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目覚まし時計が鳴った朝

作者: 谷田青子

 冷たい冬の匂いが夜の町を満たしている。夜空には半分の月がくっきりと浮かんでいた。

 五十代半ばの男が終電から吐き出されて最寄り駅を降りる。米田英治は月の出ている澄んだ冬空も、しびれる寒さも気に留めなかった。同期の栄光の残像を思い出しては消して、思い出しては消して、それを家にたどり着くまで繰り返した。


 十分程、残像と闘って家の前に着いた。息子の祥平が小学五年生の時に、同居していた英治の父親と協力して全面的にリフォームした家だ。もう二十年は経っている。父親はリフォームから十年と経たないうちに他界し、それからは英治ら家族三人で生活をしていた。ローンは完済し、あとは余生を過ごす貯金をコツコツと貯めていけば良い。英治の母は祥平が幼稚園に通っていた頃に亡くなっている。寿命が延びている現代においては二人とも若くして生涯を終えていた。母親が亡くなった年齢はとうに過ぎ、父親が亡くなった年齢に近づいてからは、自分の人生を振り返ってみたり、残りの人生についてぼんやりと考えてみたり、なんとなく物思いにふけることが増えた。人通りのない道で我が家を見上げて、少しの間佇んだ。


 玄関のドアを開けると家の中はしんと静まり返っている。妻の幸子はすでに夢の中で、狭い台所の灯りだけが点いていた。台所の前にある小さなダイニングセットの椅子の一つに鞄を下ろした。背後にあるこじんまりとした居間に冬はこたつになるテーブルがある。そのこたつテーブルの下からコウタがチラリとこちらを見た。コウタは高齢の猫のことだ。

「コウタ。起きてたか」

 英治は話しかけるでもなく、一人で呟いた。そのままコートも脱がずに椅子に腰をかけた。テーブルには胃腸薬とコップと水の入ったボトルが置かれている。一度座ったら立ち上がらないものぐさな英治は、背もたれにだらしなくもたれかかったまま、コップに水を注いで、胃腸薬を流し込む。

「水がぬるい」

 また、独りごちた。コウタはもう一度だけ目を開けてチラリと英治の背中を見ると再びまぶたを閉じた。

 寝静まった家で、一人起きていても仕方ない。英治は重い腰を上げてシャワーを浴びた。


幸子が寝ている二階には上がらない。英治は居間の隣の和室に敷かれた布団に横になり、眠りについた。


「ジリジリ ジリジリ ジリジリ・・・!」

 

 英治は聞き覚えのない無い大音量に驚いて目が覚めた。何が起きたのかワケもわからず、枕元のメガネを取って辺りを見回した。

 昨夜は電気をつけなかったので気が付かなかったが、部屋の壁際にある低い衣装ケースの上に初めて見る目覚まし時計が置かれていた。すぐに音の出どころがその時計だとわかった。鳴り止まない大音量にしどろもどりになりながら、ようやく音を止めた。時計は午前六時を指している。毎朝、幸子が起こしにくる時間だ。

 居間に出ると、ダイニングのテーブルに昨夜水を飲んだコップがそのままになっている。キッチンにいるはずの幸子はいない。起きてきた気配がない。

 胸騒ぎした。駆け足で二階の寝室に向かい、ノックをせずに勢いよくドアを開けた。空のベッドに、ピンと皺の伸ばされたシーツがかけられている。英治は向かいの祥平が使っていた部屋のドアを開けた。祥平が家を出るときに置いて行った物と、その後少しずつ増えた英治らの物がきちんと整理されて置かれている。たまらずにもう一度、幸子の寝室に戻ると、違和感があった。妙にすっきりしている。数秒して鏡台がすっかり片づけられていることに気が付いた。毎晩顔に塗っているらしい何種類ものボトルや、化粧品の類が何もなかった。英治は何が起きたのか理解した。幸子はこの家を出て行った。

 ついさっき駆け上がってきた階段を力なく降りると、コウタは座って英治を見ていた。

「お前、知ってたのか」

 コウタに聞いているのか、独り言なのか自分でもよくわからない。

「母さん、出て行ったぞ」

 自分に言い聞かせるつもりで言葉に出した。

「ミャァー」

 聞いているのかいないのか、コウタは一声鳴いた。

 

 一ヶ月程前の出来事だ。会社では、同期入社の男が三課ある営業部を束ねる営業部長となることを聞かされた。男の嫉妬はみっともないと思うから、次から次へと流れてくる自分の醜悪な考えをせき止めた。

 その日の晩、幸子が突然妙なことを言い始めた。

「祥平は二十代は自分の人生の時間だっていうの。自分でお金を稼いで生活して、趣味をもってみたり、今しか得られない充実感のようなものがあるって。仕事に打ち込むだけでなく、いろいろな人と関わって、連休には旅行にも出て世界を広げてみたり」

「へぇ。祥平がそんなことをねぇ」

 二十代で結婚した英治には、あまり理解できない感覚だった。それをわかっていながら話す幸子に違和感があった。

「私は二十代に祥平を生んで、母親になって、そんな人生の送り方、ちっとも知らなかった。今からじゃ遅いのかしらね」

その言葉で昼間から醜悪をせき止めていた自制の堤防が決壊し、醜い自分が噴出した。

「お前は何を言いたいんだ?俺と結婚したことが失敗だったと?ずいぶん遠回しな嫌味だな」

 英治自身も二十代で結婚し、自分のお金も時間も十分に持たなかった。だが、それで良いと自分の中のもう一人の自分と折り合いをつけながら生きてきた。そうして這ってでも会社に行くような人生を過ごしてきた英治を差し置いて、「自分の人生」について幸子の口から語られることを聞くことが堪えられなかった。自分を殺して歩んだ会社員人生は、会社でも家庭でも報われなかったのだと、英治は幸子の意図をゆがめて受け取った。

