火種 その1
「そ、それはどういった事でしょうか……」
そう呟いたのは四十代後半の男で、きっちりとアイロンかけされた軍服ときちんとされた身だしなみ。それに丁寧に整えられた口ひげから、几帳面で真面目そうな感じがする人物だ。
だが、その表情は信じられないといった色に染められ、体は小刻みにわなわなと震えている。
その言葉と様子を見ながらフッテンはため息をつくと再度口を開いた。
「だから、苦情が来ているのだよ、キュラックス提督」
提督。
海賊国家サネホーンにとってその名称を付けられるのは、一部の艦隊司令のみ。
有能で、独自の指揮権を与えられたエリートのみに与えられる名称だ。
もちろん、贈られるのにはある程度の階級は必要だがどちらかというと勲章みたいな感じのもので、海軍武官の最高称号といった意味合いや海軍大将の事を示すものではない。
海賊が元々の母体であるサネホーン海軍において、ある意味最高の名誉ある名称と言っていいだろう。
そして、サネホーンには、現在、二十八名の提督がいてそれぞれ艦隊を任せられている。
もちろん、艦隊の規模はそれぞれ違ってはいたが、ただの艦隊司令官と提督では大きく尊敬度が違うし、何より周りの対応がけた違いに違っていた。
だから、階級が一つ上がるよりも提督という名称を与えられ方がサネホーンでは出世したと言われるほどである。
その為に多くのサネホーン海軍の軍人は努力してきた。
そして、努力の末にほんの一握りの才能と運があったもののみがその名称を手に入れる。
パンピラッドム・リッキント・キュラックス少将もそのうちの一人であった。
だから、これからも順調に人生を送れる。
自分は選ばれた者だと思っていた。
しかし、今、ケチがつこうとしている。
それがお驚きのあまり止まりかけていた思考でもなんとなくだがわかった。
だから、驚き、慌てて聞き返す。
「く、苦情ですか?そ、そんな、馬鹿な……。誰が……そんなことを言っているのだ?私はミスはしていないぞ」
恐らく誰か自分を妬み足を引っ張るために嘘を言っていると判断したのだろう。
キュラックス提督の口からそんな言葉が漏れる。
だが、そんなキュラックス提督を冷めた目で見ながらフッテンは口を開く。
「ふむ。どうやら自覚がなかったようだな。苦情というのはな、宗教の勧誘がしつこいという事なのだよ」
「へ?宗教の勧誘……ですか?私は、そんな無理強いはしていません。ただ、神の教えを皆に知ってもらい、心の支えとして欲しいと思って……」
「ふむ。悪気がないのはわかった。しかしだ。宗教というのは個人の自由だ。だから、無理強いは駄目だ」
そのフッテンの言葉に、キュラックス提督は強く反論する。
「私は、無理強いなどしていません。神に誓ってもいいです」
その言葉には怒りが滲み出ていたが、その反論を聞きつつもフッテンの表情は冷めていた。
それどころか、口を開き、淡々と言葉を形にしていく。
「しかしだ、提督……」
そう前振りをした後、フッテンは諭すように言葉を続けた。
「上司に誘われて、断れることができるものがどれだけいると思うかね?」
そう言われて、キュラックス提督の怒気が揺らき、信じられないといった表情をして何も言えなくなってしまった。
そう言われてしまえば何もできないではないかという怒りの炎が心の奥からくすぶり始めたが、それを出さないように必死になって自分を落ち着かせた。
今ここで怒りに身を任せても何も解決しないことが判っていたからだ。
だから何とか絞り出すように言葉を口にする。
「そ、そんな……」
「不満だとは思うし、提督がそんなつもりがなかったのはわかったが、そういった苦情が出ているのは事実だ。だから、自重してくれないか?」
「つまり、勧誘を止めよという事ですね」
「それにだ。仕事中に宗教の話も止めて欲しい」
心の中の怒りの炎が一際大きくなる。
それでも必死になってキュラックス提督は自分の感情を抑える。
「できない場合は……」
「そうだな。配置転換も考えている……」
要は艦隊指揮の今の配置から外すという事だ。
そして、艦隊指揮官ではなくなった場合、もちろん提督という名称も取り消される。
だから、その言葉に打ちのめされたかのような表情を浮かべたものの、キュラックス提督は渋々といった表情で頷いた。
心の中では荒れ狂う理不尽に対しての怒りの炎を見せないように……。
「……わかりました」
そう言ったキュラックス提督を気の毒と思ったのだろう。
フッテンは慰めるように言う。
「別に個人の信仰をとやかく言うつもりはないのだ。ただ、周りには迷惑をかけなければいいのだ。わかって欲しい」
