一人の離脱兵の夜
人は感情の生き物である。
人はそのとき芽生えた感情を忘れない。
それが、怒りや憎しみ、恨みという負の強い感情ならなおさらだ。
そして、それを水に流せるほどの人など、そうそういないのである。
「くそっ。なんでなんだよ」
サクリファイス・ラバンドナ軍曹は、そう呟くしかなかった。
祖国である連盟を出たときは、宿敵共和国のバカどもに目にもの見せてやると意気込んできたものの、今や戦うどころか逃げ惑うしかない有様であった。
共和国軍や共和国民兵に追い立てられる日々。
部下や戦友は、また一人、また一人と倒れていく。
もちろん、追撃で死んでしまった者も多かったが、いつの間にかいなくなっている者も多かった。
それでもまだ、それは許せた。
なぜなら、相手は敵だからだ。今まで戦ってきた相手だからだ。
命の駆け引きをする以上、狩り狩られるということはわかるし、理解もできる。
なのに、なぜ味方であるはずの連盟軍に追われる羽目になってしまっているのだろうか。
確かに、旧王国侵攻軍団と共和国侵攻軍団は犬猿の仲だと聞いている。
しかし、それは上だけの話だと思っていた。――いや、思いたかった。
だが、現実は違う。旧王国侵攻軍団が我々に襲いかかってきたのだ。
驚きによって何もできないまま、次々と殺されていく。
くそっ、くそっ。こんなことってあるか。
祖国には恋人が待っているのに。こんなところで死んでたまるか。
ただその思いだけで、ラバンドナ軍曹は必死になって生き残ろうとした。
何をやってでもだ。
必死になって逃げる。何もかも捨て去って。
そして、気がつけば、ラバンドナ軍曹は深い森の中で孤立してしまっていた。
しかし、それを気にする暇はない。
いまは生き残ることだけしか考えられなかった。
他人のことを構う余裕は全くなかったのである。
やっと追っ手をまき、ラバンドナ軍曹は木の陰に身を潜めて荒い息を整える。
まだ肌寒い春だというのに、滝のような汗が滴り落ちてくる。
すでに多くの装備は失われ、腰の拳銃と手にしたライフル、それに身体に巻き付けた弾帯に吊るした水筒と、ライフル用の弾丸が十発ほど残るだけだ。
戦うのにも、抵抗するのにも、これはあまりにも心もとない。
だが、ないものはないのだから、開き直るしかないだろう。
息がある程度整い、体も落ち着き始め、ようやく思考が回り始める。
どうすればいいんだ。ひとりだけになってしまった。
仲間とはぐれたというべきだろうか。
いや、もしかしたら、みんな死んで、生き残ったのは俺だけか?
気がつけば、身体がガタガタと震えていた。
まだ肌寒い季節で、滝のように噴き出した汗が冷たくなっただけではない。
恐怖が、不安が、心を押し潰しそうになっていた。
だが、それでも足掻こう。
何としても生きて祖国に帰るのだ。
その思いだけがラバンドナ軍曹を突き動かしていた。
少し休憩した後、なんとか疲れ切った身体を引きずるようにして歩き出す。
ずるり、ずるり……。引きずるような足取り。
おそらく逃走しているときに足をひねったのだろう。さっきまで感じなかった痛みがある。
しかし、今ここで止まるということは死を意味する。
歩け。歩け。自分に言い聞かせる。
必死になって歩き続ける中、脳裏に浮かぶのは、仲間や一緒に戦場を駆けた部下のことだ。
やつらは生きているだろうか。おそらく……。
悪い方向に傾きがちな思考を、なんとか良い方向へと無理やり向ける。
いや、あいつらは生きている。俺と同じように生きようと足掻いているはずだ。
そう教育してきたし、そうあれるように共に考えてきた。
だが、そう思っても、絶望感は襲いかかってくる。