そうすることは、折り合いをつけていたはずの不満気な自分がまだ、自分の中にいることも認めることにもなろう。そんな自分を直視することができなくて、狼狽えて、怒りにすり替えた。

「そういうことを言ってるんじゃないの。ただ、二十代って輝いているのね、って眩しく思えたって、ただの話じゃない」

「お前も俺も楽しくもない人生を送ってきたと、それは俺のせいだとでも言いたのか?こっちは必死で働いて、祥平を大学に行かせて。祥平も祥平だ。勝手なことを言いやがって。お前もそんなもの真に受けて、よくも俺にそんなことを言えたな。もういい。勝手にしてくれ」


 翌朝、幸子は英治を起こしにきた。英治自身がもう一度落ち着いて、自分の感情を整理しなければいけないと思った。しかし、長い夫婦生活で、時々けんかになることは珍しいことではないと思うと問題に向き合う真剣みが薄れた。

 

 一昨日だったか。幸子はコウタに牛肉を与えていた。晩飯で使った肉をコウタ用に味付けしないで出したのだ。

「そんなのコウタにやっても味なんてわかるものか」

 幸子は溜息をついた。

「たまにはいいでしょ。コウタ、美味しそうに食べてるわよ」

「なんでも美味しいだろうさ。猫に小判だよ」

 つまらないことを言っているな、と自覚はあった。幸子はそれ以上言い返してくることはなかった。英治との会話をもう諦めていたのだろうか。

 

 英治は階段の途中で座りこんで、ここ最近の出来事を思い出していた。英治の中で時間が解決したと思っていたが、幸子はそうでなかったのだとようやく気が付いた。

コウタはじっと英治を見つめている。

「なんだ、お腹すいたか。ちょっと待ってな」

コウタにご飯をあげて、自分も身支度をした。早めに家を出て、駅前にあるチェーン店のカフェに寄って朝食を摂ることにした。

 通勤までの住宅街には、まばらだが庭を構えるや、軒先に花を植えている家庭がある。梅は厳しい寒さに耐えて、人々が春の訪れを感じるよりも先に花を開く。そのつぼみがふくらみはじめていた。


 英治は携帯をにらみながら住宅街を足早に抜けて、駅前の雑踏に着いた。

 注文の朝食セットを受け取った英治は、席についても朝食を口にすることなくまだ携帯を睨んでいる。

「幸子、出て行ったのか?」

「幸子、どうしたんだ」

「幸子、なんで出て行ったんだ?」

 入力をしては消した。何を書けばいいのかわからない。

「いつ帰ってくるんだ?」

「もう帰らないつもりか?」

「大丈夫なのか?」

「幸子、出て行ったのか?」

 結局、堂々巡りでたった一言の入力も完成できない。一旦携帯を置くことにした。

今晩はコウタが待っているから早めに帰ろう、それだけを決めた。


重要事項への対処は考える時間が必要だ。対応の後回し、結論の先延ばし、もっともらしい言い訳、どれも大人になってからは家庭でも会社でも得意になった。英治は朝食を食べ始めた。

 結局メールを送らずに店を出た。電車に揺られる間も何て書こうか、頭を悩ませた。会社の最寄り駅に着いてから、携帯を取り出して歩きながら再び入力を始める。

「目覚ましで起きたから寝坊はしていない。連絡してください」

 会社が目前にせまってようやく腹が決まり、送信ボタンを押した。言いたいことも聞きたいことも何一つ伝えていない。男としてかプライドか、一家の主としての見栄か、そんな自意識の類が英治の行動を制限した。結果的に、口ベタな恋愛中の若者のような振る舞いであることに、ほとんど自覚はない。

 英治は部品を扱う小さな商社に勤めている。二十代で転職してからかれこれ二十年近く経つ。神田と秋葉原の中間に位置するごく小規模なオフィスビルのワンフロアが本社であり英治の職場だ。

 始業してからもしばらくは心ここにあらずとなって、携帯が気になってやきもきと時間を過ごした。そのうちに部下から報告を受けたクレーム対応にかかりっきりになり、携帯への意識は離れた。

 対応が一段落した頃には、フロアの社員たちが仕事の手を止めて休憩を取り始めていた。時計を見ると十二時を十五分過ぎていた。席に戻り、携帯を開いた。受信ボックスに幸子からのメールは入っていない。当然といえば当然か。席を立ったところで部下の富永に呼びかけられた。

「米田さん、今日弁当じゃないんですか?」

 気づく者は気づく。気づいても触れてこない者もいる。昨夜一緒に飲みに出かけた富永は気づいてすぐに声をかけてくる。あまり遠慮はない。

「あぁ。ちょっとな」

 にごして答えた。

「喧嘩でもしたんですか」

富永が食い下がる。

「まぁ、そんなところだよ」

「米田さんもそういうことあるんですね」

 なんで喧嘩したんですか、と言ってきそうなので話を切り上げて会社を出た。弁当を買いに出るだけのつもり思ったが、席に戻れば富永から質問攻撃を受けそうな気がして外食をすることにした。

 昼食の時間に出遅れたが、カレー店はすぐに入れそうだったから短い列に並んだ。つい携帯を開くと、知らないアドレスから一通のメールが入っていた。タイトルには「お礼/チカ@さくら」と入っている。昨夜富永と久しぶりに行ったスナックの店員のようだ。連絡先を聞かれて渡したのを覚えている。三十手前の素朴だがよく笑う子だった。彼女も昼間は会社勤めをしていると言っていたから昼休みにご丁寧にメールを打っているのだろう。メールを開くとハートやら星やらの絵文字が飛び込んできた。

