決意
プリチャフルニア・ストランドフ・リターデンはテーブルに置いた分厚い封筒を見下ろし腕を組んで考えこんでいた。
その封筒は結構な厚さがあり、かなりの分量の紙が重ねて入れられているのが判る。
切手も消印もなく、ただ彼の名前だけ書かれている封筒。
それは、同居人であり、彼女でもあるミーシャ・リミットンハ・ロマノフが彼に手渡したものだ。
渡す時の彼女は実に言いにくそうに、そして不安そうな表情を浮かべてはいたが、しかしそれでもきちんと誰からの手紙であるかを言って手渡してくれた。
手紙の相手は、ヤロスラーフ・ベントン・ランハンドーフ。
ほんの二週間ほど前に彼らの前に姿を現した男だ。
彼はあれ以降、二・三日ごとに書簡をミーシャに言づけている。
なぜ彼女なのか。
理由は簡単だ。
プリチャフルニアがあまり表に出ない為だ。
失脚するまでは、政府の中央にいたのだ。
下手したら事故に見せかけて暗殺される恐れがある為、極力外出を避けていた。
だが、それは言い訳に近いだろう。
彼はイヴァンがそんなことをしてこないとわかっていた。
だから、彼の部下、敢えて言うなら今や連邦のナンバー2となったティムール・フェーリクソヴィチ・フリストフォールシュカが何かやってもおかしくないが、その時はその時だと思っている。
だから、本当の理由……。
それは政治から、世間から離れたいという思いが強かったと言っていいだろう。
外に出れば、情報も入ってくるだろうし、何より人々の生活から今の連邦の状況は推測できる。
それを拒否したかったのだ。
これからは、ミーシャと静かに暮らす。
それが、理不尽な別れをしたはずの傷ついた自分を受け止め、優しく癒してくれた最愛の彼女にできる事。
彼はそう考えていたのだ。
だが、そう考えていた生活はヤロスラーフという人物の出現であっけないほど崩れ落ちた。
彼は書簡を送り続ている。
その書簡の内容は、簡単な今の連邦や公国、帝国の動きが書かれてある短めの手紙だ。
淡々と、そして簡略に書かれた手紙。
それはプリチャフルニアの思考を刺激するのに充分であった。
駄目だ。
見ては駄目だ。
何度もそう思った。
見終わった後、後悔もした。
しかし、一か月前後ほど前までどっぷりと政治に関わってきたのだ。
いくら失脚したとはいえ、スルーしきれなかった。
つい目を通し、そして自己嫌悪に陥る。
その繰り返しだ。
そして、そんなプリチャフルニアの様子を見てミーシャも落ち込んでいる。
彼女は最初に手紙を手渡されたとき、強く断ったのだ。
しかし、それでも渡そうとするヤロスラーフに言い返す。
「私が今の生活を守るために、彼に手渡さないという選択をしないと思わないんですか」と……。
それは彼女なりの必死な抵抗であった。
だが、そんな抵抗もヤロスラーフにとってはただのそよ風程度のものに過ぎない。
彼は実に楽し気に微笑むと口を開く。
「貴方は、誠実で頼まれれば断れない性格だ。そして何よりリターデン様を愛しておられる。だから、私は貴方に渡すのですよ」
その見透かしたような物言いに、ミーシャは真っ赤になって否定しようとした。
しかし、言い返せなかった。
全て当たっていたからだ。
そして腹いせに手渡さないという選択を選ばなかった。
彼の人生は、彼が選択するものだ。
私が束縛していいものじゃない。
彼女は、それほどまでにプリチャフルニアを愛していたし、信じていた。
だからこそ、別れた後も彼を思い続け、そして傷ついた彼を受け止めていたのだ。
その思いさえも見透かされている。
ミーシャの背中にゾクリと寒気が走る。
今まで怖い思いは何度もしてきた。
しかし、それ以上の恐怖を感じたのだ。
この微笑んでいる男から……。
そして、そんなミーシャを牽制するように、微笑みつつヤロスラーフは告げる。
