《聖戦》の発動 その2
共和国北部の街、ハンパティア。
古くからある漁港を中心に発達した港町であり、今は連盟によって支配されていた。
もっとも、激しい戦闘があったわけではないため街に被害はほとんどなく、駐屯していた連盟軍も比較的まともな指揮官だったのだろう。
住民との関係を意識した対応に終始していた。
その結果、共和国内ではいたって穏やかに良好な関係を築いていた。
しかし、それも長くは続かなかった。
補給が滞り始めたのである。
特に食糧が足りないのにはどうしようもなく、現地調達を行うしかなかった。
ここは元々漁獲量の多い港町である。
だから大丈夫なはずであった。
実際、この街と周辺地域では、他の地区や他の街で起こるような暴動や襲撃は皆無といってよかった。
もちろん、羽目を外した兵による事件はいくつかあった。
だが、その際も徹底して両方の言い分を聞き、兵士側に非があればきちんと罪として認めた。
公平に扱っていたのである。
だからこそ、良好な関係を築けていると、この地を管理していた連盟軍の指揮官は考えていた。
だが、彼は気づかなかった。
住民は、ただ我慢していただけだということを。
人という生き物は、心身が満たされれば、イライラすることもなく穏やかに生きていけるものだ。
確かにその通りであった。
腹が満たされていれば、少々の苛立ちでも抑えることはできただろう。
補給が滞った状況になっても、この街は高い漁獲量のおかげで、何とか人々の腹を満たしてきた。
だが、度重なる現地調達によって腹を満たすことは困難となり、住民の連盟軍に対する怒りや不満はたまっていった。
そして、元々ある程度穏やかだったがゆえに、その反動は大きかった。
やがて、きっかけが訪れる。
この街は熱心なドクトルト教徒が多い街でもあった。
教国は世界各地の教徒や教会に向けてドクトルト教の教えを広げるためにラジオ番組を放送しており、特に朝と夕方の、ドクトルト教の総本山である教国の高位聖職者の話が流れる時間帯は多くの者が耳を傾けていた。
その日も、自宅にラジオがある者は仕事や家事をしながら、ラジオがない者は教会や知り合いの家でその放送を聞いていた。
讃美歌が流れ終わると、高位の聖職者が話を始めた。
その言葉は、ゆっくりと、そして淡々とした口調のためか、まるで他人事のように聞こえてしまう。
いつもと違う雰囲気に、ラジオを聞いていた者たちは手を止め、耳を傾ける。
しかし、語られているのはいつものように「ドクトルト教の教えこそ素晴らしいものであり、その教えに従う者は救われる」という逸話であった。
だから、気のせいだろうと誰もが思った。
だが、話が中盤に差しかかると違和感は大きくなっていった。
次第に口調が強くなり、今まで淡々としていただけに強い圧力が感じられる。
そして、「ドクトルト教こそ正しいのだ」という主張が強まっていく。
確かに今までもその傾向はあったが、ここまでの圧力を感じるのは久方ぶりだった。
そして、聞いていた住人は思い出す。
まさか、と……。
そして、爆弾は落とされた。
『今、我々は多くの幻によって真実が見えないようにされている。だが、そんな妨害があったとしても、ドクトルト教は幻に迷わされることなく真実を追求しなければならない。ドクトルト教こそが人々を導く道しるべなのだ。幻によって間違った道に進もうとする人々をいざなう光なのだ。だからこそ、ここではっきりと言う。我々ドクトルト教徒は立ち上がらねばならない。世界を改革していかなければならない。そのためならば、何をしても神は皆を許すだろう。それは神が導く真実なのだ。さぁ、立ち上がろう、ドクトルト教徒よ。我々の同胞よ。世界を正しき道へと導いていくのだ。それは世界平和の一歩であり、豊かな生活の始まりである。さぁ、今こそ、やる時だ。実行すべき時だ。だからこそ、私、ベンタカント枢機卿が現教皇の意を受け、代理ではあるが、今ここに《聖戦》の開始を宣言する!』
