ルル・イファンへの道 その1
山積みだった書類をある程度崩し終えて一呼吸ついたのだろう。
アリシアの口から「ふう」という息が漏れる。
それは仕方ないのかもしれない。
ある程度災害に対しての支援や援助などの目処が立ったとしても、まったくなくなったわけではないし長期に及ぶ。
その上、通常業務を行なわなければならないし、新しい問題も発生してしまうのが常だ。
だから、書類の山は中々無くならない。
もう少し楽になると思ったんだけどなぁ……。
確かに部下に丸投げすれば楽になるだろう。
実際、そうやってきた者は多い。
しかし、彼女の場合、彼女は勤勉すぎたし、何よりも責任感と正義感が強すぎた。
もちろん、正義感と言っても、自分の概念による正義感だが、今のところはそれは正しい方向に向いているといえる。
それはいい事だ。
実際、曲がった正義感が、自分よがりの正義感の暴走がどれだけ惨事を引き起こしたかを彼女は知っているし、何よりそれに巻き込まれた体験も持っていた。
だからこそ、責任感が強くなったとも言える。
本当に、貧乏性よねぇ……。
アリシァはそう自分の事を心の中で分析して苦笑した。
それでふと思い出したのだろう。
空になったカップに新しい紅茶を注ぐ執事にアリシアは声をかける。
「そう言えば、今日だったかしら、出発は?」
「はい。本日早朝に出発されました」
何を聞きたいのかすぐわかったのだろう。すぐに返事が返ってきた
「そう。うまくいくといいのだけれど……」
そう言いつつも、さっきまですっかり忘れかけていたのは事実だ。
今の抱える問題に追われてそこまで気が回っていない。
そんなアリシアの今の状況がわかっているのだろう。
安心させるように執事は微笑んで口を開いた。
「何かありましても、すぐに対応できるように準備は済んでおります。あの船自体も共和国での国籍登録をしておりませんから、最悪の場合でもいくらでも誤魔化しはきくかと……」
そこまで言った後、執事の笑みが苦笑に代わった。
「もっとも……」
「もっとも?」
「ここ二、三日の準備の間、彼らの様子を見させてもらいましたがそういった事態にはならないと思います。恐らく大丈夫かと……」
「あら貴方がそういうなんて珍しいわね。確かに船は最新式だし、高性能なのはわかってるけど……」
「いえいえ。それだけではありません。彼らの思考や行動は、まさにプロのものでございましたから」
「船乗りとしての?」
「ええ。それに密輸業者としてのですな」
その言葉にアリシアはうれしそうに笑う。
裏の仕事で別の顔を持つ執事は、その仕事に対して誇りや信念、プライドを持っている。
その執事がプロだというのだ。
似た者同士であると思ったのだろう。
「あなたがそこまで言うのならこの件は後は信じて待つだけってことでいいわね」
「はい、それに足りない人員を補うという名目で部下を何名か潜り込ませておりますので……」
念には念をという事だろう。
「そう、ご苦労様。いつも助かるわ」
「いえ。私は私の責務を全うしただけでございます」
執事はそう言って深々と頭を下げた。
そして、少し考えたような素振りを見せた後、恐る恐るといった感じで口を開いた。
「それで、彼らの今後ですが……」
「ああ。成功したらってヤツよね」
「はい。余計な事かとは思いましたが、私は彼らの希望を聞いても損はないかと思っております」
「へぇ、あなたにそこまで言わせるって……」
そう言ってアリシアは少し驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「ふふふっ。いいわ。彼らは恩を感じてくれるかしら?」
「魔女殿はともかく、船長や船員達は昔かたぎの職人といった感じの者達ですから間違いなく。それにあの船をきちんと整備できる港はそれほど多くありませんし……」
「なら、安心ね。どうのこうの言っても船長を押さえておけば、魔女も余計なことは考えないでしょう」
「はい。周りは船長が魔女殿に惚れているという風に見えているかもしれませんが、実際は魔女殿が船長にゾッコンですからな」
「そうよねぇ……。あの熱々ぶりは……目の毒だわ」
アリシアはデスクにひじを立てると手を顔を乗せ、ため息を漏らして苦笑を浮かべる。
出港準備期間中は執事か付いていたのでなかったが、それまでは彼らの動向は常に監視下に置かれ報告が毎日されていたのだ。
その報告には、まるで見せつけるかのような雰囲気さえあった。
まぁ、もっとも、彼らからしてみれば監視されているのはわかっていただろうから、どうせなら見せつけてやれとでも思ったのかもしれない。
簡素な報告だけに、それ以外の部分が想像出来てしまって下手なエロ小説よりもタチが悪かった。
そのアリシアの考えがわかったのだろう。
「そうですな。あれは度を超えておりますな」
「本当よ……もうね、あれはやりすぎよ」
互いに顔を見合わせて苦笑しあった後、話題を変えるためだろう、執事は表情を真剣なものに変えた。
「それよりも問題はルル・イファン側の動きです。恐らくですが……」
それにあわせるかのようにアリシアの顔つきも真剣なものになる。
「ええ。十中八九、フソウ連合に頼るつもりでの動きでしょうね」