「チカです。昨日はとても楽しかったです。ありがとうございました。ところで、奥さまはどうしたんですか? お店でお話聞かせくださいね。 チカ」

絵文字がにっこり笑って締めくくられている。英治の心拍数が跳ね上がった。チカという女のメールを凝視した。

「・・・奥さまはどうしたんですか?・・・」

 まるで幸子が出て行ったことを知っているかのような言葉だ。昨夜何を話したか記憶は曖昧だが、夫婦喧嘩なんてみっともない話をした覚えがない。

なんのイタズラなんだ・・・? 英治は狼狽した。幸子は最後の仕事として、大音量の目覚まし時計をわざわざ購入し、セットしていく周到さだ。愛用の化粧品類もしっかり持っていったようだし、事件に巻き込まれたのではなく自らの意思で動いている。

仮に誘拐を計画する女がいたとしても、下町で慎ましく暮らす主婦をさらったところで、身代金など期待できない。縁もゆかりもないただの主婦に恨みを持つはずもない。

幸子に危険が及んでいる可能性はゼロだと思っている。ゆえにこのメールはますます不可解であった。

「お客様、お客様」

 はっとして、自分が呼ばれていることに気が付いた。笑顔を浮かべる若い男性店員は英治を奥まった席へ案内した。

「おすすめはBランチです」

 メニューを考える余裕もないから、薦められたとおりに注文した。食事がのどを通る気がしないが、言われるがままに入ってしまって出て行くこともできない。結局、食事は半分も残してしまった。

チカという女の印象はあるが、顔も話したこともはっきりとは覚えていない。英治は富永に確認するために早々に会社へ戻った。結局こうなるのなら弁当でもよかったのだ、と頭の片隅で独りごちた。

「富永、昨日のチカって子、覚えているか?」

 小声で問いかけると、富永は驚いた顔つきで英治を見た。

「あぁ、米田さんと話していた、三十路の子ですよね。俺ずっとミナミだかミサコだかって子と話してたからあんまり覚えてないですよ。ていうか、米田さん、どうしたんですか?その子と何かあったんですか?」

 富永は興味津々だ。なんだか楽しそうな顔してるじゃないか、と英治はムッとした。

「いや、さっきメールをもらったんだけど、あんまり覚えていなくてね。最近飲むと忘れることが増えたような気がしてな」

「米田さんは単純に興味がなくて覚えてないんですよ。あの手の店はそんなもんですって」

そう返事をした富永は英治の言い訳にあっさりと納得して、興味を失ったようだ。これ以上聞けば、その理由を変に勘繰ってくるだろうと思った。スナックの女にはまっていると誤解されるのは癪に障る。事情を打ち明けたところで、噂話の格好のネタになるだけだということは火を見るよりも明らかだ。そう簡単にネタなんぞ提供するものか、英治は心の中で毒づいた。

 午後六時半を回り、まだ仕事を続ける部下を残して英治は帰路についた。帰りの電車に乗って、今度はミカへの返信文を考えた。相手にイタズラ、嫌がらせの意図はなく、たまたま昨夜の話と絡めて、あのような内容になった可能性は捨てきれなかった。それであれば、下手にこちらの事情を話す必要はない。さくらは英治以外にも会社の人間が出入りしているから、噂はどう巡るかわからない。こちらの狼狽を気取られず、相手を不快にさせることもない、メールを送りたかった。もう一つ、酔ってほとんど覚えていないと白状するのも格好が悪くて気が進まない。あぁだこうだと考えるから時間がかかった。

「メールありがとう。また富永たちとお邪魔しますよ。ところで妻がどうしたかっていうのは、どういう意味?」

 ひとまず返信した。客のメールをほったらかしにすることはないはずだから、返信を待てばよいと大きく構えることにした。来るかどうかわからない妻からの返信と、来るとわかっている店の女からの連絡を待つことにした。

 自宅の駅に着いてから、スーパーへ寄って惣菜とビールを買った。戻っているかもしれないとう奇跡を待つような淡い気持ちを少しも持たないわけではないが、一方でそれがあり得ないことを十分にわかっている。


「ただいま」

 灯りの点いていない家はしんと静まっていた。ダイニングに入ると、コウタが座って待っていた。幸子のいない家で一日中一人だったのだ。退屈していたのだろう。

「コウタ、ごめんな。今、ご飯用意するからな」

「ミャァ~」

 やっと家主が帰ってきたので珍しく喜んでいるようだ。スーツをハンガーにかけて、コウタに食事を出した。高齢になっても食欲は旺盛だ。こんな時でも変わらずに一心にご飯にありつく姿を見て、幾分か心が穏やかになることを感じた。環境の変わった非日常にいる今、コウタの存在だけが英治の日常だ。英治もスーパーの袋を開けてテーブルに腰をかけた。ついてきた割り箸を割って、惣菜はパックのまま食事を始めた。静けさに耐えられなくなって、テレビをつけた。夕刊を読んだりテレビを眺めているうちに午後九時を回った。重い腰を上げてシャワーを浴びに行った。シャツの上からもせり出した腹がよくわかる。肥満ではないが、特別トレーニングもしてなければ、これくらい普通だろうと思っている。腹の出方などを気にするような機会もないし、そんな生活を望んでもいない。


 敷きっぱなしにした布団に入った英治の目はさえていた。ふと毎朝起こしてくれていた幸子がいないので、目覚ましをかける必要があることを思い出した。体は朝起きることを覚えているが、まだ日も昇りきらない早朝に目が覚めて、仕方なく二度寝するとうっかり寝過ごす可能性があった。英治は仕方なく、幸子が残していった目覚まし時計を枕元に置いて、まどろむのを待った。


祥平は一人暮らしを始めるといって三年前に家を出た。会社は実家からも通えるが、自立する道を選んだ。幸子が寂しがっていることを知っていたから、祥平は月に二、三度帰ってきて幸子の料理を食べて、話し相手になっていた。コウタも祥平が帰ってくると喜んだ。二十代の男の割に気が利いていると英治は感心している。優しい大人に育ってくれたことが誇らしくもあった。

