分岐点 その2
ハンディア・ルシェランコはいつも通りにまだ陽か上る前ではあったがベッドから抜け出した。
「ねぇ、散歩?」
寝ぼけた声で隣で寝ていた妻のディアナがそう言うと、ハンディアは苦笑しつつ言う。
「ああ、ゆっくり寝ておくといい。朝食はいつものように用意しておくよ」
それを聞きディアナは「うん」という返事をするとすぐに寝息を立てる。
その様子にいつもの事ながらくすりと笑った後、ハンディアは部屋から静かに出て玄関に向かった。
そんな彼を待っていたのだろう。
小さな小型犬が嬉しそうに尻尾を振って近づいてくる。
ペットのランダだ。
怪我で左腕を失って軍を退役した彼が最初にしたことは、結婚して今まで彼を支えてくれた妻とペットを買いに行く事であった。
ずっと夢だったの。
そう言って妻は笑っていたが、その顔には必死さが見え隠れしていた。
今まで軍一筋であった夫が、怪我で道半ばで退役しなければならないという事を意識させないようにしているのだろう。
妻のディアナは決して美人ではない。
しかし、よく気が付くし、こっちの考えていることを察してくれる気立てのいい女性だ。
そんな妻が犬を飼いたいというのだ。
今までは仕事一筋であったが、今からはそんな妻に少しでも今まで支えてくれていた礼を返そうと考えていたハンディアは妻に言われるままペットを飼い始める。
そして、最初こそ妻の為という事であったが、気が付けばランダの世話を彼は進んでするようになり、再就職した仕事に行く前に朝海岸を散歩して朝食を用意するのは彼の役割となっていた。
「よし。いつも通りにいくか」
ランダにそう声を掛けると首輪にリードを付ける。
家の中にいるときは何もつけていないが、外に出るときは必ずリードを付ける。
ランダは賢い犬だが、放し飼いを嫌う人もいるし、何があるかわからない。
だからこそ、リードを付けるのだ。
それがペットを飼う者の義務だ。
そして、今から散歩に行くのがわかっているのか、ランダはちぎれんばかりに尻尾を振るが吠えることはない。
まだ寝ているディアナを起こさないようにとでも考えているのだろうか。
頭をなでてやると、手をぺろぺろと舐めてくる。
可愛いやつだな。
そんな事を思いつつ、まだ陽が上がってない薄暗い闇の中、背中にリュックを背負ってハンディアは玄関から海岸に向かって出発した。
なぜリュックを背負うのか。
それは早朝の海岸にある落とし物を拾う為である。
この目の前に広がるミルガウンナ海岸は、共和国の北側に位置する遠浅の海岸で、今の時間だと丁度潮が引いて、その引いた後に、色んな海の幸が残っていることが多いのだ。
色んな海藻や貝、浅瀬に取り残された魚やイカがその海の幸である。
もっとも、そういったものは陽が昇ると鳥を始めとする動物たちに狙われてしまい、昼前になると大抵食い散らかされていたりするのだ。
だから、陽が昇る前に確保しなければならない。
それにただ歩き回るより、そう言ったサプライズがあった方が楽しいので、段々と朝の散歩の時間が早くなって、今の至るのである。
ザッザッという砂を踏む音と波の音だけが支配する海岸。
まだ薄暗い中、一人と一匹は海岸を歩いていく。
昨日は結構波が荒かったからな。
多分、今日は掘り出し物が拾えるかもしれないな。
別に退役した後の生活に困っているわけではない。
上官の紹介で再就職した仕事先は最近できた海運会社の支部で、知名度はまだそれほど高くないが働き甲斐のあるいい職場だ。
そこで良くしてもらっている。
だが、せっかく拾えるのだ。
それも新鮮なものが。
励みにもなるし、どんなものが拾えるだろうかという散歩の楽しみにもなっている。
実際、その量はかなり多くて二人で食いきれないので、その都度会社の人間におすそ分けしたりとかもしたのだがかなり評判が良かった。
