灰色の雪
共和国軍の大攻勢が始まり、破竹の勢いで領土を奪還しているという情報は、あっという間に共和国全土へ広がった。
それは連盟が占領する地域でも同じだ。緘口令こそ敷かれたものの、すべては塞ぎきれない。
噂は拡散し、堪えてきた共和国国民を奮起させるには十分だった。
各地で反乱が起こり、そこまで至らずともサボタージュや抵抗が強まっていく。
そのうえ、これまで協力的だった者たちまでが露骨に顔色を変え、非協力的になっていった。
無理もない。
共和国軍が解放に来たとき、連盟軍に与した者は民衆から吊るし上げに遭うだろう。
だからこそ、少しでもそれを避けようと、彼らは「今まで通り」をやめたのだ。
この唐突な掌返しに、多くの連盟軍関係者は渋い顔をした。
だが、反抗を押さえて押し返しさえすれば事態は元に戻る。
今騒いでいる連中もじきに諦めるはずだとそう踏んでいた。
とりわけ旧王国侵攻軍団出身の者たちは、十分な情報もないまま後方支援任務を押し付けられていた事情もあって、現地との調整に奔走していた。
これ以上の悪化だけは避けようと。
なぜなら、共和国に派遣された連盟軍はなお相応の戦力を残しており、すぐに押し返せると見ていたからである。
実際、当初の計画から外れたとはいえ、旧王国侵攻軍団の戦力はほぼ健在で、ランドチェイラ地区の粘り強い抵抗も「まだやれる」という認識を強めていた。
しかし、そう冷静でいられた旧王国侵攻軍団とは対照的に、本来の共和国侵攻軍団は攻勢に押され、混乱し、撤退と敗北を繰り返していた。
人は、事態が一気に急変すると焦り、そして混乱する。予想もしなかった展開ならなおさらだ。
惨めな撤退が彼らの思考を追い詰めていく。
そのうえ、表向きは協力的に装いながら、裏では激しく反発し罵り合っていた旧王国侵攻軍団に助けを求められるはずもない。
ゆえに共和国侵攻軍団は、自力での立て直ししか選べなかった。
だが、撤退と敗北で多くの物資を失った彼らには、それを補充する手立てが乏しい。
すでに補給は滞り、現地調達という選択を取るしかないのである。
しかし、それは早々うまくいかない。
近くまで共和国軍が来ていることを誰もが知っており、自分たちを解放してくれるはずの軍に対抗する物資を、住民が素直に渡すはずもないからだ。
抵抗と反発は強まり、苛立つ兵士たちはさらに追い詰められていく。
最初は乾いた一発の銃声だった。
暴れた市民が兵士に掴みかかり、押し倒された兵士は身を守るため、無意識のうちに撃った一発だった。
その音で、何が起こるか誰もが悟ったのだろう。
慌てて止めようとする兵士や指揮官もいた。
彼らはこの地を駐屯地としてきた者たちだ。街には知り合いも多く、仲良くやれていたという自負もある。
だが、その一発が市民の怒りに油を注いだ。
次々と銃声が響き渡り、市民が倒れる。
それでも怒りの炎はさらに燃え上がる。
「こいつら、やっちまえっ!」
「殺せっ、殺せっ!」
「俺たちで街を取り戻すぞ!」
声は連なり、抵抗は暴動へ、そして反乱へと膨れ上がっていく。
もう止められない。
そう判断した当該部隊の指揮官は、命令を下した。
「抵抗する者は誰彼かまわず射殺せよ。物資を回収するのだ」
こうして、大虐殺が始まった。
次々と市民が殺されていく。そこに性別も年齢も関係はない。
冷静でいようとする兵もいた。だが、命令は短く、恐怖は長い。
自分の命を守りたい――その思いが、彼らを虐殺へと押し出した。
やがて思考は鈍り、動くものに狙いを合わせれば、ためらいなく引き金が落ちる。
今や襲いかかってくる者はいないというのに。
ただ、そこにいる。
ただ、動いている。
それだけのために。
それが知った顔であっても。
これは、深い罪悪感から自分を守るための自己防衛なのかもしれない。
三時間、一方的な殺戮は止まらなかった。
家々は次々と暴かれ、抵抗していた者たちは皆殺しにされ、物資は連盟軍の荷馬車やトラックに積み込まれていく。
第三者が見れば、それはまさしく略奪者の群れにしか見えないだろう。
そして、すべての物資が積み込まれ、次の命令が下される。
「火を放て」
その命令に誰も異を唱えない。
誰もが自分のやってしまったことを他人に見られたくなかったし、もし露見すれば罪に問われるだろう。
それがいくら敵国であってもだ。
だからこそ、出た言葉である。
油が撒かれ、次々と火がつけられていく。
自分たちのやったことの痕跡を消すために。
罪を闇に放り込むために。
こうして、一つの街が灰燼と化した。多くの屍と共に。
鮮やかだった景色は、灰色と黒の世界へと変わっていく。
ぱちぱちという音と焦げる匂い、そして真っ赤に燃える炎が、すべてを変えていく。
その光景を見て、ひとりの兵が呟くように言った。
「いい街だったんだ……」
ぽつりと漏れた言葉。
それは、今まで我を忘れ、自分が何をやったか、その罪悪感がこぼした言葉。
彼は炎が広がり世界が変わっていくさまを、瞬きもせず見入っていた。
「本当に、いい街だったんだよ……」
その言葉に、そばにいた兵が身体を震わせて言う。
「仕方ねぇじゃねぇかっ」
自分の罪を否定したい必死の思いが、言葉を満たしていた。
「でも、あんな略奪じみたことをしなければ……」
その声に、ついに堪え切れず、相手の胸倉を掴んで叫ぶ。
その目は後悔の色に濡れ、涙が溢れそうになっていた。
「なら、俺らに死ねってことか?」
それは怒りに震える声だった。そうしなければ、同意してしまいそうだったからだ。
彼だって同じ思いだ。だが、ここで肯定してしまえば、何もかも壊れてしまいそうだった。
「そうじゃねぇ。そうじゃねぇけどよ……」
そして、ぽつりと呟く。
「なぁ、俺ら、なんで戦ってるんだっけ……」
その言葉に、胸倉を掴んでいた兵士は手を離した。
答えはない。
彼自身も同じ問いを抱えていたが、認めたくなかった。
「……くそっ」
吐き捨てると、言葉にならない苛立ちをぶつけるように、足もと の石を蹴り上げた。
石は派手に転がる。
だが、そんな事ですっきりするはずもない。
その間にも、火はすべてを飲み込んでいく。
音が変わり、炎が辺りを真っ赤に染める。
地獄の業火のように、世界の色を塗り替えていく。
そして、春だというのに雪が、ちらちらと舞った。
いや、雪ではない。
灰だ。
灰の雪がすべてを覆い隠すように舞い続ける。
そして街は消え、多くの兵の心にも深い傷が刻まれたのだった。