独り暮らしで仕事に励む祥平に、わざわざ夫婦のいざこざを報告するのは情けないし、気も引けた。幸子と毎月連絡を取って帰ってきているのだから、すでに知っているのだろう。幸子が出て行ったこの家に、まめに顔を出す理由はないように思えた。コウタは寂しがるだろうな、と思った。

 その日、結局チカからの返信はなかった。考え事をしているうちに深い眠りに落ちて行った。

 翌日も待ち人からの連絡はなかった。

 コウタと二人きりの生活が始まって、あっという間に一週間が経った。会社では富永が心配し始めた。

「米田さん、大丈夫なんですか?」

 毎日妻に弁当を持たされていた英治が、この一週間外食やコンビニ弁当が続いている。声をかけてくるのは富永だけではなかった。英治は白状した。

「実は、妻が出て行ってね。戻ってくる気配がないんだよ」

 富永は心底驚いた表情を浮かべた。

「え、それ本当ですか?何か喧嘩でもしたんですか?」

「一ヶ月位前にちょっとね。出て行ったのは突然だよ」

 富永の顔には同情が加わった。一人で生活できているのかと聞いてきた。

「まぁ、なんとか。今まで妻に任せていた家事全般は週末にまとめてやっているよ。台所に立つのだけはどうも慣れないが」

 台所は幸子の居場所だ。戻ってくるかもしれないと奇跡を待つ身としては、幸子の居場所を残しておきたかった。どのみち料理の腕がない英治は、週末にやきそばを炒める程度がやっとだ。

 英治は昼食を食べ始めて英治はチカへ再びメールを入れた。メールのやり取りが面倒だというなら客として出向くしかないと思った。

「今日お店にいるのかな?」

 すぐに絵文字入りの返信が来た。

「お疲れさまです。いますよ」

 英治は現金なことだと思った。お店に少し寄るつもりだと連絡を入れた。

 その日、コウタを待たせたまま、さくらに顔を出した。七時過ぎに店前につくと、看板に灯りは入っていた。開店していることがわかって、一呼吸置いて扉に手をかけた。古びた喫茶店のようにも見える木製の扉を、ゆっくり押した。ギイとひっかるような、年代を感じる音と共に店内に入ると昭和へタイムスリップしたような気分になる。もともとは鮮やかな赤をしていたはずの座席は色あせてピンクがかっている。照明を落とした店内のカウンターにはママと女の子たちが腰をかけている。ママと女の子たちが一斉に入口の英治を見て、仕事を始めた。

「いらっしゃいませ。米田さん、お一人ですか。珍しいですね。さ、カウンターどうぞ」

 ママが寄ってきて、英治の鞄を受け取ろうとした。

「ママ、すまないけど用事があって来たんだよ。チカちゃんって子来てる?」

「チカですか。今日シフト入っていたのに急に来られなくなったって。しばらく出勤が難しいみたいなんですけど」

 英治はチカの行動をいぶかしんだ。来られては決まりの悪い何かがあるのだろうか。

「そうか。まぁいいや。三十分くらいしか居られないけど、相手してくれる?」

「もちろんですよ。さ、どうぞ」

 英治は見栄を張って店内に入った。無駄足を踏んだ上に出費が嵩んだが、このまま帰っては格好がつかないような気がした。

「米田さん、チカちゃん気に入ってくれたんですか?ごめんなさいね」

 ママは聞いてきた。

「いや、まぁ、この前よく笑って話をしてくれたんでね。今日は何か具合でも悪いとか?」

 ママも詳しいことは聞いていないようだった。酒を作ってもらいながら、他愛もない話をしているうちに、数名の客が入ってきて少ない女の子たちはその対応のために英治のもとを離れた。英治はその隙に携帯を確認したが、チカからのメールは入っていなかった。何かの意図があってお店を休んだように思えてならなかった。自分から不可解なメールを送っておきながら、それ以上何も言ってこない。それどころか、逃げるような振る舞いをした。チカの言動はいったい何を示すのか。英治には皆目見当もつかなかった。出迎えの準備を終えて女の子が戻ってきたが、これ以上店にいても仕方がないので謝りながら会計を頼んだ。

「すまないけど、チェックを頼むよ」

 ママはチカがいないことを申し訳なさそうに詫びたが、それで気分を害しているわけではないことを説明して、また来るからと重ねて言い聞かせて店を出た。午後七時半前のことだ。すまないと詫びたが、その実、滞在時間三十分に五千円払う客は、彼女らにとっては良い客であったろう。そんなことはお互い百も承知の上のやり取りだと英治はほろ酔いで考えていた。

 

「ただいま」

 英治が灯りを点けると腹を空かせたコウタが待ちわびていた。

「すまないな。今日はお詫びにおやつを買ってきたからな」

 コウタにおやつまであげると、自分の夕飯をスーパーの袋から取り出した。店に寄ったおかげでスーパーに行くのが遅れたが、おかげで惣菜が割引になっていた。どうやら午後八時以降には、全商品に値引きシールが貼られるらしいことを英治は初めて知った。とはいえ、いくら惣菜が半額になっても今日のセット料金五千円の出費が痛いことには変わりなかった。

 英治は溜息をついた。一週間経つが、幸子からも連絡は入らなかった。それでもメールを送ることにした。何度か入力しては消してを繰り返したが、一週間前に比べたら早いものだった。

「どうしていますか?コウタは元気にしているので安心してください。連絡ください」

 それからテレビを観て、シャワーを浴びて、いつもの通り目覚まし時計をかけて眠りについた。

 

