元公爵邸の地下室にて……
今や帝国海軍の秘密港となったシクレヤーバヤーバン。
その一番近い都市が、元帝国宰相グリゴリー・エフィモヴィチ・ラチスールプ公爵領の中でも一番大きな都市カライズロス。
その都市の中でも一番大きな建物、ラチスールプ公爵邸の地下の一室。
そこには二人の男がいた。
ランプの光で照らし出される部屋の中、一人は大きめのテーブルに広げられた帝国領内の地図に視線を向け、もう一人はバードを片手に報告している。
テーブルの地図に視線を落としている男、ヤロスラーフ・ベントン・ランハンドーフは、報告している男、彼の子飼いの部下に聞き返す。
「フソウ連合は、帝国、公国、両方にきちんと寄ったのだな?」
そう聞かれ、報告者は頷きつつ言う。
「はい。間違いなく両方に寄り、今後の事で話し合いがもたれ、フソウ連合は今後は中立で対応するという事が決まったようです」
「ふむ。あくまでも中立を通すか……」
「そのようです」
「ならば、問題はないな」
その言葉に、報告者が聞き返す。
「閣下、不躾ながらそれはどういう事でしょうか?」
この報告者は、ヤロスラーフの中にラチスールプ公爵の精神が憑依していると知っている信頼できる部下の一人である。
だから、その問いに、ヤロスラーフは視線を動かさずそれでもニタリと笑った。
「なに、フソウ連合は、どちらが勝っても損はしないように立ち回っているという事よ。だが、それはこちらとしてもありがたい。帝国、公国どちらが統一したとしても手を貸してくれるのは間違い無いからだ」
「閣下は、帝国を支持されているのではないのですか?」
驚いた顔でそう聞き返す報告者。
その報告者に視線を向けるヤロスラーフ。
その表情は、ヤロスラーフであり、ヤロスラーフではなかった。
ヤロスラーフがラチスールプ公爵の表情をしているという感じだ。
それは普段のヤロスラーフを知っている者にとっては違和感しかわかない。
だが、報告者は当たり前のように見ている。
彼にとって、仕えているのはラチスールプ公爵であり、ヤロスラーフではないのである。
勿論、他の部下達、特に子飼いの信頼できる部下は、全員それを知っており、形こそヤロスラーフに仕えているようで、実はラチスールプ公爵の為に動いているのである。
もっとも、それ以外の者はもう身寄りのいないラチスールプ公爵の資産の一部をヤロスラーフが受け継ぎ、帝国に仕えていると思っているだろう。
それは、子飼いの部下達も同じで、宰相ではなくなったが帝国に仕えていると思っていた。
しかし、真実は違う。
あくまでも帝国の協力者という立場なのである。
それを知らないが故に聞き返したのだ。
「私は、別に帝国が勝とうが、公国が勝とうがどうでも良い。両方の指導者が十分な素質を持つという事がわかったからな」
「しかし、閣下は秘蔵していた艦船を帝国に譲り渡し、フソウ連合を動かして東部地区を手に入れられるように肩入れされました」
「ああ、確かにな。ただ、あの艦船の譲渡は、あの若き女帝の満足できる素質を示した事への褒美よ。それにあのままでは公国の一人勝ちになってしまうからだ。それで潰すにはあの女は惜しい素材だ。それにフソウ連合を引きずり込んだのは、今や帝国領を支援する余裕がある国はあの国以外にないからな。だから引きずり込んだ。それだけよ」
「確かに、他の六強は手を引きましたね。公国に関わっていた王国も、今は自国で手一杯の有様ですし……」
「そういう事よ。それにな……」
そこまで言って、ヤロスラーフは目を細める。
「どうせならより競い合い、より優れた方が新しい国を率いて欲しいものよ。そうする事で、より国は安定し、私の理想する国に近くなるだろう」
「閣下の言われていた例の……」
「そうよ。その為の下準備は進めておるしな」
クックックッと下卑た笑いをしつつそう言うと、ヤロスラーフは視線を地図に戻す。
その地図には、いろんな場所に駒が置かれ記号が書き記されている。
それを確認しつつ聞き返す。
「それで各国の動きは以上か?」
「はい。国の動きは……ですが」
その歯切れの悪い言葉に、地図に向けていたヤロスラーフの視線が、再び報告者の方に向けられる。
「ですが?」
「はい。例の組織の動きが活発化しております」
「あの糞爺のか?」
その言葉に、報告者は心の中で苦笑する。
年を考えれば、ラチスールプ公爵も似たようなものだと思ってしまったのだ。
だが、さすがに顔には出さずに頷く。
「すでに教国の中枢は掌握され、サネホーンや連盟の方にも手が伸びているという報告が……」
その報告に、ヤロスラーフは鼻で笑った。
「今の所はこっちにちょっかい出さなければそれでいい」
そうは言ってみたものの、面白くないと思ったのだろう。
