後始末 その1
スカンジナバトル海戦の行われたその日の夕方、公国防衛隊長官のビルスキーア・タラーソヴィチ・フョードル上級大将の元に二つの報告が届いた。
一つは、スカンジナバトル海戦の途中経過の報告であり、もう一つはなぜこんな報告がここに送られてきたのかという疑問がわく内容である。
もっとも、通信を受けた通信手にとってそれは大きな問題ではない。
彼はただ受けた通信内容をそのまま伝えればいいだけだ。
だからこそ、疑問に思いつつもただ職務を忠実に実行した。
そして、その報告を受け、執務室で一人になった後、フョードル上級大将は天を仰いだ。
余りにも信じたくない内容だったからだ。
そこには『セントファーナでは嵐の為、壊滅的な被害を受けてしまった。復興計画を進めてくれ』という事が書かれている。
普通に見れば、軍ではなく他の役所や統括部署に回される内容である。
だか、それは暗号だった。
セントファーナはノンナの事を示しており、壊滅的な被害は死或いは重傷を意味していた。
「そうですか……。そうなってしまいましたか」
そう呟くとフョードル上級大将はもう一つの報告に目を通す。
そこには、スカンジナバトル海戦は有利に展開しており、勝利は目前であるという報告であった。
ふう……。
フョードル上級大将は大きくため息を吐き出すと、秘書官を呼ぶ。
そして二枚目の報告を手渡すとすぐに他の部署にも伝える様に指示を出した。
そうしなくとも連中はもう知っているだろうが、それでも隠すのは疑いをもたらしかねないし下策だ。
だからこそ、後で非難を受けようがやっておく必要がある。
そう判断したのである。
入室してきた秘書官にそれを命じた後、暫く一人で作業をする為、一時間ほど誰も通すなと伝えた。
その命令を受け、フョードル上級大将直属の秘書官はすぐに命令を実行するため退出していった。
そしてフョードル上級大将は部屋のドアの鍵をかけカーテンを閉めると、いくつかの手順を踏んで壁に掲げてある肖像画の一枚の裏にある秘密の金庫にあるいくつかの封筒とファイルの中から、紙の束の一つを取り出した。
表紙にはただ『後始末』とだけ記載されているその紙の束は、クリップで止められており、シンプルを好むノンナらしいタイトルだとフョードル上級大将は再度思いつつ椅子に座ってその内容に目を通す。
そこには、もしノンナが死亡してしまった、または重軽傷をおってしまった場合の公国の今後についての指示が書かれていた。
フョードル上級大将はその内容についてはすでに聞かされていたし、そのための準備も秘密裏に行っていた。
だから、本当は見る必要はない内容だ。
だが、それでも目を通しておかねばならない。
作戦実施に当たり、この書類は処分するように言われていたからだ。
だからこそ、最後に記憶が間違っていないか再確認したのである。
全てを読み終えるとフョードル上級大将は深くため息を吐き出した。
そして、再び遠くを見るような目で壁にかかっている帝国領の地図を見る。
彼の視線はとある海域に注がれていた。
最初に報告があってすでにある程度の時間が経っている。
つまり、それは誤報ではないという証だ。
だが、迷いがあった。
誤報であってくれ。
それは儚い希望でもあったし、絶望したくないという切実な願いであった。
だが、その希望である願いが空しい事を時間が証明する。
それに決断が遅ければ、作戦の成功率は下がっていくのだ。
わずかな隙までもしみ出す水のように、秘密にしておいてもどこかしらから情報は漏れてしまう。
だから……。
ふう……。
息を吐き出して目を閉じたフョードル上級大将だったが決心したのだろう。
持っていた計画書を灰皿の上に置くとマッチで火をつける。
めらめらと紙が燃えていく。
それはまるで希望も願いも全てを焼き尽くす業火のように見えた。
「ノンナ様の恩に応えねばならない」
そう呟きつつ、燃えていく炎をじっと見つめる。
火の光に照らし出されたフョードル上級大将の顔には、ゾッとするような非情さが漂っていた。
『スカンジナバトル海戦は有利に展開しており、勝利は目前である』
その情報は、あっという間に公国首都に知らせられた。
アンドレイ・トルベツコイ情報部部長は、そのすでに知っていた情報がきちんと公開されたことに関してあまり興味を示さなかった。
まさか、こういった士気を上げる為の情報をわざわざ隠蔽したり、捻じ曲げて公開されたりしないだろうという思いがあったし、今やあの憎き皇帝の一族の長になったアデリナに手ひどい痛手を与えたことは痛快でしかない。
だから、デスクに山積みになっている書類を見ても不機嫌になるどころか、祝福されているとさえ錯覚してしまいそうになるほどであった。
もっとも、それは表情には出さず、渋い表情のまま仕事を黙々とこなしていくだけだが。
だが、さすがにその余りの量にうんざりしてきた頃、部下の一人が彼の執務室を訪れた。
普段は余りそういった事はないのだが、その部下は少し浮かれている様子だった。
恐らく先にもたらされた情報に、ついつい気が良くなったのだろう。
実際、ここ最近は仕事が山積みだった。
第一軍団の起こした後始末に追われていたからだ。
フルストフォールシュカによる連邦解体宣言だけではなく、その後に起こった殺害事件。
そしてその事件の隠ぺいに、情報規制。
まるで次々と降ってわくかのような事が続き、誰もがうんざりしていた。
だが、そんな時に届けられた吉報。