 更に一週間が経った。

 その日の午後三時を回った頃、内線がかかってきて総務部の田辺から呼び出された。会議室を取ってあるから来いというのだ。田辺は同期で総務部長をやっている男だ。営業にいた時期もあったが、かれこれ十年以上は総務・人事一筋でやっている。以前は飲みにいったこともあって、営業とは違ったストレスが多いと愚痴をこぼしていた。近頃は夫婦で親の介護に関わるために飲みに行くことはめっきり減っていた。

 人事をやっている田辺が呼び出す理由は、まさかリストラか何かか。嫌な予感がした。

 英治は重い足取りで会議室に行き、軽くドアをノックして入室した。

「あぁ、米田すまないな。まぁかけてくれ」

「いや、構わないよ」

 田辺は一呼吸して話し始めた。

「早速本題に入らせてもらうけど、二週間くらい前だけど、派遣の鈴木さんと話した覚えはある?」

 てっきりリストラの話かと思っていたから面食らった。鈴木とは派遣会社から来ている女性事務員だ。挨拶程度の会話しかしないが、最近エレベーターの前で少し話したことを思い出した。

「エレベーターの前で話したのが、二週間くらい前だったような気がするが」

「そうか。その時どんな話をしたか覚えているか?」

 田辺の質問の意図が英治にはわからなかった。

「何を聞きたいんだ?」

「いや、まぁとにかく、覚えていたら教えてくれ」

 英治はよくよくその時のことを思い出そうとした。

「鈴木さんはうちに来てまだそれほど時間が経っていないだろ?だから、会社には慣れたかどうか聞いたな。それと、商社といってもうちは規模が小さいから、一人の業務範囲は広いだろ。だから、その辺り、どうかって聞いたな。周りの人が親切だから、少しずつ教わってますっていうような当たり障りのない感じの返事だったと思うが。自宅から電車一本で来られるから、通勤しやすくて助かってるとも言ってたな」

「その自宅の話は米田が聞いたのか?」

「いや、向こうから言ってきたよ。それで、自宅が遠方じゃないなら、アフターファイブというのも充実しそうだね、みたいことを言ったよ。他に二十代に合う話題を持ち合わせていないからな」

 田代は難しい顔で、うーんと唸っている。そして言いにくそうにつないだ。

「実はな、鈴木さんから、派遣契約を打ち切りたいと言ってきて、その理由がな。米田からセクハラを受けたという話なんだよ」

 英治はガーンと頭を殴られたような衝撃を受けて、言葉が出なかった。

「はぁ?」

「俺もあり得ないと思っているんだが、向こうが言って来てな。こうして事情を聞いているわけだ」

 身に覚えのない、突拍子のないことを言われて理解が追いつかない。英治の困惑する様を田辺は直視することが申し訳なくなった。

「ちょっと待て、勘弁してくれよ。ただの世間話だぞ」

「わかっている。だが、このご時勢、セクハラ問題については会社としては敏感にならざるを得ないからな。すまないな、米田」

 そう言う田代の言葉は力ない。田代の話によると派遣社員の鈴木の勤務は契約途中ではあるが解除することになった。田代が責任者としてこの件を調査し、上にも派遣会社にも報告を入れることになっているという。調査中のため、他の社員への口外を止められた。英治は肩を落として会議室を出た。


 席に戻ると富永は何か聞きたそうな視線を米田に向けていたが、気が付かないふりをした。タイミングの良いところで、トラブルが生じて、その対応に追われと富永にも取りつく島がなかった。そうして午後六時半を回った所で英治は会社を出た。

 いつもの通り、缶ビールと惣菜の入ったビニール袋を提げてコウタの待つ自宅に帰った。

「ただいま」

 英治は力のない声で呟いた。コウタはテーブルの下から出てきて、水を飲んでいた。

「今ご飯用意するからちょっと待ってな」

 英治はご飯を用意して床へ置いた。水の入った皿を洗い、新しい水を入れてやった。そうしてコウタがご飯を食べて、床でまるまっている様子をしばらく眺めていた。

 二十年以上連れ添った妻に出行かれて、その日によく知らない女から不可解なメールを送りつけられた。ほとんど話したことのない派遣社員の女からはセクハラを訴えられる。

 自分の身に何が起きているのか、状況を飲み込むことができない。

 英治は携帯を開いて幸子にメールを打った。

「今、どうしてますか。心配です。生活はできてますか。連絡ください」

 今度はすんなりとメールを送ることができた。あれこれ体裁を考える余裕がなかったからだ。

「コウタ。お母さんにメール送ったぞ。帰ってくるといいな」

 帰ってきてほしい、その思いが自然と口をついて出た。英治は深いため息をついた。

 英治はもともとお酒の席でも、自ら女子社員から嫌がられるような、下世話な話を振ったことはなかった。他の社員が絡んでいるのを見つければ、なるべく間に入って話題を変えることもあった。飲み屋の女性に対しても、当たり障りのないことしか話さない。女性にしてみればかえってつまらない男だろうと思うくらいだった。セクハラで訴えられるような振る舞いを取った覚えは断じてない。そう声を大にして言いたい。

 英治は着替えて、ビールを開けた。コップも出さず缶のまま、ゴクゴクと飲んだ。こういう酒は上手くないとわかっているが、他にどうすることもできなかった。

 テレビを観ながら、何度か携帯を気にしたが幸子から返事が来ることはなかった。


 翌日、再び田代から呼び出された。

「すまないが、まだ調査が続いているから、付き合ってほしい。エレベーター前で話をしているとき、誰か近くを通った人間はいたか?」

「事務の三田さんが通ったな。あとは・・・」

 英治はそこで、営業部長となった今井が通ったことを思い出した。質問の意図を考えると、間違いなく彼らにも調査が及ぶ。今井にこのことを知られ、助けられることになるかもしれないと思うと苦々しい。言い出すのが躊躇われた。しかし、結局今井の名前を挙げることにした。

