止まらない歩み
「長官、そろそろお時間です」
互いに挨拶が終わると後ろに控えていた女性秘書官らしき人物が鍋島長官にそう声をかける。
その言葉に、鍋島長官は驚いた表情になって女性の方に視線を向けて聞き返した。
「もうそんな時間かい?」
「はい。そろそろ出発しなければ、会議に遅れることになりかねません」
「そうか……。なら仕方ないか……」
短くそう言うと、鍋島長官は再び視線をリンダに向けると困ったような表情で微笑んだ。
「すまないね。これからちょっと重要な用事があってね。すぐにでも出発しなきゃならない。後の事は部下に命じておくから、長いフライトや今回の騒動の疲れなんかもあるだろうから今日はゆっくりと疲れを癒すといいよ。詳しい話は明日にでも聞こう」
それだけ言うと鍋島長官は軽く頭を下げて近くに止めてある車の方に向かって歩き出す。
「はい。では後日に……」
リンダもそう言って軽く会釈をして見送っていたが、心の中ではほっとしていた。
心の中でざわつきが起こり、心中穏やかではなかったのだ。
たから、明日と言われ、少しほっとしている自分に驚いてもいた。
そして、重要な用事とはサネホーン絡みなんだろうなと推測する。
恐らく、フソウ連合側も私と同じで今回のような結果になるとは、微塵も思っていなかっただろうから、その対応に追われているのだろう。
それに、もし私が今回の騒ぎの首謀者なら、今回の交渉決裂劇は始まりでしかない。
間違いなくすぐに次の手を打ってくる。
恐らく、もっともサネホーンの勢力に近いアルンカス王国への侵攻を計画しているはずだ。
私の知ってる情報では、フソウ連合もアルンカス王国に外洋艦隊という艦隊を駐屯させてはいるものの、ルル・イファン共和国に戦力を割いている事を考えれば、その戦力だけではサネホーンの侵攻を抑えきれないと思う。
全体的な兵器の質や技術は間違いなくフソウ連合が上だが、量に関しては倍以上の差がある。
それに、会得している情報では、恐らく世界最強の戦艦であるフッテン、ルイジアーナの二艦に対抗できる戦艦をフソウ連合は保有していない。
フソウ連合の主力と思われるコンゴウタイプではまともに戦ったら間違いなく一方的に押される戦いになるだろうし、外洋艦隊配備の戦艦でも結果は同じだろう。
そうなると、フソウ連合本国のかなりの戦力をアルンカス王国に向けねばならない。
恐らく大艦隊を派遣することになるだろう。
そして艦隊の移動には、膨大な物資と時間がかかる。
それはそうだ。
規模が大きくなればなるほど、いくつもの人の手が必要になってくる。
そうなってくると、事前に準備をしていたであろうサネホーンの反交渉派が圧倒的に有利だ。
そしてその差を縮めるには、こちらも出来る限り急ぐしかない。
だからこそ時間に追われているのだろう。
そんな事をリンダが思っていると、隣に立って敬礼して鍋島長官を見送っていた青島大尉が真剣な表情で呟く。
「相変わらず……、いや、いつも以上に忙しそうだな、長官は……」
彼も忙しい理由は察しているのだろう。
少し申し訳なさそうな感情が、その言葉の端から滲み出ているように聞こえた。
「大丈夫ですよ、青島大尉」
そう言ってリンダ達の前に立ったのは、すらりとした感じの優男風の男性だった。
フソウ連合のどちらかと言うとスマートな感じの軍服を実に見事に着こなしており、かなり目を引く。
恐らく、通りかかれば女性十人中九人は振り返ると思えるような美形で、恐らく女性にもてもてだろう。
そんな印象さえ受ける男性だ。
もっとも、リンダの好みは、美形だがどちらかと言うともっと筋肉質で質実剛健といった感じの美形である。
すらりとした感じの細めの美形は『あら、いい男ね』程度の事でしかないのだ。
ただ、彼を見て分かったことが一つある。
それは鍋島長官の怖さだろうか。
あの見た目に反する警戒させる独特の雰囲気といったらいいのだろうか。
外見が人目を引かず、穏やかな分、怖さを感じさせた。
これは明日から正念場だわ。
リンダはそう考え、心を引き締める。
そんな中、声をかけてきた男性はにこやかに微笑みつつ敬礼した。
「自分は今回、皆様をご案内するよう命令を受けております、広報部の立花誠司大尉であります。短い間ではありますが、よろしくお願いいたします」
それを受け、青島大尉も返礼をする。
「こちらこそ、お世話になります」
そしてリンダも会釈する。
「こちらこそ、わからない事ばかりですから、よろしくお願いいたしますね」
そう言って微笑むが、元々女性にモテる為だろうか。
平然として「こちらこそ、貴方のような美人の案内が出来て光栄です」とすぐに言葉を返してくる。
うーん、なんかやっぱり好みじゃないわね……。
さっきまで考えていた事を奥にしまい込み、目の前の男性の評価に思考を切り替える。
いつまでもいろいろ考えても仕方ない。そう判断したのだ。
そしてちらりと隣に立つ青島大尉に視線を向ける。
うん、私の好みはこっちだわ。
