺だった。
「どう見ても新築マンションだろ? 良かったのか?」
ユースケはまた辺りをぐるっと見渡すとそれから車のルーフにもたれかかってそんなことを聞いてくる。そんなユースケに俺は肩をすくめて見せるのだ。
「なにがだよ。」
「家賃だけでお前の手取りがほとんど消えちまうんじゃないのか?」
何かと思えばまたそんなことを言う。
「いったい何の心配をしてるんだかな。」
「張り切るのは良いコトだけど、余り無理をしてると後々後悔するぜ?」
「そんなことはないさ。一応、家賃補助も出るみたいだしな。近くには郵便局もあるし、小さいけどスーパーもあるんだ。困ることなんてないさ。通勤もちゃんと三十分圏内だしな。」
病院を出てからずっと暮らしやすさ・通勤のしやすさみたいなことの心配ばかりしていたユースケに俺はそう言うのだった。ふーん。とうなるユースケは「オレには分からん感覚だね」なんて顔をするのだった。わざわざ役場から5分の場所に住まいを移したヤツの言うことらしい。俺にとっては誤差のようなものなのだが。だから俺は
「住む場所を引っ越したい気分だったんだよ」と言うのだった。
「以前の場所が恋しくなるかもしれないぜ?」
「その時はまた引っ越すさ。」
「全く、お前ってヤツはな。」
それから一人で呆れているユースケを尻目に俺は車のトランクを開けると部屋へ持って上がる荷物をまとめ始めるのだった。
*
あれから。
少女と出会ってから。
俺の周りでは色んなことが起きた。そして色んなことが変わった。
少女が行き倒れたその瞬間に居合わせたこと。そしてその事件に巻き込まれたこと。そんな少女の面倒を見ようと決めたこと。そして実際に少女の未成年後見人なんてものになったこと。そのために仕事の合間を縫って市役所に通ったことも、手を合わせるために一度ジィさんの家を訪れたことも、もちろん新しい住まい探すために色んな場所を見て回ったのもそうだ。
色んなことがあって、色んなことをして、そして迎えた今日だった。
そしていよいよ今日からその少女と暮らす生活が始まるのだ。
そんな感慨に浸りながら、俺がトランクルームから最後に取り出したのは小さな段ボール箱だった。
「本当に少ない荷物だな。」
そんな言葉をつぶやいたのは俺だ。いつの間にか隣ではユースケもトランクルームを覗き込んでいた。その視線の先にあるのは俺が手にした病院から持ってきた少女の荷物で、数着だけの着替えと、病院でも貰った絵本だとか、後はジィさんの家から見つけてきた形見になりそうなものだとか、たったそれだけのものが入っているだけの両手で抱えるには少しだけ小さな段ボール箱だった。
「もう少し何とかならなかったのか?」
俺はユースケに尋ねる。
「お前が負債相続させるって言うならいくらでも持ってくることが出来たんだぜ?」
「まさか。」
「引っ越してくる時、色々捨てたのは失敗だったな。」
「いいんだよ。それはそれだ。」
「善い心掛けだな。」
「そりゃどうも。」
「ま、オレとしては出来るだけのコトはしてやったつもりだ。それで足りない分はお前が何とかしてやれ。それがお前の役目だろ?」
「分かってるよ。」
二人でそんなことを話しながら荷物をまとめ終えた俺。
トランクルームを閉めて、一通りの荷物を持ち上げるのだった。
「もう後は大丈夫だな?」
頃合いを見てユースケがそんなことを聞いてくる。
「部屋を見ていっても良いんだぜ? 今回は前の部屋と違って完璧だ。ちゃんと足の踏み場もあるしな?」
「いや、確かに興味は惹かれるが、止めて置く。誰かのおかげで連休に入る前に片付けたい仕事ばかり残ってるからな。それに今上がったらオレまで部屋の整理を手伝わされそうだ。」
「まったく、釣れないね。」
「そう言うな。ゴールデンウィーク明けから学校に通えないのも困るだろ?」
「そりゃそうだな。」
「そう言う訳だ。後はその子と仲良くやってくれ。」
そう言ってユースケが目を移したのは俺の隣にちょんと立っていた少女だった。
「完璧だよ。まかせとけ。な?」