「あと・・・今井が通った。覚えているのはその二人だ」

「わかった。一応、その二人にも話を聞くことになると思う。二人にも調査中だから、他言しないようにとは言っておくから」

 田代の口ぶりだと、一応口止めをするが、秘密が守られるかどうかは怪しいと考えているようだ。英治もそれはわかっている。公然の秘密だ。

 英治は自席に戻って仕事を再開した。富永が見計らって声をかけてきた。

「米田さん、何かあったんですか。昨日も内線かかってきてましたよね」

「あぁ。ちょっと相談していたことがあってな。総務の分野だから田代に聞いていたんだよ」

「人事の話かと思いましたよ」

「それはないだろ。今井が部長になって、これ以上の目玉はもうないさ」

 個別の問題だから気にするな、質問してくれるな。そういう雰囲気を読み取ってそれ以上聞いてくることはなかった。

 田代は社長室に報告を入れながら調査を進めていると言った。今日の聞き取りの報告が上がってから、次へ進むのだろうと英治は考えている。関係者に加えられ二名の聞き取りは恐らく明日以降になる。しばらくは疑惑の渦中に身を置かねばならない。そして最終的に判断は他人の手に委ねられる。心もとないことをこの上なかった。


 その日、家に帰ると、朝出てきたときと何かが違っていることに気が付いた。物の配置がきれいにまとまっているような気がする。灯りをつけて、キッチンへ行くと今朝使って置きっぱなしにしていたコップが食器棚に戻っている。居間に散らかした新聞がまとめられている。和室に敷きっぱなしの布団のシーツが変わっていた。

「幸子・・・」

 英治は二階へ上がった。シーンとしている。寝室にも幸子はない。玄関に靴もないことから幸子が家の中にいないことは理解した。コウタが英治を見つめていた。

「コウタ、お母さんに会ったのか?」

 じっと見つめ返した。

「そうか、会ったのか。よかったな」

 英治は、椅子に腰を下ろして涙を流した。携帯を見ても連絡は入っていなかった。昨日のメールを受け取った幸子が、今日、帰ってきてくれたのだ。英治は携帯を確認したが、やはりメールは入っていなかった。

「幸子、ありがとう。コウタも喜んだろう」

 お互い、時間が必要なのだ。今戻ってきてもらっても情けない醜態をさらすことしかできないと思った。だから、戻ってきてくれとは言わないが、ありがとうと伝えた。


 会社で二回目の聞き取りを受けてから、一週間も経った頃には、英治のセクハラ問題は社内の誰もが知る公然の秘密となっていた。富永から話を聞かされた。

「米田さん。すごい噂になってますよ。大丈夫なんですか?」

「俺にもわからんよ。鈴木さんが、セクハラを訴えているから、こっちがいくらやっていないと言っても、果たして信じてもらえるのかどうかわからないしな」

「誰か、証明できる人いないんですか?」

「通りかかったのが二人いたから、二人も事情を聞かれていると思う。だが実際俺と鈴木さんが何を話していたかなんて聞こえていないだろうし、証明することは難しいんじゃないか」

 英治の口ぶりは疲れているのか、諦めているのか、富永は心配した。

「そんな他人事みたいな言い方しないでくださいよ。なんとかなりますよ。最近の若い人はいったい何考えているかわかりませんけど、そんな言いがかりで人の人生狂わせることに罪悪感ないんですかね」

「まだ狂うとは決まってないぞ」

 英治は釘を刺した。

「その通りです。そうですよ。俺にできることあったら言ってくださいよ」

「ありがとうな」

 富永の下にいる部下たちも同じように、うなずいて英治を見た。例え社交辞令であっても有難いことだと思った。皆それぞれ家庭を背負っている。上司のために会社をやめる義理なんてないことは祥平を育ててきた英治自身がよく承知している。それでも、突き放さず、足並みを揃えようとしてくれる、その行動によって疑惑の渦中にあっても英治の居場所が保たれたのだ。あとは、田代とその上の人間たちが良識ある判断を下すことを祈るしかない。


 それから一週間が経って、再び田代に呼び出された。

「米田、本当にすまない」

 第一声で謝られて、英治は良くない判断が下ったことを覚悟した。退職願を書くのか、懲戒になるのか。いずれにしてもこちらも弁護士に頼んで行動を起こさねばならないだろう。

「派遣会社から謝罪がきた」

 田代の口から出たのは予想とは異なった。英治はまたも肩すかしで理解が追いつかない。

「それはどういうことだ?」

「米田はセクハラをしていないし、通りかかった二人もそんな雰囲気を感じなかったというから、そういう内容で派遣会社に調査報告を出したんだ。こちらとしては、事実であれば、懲戒にするが、今のところそのような事実は認められないと。派遣会社の担当者に対しては、俺の個人的な意見として、米田はそういうことをする人間ではないし、一人の人間の人生を大きく左右するものだから、今の時点で処分を下すことは危険だという話をしたんだ」

「そうか。ありがとうな」

「派遣会社の方でも改めて鈴木さんの聞き取り調査をしたら、彼女は訴えを取り下げてきたんだよ。別の派遣会社の知り合いにこの話をしたら、たまにこういうトラブルはあるらしいんだ。例えばだが、契約期間中だけど職場が嫌になって、セクハラを受けたとか理由をでっちあげて契約を解除するとか、あるにはあるらしいんだ」

 英治は聞いていて目がテンになった。

「人をなんだと思ってるんだ・・・」

 言葉が続かなかった。

「本当にすまない。早い段階で、俺から派遣会社に話をしていればこんなことにはならなかったんだ。本当に申し訳ない」

 田代は頭を垂れてうなだれた。

「田代、顔を上げてくれ。お前のせいじゃないだろう。田代も上と俺の間に挟まって辛かっただろう。悪かったな。お前のおかげで、疑惑が晴れてよかった」

 英治は素直に田代に感謝した。田代の一押しが派遣会社の担当者の心を動かし、再度の聞き取りで鈴木に真実を語らせることにつながったのだ。

 