一気にではなく、じわじわと侵食するように。
それは、心がボロボロと壊れていくかのような感覚だった。
どろりとした負の感情が、確かに積もっていく。
だが、どんな超人であれ限界はある。
ましてや、心が折れそうなほどボロボロならなおさらだろう。
そんな時だった。
そのとき、薄暗い森の中で光を見つけた。
それは薄弱な光だった。だが、なぜか心安らぐような灯りだった。
それでもラバンドナ軍曹は周囲を警戒し、ゆっくりと近づいていく。
もう、周りに味方はいない――その思考が彼を臆病な野良犬のようにさせていた。
そして、狼とも犬とも取れる遠吠えが聞こえてきた。
それはまるで彼を狩るための声のように聞こえた。
ぞくりと心に寒気が走る。
何としても身を隠さないと……。
銃を構え、ドアに手をかける。
鍵はかかっておらず、中に人の気配がある。どうやら一人だけらしい。
それは好都合だ。なんとか追っ手をまかないと……。
ラバンドナ軍曹は銃を構えたままドアを押し開け、建物の中へ入った。
「静かにしろ」
そう声をかけて。
できれば撃ちたくない。こっちの居場所を知らせるようなものだからだ。
中にいたのは女性だった。
彼女は目を見開いた。どこかで見た顔だ——気のせいか。
「し、静かにしろ」
もう一度言う。
彼女は驚いたのち、じっとこちらを見る。値踏みし、確認するような視線だった。
「な、何を見ている?」
そう言いかけた、そのときだ。背後の方から、何人もの男たちの声が聞こえる。
「こっちの方か?」
「ああ、間違いない」
びくり、と身体が震えた。
ここで彼女が声を張り上げれば、もう終わりである。
たとえ彼女を撃ち倒したとしても、その銃声が決定打になるだろう。
終わりだ……。
血の気が引き、身体が震える。絶望が心を握りつぶそうとしていた。
そのとき——
「中に入って」
彼女はそう言った。
「えっ……?」
「いいから、家に入って」
その言葉は、まるで魅了の魔法のようだった。気がつけば、引かれるように身体が動いていた。
「ほら、ドア閉めて。それと、こっちへ……」
言われるまま、ラバンドナ軍曹は地下の貯蔵庫に押し込められる。
抵抗はしなかった。いや、できなかった。
生き残れるなら——。
その、わずかに残った希望に縋りつく。
そして、地下の貯蔵庫で息をひそめた。
すぐに、上が騒がしくなる。
ドカドカと数人の男が入り込んでくる音が響く。
そして、何やら話し込んでいるのだろう。
その時間は、ラバンドナ軍曹にとって、とんでもなく長かった。まるで嫌がらせのように。
すうっと汗が背中を再び濡らしていく。
拳銃を握った手が小刻みに震えている。
さすがに誤射するわけにはいかない。慌ててトリガーから指を離す。
ただ、闇の中で、じっと上を見つめる。
早くどっか行ってくれ。
必死になってそう願う。
ただ、ひたすらに。
そして、再び男たちが歩く音が響く。
もっとも今度は、離れていく音だ。
続いて、ドアが閉まる音。
その瞬間、ラバンドナ軍曹の体中から力が抜けた。
音もなくその場に座り込み、ラバンドナ軍曹は神に感謝の祈りをささげた。
生まれて初めて、心の底から。
そして、初めて感じた。
倉庫独特の匂いを。
そして、足に伝わる石床の冷たさを……。
それは過度な緊張が解けた証だった。
三十分ほど経っただろうか。
女性が地下倉庫のドアを開ける。
「もういいわよ」
ゆっくりと地下倉庫から出る。
もう拳銃は構えなかった。
もし、そのつもりなら、さっきやっていただろうから。
「ありがとう」
素直に感謝の言葉が出た。
「気にしないで」
女性は途中だった食事の準備を再開し始めた。
香ばしい匂いが鼻の奥をくすぐる。