そして俺もまたその少女に相槌を求めるのだった。病院にいた時も、俺たちが病院を出た後も、ずっと、そばにいた少女は黙ったままで、特に何をする訳でもなく、ただジッとしているだけだった。そんな少女に改めて話しかけてみたからといって、もちろん、いまさらなにか返事が返ってくることもなかったのだけれど。新しい生活を前にいまさらそんなことを気に病む俺たちではなかった。だから、俺たちはいつもの調子で適当にわかれの挨拶を済ませると、ユースケの運転する車は坂を下って市街地三ノ宮方向へ消えていく。その姿を見送った俺はダンボールと荷物を抱えなおすと、今度は少女を連れて、少女と暮らす場所へ、マンションの部屋へと案内するのだった。
4
あれから。
少女と出会ってから。
俺の周りでは色んなことが起きた。そして色んなことが変わった。
けれど、今日という日を迎えても、俺の知っている少女という人間がなにか変わった訳ではなかった。それは俺が少女の面倒を見ると決めたからといって変わるものじゃないし、実際に保護者になったからと言って変わるものでもない。
俺の知っている少女というのはいつでも白い病室の中にいた時の姿だった。どんな時でも無口でジッとしていて、話しかけても返事が返ってくることはなくて。どんな時でも心ここに在らずな様子でぼんやりと遠くの方を見ていた。なににも興味を示さず、整然としたと言えば聞こえはいいかもしれないが、不自然なまでに存在感を感じない居住まいは6歳の子どもの姿にはあまりにも不釣り合いに見えた。
本当にそれが彼女と言う人間の姿なのか?
いつから俺はそんな疑問を感じるようになった。
あるいは、
そんな少女も環境が変われば子どもらしい子どもになるんじゃないか、と。それまでの生活とは違う、まったく違った生活を始めれば、何かが変わっていくんじゃないか、と、俺は少女に会うたび、そんなことを思うようになっていたのだった。
だからと言うか、
病院を出る時「新しい生活を始めようか」
そう言って彼女に声をかけた。俺は間違いなくイケていたし、
その日までの俺は間違いなく完璧だったと思うのだ。
*
マンションのエントランスを入ってエレベーターを上がった5Fだった。
玄関ドアが並んでいるフロアの突き当たり、そこについ二週間ほど前に越してきたばかりの住まいがあった。その場所に少女と二人で帰ってきた。
北向きの玄関ドアは影だった。そのドアを開くと明かりのない廊下も少しだけ薄暗くて、向こうのダイニングからの光がすりガラス越しに差しているだけだった。その玄関廊下の明かりを点けるのだ。すると、天井の照明が次々と奥まで差して、暖色のやさしい光がクロスの白とフローリングの艶に優しく散乱して、石模様のたたきから上がり框からそこから伸びる廊下の奥まで照らし出される。白い靴箱の玄関を上がって左右に水周りや寝室のドアが並んだ廊下をまっすぐ抜けた先がリビングダイニングだった。明かりをつけなくても十分明るい日当たりその部屋は東と南向きに大きな窓がひらけている。キッチンスペースの壁際には食品庫と食器棚が並んで、そして張り出して部屋全体を見渡せるキッチンカウンターがあって。ダイニングスペースには二人がけの食卓、リビングスペースにはローテーブルとスツールとソファ。そして窓からは人家の屋根が向こう、その向こうへと坂を下って続いているのが見えて、海岸線まで街並みが続くのがずっと見えるのだった。
荷物はとりあえず適当な場所に置いた。俺はそんな部屋の中を少女にぐるっと見せて回るのだ。一つ一つ見せて回った。これから少女が暮らす場所だった。
それだけでずいぶん時間が経っただろうか。そして少女が十分見終わったと感じると、少女を連れて、今度は少女を彼女の部屋になる場所に連れて行って、そこで二人で持ってきた荷物の荷解きを始めるのだった。まだ勉強机とベットを設えただけの真っさらな部屋だった。
他人同士の俺たちが暮らすということ。そんな生活にはたして正解なんてものがあるのか。ふとそんなことを考えたことがある。それは俺には分からないのだけれど、それでも、少なくとも、俺は目の前の蝋人形の様な少女が、自然に話して、自然に笑って、そんな子どもになってくれれば良いと思うのだ。
きっとジィさんと暮らしていた家とは違う住まいだった。もちろん俺が以前暮らしていた部屋とも違う住まいだ。そんな場所で、俺は少女との生活を始めるのだった。
2019.09.20 本文の添削、修正を行いました。
2019.09.25 誤字を修正しました。