 心が少し軽くなって、会議室を出た。席へ戻ると、富永は心配そうに英治に視線を送ったが、話かけるのに躊躇しているようだった。英治から話かけた。

「富永、みんな。この度は心配かけてすまなかった。今、総務の田代から話があってな。疑惑は晴れた。派遣会社の方から今回の騒動について謝罪があったらしい」

 英治は噛みしめながら、富永へ報告した。

「米田さん、よかったです。本当によかったですよ」

 富永は本当に安堵しているようだった。

「ありがとう。心配かけてすまなかったな」

 英治は、その後事務の三田と今井の元へ赴いて、無事に疑惑が晴れたことと証言してくれたことに礼を言った。この二人が社内へ触れ回ったのだろうから、解決したこともこの二人から触れ回ってもらえばいい。

「今井、今回は巻き込んでしまって申し訳なかった。おかげで無事に解決した」

「あぁ、田代から聞いてる。よかったな」

 素っ気なく返してと今井は仕事へ戻っていった。英治は嫉妬も湧かないような完全な敗北感と共に今井の背中を見送った。


 その日の帰り、英治はタロウのために、精肉コーナーへ寄って黒毛和牛を買って帰った。火を通して、冷ましてから、キャットフードに盛り付けた。お皿に駆け寄ったコウタはいつも以上に喜んでいるように見えた。

「俺よりもいい肉食ってるんだ。よく味わうんだぞ」

 そんな英治の言葉は聞き流して、コウタはあっという間に平らげた。

「今日は特別だからな。毎日食べられると思うなよ」

 コウタは満足げに、水を飲んで、床の上で丸まった。英治はその姿を静かに見つめた。

「お前はちゃんとわかってるんだよな。猫に小判とは俺のことだ」

 コウタはチラッと英治を見て、また瞼を閉じた。

優しい妻と子供に恵まれている。その幸せに気づかない己こそが猫に小判という言葉がふさわしい人間だと思った。英治は携帯を取り出してメールを打った。

「元気にしているか?こっちは会社でトラブルに見舞われていたが無事に解決した。コウタに奮発して牛肉をあげたら喜んでいたよ。猫に小判なんかではないな。うまそうに平らげたよ」

 スラスラと文字を打つことができた。

 

 その週末に祥平が家に来た。祥平は母さんの相談に乗っていたらしい。

「黙っていてごめん」

「いや、俺が悪かったんだ。母さん元気にしているのか?」

「まぁ。俺が保証人になって一人でアパートに住んでいるけど、生活は厳しいと思うよ。へそくりっていたってたかが知れているだろうし」

「母さんは離婚したいって言っているのか?」

 返事を聞くのは怖いが思い切って聞いた。

「それが、そういうわけでもないみたい。土日はパートに入っているみたいだから、俺もまだ話はしていないんだけどね。メールして迎えに行ってあげてほしいんだよ」

 英治は黙った。幸子の方で気持ちの整理がつかないことには、それも上手くはいかないように思えた。

「そんなに考えこまなくても。長年夫婦やってきたら、たまにスケールの大きい喧嘩になるのも仕方ないんじゃない。珍しくないと思うよ」

 祥平は、「意地張ってないで迎えに行け」とは言わなかった。英治の気持ちも慮っているのだろう。鈍感な英治にも、祥平が慎重に言葉を選んでいることはわかった。

 コウタは嬉しそうに祥平にまとわりついている。英治が考えている間、コウタの相手をしてやった。

「祥平、後でメールを送って、来週にも母さんの所へ行くよ」

「わかった。住所はここだから」

 祥平は鞄からメモを取り出してテーブルへ置いた。しばらくコウタと遊んでから、祥平は用事があるといって帰っていった。

 コウタは遊び疲れたのか、また眠りについた。

 

週が明けて火曜日に、富永から飲みに誘われた。

「今日は大丈夫なのか?俺と違って奥さん待っているんだろ」

「それが、今週地元の友達の結婚式に出るついでに帰省しているんですよ。帰っても誰もいないんで付き合ってくださいよ。帰省すると向こうの両親、嫁にお小遣い持たせるんで帰ってくると機嫌いいし、大丈夫です」

「鬼の居ぬ間に、というわけか。でも俺は、猫がいるから遅くなれないんだよ」

「わかりました。じゃぁ、八時半まで付き合ってくださいよ。俺一人でさくらに入る勇気ないです」

「お前はもうそろそろ一人で行けるだろうよ」

 と返事をしながらも、八時まで付き合うことにした。

 六時過ぎに会社を出て、英治は少し陽が伸びてきていることに気が付いた。安い居酒屋でお腹を満たし、二件目はさくらへ向かった。

 古い扉に近づくと中からカラオケの音が漏れきていた。扉を開けると酔っぱらったサザンオールスターズの歌が大きな音で聴こえてきた。先客がいて、女の子たちは仕事をしていた。

「いらっしゃいませ」

 ママは英治に気が付くと、すかずに言った。

「チカちゃん、今日来てますよ。後で席につけますから」

 女の子に鞄を預けて、ママの案内でボックス席についた。おしぼりを受け取り、世間話をして、お酒が作られた。英治たちもカラオケを始めると、富永が歌っている間に女の子が一人席についた。

「米田さん?チカです」

 そう言われて、その子がチカという子だということに気が付いた。

「あぁ、チカちゃん。よかった。この前はどうもね」

 チカの不意打ちに虚を突かれた。

「こちらこそ、今日もありがとうございます」

 そう言ってにっこり笑った。店内は騒々しい。富沢のカラオケが終わるまでチカは手拍子をしていた。

「私もいただいていいですか?」

 そう言ってチカは自分の酒をつくり、三人で乾杯した。

「いただきま~す」

 英治は、恐る恐る、チカにメールの意図を尋ねた。

「え~とそれは・・・確か・・・将来、専業主婦がいいかどうかっていう話をしていて、私が奥さんはどうしたんですか?っていうのを聞いたんだと思います。閉店が近かったので、お会計とかでザワザワし始めて中断してしまったので、またお話を聞きたいという意味でした」