これを契機に内乱は終わる。
それも公国の勝利という形で。
そう思って浮かれてしまうのは恥ずかしい事ではないし、浮かれるなという方がおかしいだろう。
だから、別に突っ込むこともなく、ただ何の用事か尋ねる。
そんな浮かれ気味の部下は、珍しく上司に食事を誘いに来たのだ。
「部長、もうこんな時間ですし、この後も仕事をするにしても何か腹に入れていた方がいいのではないでしょうか?」
そう提案する部下に、トルベッコイ部長は否定の言葉を言いかけた。
腹がすけば、買い置きしてあるチーズとベーコン、固いパンがある。
わざわざ外に出なくてもそれらを食べればいいだけだ。
余り食に拘りのないトルベッコイ部長はそう思ったのだが、気が変わった。
折角部下が誘いに来たのだ。
その上、こんな公国の未来に光がさしたようないい日に一人でうまくもない物を食べて腹を満たすのも空しく感じてしまった。
だから、少し考えこんだ後、「うむ。たまにはいいか」と呟くと食事に行く事に同意を示したのであった。
トルベッコイ部長と部下が向かったのは、近くのレストランであった。
テーブルが三つ程度とカウンターがある小さな店だったが、出される料理は中々いいらしく、その日もかなり遅い時間ではあったが三つあるテーブルの内二つは埋まっていた。
一つは何やらスーツを着た三人の男が難しそうな顔で話をしており、もう一つには男女のカップルであった。
恐らく愛を囁き合っているのだろう。
もう一つのテーブルと違い、互いにニコニコと微笑み、時折楽し気に話をしていた。
そしてカウンターに数名男性が座っており、こっちは黙々と食事をしている。
どうやら事前に予約をしていたのだろう。
部下の一人がカウンターの主人らしき男に手を上げた。
それに気が付いた主人は、案内するためだろう。
カウンターから出ると頭を下げつつ近づいてくる。
「いらっしゃいませ。ご予約通り、テーブルを空けておきました。どうぞ」
そう言って主人はトルベッコイ部長と三名の部下を案内した。
「予約しておいたのか?」
「はい」
「しかし、私が来なかったらどうする気だったのだ?」
そう聞かれて予約を入れた部下が苦笑を漏らす。
「その時は部長抜きで……」
その言葉は言い終わらないうちに慌てた他の部下に止められたが、それでも遅かった。
その言葉を聞き、トルベッコイ部長がニタリと残忍な笑みを浮かべる。
「要はついでという事か?」
そう言われて部下達は慌てて首を横に振った。
「そ、そんな訳では……」
その様子に声を出して笑うトルベッコイ部長。
「冗談だ。予約しておいた以上、キャンセルは店に失礼だからな」
その質の悪い冗談に部下達は苦笑を漏らす。
そんな始まりであったが、食事は問題なく始まった。
それぞれが注文を済ませると食前酒としてワインの入ったグラスが配られる。
それを手に取り、ちらりと部下の一人がトルベッコイ部長の方に視線を送る。
要は、何か一言という事なのだろう。
そんなに気を遣うなら呼ばなければいいだろうに。
そんな事を思いつつも、トルベッコイ部長は苦笑し、口を開く。
「公国のこれからを祝して」
その言葉の後に三人の部下達も同じ言葉を口にするとそれぞれのグラスをかちゃりと重ねた。
そして、ぐっとワインを飲む。
喉が渇いていた事もあり、ワインが一気に飲み干される。
「うまいな」
「ああ、これが勝利の美酒って奴かもしれん」
それぞれそんな事を言いつつグラスに用意されているワインを注ぐ。
「部長もいかかですか?」
「ああ、もらおうか。久々にうまい酒だ」
注がれる血のように赤いワインを見つつすーっと身体から力が抜け気が楽になった。
「ふー」
自然と息が漏れた。
どうやら疲れていたようだ。
そんな事を思いつつ、ワインを楽しみ、部下達の会話に耳を貸す。
早々していると次は料理が運ばれてくる。
流石うまいと言われるだけはあるな。
そんな事を思いつつトルベッコイ部長は料理とワインを堪能している。
勿論、会話に参加しないわけではないが、自ら話題を振るようなこともない。
どちらかというと聞き上手と言った感じたろうか。
時折、相槌を打ったり、話したりするだけだが、それでも部下達は楽しんでいる様子であった。
偶にはいいか、こういうのも……。
そんな事を思いつつ、食事は進んでいく。
そして、もう少しで食事も終わろうかという時だった。
トルベッコイ部長は違和感を感じた。
周りが静かすぎる事に。
そう言えば他の客は……。
カップルはもういなくなっていたが、三人連れのテーブルの男達は残ってはいたし、カウンターも動きはあったものの、また数名の客がいる。
なのに……。
店内には、静かにレコードの曲がまるでそれだけしかないように響く。
そんな中、部下の一人。
この店の予約をした男が立ち上がった。
「すみません、トイレに」
どうやら飲みすぎたようだ。
顔だけでなく、耳まで真っ赤だ。
「そんなに強くないのに飲み過ぎなんだよ」
一人がカラカラと笑いつつそう言うと、もう一人も同意を示す。
それに釣られ、トルベッコイ部長も苦笑を浮かべた。
そして奥にあるトイレに男は向かう。
その時、一瞬、男が冷めた表情になったものの、すぐにその姿はトイレの中へと消えた。
ゾクリと背筋が震える。
しかし、それもすぐ収まってしまった。
何だったんだ、今感じたのは……。
トルベッコイ部長がそう思った時、それは起こったのであった。