それに反応して、腹の虫が鳴く。
そういえば、温かい食事をもう何日も口にしていなかったことを思い出す。
なにせ、逃亡の日々なのだ。
火を起こして料理するということは、相手に居場所を知らせるようなもの。
できるはずもなかった。
それに、緊張が解けてしまったこともある。
くすりと女性は笑った。
「よかったら、食べていかない?」
「……いいのか?」
「そんな顔と腹の虫を見過ごすほど、私は鬼じゃないからね」
女性はそう言って、くすくすと笑った。
その笑顔を見つつ、ラバンドナ軍曹は引っかかりを覚えていた。
やっぱり、この女とは会ったことがある——と。
だが、それを思い出すには、あまりにも疲労しすぎていたし、腹が空きすぎていた。
その結果、ラバンドナ軍曹は誘惑に負けた。
出された食事は、共和国独特のものだったが、どれも温かく、そしてうまかった。
身にしみていく。そんな感じだ。
そして、ふと思う。初めて食べる味ではない、と……。
だが、そんな思考は、すぐ食欲に駆逐された。
出された料理はすべてラバンドナ軍曹の腹に収まった。
そして、緊張が解け、今まで溜まっていた疲れからだろうか。
あるいは、空腹が満たされた結果かもしれない。
すうっとまぶたが重くなっていく。
思考が、ゆっくりと速度を落としていく。
そんなラバンドナ軍曹を見て、女性は笑った。
「ふふふっ。美味しかったかしら。全部、あなたが“美味しい美味しい”って言ってくれた料理ばっかりだったからね」
つり上がった口角が、まるで三日月のようだ。
そして、闇に沈み込んでいくラバンドナ軍曹の意識。
なのに、耳に聞こえるのは、女性の笑い声と言葉、そして、なぜか柱時計が時を刻む音。
眠りに落ちる直前、彼が最後に目にしたのは、目を細めて自分を見下ろす女性の姿。
そして耳に届いたのは、「初めて神に感謝するわ」という女性の声だった。
気がつくと、ラバンドナ軍曹はベッドの端に四肢を磔のように拘束され、口には猿ぐつわが噛まされていた。
身体を動かすことも、叫ぶことさえできない有様だった。
「あら、目が覚めたみたいね。サクリファイス」
女は妖艶な笑みを浮かべ、縛られたラバンドナ軍曹を見下ろして言う。
——なぜ、こんな目に遭うんだ?
そんな感情で満たされた彼の顔をのぞき込み、女は笑った。
「あら、まだ気づかないの? 妻にしてやるって言って、さんざん私を利用したじゃない」
そこで、ラバンドナ軍曹は思い出した。
情報収集と自分の性欲のために、現地の女をたぶらかしたことを。
髪型や化粧は変わっていたが、目の前の女はそのうちの一人だった。
ラバンドナ軍曹の表情が、恐怖に染まる。
「ふふふっ。思い出してくれて嬉しいわ。あんな戯言で本気になった自分でも情けないと思っていたの。
でもね、裏切られた思いは、忘れたことがなかった」
女の顔に影が差す。
すうっとどす黒いものが表情に浮かび、狂気の色が滲む。
「それにね、あなたのおかげで、私は連盟に尻尾を振る売女だって罵られて、実家も故郷も追い出されたのよ。本当につらかったわ」
そう言うと、女はテーブルの上のナイフを手に取った。
「でも、神様はいるみたいね。こんな機会を私に与えてくれるなんて。最高だわ」
とろけた瞳でラバンドナ軍曹を見下ろし、刃を首筋にひたひたと当てる。
「……ぐっ、ふぐ……っ」
恐怖に、言葉にならない声が漏れる。
「うふふ。すぐには殺さないから、安心して。二人で楽しみましょう、あの時のように……」
女は狂った笑いをこぼしながら告げた。
それは、これから始まる長い苦痛の時間の、合図に過ぎなかった。
この日を境に、サクリファイス・ラバンドナ軍曹の消息を知る者は誰もいない。