少し思案した後、呟く。
「そうだな、このままあの糞爺の影響力が強くなりすぎるのも問題か……。ならば教国や連盟国内の反対勢力に少しぐらい情報をリークするぐらいの嫌がらせはしてもいいか」
その呟きを聞き、報告者が聞き返す。
「では?」
「うむ。国内が少し不安定化する程度の情報リークをやっておけ。程度は任せるぞ」
「わかりました」
命令を受け、報告者が頭を下げて退室しようとした時だった。
ドンドン。
ドアが乱暴に叩かれる。
「どうした?」
その余りにも余裕のない音にしかめっ面をして報告者がドアの方に視線を向けて聞き返すと、ドアの向こうから声が返ってきた。
「た、大変であります」
「何がだ?」
「帝国軍の一部が、公国軍と戦闘に入りました」
その言葉に、ヤロスラーフは地図からドアに視線を向ける。
その表情には驚きの感情があった。
それは報告者もだ。
「間違いないのか?」
「はい。間違いありません」
「わかった」
そう言うと、報告者は歩いて近づくとドアを開ける。
そして、ドアの前に立って声を掛けた部下から報告のボードを受け取ると再びドアを閉め、ボードに視線を落としつつ、部屋の中央に歩を進めた。
歩きつつ一通り目を通すと、報告者は驚いた表情のままヤロスラーフにボードを手渡すと口を開く。
「間違いないようです」
それを受け取り、ヤロスラーフはボードに挟まれた紙を食い入るように見る。
そこには帝国軍の帝国第十八団が、信じられないほどの侵攻速度で進み、クカバキリフで公国軍と戦闘に入ったと記されている。
それを何度も何度も読み返す。
彼の予想では、あと二ヶ月は直接戦う事は起こらないと踏んでいたのだ。
だが、それがいきなり崩れた。
驚愕し、目を疑ったのだが、何度読み返したとしても結果が変わるはずもない。
つまり事実であるという事だ。
ならば、それを受け入れなければならない。
そして、思考をめぐらせ、原因を追究しなければならない。
そうしなければ、また似たようなことが起こるかもしれないからだ。
視線が自然と地図の方に向く。
見ている先にはいくつかの駒が配置されていた。
クカバキリフ。
それがその地域の名前である。
それを凝視し、ヤロスラーフは考えをまとめようとしているのだろう。
ブツブツと呟く。
「なぜだ?なぜここまで帝国軍が侵攻している?ここに入るには連邦の軍が強固な陣を構築している地域を通らねばならないはず。あの地はまだ戦火に巻き込まれておらず、突破は早々できないはずだ。なのに……」
そして、報告者に聞き返す。
「この帝国第十八団の司令官は誰だ?」
その問いに、報告者は慌てて近くに積んである資料を手に取り調べ始め、そして情報を発見して報告する。
「ムマンナ・パラスルト・リリカンベント中将であります」
それでピンときたのだろう。
確認の言葉をヤロスラーフは発する。
「フォーミリアン攻防戦で、公国に大ダメージを与えたあの男か?」
「はい。その通りです」
「だが、あの後、帝国に降服したと聞いていたが……」
そう言いかけて、してやられたという顔になった。
「あの女、まさか敵だった男に一部とはいえ大事な軍をこんなにも簡単に任せるとは……」
だが、確かに元連邦の軍人ならば、陣の情報、それも弱点などを知っている可能性は高いだろう。
それに士気が低すぎる連邦の軍を説得させ、降伏させることもやり易いはずだ。
それで予想外の速度で進軍できたと言う事か。
あの女め、こっちの予想以上の事をしてくるじゃないか。
そう考えて、ヤロスラーフは楽しげに笑った。
最初の印象は良くなかったが、今は違う。
「ますます、楽しくなってきたぞ」
思わず思考が口から洩れた。
だが、そんな気持ちを抑えつつ、より思考を働かせる。
しかし、今、帝国と公国がぶつかり合えば、互いに疲弊して連邦が息を吹き返して勢いを取り戻すかもしれない。
そうなれば、連邦の勝利、或いは三者三竦みが長引く恐れもある。
当初の予定では、連邦が滅び、帝国と公国で雌雄を決するシナリオを用意していたのだ。
しかし、それが破綻しかけている。
ならばどうするか。
そうなるとやる事は一つ。
「今から、両陣営に手紙を書き上げる。それをすぐに送れ」
「はっ。了解しました。まずは最初の指示を部下に伝えます。一時間後に再度お伺いしてもよろしいでしょうか?」
報告者がそう言うと、ヤロスラーフは頷く。
「うむ。手紙は用意しておく。すぐにかかれ」
「はっ」
そう返事を返すと、報告者は退室していった。
それを見送った後、ヤロスラーフはデスクに向かう。
そして、帝国、公国のそれぞれの指導者に手紙を書き始める。
勿論、送り主は帝国宰相グリゴリー・エフィモヴィチ・ラチスールプ公爵と記して。