「それに、もし貴方が彼に手渡さなくても、我々は何もしませんよ。安心しなさいな」
優し気な物言いだが、それはミーシャにとって脅迫に近いものだった。
そして、彼女は手渡された手紙を持って帰宅する。
彼女の様子から、プリチャフルニアは何があったかを聞き、そして手紙を受け取った。
「心配しなくていい。もし似たような場合は素直に持ってきてくれればいいから」
プリチャフルニアはそう言うとミーシャを抱きしめる。
それは安心させるためであり、頑張ったミーシャに対する報酬であった。
そんなことがあってからというもの手紙は送られ続けた。
そして四通目に手渡されたのは、かなり大きな封筒。
つまり、今テーブルにある封筒というわけだ。
今までとは違う……。
プリチャフルニアはそう感じていた。
今までは、世間話に毛の生えた程度のあくまでも簡単な状況説明のみであった。
だが、これは違う。
そう感じさせる代物だ。
躊躇するプリチャフルニア。
だが、すぐに彼は気が付く。
自分を心配そうに見ている視線に……。
台所からじっと見ている視線。
それはミーシャだ。
その表情には、後悔の色が濃く出ていた。
私が持ってこなければ……。
彼女はそう思っているのだ。
だが、彼女の性格からしてすごい罪悪感を感じる行為であり、彼を信頼していないような感じに思われてしまうのではないかという不安が付きまとう。
そんな苦しい思いをさせたくない。
だから、プリチャフルニアは微笑んだ。
「心配しなくてもいいよ。それよりも今日は新鮮な魚が手に入ったんだろう?久しぶりに魚料理を作ってくれないか?以前よく食べていた奴をさ」
そう言ってミーシャの側まで近づくとぎゅっと抱きしめる。
それはミーシャを慰めるのと同時に、プリチャフルニア自身も勇気を補充するための行為であった。
ミーシャはそれでやっと少し笑顔を見せると台所に戻っていった。
その後姿を見送った後、プリチャフルニアはテーブルに戻ると大きな封筒を前に深呼吸をした。
そしてゆっくりと手を伸ばす。
きちんと糊付けされた上をペーパーナイフで切り、中身の紙の束を取り出す。
かなりの枚数だ。
ざっと三十枚ほどの裏表びっしりと書かれたものであり、その密度の高さに思わずプリチャフルニアは苦笑を漏らす。
そしてゆっくりとだが、一字一句間違えないように読み進めていく。
そこには、政治中枢にいた頃の厳しい表情があった。
全てを読み終えた後、プリチャフルニアはため息を吐き出した。
手紙の、いやこれは資料というか、レポートと言ってもいいのかもしれない、その内容に圧倒されてしまったと言っていいだろう。
そこには、新・帝国、公国、連邦の各分野での比較が簡素ではあったがきちんと評価されていたのだ。
てっきり勧誘の内容だと思っていたプリチャフルニアは肩透かしを食らった形になったが、それでもしてやられたと思ってしまった。
あまりにも内容が刺激的なのだ。
いかにして国民の生活を守り、国を守っていくか。
そんな使命を帯びて生きてきた男にとって、それは間違いなく劇薬と言えた。
下手な勧誘よりも数百倍も迷わせ選択を迫るものであった。
そして、その情報の的確さに驚く。
それらの数値は、彼が政治の中枢にいた頃に手に入れていた情報よりもより正確だったからだ。
もちろん。嘘かもしれない。
だが、そんな事は全く感じさせなかった。
なにより、連邦の数字があまりにも正確過ぎたことも大きかった。
そして、それらの数字をきちんと理論づけて比較がされ、公平に評価がされている。
その内容からわかることは、連邦の内情の酷さであった。
自分が身を引いた時よりも遥かに落ち込んでいるのだ。