特に二日前は、偶々支店の方に寄っていた会社の社長と持ち船の艦長にも大好評だった。
そう言えば、確か一週間近くこちらにいるという話だったからな。
今日また大量に取れればまた持って行けるな。
そんな事を思いつつ、見つけた貝や海藻を拾ってはリュックに詰めていく。
そして、ある程度リュックがいっぱいになっていったん戻ろうと思った時だった。
すーっと光の線が走ったかと思うと陽か登り始める。
それ様子は実に幻想的で美しいものだ。
今日もいい天気になりそうだな。
そう思った矢先であった。
光によって照らされていく海面に異物がある事に気が付いたのだ。
それは黒い塊であった。
一瞬、鯨かと思うほど大きい塊。
そして黒い色が益々そう思わせる。
しかし、すぐに気が付いた。
それがもしかしたら人工物だという事に。
なぜなら、そこには何やら艦橋のような小さなでっぱりがあったからだ。
それに光が広がり明るくなるにつれ、それが間違いなく生き物ではないことがわかっていく。
「あ、あれはなんだ?」
思わず言葉に詰まる。
だが、それに応えてくれる者はいない。
一瞬、思考が固まった。
しかし、それでもすぐに固まった思考は動き出す。
軍人というものは、理不尽な時にでも思考し動けるようにならなければならない。
もちろん、訓練されているとはいえ、全員がそれが出来る訳ではなかったが、ハンディアはそれが出来た。
なんせ、戦艦の副長として数年前までは前線で働いていたのだ。
「ランダ、戻るぞ」
主人の様子からなにか感じたのだろう。
ランダはワンと小さく吠えた後、走り出したハンディアと共に駆けだしたのであった。
そして、家に戻った彼は家に取り付けて半年も経っていない電話機を使って連絡する。
仕事先を斡旋してくれた上官にであった。
その人物は、ハンディアの人柄をよく知る人物であり、その連絡を疑う事をせず、すぐ様近くの自分の息がかかっている部隊に確認するように指示を出した後、すぐさま海岸の周りを閉鎖を命じる。
そして一時間後、現場に到着した部隊や哨戒艇から間違いないと報が届くとその人工物を曳航できないかを確認させる。
その頃になると潮が待ち始めており、哨戒艇から曳航が可能という報が入るとすぐさま、彼は一番近いアンナルミア軍港にその人工物の曳航を命じたのであった。
そして、彼はすぐに共和国国軍のリープラン提督へと連絡を入れる。
こうして謎の人工物が共和国の海岸に流れ着き、それを軍港に確保したという報は、アリシアの元に伝わったのであった。
その報を聞き、アリシアは呟く。
「それって……」
その呟きに答えるかのように執務室に言葉が響く。
「恐らく潜水艦という奴ではないでしょうか」
その発言をしたのは一人の人物である。
旧公国海軍最高司令官であり、公国の最高責任者ノンナ・エザヴェータ・ショウメリアの腹心中の腹心ビルスキーア・タラーソヴィチ・フョードルである。
彼は主であるノンナの遺言を遂行した後、帝国領から亡命し、今は共和国のアリシアの軍事顧問として仕えていた。
確かにまだ仕え始めてそれほど時間は経っていなかったが、彼の忠義や誠実さは短時間でわかったのだろう。
それに軍関係のアドバイザーがいなかった事もあり、今やアリシアの軍務に関する相談相手の一人になっていた。
「貴方もそう思う?」
「ええ。資料でしか見てませんが、それ以外は考えられません」
そう言った後、少し考えこむような表情で言葉を続ける。
「もっとも、なぜその潜水艦が我々の目の前に姿を露かしたかですが……」
「どう考えるかしら?」
「そうですね。恐らく、事故或いはトラブルではないでしょうか。どういったものにもトラブルや事故は付きまといます。それが最新鋭のものなら尚更ですね。後、曳航しても反応がなかったという事から乗組員は生きていないと思われます」