「はい。その通りかと。今の独立国の内、彼らの後ろ盾となりそうな実力と余裕があるのは、あの国だけですからな」
その後に「それにアルンカス王国のこともありますし……」と付け加える事も忘れない。
しかし、その言葉にアリシアは少し考え込むような仕草をする。
「でも、あのナベシマ様がそう簡単に動くとも思えないんだけどね。あの方は情に脆そうだし優しそうな方だけど、結構現実的でシビアというか冷めた考えをされる方だから……」
「あの方の事はよくわかってらっしゃるようですな」
感心したような執事の言葉に、アリシアは苦笑する。
「ええ。短い間ですが腹を割って話せる機会もありましたし……」
その言葉に執事は嬉しそうに笑った。
「おおっ。なら、お嬢様のお相手としても申し分ありませんな」
そのお相手の意味がわかったのだろう。
思わず想像してしまった後、すぐにアリシアは苦笑して否定する。
「無理よ、無理っ。彼の傍には手強そうな猛犬がいますから」
「それは、それは……」
執事は猛犬に例えられている相手を哀れにも思いつつ苦笑を漏らす。
「もう。へんな事言うから脱線しちゃったじゃない。それで、今回のルル・イファンの動きの件だけど、判断するのは向こうだからどういった対応をされても問題ないように情報収集と対策を考えておいて」
少し怒った素振りを見せた後、アリシアがそう言うと、執事は表情を引き締めると「わかりました」と短く返事をする。
「それと……、今回のルル・イファンの動き、秘密理にフソウ連合に……、いえナベシマ様に伝えておいて」
「了解しました。お嬢様の好意を添えて、恩を売っておきます」
その言葉に、アリシアは困ったような苦笑を浮かべるだけであった。
「どうでぇ、新しい『雑草号』の具合は?」
船内を見回ってきた副長に船長が声をかけると副長は笑顔を見せて報告する。
「いいですねぇ。雑草って名前が当てはまらないって感じですよ。こりゃすごい船です」
その言葉に、満足そうに頷く船長。
「そうか。それで今のところは問題ないんだな?」
「ええ。今のところはですね」
「今のところ?」
歯切れの悪い言葉に船長が聞き返す。
「いやね。機関長が愚痴ってたんですわ」
「機関長が?」
あの忍耐強い男が愚痴るとは珍しいな。
そう思いつつ船長が聞き返すと、副長は苦笑いを浮かべつつ答える。
「ええ。新型のデイゼル機関ってヤツですが、今までのやつと比べて勝手がわからなくてしっくりこないって。だから暫くは、無理いわないでくれって船長に伝えておいてくれと……」
その言葉に船長は苦笑する。
まるでいつも無理させているかのような言い回しに思わず苦笑が漏れたのだ。
「それは相手に言って欲しいものだな」
「ちげえねぇです」
副長はそう言って笑った。
それに釣られるかのように船長も豪快に笑う。
そして二人で一頻り笑った後、船長が呟いた。
「やっぱり……海はいいな……。最高に海にいると落ち着くぜ」
遠い目をして海原を見てそう言うと、副長も同じように海原を見て答える。
「ええ。本当に……」
暫く二人は黙って海を見ていたが、二人の後ろで咳払いが聞こえた。
「それって、私の傍にいる時よりも?」
慌てたように二人が視線を後ろに戻すと、そこには微笑んでいるミランダがいた。
にこやかなのだが、なんか刺々しい感じがするのは気のせいではないだろう。
慌てて副長がすこし位置をずらす。
彼女の視線が船長に向いているのがわかったからだ。
巻き添えはごめんだ。
そんな考えが働いたのかもしれない。
あ、てめぇ逃げるのかっ。
船長の非難めいた視線がそう言っていたが、あえて見ない振りをする。
それで助けは無理だと悟ったのだろう。
船長は視線を副長からミランダに向けた。
「海とお前、どっちも最高に決まっているじゃねぇか」
慌てて本音を言ったものの、言ってしまってから後悔した。
しまった。
せめてお前だぐらいはいった方がよかったかと……。
「ふーん。私とは言ってくれないんだ……」
そう言ったミランダの表情からは何も読み取れず、船長は焦る。
「いや、そりゃ……、その……」
困った顔で、しどろもどろになる船長。
しかし、ミランダはそんな船長を見てほっとした笑顔を見せる。
「よかった……」
「へ?!」
予想外の言葉とミランダの笑顔に船長は拍子抜けした顔をしてしまう。
「海の男って、海の事が一番好きなんでしょう?そんな海の男である貴方が、海と同じくらい、どちらか選べないほどだって事がうれしいの。だってそれだけ私の事愛してくれているんだなって実感できるし……。それに……」
そう言って船長に抱きつくミランダ。
「私が好きなのは、海の男であり、海で颯爽と働く貴方だもの……」
「そうか。そうか」
ミランダを抱きしめてそう言ってほっとした顔で笑う船長。
さっきまでの雰囲気はなんだったのかという感じに、修羅場が始まるかもしれないから戦線離脱しようとしていた副長は呆れかえった表情をして苦笑を漏らす。
「姉御、船長、ご馳走様でした」
どうやら、彼には盛大な惚気と受け取られたようであった。
その言葉に、船長とミランダは顔を見合せて笑う。
こうして新しい『雑草号』の最初の航海は順調に進んでいたのであった。




