老人と魔女 その1
暗く暗黒かと思えるような闇の中、ぽっと浮かぶいくつかのろうそくの灯。
その揺れる明かりの中、一人の初老の男が分厚い本を読んでいる。
その揺れる光の影響だろうか。
初老の男のしわがより際立ち、髭さえもなんかのしわのよう見えてしまう。
この男の名は、グリゴリー・エフィモヴィチ・ラチスールプ公爵。
シルーア帝国の宰相であり、実質上の帝国の支配者である。
しかし、今、ここにいる彼は、まったく別の顔をしていた。
宰相でも、貴族でもない顔。
本当の顔…。
魔術師としての顔である。
その男が熱心に読む本。
その本は年季の入った擦り切れた表紙で、名前の部分も擦れて見えにくい。
しかし、それでもいくつかの文字が読める。
そのわずかに読める文字から、その本は魔術書と呼ばれる呪術の本である事がわかる。
何度も何度も同じところに目を通し、時折目を閉じてぶつぶつと口の中で呟く。
しかし、一瞬、ろうそくの炎が揺れた瞬間に呟きが止まる。
ゆっくりと目が見開かれ、ちらりと後ろ側に視線を送る。
「お前か…。アンネローゼ…」
その問いかけに答えるかのように暗闇の中の一部が揺れて、ゆらりと人影がわずかに浮かび上がる。
「ただいま戻りましたわ、おじい様…」
人影はそう言って光の傍に歩き出す。
わずかにシルエットだったものがゆっくりと光を受けて輪郭を…、色を…、そして、姿を映し出していく。
闇の中から現れたのは、二十代前半だろうか。
赤毛のショートカットの女性だった。
少し癖のある赤毛に整った顔立ち、陶器のように白い滑らかなな肌、スラリとした鼻、まるで紅を塗ったかのような唇。
全てにおいて極上と言っていいパーツで構成されているその女性は、間違いなくかなりの美女と言っていいだろう。
ただ、難点を言うとすれば、その鋭すぎる目だろうか…。
だが、その唯一の欠点でさえも、個性として受け入れてしまうそうになる独特の雰囲気があった。
アンネローゼはゆっくりとラチスールプ公爵の座り込んでいる椅子の後ろ側に歩き寄ると甘えるように背もたれに身体を預ける。
その表情には安心しきったものが浮かんでいる。
「どうだったね、王国は…」
本から視線を動かさず、まるで独り言のようにラチスールプ公爵が聞く。
アンネローゼはくすくすと笑いつつ口を開いた。
「楽しかったですわよ」
そこまで言った後、微笑ましい笑みが口角がそりあがって卑猥な下卑た笑みへと変わりつつ言葉を続ける。
「特に、女の色香に狂った男のこっけいな姿は、まさに猿回しといったところでしょうか…おじい様の昔語ってくれた別世界の不思議な芸の…あれのようでございましたわ。本当に、本当に、本当に…滑稽で、それでいて実に愛らしい姿でしたわ」
楽しそうに笑って言うアンネローゼに、初めてラチスールプ公爵は視線を向けた。
「お前も、私の血を引いているのだのう…」
つくづくといった感じで呟くように口にする。
今の孫の姿に、自分の姿をタブらせているのだろうか。
ラチスールプ公爵の表情がなんともいえない表情になった。
「当たり前ですわ」
その言葉に憤慨したようにアンネローゼは笑うことを止めて言う。
「私はおじい様の孫ですもの…。そして、おじい様から、二つの『ち』を受け継いでいるんですから…」
ラチスールプ公爵はすぐに孫であるアンネローゼの言いたい事がわかった。
二つの『ち』…それは物理的な『血』と弟子として継承した『智』を表している事に…。
ラチスールプ公爵の表情が、やっと孫を愛おしいと思うような祖父の表情になる。
「そうじゃった。そうじゃったな…」