その言葉にアリシアは聞き返す。
「罠という事は考えられない?爆弾を大量に積んでいてボンとかさ」
「それも考えられますが、わざわざ最新鋭兵器をぶっ壊すというのも……。なんせ、罠に使えば一回でスクラップですから」
そう言われて、アリシアは納得する。
確かに勿体なさすぎる。
ならば、ビルスキーアの言う事があり得ると思っていいだろう。
「ただ、絶対ではありません。だから、今考えていることは止めた方がいいかと思います。それは悪手にしかならないと私は思いますよ」
その言葉に、アリシアは苦笑した。
「わかる?」
「ええ。なんとなくですが……」
アリシアとの付き合いはそれほどないものの、ノンナという女性の上司の下で働いていたのだ。
だから薄々ではあったが何を考えているのか判ったのかもしれなかった。
「まぁ、出来ればせっかくの獲物だもの、共和国で独占したいなぁと思ってしまうのは仕方ない事じゃないかな」
「ええ。その通りですな。ですが、それを考えたものの躊躇された。そういう風に見えましたので、余計な事とは思いましたが口を挟ませていただきました」
淡々と喋るその口調に、アンナは益々苦笑すると同時にビルスキーアの才に内心驚いていた。
なるほど、これは使えるわ。
なら、もう少し意見を聞いてみるのも面白いわね。
そう判断して、口を開く。
「今あなたは悪手だといった。その理由を聞いてもいいかしら?」
その質問に、ビルスキーアは苦笑する。
試されているのだと判ったからだ。
だが、悪い気はしない。
それどころか懐かしい感じがした。
ノンナに仕えていた時を思い出したからである。
「そうですね。確かに罠の確率は限りなく低い。しかし、ゼロではない。また我々は潜水艦について余りにも知らない。そんな我々が、この美味しい獲物をうまく料理できると思いますか?」
くすくすくす。
アリシアは実に楽しげに笑う。
「なら、どこに頼めばうまく料理できるかしら?」
「勿論、フソウ連合です。対潜水艦戦の兵器や装備があるという事は、潜水艦についての知識や技術があるという事です。彼ら以外にはせっかくの獲物も無駄になってしまう可能性は高い。料理は無理でしょうな。それに、共和国で独占したとしても、恐らくフソウ連合はそれ以上の技術と情報を持っている可能性が高いです。つまり、独占する利がありません」
「そうね。フソウ連合に関しては私もそう思うわ。それで、王国にはどうすればいいかしら?」
「もちろん、王国にも知らせるべきです。今や王国、共和国、フソウ連合は同盟や条約で結ばれた親密な関係であり、もしもせっかくの獲物の料理にありつけないという事がわかってしまったらその結びつきに傷が入る恐れが高いですな。もちろん、王国だけでなく、フソウ連合にも。そうなると共和国にはマイナスにしかなりません」
そう言った後、ビルスキーアはニタリと笑う。
その笑みには、答え合わせはどうでしたかという感情が表れており、アリシアは満足そうに頷く。
「いいわ。実に満足よ。これからもあなたの意見をしっかり聞かせてね」
「ありがとうございます」
ビルスキーアがそう言うと、アリシアは視線をドアの方に向ける。
そこにはいつもの執事が二人のやり取りをただ黙って聞いていた。
「すぐに王国とフソウ連合の大使館に伝えてくれる?もちろん秘密に」
「わかりました。ですがどう伝えましょうか?」
そう聞き返されて、アリシアは少し考えた後、口を開いた。
「そうね、『狼の尻尾を掴んだ』とでも伝えておいて」
「わかりました。大至急お伝えしておきます」
こうして、大使館に伝えられた情報はすぐに本国に送られた。
緊急情報として。