「あ~そういうことか。そんな話したんだったかな。まぁこれでスッキリしたよ」

「なんだ、米田さん、ロマンスじゃないんですか」

「変なこと言わないでくれ」

安心すると他の席のカラオケも愉快に聞こえた。

「チカちゃんは仕事、事務さんだっけ」

「少し前までは。今はレジのパートとここの掛け持ちですよ」

「あぁ、そうだったの。三十で会社辞めたら厳しいんじゃないの?」

「まぁ、いろいろあったんです」

「いわゆるブラックみたい感じだったの?」

 そんな話をしているうちに、あっという間に一時間は過ぎ、英治は富永を置いてさくらを出た。


「コウタ、ごめんな。遅くなって」

 急いでコウタへご飯をあげた。この前かったおやつがまだ残っていたので、食後にあげるとコウタは喜んで食べた。

「これで許してくれるか」

 コウタがおやつを食べる横で、自分は水を飲んだ。これ以上、酒に酔っても仕方がない。一つ一つ問題が解決されても、最も重要なことに不安が残っている。手放しで喜ぶのは幸子が戻ってきてからだと思っている。テレビの画面を見ていても内容は頭に入ってこなかった。今週末に幸子の家に迎えに行くときのことをずっと考えていた。幸子には、土曜日に迎えに行くとメールをしてある。祥平によると、昼間パートに出ているらしいから、夜七時に行くことにした。メールを送ったし、祥平からも伝わっているだろう。返信はないが、予定通りに迎えに行くつもりだ。


 土曜日の夕方がきた。

 幸子の家は同じ線路沿いでも千葉よりの、急行の止まらない駅にある。各停で駅に着き、改札を出ると、静かな町であった。ギリギリの時間について良かった。時間を潰そうにも英治の降りた出口にはスーパーとドラッグストアしかない。英治はプリントアウトしてきた地図を確認しながら、アパートに向かって歩き始めた。

 十五分ほど歩いて、二階建てのアパートに着いた。表札で米田という名前を確認した。不思議な気分である。自宅以外に米田という表札を見ることになろうとは考えもしなかった。

 インターフォンを鳴らすと、幸子は静かにドアを開けて出てきた。

「どうぞ、入って」

 ワンルームの小さな部屋だった。部屋には家電・家具類が極端に少ない。必要最小限の物だけ揃えたようである。

「すまなかった。俺がちゃんと母さんの話を聞いていればよかった」

 英治は平謝りだった。

「お父さんのメールを読んで、怒る気持ちはとっくに無くなってるのよ。ただ、勝手なことをして祥平も巻き込んでしまって、本当に申し訳なくて」

 幸子は俯いたままだった。

「戻ってきてくれないか?」

 伝えたい言葉を今、伝えなければいけない。まどろっこしい言い方はしなかった。

「でも今更・・・」

「何を言っているんだ。母さんの家だよ。コウタも喜ぶはずだ」

 二人は鞄にはいるだけの荷物を持ってアパートを出た。コウタの待つ家へ帰るのだ。明日の夜、パートを終えた幸子と共にレンタカーを借りて、部屋の荷物は全て引き払うことにした。契約は謝罪して、お金を払うしかないだろう。

 真冬の厳しい寒さはもうじき終わる。夜空に浮かぶ楕円の月を見上げて二人はゆっくりと歩いた。


家に着くとコウタは大喜びだった。

「コウタは母さんが大好きだな。よかったな」

 幸子はスーパーで買ってきた食材を脇へ置くと、コウタを膝に乗せ、優しく何度も何度も撫でた。

「さて、じゃぁ、お風呂と夕飯の支度としましょうか」

「それじゃぁ、俺が風呂の支度してくるよ」

 幸子は少し驚いた表情をした。

「ありがとう。助かる」

 


 幸子がチカに出会ったのは半年以上前だ。激務が続き、フルタイムの営業事務を辞めて、幸子が勤めるスーパーにパートで入ってきた。英治の職場の沿線に住んでいて、スナックさくらのバイトをかけもちしていた。三十歳の彼女とは子供のように歳が離れていたが、不思議と気が合ってすぐに親しくなった。主婦の敵とも言える水商売の話も、幸子には新鮮に思えた。自分の知らない世界に身を置く女性の苦労を知った。


 そして約二カ月前。幸子は英治ともめた時に灸をすえるために家を出ることを決意して、スーパーの勤務日数・時間を増やした。

 そのうち、これきり家に戻らない可能性も覚悟をするようになった。そんな悩みをチカに打ち明けた頃だった。チカのSNSで同級生の鈴木が英治の会社に派遣されていたことを知った。彼女も水商売を掛け持ちしている身だった。SNSを見る限り、いわゆる承認欲求が強いタイプであった彼女は、飲食や服飾を見る限りOLの給料以上にお金をかけているようだった。チカはここで英治を陥れる罠とその引き際のシナリオを考えた。鈴木はチカのもちかけた話を快く引き受けたのだった。


 英治が浴室へ行くと、幸子は一ヶ月前に購入した格安スマートフォンをこっそりとバッグから取り出した。チカのアイコンをタップしてまだおぼつかない手つきでメッセージを入力した。

「いろいろ力になってくれてありがとう。家に帰ってきました。今度のランチで詳しく話すね」

 

 コウタは幸子の手が止まったので、早く撫でてくれと催促した。

「はいはい、ごめんね。コウタはおじいちゃんになっても甘えん坊ね」

「ミャァー」

コウタはご機嫌そうに一声鳴いた。


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