そう再認識する。
その視線に気が付き、青島大尉が聞き返す。
「えっと……何か?」
「いいえ。何でもありませんわ」
そう言い返すと、リンダは立花大尉の方に視線を向ける。
その視線を受け、立花大尉は口を開いた。
「車を用意しております。よろしければ、本日の宿に向かいたいと思いますが、よろしいでしょうか?」
「ええ。私は構いませんが……」
リンダが後ろにいる部下達に視線を向けると全員が頷く。
「自分らも大丈夫です。問題ありません」
それを聞き、用意されている三台の車に便乗すると、一行は宿に向かったのであった。
リンダ達がフソウ連合に到着した頃、サネホーンのグラーフの元に一つの作戦案が提出された。
『ガンパルリッチ作戦』
ガンパルリッチとは、古い昔、船乗りたちが恐れ敬った海竜の名前であり、サネホーンでは信仰の対象となっているほど知名度の高い言葉だ。
つまり、今回の戦いは、海竜の怒りを現した作戦であるという事であり、フソウ連合に対して攻勢をかける為の作戦であった。
そして、その計画の密度の高さと僅か三日後という提出の速さから、この計画自体がかなり前から準備されていた物であるという事が窺い知れる。
それはサネホーンの数の有利を前面に押し出した作戦であり、フソウ連合の準備が整えられていない今を狙って実施すれば、間違いなく勝てる。そう思わせる出来の良さだった。
「いかがでしょうか?」
リラクベンタ提督は真剣な面持ちで目を通し終わったグラーフらをじっと見ながらそう聞いてくる。
「ふむ。実にいい作戦だ。だが……」
そこでいったん言葉を切り、グラーフは伺うような視線を向けつつ言葉を続けた。
「いつから計画していた?」
その言葉には疑いの色が強い。
交渉を進めている中、それもほぼうまくいくだろうという流れになりつつある中でこんな作戦を用意していたのだ。
疑いたくもなるだろう。
だが、その質問に、リラクベンタ提督はしれーっとした表情で答える。
「いつ、いかなる時も、常に非常時に備えることは必要であると思っておりますので……」
その言葉に、グラーフは苦虫を潰したような顔になった。
正論である。
だが、余りにも胡散臭すぎるのだ。
前回報告を受けた時から、グラーフの心の中でくすぶっているものがある。
それが益々強くなっていく。
そんな感覚だ。
「提督、君はサネホーンの軍人だな?」
「はっ。勿論であります。それが何か?」
「サネホーンの軍人なら、サネホーンの為に行動する。そうだよな?」
「勿論であります。私は常にサネホーンの為を思い、思考し行動しております」
「だが、これしか手はないのかね?」
そのグラーフの言葉に、ぴくりとリラクベンタ提督の眉が反応した。
「どういう事でしょうか?」
「本当に戦わねばならないのかという事だよ。まだ、それでも何とか踏みとどまれば戦いは回避できる可能性はある。だが、間違いなくこの作戦を実行したら、もう後戻りはできないのだ」
そのグラーフの言葉に、リラクベンタ提督は怪訝そうな顔をした。
「相手が振り払った手を再度握れと言うのですか?それは無理というものですよ」
「しかしだ……」
そう言いかけるグラーフにリラクベンタ提督は畳みかける様に言う。
「そんな事では、民は納得しませんし、我々軍人もです。皆、不満を持つでしょう。それに……」
ニタリ。
そんな擬音が似合いそうな不吉な笑みをリラクベンタ提督は浮かべて言葉を続ける。
「不満を持つものがいれば、先のような事故がまたあるかもしれません……」
その言葉に、グラーフがぎらりとリラクベンタ提督を睨みつける。
「それは、脅迫かな?」
「いえいえ。そんな。私は皆さんの身を案じているだけです。あのような事が起こってしまっては、サネホーンの損失にしかなりませんので……」
残念そうな顔でそう言い切るリラクベンタ提督を暫く睨みつけるように見た後、グラーフは計画書に許可の印を押して乱暴にリラクベンタ提督に手渡す。
「余計なことは考えるなよ?」
その言葉を聞きつつリラクベンタ提督は無表情で計画書を受け取る。
「勿論です。私はサネホーンの為に動いておりますから……」
「ならいい。計画を進めることを承認する」
「はっ。ありがとうございます。フソウ連合など、我々が一気に殲滅してご覧に入れます」
そう言い切って敬礼すると、リラクベンタ提督はグラーフの執務室から退出した。
その後姿を睨みつけるグラーフ。
そしてリラクベンタ提督が退出してドアが閉められた瞬間、彼の口からぼそりと言葉が漏れた。
「やはりか……」と……。
そして、それはリラクベンタ提督も同じであった。
退出し、ドアを閉めた瞬間に今まで淡々としていた表情は歪み、吐き捨てる様にとても小さな言葉で呟く。
「ふんっ、人モドキのくせして……」
こうして、サネホーンは対フソウ連合へと後戻りできない方向へ大きく進み始めたが、その内部に以前からあった亀裂は、これを契機により大きく、修復不能な方向に傷口を広げつつあった。