誰もが唖然とする中、ベンタカント枢機卿の言葉が続く。
『そして我々教国は、ドクトルト教の正義を貫くため、連盟と同盟を結び、神の意志に反逆する者たちに鉄槌を下す所存である』と。
ざわめきが広がり、誰もが信じられなかった。
今の言葉が……。
つまり、教国が連盟と同盟を結んだということは、連盟が正義であり、それに従わない者は敵であると宣言されたも同然だった。
だが、そんな言葉に反発する声が上がる。
「何を言ってやがる……」
それは呟きだった。
不満と怒りの。
その感情は放送を聞いていた街の住民の誰もが抱いていた。
積もり積もった不満と怒りを燃え上がらせるには十分すぎる内容だった。
なぜなら、事前に共和国内ではアリシアの指示を受け、『連盟はあなた方の生活を苦しめている存在だ』と徹底して伝えられていたからである。
この街の住人たちも最初こそ半信半疑だったが、度重なる現地調達で不満が溜まっており、その情報は正しかったのだと思い始めていた時期であった。
さらにアリシアは対策として様々な手を打っていた。
まずは国営ラジオ放送で「教国は以前も過ちを犯している」「今、我々を苦しめているのは誰か」という問いかけを繰り返した。
また同時に、共和国内にいる教国批判派を利用し、「今回の決定はドクトルト教の教えに大きく反したものであり、以前のような過ちを繰り返すべきではない」と発信させたのである。
これにより混乱しかけていた教徒たちは落ち着きを取り戻した。
いや、正確に言えば、怒りや不満を向ける先がはっきりしたのだ。
誰もが怒りをその表情に浮かべていた。
そんな住民を前に決起派の関係者は押し黙った。
今、そんな声を上げれば吊るし上げられる。
そう理解したからだ。
いくら上からの指示とはいえ、多くの者は自分の身を危険にさらしたいとは思わない。
一部、決起を叫んだ者もいたが、その末路は悲惨だった。
もちろん暴力も受けたが、それ以上に心を徹底的に潰されたのだ。
だが誰も止めなかった。
集団心理の影響もあったが、あまりにも理不尽な主張にしか思えなかったからである。
信仰をも利用する教国上層部の教徒への裏切り。
それは信仰心が高いものほど大きくなっていく。
ただでさえ命がけで漁に出る漁師という仕事をやっている者達だ。
信仰はとんでもなく高いと言えた。
そして、その矛先は教国上層部、そして瞬く間に「連盟」へと向けられていた。
怒りは鎖を解かれた獣のように、もはや誰にも止められない。
暴動は津波のごとく街を呑み込み、比較的穏やかだったハンパティアも炎に包まれていく
それは一気に燃え上がり、今まで溜め込んでいた不満と怒りが一気に爆発した結果だった。
突然の暴動に、駐在部隊の司令官は慌てた。
彼らの意見を聞こうと動いたのである。
普段ならそれは正しい対応だっただろう。
だが、この場合は悪手だった。
「待て! 話し合おう!」
その声は群衆の咆哮にかき消される。
漁師たちの荒々しい手が彼らに伸びた瞬間、銃声が響いた。
火花のような一発が、街を血で染める合図となる。
こうして、ハンパティアは、地獄と化した。
炎と怒号、銃声と悲鳴。
かつての港町はもう存在しない。
あるのは血と憎悪が渦巻く修羅場だけだった。
そして、それはこの街だけではなかった。
共和国各地に、起こっていたのである。
その報告を受けた共和国最高司令官ビルスキーアは、静かに言葉を吐き出した。
「……機は熟したようです、アリシア様」
それは長く続いた防戦の終焉を告げる言葉だった。
ここから始まるのは、そう、共和国の『反撃』である。