それは国力だけでなく、軍の戦力や士気、経済力、生産性、国民生活のレベル、そして連邦政府に対する国民の支持もである。
まさに沈みゆく船といったところだろう。
それとは反対に勢いづくのは、公国だ。
領土的なものや人口は連邦に敵わないものの、それ以外の部分では確実に連邦の数段上になっている。
特に海軍力と運輸能力の差は雲泥の差と言っていいだろう。
だが、そんな中、プリチャフルニアが気になったのは、公国ではなく、新・帝国である。
確かに全体を見れば未だに公国どころか、連邦にも及ばない。
しかし、着眼点はそこではない。
もっとも注意を引いたのは各分野の伸び率である。
公国は、元々高い数値の上に若干上乗せされてといった感じではあったが、新・帝国はジリ貧の中、ここまで伸ばしたのかという驚きが強かった。
その伸び率はかなり驚異的と言っていいだろう。
それを裏付けるのが、国民の新・帝国への圧倒的な支持だ。
恐らく、皇帝の人気の高さもあるのだろうが、それだけではない。
その支持に今の皇帝は答えようと必死になってやっている。
そんな印象さえ受けるのだ。
その向上効果でここまでになったと見るべきだろう。
まさに、この手紙の内容は、極上の資料でありレポートである。
そして、そんな情報を手に入れられるという事は、ヤロスラーフはどこかの国(この場合は新・帝国か公国になるが)の中枢に繋がるものである証拠でもあった。
ではどこの国の関係者か……。
プリチャフルニアは新・帝国の関係者と見ていた。
公国なら、こんな回りくどいことをしなくても今は圧倒的に有利であり、三ヵ国の比較など必要ないからだ。
だが、こういった比較をあえて見せて、見えないところを気が付かせる。
それは今はジリ貧ではあるが故により際立たせるためであろう。
参ったな……。
完全にプリチャフルニアはそのただの紙の束に熱くさせられてしまっていた。
帝国の政治に反発し、困難な中でも仲間を集め、国を、国民を救うためだと息巻いて立ち上がった日々を思い出させた。
じっと黙り込むプリチャフルニアだが、すーっと背中に抱きついてきたミーシャの温かさに我に返る。
いかん、いかん。
俺は何を考えている?!
もう切り捨てたはずじゃないか。
これからは彼女と、ミーシャと一緒に過ごしていく。
ただ、のんびりと穏やかな生活をしていく。
そう決めたじゃないか。
そう決心したじゃないか。
なのに……。
そんな自分を責めるプリチャフルニアにミーシャは囁く。
その顔には苦笑が浮かんでいた。
「あなたの好きなようにしていいから……」
その言葉は、悩み自分を責めるプリチャフルニアにとってまるで天使の囁きのようであった。
驚いた表情で後ろ側を振り向くプリチャフルニア。
だが、そんな彼の表情を見つつ、ミーシャは言葉を続ける。
「私は待っていますから……」
それはプリチャフルニアを優しく後押しする言葉であった。
「いいのか?」
「ええ」
そう言った後、彼女はクスクスと笑いつつ言う。
「三年よ」
「えっ?!」
「三年待つわ。だって、私、三十五までには子供が欲しいもの」
「もし……終わらなかったら?」
思わず恐る恐るプリチャフルニアがそう聞くと、ミーシャは少しむくれて言い返す。
「終わらせて!!」
普段の彼女からは想像つかないほど強い口調で言いきられてしまった。
その言葉には、強い意志と信頼があり、何より彼を思う気持ちがあった。
ならば、それに答えるのが男というものだ。
そう考えたプリチャフルニアはきっぱりと言う。
「では三年後にすべてを終わらせる。そして結婚しょう」
その言葉に、ミーシャは驚いた後、楽し気に笑った。
「絶対だからね」
「勿論だとも」
互いに笑いあい、そして向かい合って抱き合い口づけを交わす。
それはある意味、男女による契約の形であった。