そう言ったものの、すぐに祖父としての表情は隠れてしまう。
「それで…王国内は、どうなっておる…」
「ふふっ。面白いように混乱してるわ。私の言葉で動いた王国の主力は、帝国の主力艦隊に殲滅されて参戦した王族や貴族も死んだみたいだし、これで王家内もすっきりしたんじゃないかしら。あの国、ごちゃごちゃしすぎだったしねぇ…くすくすくす」
楽しそうにそこまで言った後、アンネローゼはまるでお小遣いをねだる子供ような顔をする。
「ねぇ、ねぇ…そういえば帝国の主力艦隊にあるあの大戦艦は、おじい様が召喚したのよね?」
「ん?ああ、あの戦艦か…」
ラチスールプ公爵が懐かしいものでも思い出したかのような表情を浮かべた。
今、彼の脳裏には二隻の戦艦のことが浮かんでいた。
戦艦ビスマルクと戦艦テルピッツ…。
今のこの世界の技術では到底作れないような技術と鋼鉄の塊。
その運用方法と整備を確立するまでに実に五年かかっている。
壊れたら、もう元の状態に戻せない。
それでいて、今のどの戦艦よりも間違いなく強い最強の矛であり、最強の盾。
それがついに活動を開始し、その上、『黄金の姫騎士』の異名を持つ司令官に率いられる事でその強さは何倍にもなり、実に三倍の数の王国海軍の主力を殲滅した。
計画通り、いや計画以上の結果となり、今や帝国の意のままに世界は動こうとしている。
これで王国はしばらく動けないだろうし、この海戦の話は、どんなに隠してもすぐに諸国に知れ渡るだろう。
そうすれば、他国も黙るに違いない。
ふふふふ…。
自然と笑みが浮かぶ。
そんな事を考えていたら、軽く体を揺さぶられる事で現実に戻された。
「ねぇ、ねぇ、ねぇってば…。おじい様っ。もう…いつも何か別の事考えちゃうんだからっ…」
少し拗ねたようなアンネローゼの声と耳元に吹きかけられる吐息。
その心地よさに少し酔ったのだろうか。
ラチスールプ公爵はニタリと笑う。
「おおっ、すまないな…。少し考え事をしておった」
「やっぱりぃ…。もうおじい様ったら、いつもいつも私のこと、忘れるんだもの…」
「いやいや。忘れてしまったわけではないぞ。えっと…そうだったな…戦艦のことだったな…。そうとも、あれは私が召喚したのよ」
昔を思い出しつつ、口にしているのだろう。
ラチスールプ公爵の表情には懐かしい事を思い出しているかのような雰囲気があった。
「いいなぁ…。私もあんなの召喚したいっ」
その言葉に、ラチスールプ公爵はケラケラと笑う。
「無理じゃな…。もう触媒がないからな…」
そこまで言って、少し考え込む。
そして言葉を続けた。
「あれと同じものは、もう召喚できないが…もしかしたら、違うものが召喚できる…のか?」
孫の言葉に、いままで思ってない発想が生まれる。
今までもう何度も試してみたが召喚できない事実と、召喚する為の苦労と戦力化する労力の大変さ、それにあの力に満足してここ数年研究は止まったままだったが…。
ふむ…面白いな…。
少し研究を再開してもいいかもしれん…。
思考が段々と深みに入り込んでいく。
そんな祖父の姿に、アンネローゼはため息を吐き出す。
こうなってくると、今の祖父に何を言っても無駄なのを何度も経験している。
だから、耳元で囁くように言う。
「もう、ベッドにいってるから…。早くご褒美ちょうだいよね」
微かに祖父の顔が縦に動いたのを確認するとアンネローゼは再度ため息を吐き出すとまるで幽霊が消え去るように服に手をかけて暗闇の中に消えていく。
そして、ろうそくの明かりの中には、本を膝の上に載せて考え込む老人だけが残されていた。