「はっ。了解しました」
何とかそう返事をしてキュラックス提督は敬礼すると部屋を退室していく。
その後姿をフッテンは見送った後、部屋のソファに座って黙って成り行きを見ていたルイジアーナに視線を向けた。
「どう思う?」
「あれは無理だ。恐らくしばらくは抑えられたとしても同じことをしでかすぞ。そうなると問題はより大きくなる可能性は高い。本人の為にもさっさと配置転換をして方がいい」
ルイジアーナが呆れ顔でそう言い切る。
「私も残念だが、君の意見に賛成するしかない」
少し悔しそうに言いつつも、フッテンは納得したような顔だ。
自分自身は信じたくはないが、確認しておきたいと思ったのだろう。
だから聞いたのだ。
そして、残念そうに呟く。
「艦隊指揮や臨機応変に対応する能力はかなり高いんだがな」
「それは俺も認めるが、宗教は人を狂わせるからな。そういった芽は早めに処理した方がいい」
「わかった。今度の作戦が終了したら、すぐにでも配置転換ができるよう準備させておくか……」
そう言うとフッテンはデスクの書類に視線を向ける。
デスクの上にはパンピラッドム・リッキント・キュラックス少将の書類があり、その書類の上にフッテンは判を押した。
『配置転換の必要性あり』
その判にはそう刻まれていた。
部屋から出て、憤慨したような表情で歩いていくキュラックス提督に声をかけたものがいた。
ムルハンム・レンカーザ大佐だ。
艦隊副指令も兼ねているキュラックス提督の片腕といってもいい人物た。
「どうされたのですか、提督?」
その問いに、キュラックス提督の表情が歪む。
彼は部下ではあったが、悩み苦しんでいた時にドクトルト教に勧誘してくれて苦しみから解き放ってくれた、言わばキュラックス提督にとっての大恩人であり、師匠といってもいい人物であった。
だからこそ、彼に心の中の不満と不安、怒りをさらけ出したいと思ってしまい、それが顔に出てしまっていた。
だからだろうか。
「ふう……。懺悔を聞きましょう。ですが、ここでは不味いです。いつもの所に行きましょう」
レンカーザ大佐は安心させるように微笑むとそう言って歩き出す。
「ああ。頼むよ」
そう返事を返すとキュラックス提督はその後についていき、二人は指令本部から出て離れにある建物の一つに入っていく。
その建物は元々は資材置き場であったが、信者の為にという事でドクトルト教の教会として軍から借り、日曜日になると熱心な信者が礼拝する場所になっていた。
そして、奥まった部分にある小さな部屋。
懺悔室と呼ばれる部屋だ。
そこに入るなり、階級や上司、部下といったものは関係なくなる。
そこには、迷える信者と司祭という立場だけがあった。
そこでキュラックス提督はさっきあったことをぶちまけた。
不平不満、そして怒りを……。
だが、それを聞きながらもレンカーザ大佐は優しく微笑む。
「試練なのですよ、それも……」
そういった後、始まりの信者の話をする。
それはドクトルト教の始まりに関する話だ。
初めて神の声を聴いた若者は、神の信者となった。
しかし、神の声は他の者たちには聞こえない。
それは信仰心がないためだ。
だから、彼は説いて回った。
多くの人々は、そんな彼を避けた。
関わり合いを持とうとしなかった。
それどころか、侮蔑し、暴力に訴えるものさえいた。
しかし、そんな中でも、その男は努力し、その努力によって一人、一人と彼の教えをきっかけに信仰心に目覚めた者が増えていった。
その地道な努力が始まりとなって今やドクトルト教は六教の一角と言えるほどの力を手に入れたのだ。
そして、レンカーザ大佐はキュラックス提督をその始まりの信者に例えて言う。
今は壁があるかもしれませんが諦めないことです。
まず人々の目を覚まさせるためにはきっかけが必要なのです。
そのきっかけがないからこそ、こんな理不尽なことか起こるのです。
そして、レンカーザ大佐はキュラックス提督に問う。
『あなたに改善するように言ったのは、……彼らは人か?』と……。
その言葉にキュラックス提督がはっとした表情を浮かべ、その表情を見てレンカーザ大佐は微笑む。
「わかったようですね。あなたの壁になっている彼らは人ではありません。そして、そんな彼らを排除するにはきっかけが必要なのです」
その言葉にキュラックス提督は素直に頷く。
「では、そのきっかけを作る方法をお教えしましょう」
レンカーザ大佐はそう言うと、ゆっくりと話し始める。
その内容は、とんでもないものであったが、しかし今のキュラックス提督にとって、それはまるで神の啓示のようにしか聞こえていなかった。




